ちいさなてのひら、ほしいもの






平日の朝は忙しい。





大学に行く時間は日によりけりだが、八剣には他にやる事がある。


目を覚まして身だしなみを整えたら、夜の内に済ませて置いた洗濯物を取り出し、風呂場に干す。
出来れば毎日天日干しで日光による殺菌消毒を行いたいが、家を出ると日が落ちるまで帰る事がない為、天候を気にせず干そうとすると、どうしても部屋干しを余儀なくされてしまう。

これが済むと、朝食の準備だ。
育ち盛りの幼い預かり子にひもじい思いをさせる訳にはいかないから、八剣はいつも急ぎ足でこれの準備をする。
献立は、炊き立ての白飯に吸い物、漬物、それから何か一品二品、と言う和風の朝食が多い。
慣れた手付きでそれらを仕込む八剣の手付きは、男子大学生と言うには卓越していた。

食事に用意を済ませたら、一度寝室に戻り、預かり子の様子を見に行く。
大抵、この頃になると子供は眠気眼を擦りながら起き上がっていた。
それを確かめたら、子供が着替えてリビングに来るまでに、大学で使用する教材に忘れ物がないか確認する。
子供と二人で食事を終えたら、食器を片付けなければならず、それが済んだ後は子供を保育園に送らなければならない。



こうしていると、朝の数時間と言う時間は、あっという間に過ぎていってしまうのである。









ある水曜日の朝、八剣はいつも通りに目を覚ました。
瞼を開けて最初に見たのは、隣で丸くなって眠っている預かり子────京一だ。
京一は八剣の右腕を枕にして、お気に入りのパンダのぬいぐるみを抱き締めて、寝息を立てている。

子供にしては普段仏頂面でいる事が多い京一だが、寝顔はやはり子供らしく愛らしい。
しかし今日の京一は、寝苦しいのか、眉を寄せて眠っていた。
京一の前髪を少し持ち上げてやると、薄らと汗が滲んでおり、そんなに暑いかな、と八剣は首を傾げた。


起こさないように気を付けながら、枕になっていた腕を引き抜く。
むずがるように身動ぎする京一の頭を撫でると、無意識だと言うのに、いやいやするように首を振って、最後にはうつ伏せになってシーツに顔を埋めてしまった。

眠っている時ぐらいは、もう少し甘えても良いのに。
八剣は苦笑が漏れるのを誤魔化せない。



ベッドを降りて、カーペットを敷いた床の上を、音を立てないようにゆっくりと通り過ぎて、リビングと続きになっているドアを開ける。
カチャリと言うドアノブの音一つにも気を遣うのは、眠る子供を邪魔しないようにと言う配慮から。



リビングの隅のコンセントに差し込んでいた、携帯電話の充電器。
其方を見ると携帯のイルミネーションが点滅しており、手にとって確認すると、京一の父からのメールがあった。
時刻は深夜、八剣が京一と一緒に眠って随分と経った頃だ。

内容は『来週末は迎えに行けそうだ』と言うもの。
これも絶対とは言えないので、京一に伝える事あまだ出来ないが、それでも八剣はほっとした。
月に一度位は本当の親子で過ごした方が京一の為になる。
親子揃って素直な性格ではないから、ケンカをしてしまう事も多いけれど。




(全く逢わないよりは、よっぽど良いだろう)




来週末か────と、然程遠くは無い日に思いを馳せつつ。
八剣は洗濯物を干し、朝食の準備に取り掛かった。



今朝のメニューは白飯とワカメの味噌汁に、アジの開き、胡瓜の浅漬けだ。
アジは昨日の晩に一夜干ししておいたアジを使う。

これだけでは少々寂しかったので、作り置きのひじき煮を冷蔵庫から取り出して追加した。



調理に使ったまな板や包丁を水に浸け、八剣は火元を確認し、一旦キッチンを離れる。
最早癖になってしまったこのタイミングで、京一を呼びに行くのだ。


寝室のドアを開けると、ブラインドの隙間から滑り込んだ陽光に照らされる部屋の中、ベッドの上で京一が起き上がって目を擦っていた。
寝起きの子猫が顔を洗うような仕草に、八剣は和やかさを感じて笑みを漏らす。




