やくそくのかたち
やくそくのかたち
一人、また一人。
夕刻頃を始まりにして、この真神保育園で預かっている子供達は、家に帰って行く。
全員で11人と言う、決して大規模ではないけれど、勤める保育士の人数を考えると少なくはない預かり子達。
その中で雨紋雷人、来栖亮一、マリィ・クレアの三人は家に帰す事が良く思えない環境である為、保育園で保護児童となっている。
保護児童として保育園が引き取り、保護者代わりとなっているので、彼らは基本的に寝食全て保育園で過ごす。
保育園がこの子供達にとっては家となっているのである。
他にも壬生紅葉もそうなのだが、彼の場合は他三名とは少し違う。
壬生の家は、子供と母親の二人だけの家庭であるが、母は体調を崩して桜ヶ丘中央病院に入院している。
時折、医者の許可を貰えた時だけ、迎えに来てくれる事になり、一晩を親子で過ごすようになっていた。
今日は壬生の母の調子が良かったようで、陽が西に沈み始めた頃に息子を迎えに来た。
いつも物静かな壬生であるが、母の事はやはり大好きなようで、迎えが来たわよと言うと小走りで玄関に向かった。
他の子供達に比べて少し大人びた感のある壬生だけれど、この時ばかりは歳相応に子供らしく、マリアの微笑みを誘った。
母と一緒に行儀良くマリアに頭を下げてさようならの挨拶をして、壬生は二週間振りに母に手を引かれて、我が家へと帰って行った。
保育園の門を潜って二人の姿が見えなくなってから、マリアは遊戯室へと戻る。
其処には保護預かりの三人の子供と、もう一人────京一がそれぞれ自由に過ごしていた。
雨紋と亮一は二人で積み木遊び、マリィは眠たくなってきたようで布団の上で舟をこいでいる。
京一は自分の落書き帳にクレヨンでお絵描きしていて、いつものようにパンダを描いていた。
四人を見守っているのは、高見沢舞子だ。
マリアの視線は、この四人の中で唯一、保護児童としての預かりではない子供へと向けられる。
お絵描きに熱中している京一だ。
京一はいつも遅くまで残る。
ほぼ毎日だ。
早い日の方が珍しく、一番最後まで残っているのが常だ。
真神保育園では、一日の保育時間が10時間を越すと延長保育扱いとなる。
京一は朝8時前に入園し、帰るのは大抵、夜8時を過ぎた頃で、いつも延長保育になっていた。
時には子供が眠る時間まで残っている事もあった。
そんな時間まで残る子供の面倒を見るのは、チーフのマリアか、犬神だけで、他の保育士達は家に帰る。
そうなると、他の子供達が眠ってしまうと、いつもは賑やかな園内はとても静かで寂しさを感じさせた。
今日もまた、京一は一番最後。
これは京一が真神保育園に来るようになってから、ずっとだ。
土日を除けば、ほぼ毎日預かるのに、この三ヶ月の間に京一が早く帰ったのは、たったの一度か二度。
この子も壬生同様、特殊な事情があるのは聞いている。
迎えに来るのが彼の父母ではなく、預かっていると言う懇意にしている青年である事も。
青年は大学生でアルバイトもしているから、迎えが遅くなる理由も判らない訳ではない、寧ろ仕方がないとも思う。
しかし、それでも静まり返った園舎で一人迎えを待つ子供を見ると、胸が痛む。
来ない訳ではないけれど、いつ来るか判らない迎えを待ち続ける彼の心は何を思うのだろうかと。
マリアは一つ溜息を吐いて、遊戯室を出た。
向かうのは職員室だ。
遅くまで残る子供や保護児童の為に、真神保育園では午後7時頃に補食を出す。
日と季節によって変わるが、大抵は小さな果物やラスク等である事が多い。
職員室の扉を開けると、其処には犬神杜人が残ってパソコンに向かっていた。
他の保育士は既に帰宅しているようで、残っているのはこの場にいるマリアと犬神、遊戯室にいる高見沢のみらしい。
