ひとりぼっちにしないでね





空が夕暮れに染まる頃、真神保育園は少しずつ静かになって行く。
保育園に預けられた子供に迎えが来る時間で、一人、また一人と保育園から家族のいる家へと帰って行く。


一人帰り、二人帰り、三人帰り。
母だったり、父だったり、祖母だったりに迎えられて、子供達は家路に着く。

お泊りで過ごしている子供達は、そんな子供達を、少し羨ましそうに見送る。
中には、帰っちゃイヤ、と泣き出して、帰ろうとする子を引き止めようとして、玄関先でちょっとした騒ぎになったりする。
それをマリア先生や遠野先生が、また会えるから大丈夫よ、と困った顔で宥めていた。




龍麻の母は、いつも決まった時間に迎えに来る。
夕飯の準備を一通り済ませて、後は暖めたり、ちょっと寝かせれば完成と言う所で、コンロの火を止めて龍麻を迎えに行く。
だから龍麻が家に帰ると、いつも色とりどりの料理がテーブルに並んでいて、其処で父が新聞を読んでいるのがいつもの光景。

保育園で過ごす時間も楽しいけれど、家に帰ると龍麻はとても安心する。
だから龍麻は、朝は保育園に行く時間が待ち遠しくてそわそわして、夕方の帰る時間が近付く頃、母がもうすぐ来るんだと思ってそわそわする。


でも龍麻がそわそわし始めると、別の理由でそわそわし始める子もいる。
いつも龍麻の後ろをついて来てくれる、マリィがそうだった。

マリィは、自分が知らない間に龍麻が帰ってしまうと、後でとても泣くのだと言う。
龍麻が大好きで大好きで仕方がないマリィは、自分も龍麻の家に一緒に買えると言って、よくマリア先生達を困らせているらしい。
そんな風に言ってもらえるのは龍麻も嬉しいから、母にお願いして一緒に帰れるように出来ないかな、と思う。
マリィはとっても可愛いから、きっと父も母も可愛がってくれる。



マリィは、どうしてだか判らないけれど、お迎えの人が来ないらしい。
そういう子はマリィだけではなくて、雨紋や亮一もそうで、壬生もお迎えがない日の方が多い。


迎えがないって、どんな気持ちになるのだろう。
龍麻は、寂しそうに自分を見送るマリィや、羨ましそうに他の子達を見送る雨紋達を見て、自分が同じ立場だったらどう思うだろう、と一度だけ考えた。

想像して思ったのは────とても寂しい、悲しい、という事。

毎日迎えにきてくれる母がいない、いつも待っていてくれる父がいない。
迎えに来てくれる人がいなくて、待っていてくれる人がいないなんて、まるで世界に一人ぼっちになったみたいだった。


マリィや雨紋や亮一や壬生は、毎日そんな気持ちなんだろうか。
龍麻は、そんなのは耐えられない。





それから、もう一人。

いつも仲良しの筈の龍麻を見送る事もしない、男の子がいる。

























「緋勇くーん」




呼ぶ声に顔を上げれば、遠野先生が遊戯室の入り口にいた。
それから時計を見れば、短い針が5と6の間。
いつも通り、迎えが来る時間だ。


龍麻は開いていた本を閉じて、立ち上がった。
その理由を判っているのは傍らにいたマリィで、龍麻の靴下をぎゅっと摘む。

立ち上がった龍麻が下を向けば、ぷくうと頬を膨らませたマリィがじっと見上げている。




「だぁめー」




帰っちゃ駄目、帰っちゃ寂しい。
真っ直ぐに見上げるマリィの大きな目が、一心にそう告げている。

そう言ってくれるマリィの気持ちは嬉しいけれど、帰らないと言ったら迎えに来てくれた母を困らせる。
龍麻はマリィの頭を撫でて、さっきまで自分が読んでいた本を拾って、マリィに差し出す。
マリィはやっぱり頬を膨らませたまま、龍麻の代わりに、絵本を受け取った。