「京ちゃん、ご飯だよ」
「……んぅ……」




ぼんやりとした反応が返る。
もう少ししたら着替え始めるだろうと踏んで、八剣はまたリビングに戻った。

この合間に、いつものように、八剣は大学で使用する教材の確認をする。
使用するテキストや、昨日の晩に済ませた課題を鞄に入れ忘れていないか、間違えていないか。


一頻り確認を終えた所で、丁度良く寝室と続くドアが開けられる。




「……京ちゃん?」




出てきた子供の名を呼んだのは、思わずの事であった。

京一は、食事の前にはきちんと着替えて寝室を出てくる。
だと言うのに、今日に限って京一はパジャマ代わりのシャツと短パンの格好のままだった。


癖っ毛の髪を跳ねさせて、右手にパンダのぬいぐるみを持ったまま、ぼんやりとした目を擦る。
ぺたぺたと此方へ近付いて来る足元が何処か覚束無い印象で、八剣の方から歩み寄る。
小さい体を抱き上げてみると、珍しく京一は八剣に抱き付いて来た。

その頬が、ほんのりと紅い。




「どうしたの? 調子が悪い?」
「……うー……」




八剣の問いに、京一はふるふると首を横に振る。
……とてもそんな風には見えない。



京一は意地っ張りだ。

それは、周りに迷惑をかけまいとしての行動だったり、生来の天邪鬼の所為だったりする。
後者ならば宥めれば良いのだが、前者だと一歩間違うと大変な事になってしまう。
なまじ周囲への観察眼が秀でているばっかりに、自分の不調や本心を隠してしまい、無茶をしてしまうからだ。

今回はどう考えても前者に当て嵌まると、誰が見ても取れる。
紅潮し、額にじんわりと汗を滲ませる京一の身体は、子供故の体温の高さを差し引いても、明らかな熱を持っていた。



八剣は、京一の額と、自身の額とを合わせてみた。
京一は大人しくそれを受けている。

─────やはり熱がある。




「風邪かな。ご飯は食べれる?」
「……んー……」
「ふむ………」




京一の返事には意味がなく、亡羊と熱に浮かされているだけのようだ。
これでは食事は無理だろう。


見た所、咳やくしゃみと言う風邪ならばありがちの症状は見られない。
喉が痛んでガラガラ声になっている訳でもなさそうだし、あるのは発熱だけ。
ぼんやりしているのは寝起きだからか、少なくとも自分で歩き回る程度の元気はあるらしい。

子供の急な発熱と言うのは珍しい事ではない。
疲れが溜まった所為で一日だけ熱を出す事もあり、その場合はゆっくり休ませて眠らせるのが一番の手だ。
他にも、発熱の症状は見られるものの、本人は至って元気だったりする場合もある。


今の京一はどうかと考えると、少々微妙な所だった。



京一を抱いたまま、八剣は食卓の並んだテーブルへと移動した。
椅子に座ると、京一を膝に下ろしてやる。

コップに冷えた茶を注いで京一に見せると、京一はのろのろと手を伸ばして、コップを受け取った。
食欲はなさそうでも、喉は渇いていたらしく、コップの中身は直ぐに空になった。
次に漬物を差し出してみるが、此方は案の定、手で押しやられてしまった。




「熱、測ろうか」




言って、八剣は棚の中にある体温計を取り出そうと、一度京一を膝から下ろした。
椅子に下ろされた京一は、起きているのが辛いのか、その椅子の上でころりと丸くなって転がってしまう。