─────こうなると、園舎はどんどん静かになって行く。
棚に保管していたラスクの入った袋を取り出し、封を開ける。
用意した三枚の皿にそれぞれ二つずつ出す。
マリィに用意するのは、牛乳で柔らかくしたパンである事が覆いのだが、彼女はそろそろ寝入る頃だろう。
途中で目覚めるかも知れないので、念には念を入れて準備をしておく事にする。
冷蔵庫から取り出した牛乳パックを開けながら、マリアは呟いた。
「今日も京一君が最後ですよ」
「……いつも通りです」
「まぁ、そうなんですけど」
淡々とした口調で返す犬神に、マリアは判り易く大きな溜息を吐いた。
「連絡なしで延長保育は、金額的にもきついものがあると思いますよ」
「そうですね」
「連絡があってもほぼ毎日となると……」
一日の延長ならば、こんなにも気にする事はなかっただろう。
しかし京一の延長保育は、この三ヶ月間で毎日になっている。
時に夜半にまで及ぶのではないかと思う程、迎えが遅れた事もあった。
それによって保護者にかかる金額的負担は、普通の保育時間よりも倍額以上になる。
また、仕事を終えて迎えに来る保護者への体力の負担も、やはり見逃せるものではない。
「やっぱり、宿泊保育の方も考えてみた方が良さそうですね」
それならば、毎日必ず迎えに来なければいけないと言う事もない。
時間と都合の折を見て、壬生の母親のように隔週に一回でも良いから、迎えに来てくれれば良い。
雨紋達のような保護児童と決定的に違う点は、其処にかかる費用だ。
保護児童は彼らの背景事情から無償若しくは格安になるが、宿泊児童はそれよりも少し高い。
しかし、通常保育に加えて毎日の延長保育との差を考えれば、随分と荷が軽くなる筈だ。
あちらの事情を聞かなければならないので、今すぐにと言う訳にはいかないだろうが、悪い話ではない筈だ。
─────マリアはそう思っていたのだが。
「さて、どうかな………─────」
ぽつりと零れた犬神の言葉に、マリアは一度、瞬きした。
時刻は午後8時半。
昼間によく遊んだ子供などは、そろそろ睡魔に誘われる頃合だった。
その例に漏れず、マリィは勿論、雨紋と亮一もマリアに促されて布団に入った。
布団に包まった雨紋は直ぐに寝付き、続いて亮一も幼馴染に寄り添って瞼を閉じた。
マリィは二人よりも先に眠りについている。
保護児童の中で一番賑やかな雨紋が眠ると、園内は一層静けさを増した。
そうして遊戯室で唯一起きているのが、京一だ。
眠った子供達の様子を時折覗きに行きながら、マリアは京一の傍で彼の迎えを待った。
マリアと京一の間に会話らしい会話はない。
時折マリアがかける声に小さな反応をするだけで、京一は基本的に喋らなかった。
京一は無口な訳ではないけれど、抱える特殊な事情の所為か、中々周りに心を開かない。
ついこの間までは、子供達には怒鳴るか威嚇するかで、大人には反抗ばかりだった。
最近になってようやく馴染んで来たようだが、まだ特定の子供以外とはケンカを繰り返している。
同じ年頃の子供にも心を開かない京一は、大人に対しては更に頑なだった。
それは今も変わらないようで、京一が話をする大人は真神保育園の保育士だけでも限られる。
そんな子供相手に無理に話をしようとすれば、子供は此方を鬱陶しがってしまうだろう。
だからマリアは、出来るだけ京一が落ち着いていられるように、必要以上に話しかける事をしなかった。
園内は静かだ。
京一と一番よく喋る雨紋が眠ったから、京一は益々喋る事がなくなった。
無言でクレヨンを画用紙に押し付ける横顔は、真剣そのもの。
目の前の真っ白な紙を埋める事に一所懸命になっている。