ぎゅうと抱き締めたマリィに笑いかけて、龍麻はロッカーに入れていた自分の鞄を引っ張り出す。
母手作りの苺のワッペンが縫い付けられた鞄を背負って、龍麻は遠野先生の待つ部屋の出入り口へ向かう。




「お迎え来たよー、緋勇君」
「ぁい」




手を上げて返事をする龍麻に、遠野先生はいい子いい子、と龍麻の頭を撫でる。


遠野先生に背中を押されながら、龍麻は園舎の玄関へ向かう。

それと擦れ違うように、雨紋と亮一が追いかけっこをしていた。
二人とも逃げているようで、追いかけているのはまた別の子供らしい。
それは多分、と思っていたら予想通り、




「まてコラ! にがさねェぞ!」
「ほら亮一、はやくしろって!」
「まってよ〜」




ドタバタと賑やかな足音を立てて、雨紋と亮一を追い駆けて来たのは、京一だった。


三人は突き当りまで走りきった後、Uターンして今度は龍麻を追い越した。
玄関口まで走りきると、またUターンで、龍麻の方へと向かって来る。

のんびりと歩く龍麻と遠野先生の下まで来ると、三人は二人の周りをぐるぐると走り回りだしてしまった。




「あ、あ、」
「こら、アンタ達ーッ!」




前に行くに行けなくて、オロオロする龍麻を庇いながら、遠野先生が三人を叱り付ける。




「やべッ、にげろー!」
「らいと、まってー!」




怒鳴られて一目散に逃げたのは、雨紋だった。
それを慌てて追い駆けて行ったのは亮一だけ。

ぽつん、と京一だけが龍麻の前に足を止めていた。




「きょーいち」




龍麻は、京一が一等好きだ。
保育園で一緒に過ごす子たちは皆好きだけれど、京一が一番好きだった。

そんな京一と帰る前に会えたので、嬉しくて名前を呼んだ。


─────けれども、京一の表情はなんだか酷く不機嫌そうで。




「……かえんのか」
「うん。またね」




ひらひらと手を振ってバイバイの挨拶をすると、京一はぷいっとそっぽを向いてしまう。
そんな京一の頭を遠野先生が小突いたが、京一はそのまま歩き出した。


京一があまり返事をしてくれないのは、最初の頃からだ。
いや、会ったばかりの時の方がもう少し反応してくれていたかも知れない。
でも返って来るのは怒った声や不機嫌な顔ばかりで、小蒔や雪乃とはそれが原因でいつもケンカになっていた。

京一が返事をしないと言うのは、必ずしも、相手を嫌っているからではない。
ただ単純に面倒だから、と言う所だろう。



でも、何故だろうか。
龍麻がバイバイの挨拶をした時だけ、前と同じ位に、機嫌が悪くなるのだ。



龍麻は、歩き出した京一の背中を目で追いかけた。
その足取りはしっかりとしているのに、見える姿が酷く寂しそうに見えるのは、なんとなくだが────確かだった。

けれども廊下の角から雨紋が顔を出すと、




「おい、きょういち! はやくこいよ、ずーっとおまえがオニだぜ!」
「るせェ、バーカ! いますぐ、とっつかまえてやる!」




雨紋の無邪気な声に、直ぐに京一もまた走り出す。
バタバタと賑やかな足音に、遠野先生が静かにしなさいと怒る声が上がった。
勿論、二人が聞く訳もなく、人気の少なくなった園舎に、また賑やかな声が響く。

怒っても聞かない子供達の姿に、遠野先生は腰に手を当てて、怒った顔をしてみせる。




「全くもう! ……元気よねぇ、あの二人。ねー?」
「ねぇー」




怒った顔をしていたのに、ね、と言う遠野先生は笑っている。
龍麻が言葉を真似してみれば、遠野先生はクスクスと楽しそうな顔をしていた。



改めて玄関へと向かうと、其処にはいつもと同じように、母が柔らかな笑みを浮かべて待っていた。
嬉しくて駆け出して行くと、母はしゃがんで両手を広げて迎えてくれた。




「おかあさん!」
「はい、ひーちゃん。お帰りなさい」




抱き締める腕の温かさで、心の奥までぽかぽかとしてくるような気がする。
いや、気がするのではなくて、本当にそうなのだ。

落ち着いた色合いのケープに顔を埋めると、きっと今日の夕飯なのだろう、美味しそうな匂いがする。
多分また父の手伝いをしていたのだろう、漆器作りの工房の匂いもほんの少し香る。
でも何よりも龍麻が安心するのは、母自身の温もりによく似た、お日様の匂いだった。