取り出した体温計を手に、八剣は京一の腕を少し持ち上げる。
シャツの襟元から体温計を入れて、脇に挟ませた。




「京ちゃん、喉が痛いとかはない?」
「……ん……」
「頭は平気?」
「……ん……」




意地っ張りな子なので、返事一つを安易に受け取ることは出来ない。
じっと様子を見守りながら問い掛けて、八剣は京一の仕草を見逃さないように勤めた。

問い掛けに否定で答えた京一であったが、嘘はないらしい。
ぐずる様子もないし、くしゃみや咳を意図的に我慢している訳でもない。


電子音が鳴って体温計を取り出すと、其処には“38.2”の数字。




「岩山先生に診せた方が良いかな?」




体温計を見下ろして呟く。
ぴく、と京一の身体が揺れた。

のそのそ、京一が起き上がる。




「ぜってーヤだ…いらない……」
「そう?」
「いらない……」




テーブルに頭を乗せて嫌がる京一。
八剣は、行った方が良いと思うけどねェ、と思いつつ、それは口に出さなかった。



京一は真神保育園の保健室を預かる、岩山たか子と言う人物が大の苦手だ。
それは彼女が医者だからとか、予防接種の時に彼女が注射をするからと言うのではなく、単純に岩山たか子と言う人物が苦手なのだ。
理由は、恰幅が良いと言うには足りない、迫力のある彼女の容姿と、他の大人達のように京一が威嚇しても対して応えた様子を見せないから────と言った所だろうか。

他にも───八剣は詳しくは知らないが───岩山はどうやら、京一の父と昔からの知り合いであるらしく。
その父も岩山には中々頭が上がらない所があるようで、そう言った影響も尾を引いているのだろう。
京一は、岩山に対してすっかり苦手意識を植え付けられていたのだ。


しかし、中々大人に対して心を開かない京一にしては珍しく、彼女には少なからず気を赦しているようだった。
他の病院にはもっと行きたがらないし、岩山が相手なら診察中も大人しい(単に怯えているだけかも知れないが)。
それは京一が真神保育園に入る以前からの事だ。



─────ともかく。
行かないよりは行ったほうが良いとは思うが、子供の急な発熱は珍しい事ではないのだ。
風邪かどうかはまだ判らないし、熱以外の症状もない事だし、今日一日は様子を見て、明日も長引くようなら連れて行こう。

そう決めて、八剣は京一を抱き上げて、赤子をあやすように背中を撫でてやった。




「────ああ、そうだ。京ちゃん、リンゴ食べる?」
「……あ?」
「昨日、果物屋さんで買い物した時におまけで貰ってね」
「……いい……」
「そう?」




ふるふると首を横に振った京一は、今度はどうも遠慮しているようだった。

リンゴを剥いて切り分ける程度の一手間位、八剣には大した事ではないのだけれど。
本心で要らないと言うのならともかく、遠慮で要らないと言われてしまっては、困る。


いつから熱を出していたのか───ひょっとしたら夜半の内から熱を出して、ずっと我慢していたのかも知れない。
八剣が気付かぬ間から発熱で汗を掻いていたのなら、このまま放っておいたら脱水症状の危険もある。
こう言う時は麦茶や湯冷まし、イオン水が良いのだが、やはり子供なので多少の甘味はあった方が飲んでくれ易い。

そうなるとリンゴ果汁が一番無難ではあるのだが。

恐らく、要らないという言葉を聞かなかったことにして差し出せば、食べてくれるだろうとは思う。
だが意地になって、欲しいものも要らないと言い出す可能性もあった。




「じゃあ、リンゴジュース飲もうか。俺もちょっと喉が渇いてね」




そのついでに、と誘ってみれば、京一は眉毛をハの時にして、




「……じゃあのむ」




─────と小さな声で呟いた。

やっぱり欲しいものは欲しいのだ。
天邪鬼とは、本人にとっても大変な癖である。




京一をリビングのソファに運ぶと、座布団を枕に寝かせる。
京一はパンダを抱き締めて、大人しく丸くなった。

京一の分であった朝食にラップを被せて冷蔵庫に仕舞うと、代わりにリンゴを一つ取り出す。
水に浸けていたまな板と包丁を取って拭き、リンゴを八つ切りに切る。
芯の部分を取ってから、キッチンに置いていたジューサーに入れてスイッチを押した。


搾り出されたジュースと氷をコップに入れて、リビングへ持って行く。



京一はソファの上でさっきと同じ格好のままだった。




「起きれる?」
「……ん」
「はい、京ちゃんの分」
「…ん……」




起き上がった京一は、差し出したコップを受け取って、ちびちびと飲み始めた。
よく冷えたリンゴジュースは、熱の篭った喉には心地良かったらしく、京一の頬の赤みも少しだが薄れたようだった。