……が、その瞳が僅かながら眠そうに緩んでいるのは否めない。
京一は活発な性質だから、日中はやはり外遊びをしている事が多い。
だからこの時間になって来ると、雨紋同様に眠気を感じるのも無理はなかった。
かくん、と京一の頭が揺れた。
クレヨンを握る手が止まっていて、絵もそれ以上進まない。
マリアは苦笑して、京一の頭を撫でた。
「お迎え来るまで、お休みしましょうか」
迎えが来たらちゃんと起こしてあげるからと。
言ったのだが、京一はぶんぶんと頭を横に振ってそれを拒否した。
眠気眼をごしごしと擦り、またクレヨンをぐりぐりと動かし始める。
─────いつもこうだ。
この時間になれば眠っても無理はないのに、京一は迎えが来るまでずっと起きている。
時々耐え切れなくなる事もあるのだが、数分すると飛び起きてしまうのだ。
無理やり寝かしつける訳にもいかない、そうすると抱き上げた途端にじたばたと暴れて嫌がるのだ。
意地でもこの遊戯室から出ようとはしないのである。
本人が嫌がるのなら無理強いは出来ないと、マリアは一つ息を吐いて、早くこの子の待ち人が来ないものかと一人ごちる。
ぱたぱたと廊下で足音がして、遊戯室のドアが開く。
顔を覗かせたのは高見沢だ。
「お疲れ様です、マリア先生」
「お疲れ様」
「私、お先に失礼しますね。京一君、また明日ね〜」
ひらひらと手を振る高見沢。
呼ばれた京一は顔を上げて彼女を見たが、特にこれと言った反応はしなかった。
しかし此方を見てくれただけでも上出来と、高見沢は嬉しそうに微笑む。
マリアに軽く頭を下げてから、高見沢は遊戯室のドアを閉める。
そのまま彼女は玄関へと向かって行った。
これで園舎に残ったのは、保護児童の子供達と、マリアと京一だけになる。
犬神は30分程前に仕事を終えて上がっており、保健室を受け持って貰っている岩山は元より非常勤が多い。
チーフとして夜勤を受け持つのはマリアか犬神のどちらか一人のみだから、益々園内は人気がなくなって静かになった。
────と、思ったのだが。
玄関を出たとばかり思っていた高見沢が早足で戻って来た。
「京一君、お迎え来たわよ〜ッ」
弾む高見沢の声に、京一が顔を上げる。
遊戯室に顔を見せた高見沢に続いて、一人の青年がひょいっと顔を出す。
薄い金の入った髪色に、恐らく画材や教材を詰め込んだ鞄を持った彼が、京一を現在預かっている人物────八剣右近であった。
「や、京ちゃん。遅くなって悪かったね」
「……別に」
遅い迎えを詫びる八剣に、京一は素っ気無い言葉。
それでも手元はクレヨンを片付け、落書き帳を閉じている辺り、待ち続けていた彼の心を表しているようにも見えて、微笑ましさを誘う。
ロッカーから引っ張り出した鞄に、順番はバラバラだがきちんと収められたクレヨンと、落書き帳を入れる京一。
其処までしてから、京一は思い出したように鞄を床に置いて、とたとた駆け足で遊戯室を出て行った。
何処に行くのかと慌てて高見沢が追いかける。
「京一君!」
「しょんべん!」
鞄を用意してから尿意に気付く辺りが子供らしいと言うか。
トイレへ駆けて行く京一と、それを追う高見沢を見送る八剣は、くすくすと面白そうに笑っていた。
マリアはそんな八剣へ、京一の鞄を持って歩み寄る。
「お迎えご苦労様です」
「いやいや。此方こそ遅くまでありがとう」
互いに頭を下げてから、マリアは鞄を八剣に手渡す。
赤色を基調にしたその鞄には、パンダのキーホルダーが取り付けられている。
いつから付けているのかは知らないが、随分長いのだろう、もうかなり汚れている。
鞄の中には落書き帳とクレヨン以外に、パンダ柄のハンカチとケースに入れられたティッシュがある。