そうすると、発熱でぼんやりとしていた京一の意識も、幾らかクリアになったようで。




「……やつるぎ、」
「うん?」
「……おめェ、ガッコは……?」




気分と熱が落ち着いたら、八剣もいつもにしては随分と落ち着いてしまっている事に気付いたらしい。

気遣ってくれた事は八剣にとっては嬉しいが、それによってまたこの子の遠慮が始まってしまったとも言える。
眉をハの字にして伺うように此方を見る京一に、八剣は柔らかく微笑み、




「今日は良いんだ。休校なんだよ」
「………」
「創立記念日…学校が出来た日らしくてね」




いぶかしむように半目になる京一に、八剣は後押しするように言う。
それでも京一は胡乱な瞳をしていたが、これ以上何か言った所で、八剣が促されるとも思えなかったのだろう。
半分になったリンゴジュースを飲みながら、まぁいいけどよ、と呟いた。



リンゴジュースのグラスが空になると、京一はソファの上でぼんやりし始めた。
八剣のグラスはまだ残っていたが、構わず、空のグラスと一緒にキッチンに持って行く。
残りのジュースは冷蔵庫に入れ、空のグラスは流し台の水に浸して置いた。

リビングに戻ると、京一は子猫のように目を擦っていた。
そんな京一の隣に座り、膝上に乗せてやると、珍しく体重を預けて来る。




「寝ても良いよ」
「………」




ふるふる。
京一は頭を横に振る。




「…おめェもガッコいけよ」
「だから、休校だから良いんだよ」
「…うそつけ」
「本当だよ」




繰り返す京一は、自分の所為で八剣が学校に行かないのではないかと疑っているようだ。



実際、それは当たっていて、既に八剣は今日は休もうと思っていて、その為の嘘だ。
幼い預かり子の体調不良だと言うのに、大学など行ってはいられない。
幸い、昨晩片付けた課題の提出期限はまだ先である事だし、テストが近い訳でもなく、単位も十分。
八剣自身は学校を休む事に特に抵抗はないのである。

しかし、八剣自身に休む理由はないのに、自分が調子を崩した為に、その世話で休学する────京一にとってはそれが嫌なのだろう。
自分の所為で他人に迷惑をかけている事になるから。


八剣はそんな風には思っていないのに。



八剣に寄り掛かったままの京一は、だるさからだろう、眠そうに何度も目を擦っている。
身体が休息を欲しているのは明らかだ。

しかし、このままリビングにいると、京一はいつまでも意地を張っているだろう。
早めにベッドに戻さないと、ずっとこうして過ごすかも知れない。
そんな事になっては、益々治りが遅くなる。


京一を抱いてソファを立つと、京一はぼんやりとした瞳で八剣を見上げた。




「やつるぎ……?」
「ソファは寝辛いだろう。ベッドに戻ろうか」
「……いい」




ふるふる、首を横に振る京一。
けれども八剣の腕を振り払って床に下りる気もないようだ。

むずがるような声が聞こえたけれど、八剣は気付かなかった振りをして、寝室へのドアを開ける。


ブラインドを閉めたままの部屋の中は、そのブラインドの隙間しか光が滑り込む場所がなく、薄暗い。

そんな部屋の中で京一をベッドに下ろすと、子供はころりと布団の上に転がった。
それを横目に窓を少しだけ開ければ、涼しい澄んだ風が吹き込む。
子供を休ませるにはこの程度で丁度良いだろう。


京一はしばらくベッドの上でころころとしていたのだが、数分すると起き上がる。
また猫のように目元を擦り、ベッドシーツを手繰り寄せて、ダマになったそれを抱き締める。
その仕草を見てから、八剣は、京一お気に入りのぬいぐるみがない事に気付いた。




「パンダさん持って来るから、其処にいてね」
「……いい」
「直ぐ戻るよ」




八剣の言葉に、京一は明らかな遠慮を示したが、八剣は気にしなかった。
体調不良の時は心細くなるものだから、何か手元に安心できる物が欲しくなる、それはごく自然なことだ。
それをこんな時にまで我慢しようとなんてしなくて良い。



お気に入りのぬいぐるみは、予想通り、ソファの足元に落ちていた。
拾って、言葉通り直ぐに寝室に戻る。

京一はベッドヘッドに寄り掛かって、ベッドシーツを抱えたままで蹲っている。
とろとろと眠りかけているのを見て、八剣はあまり刺激しないようにと足音を殺して歩み寄る。
目を擦る京一の視界にパンダを見せると、小さな手がシーツを手放し、其方へと伸びた。


寝室には、ベッド以外に本棚と簡素なデスクと椅子がある。
京一が寝入ってからも、様子を見ながら課題が出来るようにと言う配慮からだ。

パンダを抱き締めた京一に笑みを漏らし、八剣は椅子に腰掛け、デスクに置いていた本を手に取った。
三日前に買ったばかりの文学本は、まだ半分も読み終わっていない。



そのまま、其処に落ち着いて本を開いた八剣に、京一が気付く。





「……やつるぎ…?」
「何かな」
「……なんでもねェ」
「そう」




保護者の男の名を呼んだ子供が、何を言おうとしたのか。
八剣には判らないけれど、今は深く気にしない事にする。

ただ、時折此方を見る度、京一の瞳に微かに安堵の色が灯る事には気付いていた。





















寝室に寝かされてから、京一と八剣の間に、これと言った出来事はなかった。
京一はベッドの上でうとうと、ころころとしていて、八剣はその傍で本を読んでいる。


部屋の電気を点けずに本を読む事に、京一が何度か渋い顔をした。
ブラインドを閉めた窓から滑り込んでくる僅かな光は、子供を休ませるには丁度良いが、読書には明らかに向かない。
京一はそれに気付いており、また気を遣わせているのだと思っているようだった。

確かに京一を慮っての事ではあったが、八剣にとって、それは“気遣い”とは言わない。
ごくごく自然な事であり、京一がわざわざ気負うような事でもないのだ。



ころりころりと身動ぎしていた京一が眠ったのは、一時間も経ってからの事だ。
転がったり起き上がったり、用はないけれど八剣に話しかけたりとしている内に、それ程の時間が経った。
恐らく、眠らないようにと頑張っていたのだろう。



本を置いてデスクを離れ、ベッドに歩み寄る。
眠る京一の顔を覗き込んでみると、夢を見ているのか、むにゃむにゃと寝言を呟いている。

京一の頭を撫でて、八剣は一時間ぶりに京一の傍を離れ、リビングへと出た。


リビングに置いたままだった携帯電話を取ると、リダイヤルで“真神保育園”を選ぶ。

数回のコールの後、聞き慣れた女性の声が聞こえて来た。
チーフ保育士のマリア・アルカードだ。




『はい、真神保育園です』
「どうも。お世話になっています、蓬莱寺京一の保護者の八剣です」




名乗れば、あら、こんにちは、と挨拶。




「京ちゃんが熱を出してしまってね。今日の保育は休ませて頂こうかと」
『あら、そうなんですか。判りました。最近は涼しくなって来ましたから、冷やさないようにお気をつけて」
「ええ。それでは、失礼します」




通話を切ると、今度は“岩山先生”へ。
先程と同じく、数回のコールの後、通話に繋がる。




『もしもし』
「どうも。八剣です」
『ああ、京一の』




先程、京一は病院には行きたくない、行かなくて良いと言った。
しかし、状態だけでも伝えて、簡単な診断はして貰った方が良いだろう。




『京一に何かあったのかい?』
「何か、と言うほどでもないとは思うんだけど。今朝から熱が出てね」
『熱だけかい? くしゃみや咳は?』
「我慢してる様子もないから、恐らく熱だけ。今日一日は様子を見るけど」




測った熱と、今朝からの様子と、今現在は寝ている事。
伝え終わると、岩山は知恵熱かもねェと言った。




『昨日は何か考え込んでいるようだったからね。何を悩んでいたのか、あたしは知らないけど……大した事じゃないだろうさ。それ以外は遊び回っていたし』




考え込んでいる────と聞いて、八剣が最初に思ったのは、京一の父親の事だ。
京一は幼いながらに自分の状況を判っているから、時折、その事を思い悩んでいる時がある。
また、それを周りに感じさせないように振舞ってみせる時も。