その程度のもので、ゲームやオモチャの類を持って来た事はなかった。
時々マンガが入っている位で、鞄は他の子供達に比べると随分と軽い。
軽い小さな鞄を手に、預かり子が戻るのを待つ八剣の瞳は、何処までも穏やかで優しい。
だから彼が子供へと向ける愛情は本物で、迎えに来るのも吝かでないのは判るのだけれど。
「─────あの、少し宜しいですか?」
「うん?」
常に子供に見せている笑顔を潜めたマリアに、八剣は何かと此方を見る。
「その……、いつもこの時間までお仕事なさって、お迎えも大変だと思うんですけれど」
「いや、そんな事は。寧ろ其方に申し訳ないかな、遅くまで面倒を見て貰う訳だから」
「いえ、それは構いません。保護の子達もいる事ですから」
京一が遅くまで残っていても、早くに帰っても、これは変わらない。
マリアか犬神のどちらかが残り、雨紋、亮一、マリィ、壬生を見守る事になるのだ。
それでも仕事が一つ増える事に変わりはないと詫びる八剣に、マリアは気遣いを感じて眉尻を下げて笑う。
「それでですね。出過ぎた事かとも思うんですが、京一君、宿泊保育にしては如何かと思うのですが……」
「宿泊保育……となると、一晩此処に預けることに?」
「はい。毎日お仕事の後にお迎えに来られるのが大変なようでしたら…」
マリアの言葉に、八剣は苦笑した。
八剣はいつも笑顔で京一を迎えに来るけれど、そんな彼も暇な訳ではないのだ。
大学の授業に課題をこなし、一人暮らしである為に就学後にはアルバイトがある。
家庭教師の派遣アルバイトだそうだが、嬉しい悲鳴で人気があるので、受け持っているのは一人二人ではない。
一箇所に二時間近く、それを一日で二箇所から三箇所は回る事が多いので、終わる頃にはとうに月が昇っている。
都内に住んでいるので移動手段に問題はないが、それでも体力の限界はある。
毎日詰まったスケジュールで生活している上、その後に更に子供の迎えと言うのは、言葉で言うほど単純な事ではない筈だ。
だから八剣の苦笑は、マリアの心配が決して外れていない事を教えている。
「……確かに、遅くまで迎えを待たせるよりは、その方が良いかな」
八剣の呟きに、それじゃあ、とマリアは紡いだ。
けれども、直ぐに遮られる。
「けど、それじゃあ京ちゃんとの約束を破る事になる」
告げた言葉に、マリアは八剣を見遣る。
彼は此方を見ることはなく、京一が戻って来るだろう廊下の向こうを見詰めたまま、動かなかった。
振り返らずに八剣は続ける。
「京ちゃんの事情は複雑でしてね。あの子はそれに振り回される形になってしまった」
「ええ、聞いています。前に一度、お父さんが迎えに来られた時に、ご本人から」
京一の迎えはいつも八剣が来るのだが、この三ヶ月の間に、たった一度だけ。
彼の父だと言う初老の男性が迎えに来ており、その時の京一は表情こそいつもと同じだったけれど、足取りは軽かった。
何より男性の差し出した手を恥ずかしそうに握った時、彼の瞳は確かに悦びを滲ませていた。
その時、マリアは踏み込んだ話になると判っていても、聞かずにはいられなかったのだ。
どうして息子の世話をほぼ八剣に一任する形になっているのかと。
真神保育園は、保育士と子供の家族揃って子供に接したいと言うのが基本方針だ。
だから出来るだけ子供の環境を把握して置きたかった。
父は少しの間言い澱んだが、全てを話してくれた。
息子を巻き込んだ事を悔いているとも言っていたし、普段ろくに顔を合わせる事すら出来ないのも心苦しい。
そして────京一自身がその事について何も言わないのが、また父には苦しかった。
「京ちゃんはその事には何も言わないけど、声に出さないだけで、酷く心に傷を残しているのは間違いない」
………それが、先日までの京一の態度の原因。
誰にも心を開かず、仲良くしたいと子供達が声をかけても威嚇とケンカばかり。
唯一雨紋とはシンパシーがあるのか話をして遊ぶ事もあったけれど、それ以上はない。
雨紋も何処かでそれを感じているようで、何より雨紋の優先順位はあくまで亮一が上だった。
大人に対してはもっと頑なで、最初は口も聞いてくれない、目も合わせてくれない、触れようとすれば嫌がる。
一ヶ月、二ヶ月と経つ間に少しずつ軟化し、今では反抗は憎まれ口、素直になれない感情表現になったけれど、それでも何処かで壁を作っているようにも見えた。
けれども愛情を欲しがる気持ちは他の子供と同じで、伸ばされた手を絶対に拒否すると言う事はなかった。
池に落ちてびしょ濡れになったのを見つけた遠野が、捕まえて風呂に入れようとすると、最初はやはり暴れるけれど最後はいつも大人しい。
柔らかなタオルに包まれている時は、暴れていた事など忘れさせる位に静かだった。
その際、京一は相手の大人を見る事はないけれど、瞳の奥の光は頼りなさげに揺れている。
何かを必死に堪えているような、そんな表情を浮かべて────きっと本人はそれに気付いていないけれど。
大人の勝手な事情に振り回されて。
父は息子に構うことが出来ず、彼はいつも一人だった。
「本当は父上殿も京ちゃんを放っておけなかった。けれど、現実は残酷で、結局一人で待たせるしかない。いつ頃帰るなんて言っても、守れない事が多かった。迎えに来ると言って置いて、待ち惚けにさせてしまう事もあった」
大人の所為で、京一の日常は壊れた。
一番好きな筈で、一番構って欲しい筈の親に、その所為で構って貰えない。
でも聡い子供は、子供なりに現状を理解してしまっていた。
寂しさにも、約束を守って貰えない悲しさにも、耐える事に慣れてしまった。
約束を反故にされても、仕方がないからと思うようになってしまった。
それは彼なりに周囲を慮っての事であるのだけれど、同時にやはり、周囲を悲しませる行動でもある。
遊んで鎌ってと子供らしい我侭を言えなくなった京一は、素直に人に甘える事が出来ない。
本当ならばもっと甘えて我侭を言って良い筈なのに。
そんな様が、八剣には見るに耐え兼ねるものだったのだ。
「だから俺は、京ちゃんを預かるようになってから約束したんだよ。俺は絶対に迎えに来るよって」
生憎、その時間までは決める事が出来ない。
目処は立てても、その時間通りに来れるかは判らなかった。
だからせめて、“迎えに来る”と言う約束だけは、破れない。
「俺の自己満足だとも思うけど。それでも、この約束を破ったら、あの子は本当に何も信じられなくなる」
大人の事情に振り回されて、京一は色んなものを見た。
その所為で、他人に気持ちを委ねることが出来ない。
自分の事は自分でしなければならないのだと、そんな意識が植え付けられた。
まだ、たった4才の小さな子供なのに。
八剣は少しずつ、その意識を取り払いたかった。
京一が思うほどに大人は決して冷たくなくて、京一は絶対に一人じゃない。
そう知って貰う為には、迎えに行くと言った約束は果たさなければならないのだ。
「宿泊保育の話は有り難いけど、辞退させて頂くよ」
「─────判りました」
のっぴきならない事情にならない限り、八剣が今日のこの話を撤回させることはないだろう。
八剣自身が誓った想いに従って。
ならば、マリアに言える事はもうなかった。
宿泊保育にしたからと言って、もう迎えに来ないと言う訳ではない。
けれども迎えに来る日の数がずっと減る事は確かで、そうなると、結局迎えに来ないんだと京一は思うようになる。
京一は何処かで八剣を信じながら、信じ切れずにいる。