八剣が京一を預かるようになって三ヶ月が経ち、少しずつ心を開いてくれてはいるけれど、やはり京一が求めているのは“家族の肖像”なのだろう。
そして八剣の存在は京一にとってあくまで“借宿”の範疇を越えてはいないのだ。

京一が一番求めているものを与えることが出来ないのも、京一が未だにそれを表に出さないようにしているのも。
甘えて良いのに、甘えると他人に迷惑をかけると、幼さに不似合いな自制が働いている事も。
仕方がない事ではあるけれど、やはり、八剣は歯痒かった。
小さな子供の肩に、そんな重荷を乗せてしまった事に八剣自身は関係はないけれど────


保育園の子供達と遊ぶようになって来たのは、良い傾向だ。
少し前まではケンカばかりが絶えなかったと言うし、保育士の言う事もまるで聞かなかった。
それが近頃は、ケンカもあるけれど、大人数のゲーム遊びに参加するようになった。

ゆっくりではあるけれど、京一は子供らしさを取り戻しつつある。
八剣は少し嬉しかった。




『多分、大事にはならないよ。ひきつけが起きたり、明日になっても様子が変わらないようなら、連れて来な』
「ああ。その時は宜しく」




最後に「お大事に」と医者らしい言葉を投げかけて、通信は切れた。
八剣も電源ボタンを押し、携帯の液晶が待ち受け画面に戻ったのを確認して、それをポケットに入れた。



────かちゃり、とドアの開いた音がしたのはその時だ。




「京ちゃん」




見ると、京一が寝室からひょっこりと出て来た所だった。

よく眠っていたから、まだしばらくは起きないだろうと思っていたのに。




「どうしたの? 喉が渇いた?」
「……うー……」




キッチンに行って乾いたグラスを取って、冷蔵庫に入れていたペットボトルの水を注ぐ。
それを片手にリビングに戻ると、京一はきょろきょろと辺りを見渡していた。




「ほら、お水」




目の前にしゃがんでグラスを差し出す。
小さな手が伸ばされた。

────が、その手はグラスではなく、八剣の服を握る。




「京ちゃん?」
「…………」




呼びかけてみるが、返事はない。
京一は唇を尖らせて、八剣の服端をぎゅうと強く掴んでいた。

さっきまでお気に入りのパンダを抱いていたのだろう、小さな手。
振り払う訳にも行かず、どうしたものかと八剣が悩んでいると、今度は逆の手が八剣の顔に伸ばされた。
掴まれたのは髪の毛で、少し強く引っ張られる。


正面から見た子供の表情は、拗ねたように唇を尖らせていて、瞳の光はゆらゆらと揺れていた。
その目がどんな時に見せられるものか、八剣は確りと覚えている。




「ああ、ごめんね」




片腕で京一を抱き上げると、髪を掴んでいた手が離れ、代わりに首に廻される。
まるで離れないようにしがみついているようだ。





──────寂しかったのだ。
ふと目を覚ました時、傍にいる筈の存在の姿が見えなかったのが。

しがみ付いてくる京一の天邪鬼は、今ばかりは形を潜めている。
一人でも平気だと片意地を張る気力もなく、寂しさを寂しさとして純粋に捉え、不安になっているようだ。


父が来ないのは判っている、母や姉が此処にいないのも判っている。
それでも八剣は、学校にも行かず、傍にいてくれる筈だと思っていて。
なのに一度眠って目覚めてみたら、さっきまでいた筈の場所にいないから、こうして探しに出て来たのだ。