絶対に迎えに来ると言ったけれど、本当に迎えに来てくれるのか、本当に見捨てないでいてくれるのか。
大人は簡単に嘘を吐くと知ってしまったから、彼は八剣にも甘える事が出来ない。
それを、京一を慮っての事だとしても反故にしたら、それは絶望に叩き落すのと同じことだ。
それは駄目だ。
絶対にあってはならない。
京一が握り続けている細く頼りない糸。
八剣へ、父へ、そして沢山の大人と未来へ繋がる糸を手放させるような真似は、絶対にしてはいけない。
二つ足音がして、角から京一と高見沢が戻って来た。
京一は真っ直ぐ此方へと向かう。
「はい、鞄」
「ん」
差し出された鞄を受け取って、背負う。
その背中はまだ小さくて、守ってあげたいとマリアに思わせる。
「では、お世話にまりました」
「じゃーな、マリアちゃん」
頭を下げる八剣と、ひょいっと手を上げて挨拶する京一。
八剣が頭を上げるよりも早く、京一はくるっと方向転換して玄関に向かう。
早足で下駄箱に行く京一を八剣はのんびりとした歩調で追った。
倣って高見沢もマリアに一つ挨拶してから、今度こそ帰路へとついた。
─────最後の子供が帰宅の途に着き、マリアの仕事はこれで一つ段落を迎えた。
しかしマリアの仕事がこれで終わりになる訳ではなく、今晩はずっと起きて雨紋、亮一、マリィを見守らなければならない。
マリアは玄関外の明かりは残したまま、他の外灯のスイッチを切りながら、子供たちの就寝室へと向かった。
こうして保護児童を見ていられるのはマリアと犬神だけなので、時々体力的にも精神的にも辛くなる事がある。
せめてもう一人か二人は増やした方が良いかと、犬神と岩山を交えて相談する事も増えた。
候補の保育士は何人か上がっているが、子供との適正を考えると迂闊に決められない。
何せ子供達はマリアと犬神が残るものだと思っているから、途端に他の人間が来ると、雨紋はともかく亮一やマリィは緊張しそうだった。
子供達が今の所一番慣れている保育士は遠野だが、彼女は新人だ。
規則正しい生活を送っているのもあって、急にそれを崩すと彼女の方がダウンし兼ねない。
何せ夜勤は何事が起きなくとも、気を張って子供達を見守らなければならないのだ。
最近、富に睡眠時間が短くなった。
肌が荒れてきて、スキンケアの時間もろくにないのが悔やまれる。
今度の休みには久しぶりにエステに行きたい。
ああ、でもその前に新しい服が欲しい。
保育に向く動き易い服ばかりを買うので、一着ぐらいはブランドの新品を買いたい。
………そんな事を、つらつらと考えてはいるのだけれど。
就寝室のドアをそっと開けて、音を立てないようにゆっくり入る。
一番小さなベッドにマリィが眠っていた。
うつ伏せになっていたので、気を付けながら仰向けに直す。
雨紋と亮一は一緒のベッドに眠っている。
大の字で寝ている雨紋に対して、亮一はこじんまりと丸くなっていた。
掛け布団が蹴飛ばされていたので、肩まで掛け直しておく。
いつも壬生が使っているベッドは、今日は久しぶりに無人だ。
眠る子供達の顔が夜の星明りに照らされる。
三人三様に楽しい夢を見ているようで、子供達の寝顔は穏やかなものだった。
それを見ているだけで、さっきまであれこれ考えていた自分の事は、もうどうでも良くなって。
(守らなきゃね)
この寝顔を。
この安らぎの眠りを。
母に、父に、手を引かれて帰る子供達の笑顔を。
愛して欲しいと全身で訴える、子供達の心を。
夢の中まで、悲しい思いをする事がないように。
今回は大人サイドなので、ちょっとシリアスめ。
犬神先生からマリア先生への口調が判りません(汗)……
京一の家庭事情については、小出しに小出しにしたいと思ってます。