そうして、ようやく見つけた保護者の姿に安堵して────同時に、また不安になったのだろう。
傍にいてくれる筈なのに、一時とは言え、傍にいてくれなかったから。





しがみ付いてくる小さな手が必死になっているように思えるのは、気の所為ではない。


グラスをテーブルに置いて、京一を抱いて寝室へ。
ベッドへと京一を下ろし、一度身を離そうとすると、それに気付いた小さな手がより強く八剣の服を握った。

不安そうに見上げてくる京一の額に、触れるだけの柔らかなキスを落とす。




「大丈夫。俺は此処にいるから」
「………」
「本当だよ」




信じたいけど、信じれない。
服を握る手がそんな思いを如実に表す。




「何処にも行かない。京ちゃんと一緒にいるよ」
「………」




京一の隣に横になって囁くと、京一は珍しく、自分の方から八剣へと擦り寄った。
服の胸元を掴んだまま、頭を寄せて丸くなる。

そんな京一の背中を抱いて、宥めるように何度か摩ってやると、ようやく安心したような吐息が漏れる。




「京ちゃん、何か食べたいものはあるかな?」
「……う…?」
「調子が戻ったら、回復祝いでもしようかと思ってね」
「……おーげさ……」
「そう? まぁ、なんでもいいんだよ。好きなもの作ってあげるからね」




明るい色の髪を撫でて、とろりと再び寝入り始めた瞳を見つめながら話す。
頬に手を当ててみれば、今朝よりは熱は引いたようだった。
触れる大人の手が冷たくて気持ち良いのか、京一は猫のようにすりすりと頬を寄せる。




「ラーメンはちょっと重いかな?」
「………」
「パンプティング作ろうか。好きだろう」
「……なんでもい……」
「じゃあ決まりだね。ラーメンは明日にしようか」
「………」




こくり、胸に寄せられた京一の頭が縦に揺れる。


背中を摩り続けると、京一はまた寝入り始めたようだった。
声をかけてもあまり返事がないし、してもぼんやりとしたものが続く。
しがみ付いていた手からも少しずつ力が抜けて行っていた。

けれども、寝落ちるかと思えば、そうではない。
ぎゅうと八剣の服を握り直して、胸に鼻頭を埋め、うぅとむずがるような声を漏らすばかりだ。





普段どんなに意地を張っても、平気な振りをしていても、小さな子供の心は、人が思う以上に傷だらけなのだ。
それだけの思いをしたのだから、泣いても良い筈なのに、京一は泣かない。
泣けば周りを困らせてしまうし、ワガママを言ってもそれは同じだと思うから、いつもへの字に口を噤む。

大人が思う以上に、京一は周囲に対して聡い。
まだ気付かなくて良い事を気にしてしまう位に。
だから泣かないし、ワガママもごくごく小さな事しか言わないし、天邪鬼ばかりが顔を出す。
大人が自分に関わる時間を減らそうとして。


小さな子供が精一杯の背伸びをしている様が、八剣はなんだか酷く痛々しく見えた。

ワガママを言わない、言えない京一。
甘えない、甘えられない京一。
自分の事は、全部自分で済ませてしまおうとする京一。

他の同じ年頃の子供達を見れば、ワガママを言って泣いたり、抱っこして欲しいと親に強請ってまとわりついたり。
周りの事なんてまだまだ二の次で、自分の欲求に真っ直ぐなのに─────この子だけは、それが出来ない。



だから────ほんの数分、傍を離れてしまった事が、こんなにも傷付ける結果になってしまう。



無条件に愛をくれる人がいると思えない。
ただ只管に守ってくれる人がいると思えない。

信じた人が裏切る事なんてないと、信じる事が出来ない。


そんな子供にとっては、たった一時の裏切りであったとしても、心に深い傷になる。
優しい嘘は残酷な優しさと同じで、嘘だと知った瞬間、何よりも酷い裏切りになる。
京一はそれを繰り返し繰り返し感じて、誰にも心を開けなくなってしまった。

……それでも、愛されたいと思う気持ちまで誤魔化せる訳ではなく。







「大丈夫だよ、京ちゃん。俺はずっと此処にいるから」







抱き締めて囁いた言葉に。
うん、と小さな返事が聞こえた気がした。











繋いだ頼りない糸が、ふとした瞬間に零れ落ちてしまわないように縋る、小さな手。
震えるその手が、いつか、もっと真っ直ぐに、愛して欲しい人へと伸ばされるように。

いつもより少しだけ熱い体を抱き締めて、眠りについた。















京ちゃん体調不良。
意地っ張りと寂しがりの間で行ったり来たり。

この日の八剣は本当に京一に付きっ切りになると思います。
京一もこの日だけは、八剣にいつもよりもちょっとだけ甘えてる。