よく仕事をする皺のある手が、頭を撫でてくれる。
嬉しくて、龍麻は母の肩に頬を摺り寄せた。



ぎゅっと強く抱き締めてもらった後で、龍麻は見守ってくれている遠野先生へ振り返る。




「おせわになりました!」
「うん。またね、緋勇君」




ひらひらと手を振る龍麻に、遠野先生も同じように手を振り返してくれる。
母もぺこりと頭を下げてくれるのが、毎日のバイバイの挨拶だった。


靴を履いて、鞄を少し背負い直して、母に手を伸ばす。
何も言わなくても母は判ってくれて、手を繋いでくれた。

そうしていつものように玄関を潜ろうとして─────ふと、後ろを振り返る。



いつものように見送ってくれる遠野先生。
その向こうで追いかけっこをしている雨紋と亮一と、京一。

その京一の足が止まって、龍麻を見て────目が合う。




……帰るのか、と。
そう言った時、あの子はどんな顔をしていただろう。

不機嫌そうに見えたけど、それはきっと怒っているからではなく。
前にもよく見られたその顔は、どんな時、どんな風にして浮かんだ表情だったのか。
思い返して直ぐに気付くのは、あれは何かを我慢している時に見せる顔だと言う事で。


マリィだったら手を伸ばして、帰っちゃ駄目、と言ってくれる。
葵だったら手を振って、また明日ね、と言ってくれる。
壬生だったら、手も振らないし何も言わないけれど、少しだけ笑ってみせてくれる。

京一は手も振らないし、何も言わないし、笑うこともしない。
怒ることもしなくて、ただ見ているだけ。



そう言えば、龍麻はいつもこの時間に帰るけれど、京一はいつになったら帰っているのだろう。
真神保育園に集まる子供達の帰る時間は、勿論それぞれバラバラで、固定している子供の方が少ない。
龍麻より早く帰る事が多い子も、時には龍麻より遅い日もあるし、逆もあった。

そんな中で、京一だけがいつも龍麻より遅くはないだろうか。

龍麻は一度も京一を見送ったことがないし、龍麻より早く京一が玄関を出て行くのを見た事はない。
龍麻が京一にまたねを言って、先に保育園を出て行くのがいつもの光景だった。


京一はいつ帰っているのだろう。
いつになったら、迎えの人が来るのだろう。





足を止めた京一の表情に、色はない。
無表情でじっと龍麻を見詰めていて、その内に、ふいとまた視線を逸らしてしまった。

それを見詰める龍麻の足が動かないから、母が不思議そうに顔を覗き込んできた。




「どうしたの、ひーちゃん」
「……あ」




心配そうな母に気付いて、龍麻も我に返る。


龍麻は、母と京一が入っていった遊戯室とを繰り返し交互に見る。

もう帰らなければいけないのだけれど、あの気難しい男の子が気になって仕方がない。
放って置いたら、以前のような寂しい気配ばかりをまとうようになるような気がして。




「おかあさん、ぼく、もうちょっといたい」
「あらあら。どうしたの?」




珍しい龍麻のお願いに、母は驚いた表情で問い掛ける。

龍麻は母と繋いでいた手を離し、靴を脱いで下駄箱に戻す。
そこに鞄も半ば無理やりに押し込んだ。




「もうちょっとだけ。いい?」
「構わないけど……どうしたの? 忘れ物?」
「ううん。でも、きょういち、しんぱいだから」




一番大好きな友達だから、もうあんな悲しい顔をして欲しくない。


最近になってやっと照れ臭そうに笑ってくれることが増えて、あの困った笑顔も見なくなった。
怒る事もあるけれど、前のように周りを怒らせて自分から遠ざける事はない。
取っ組み合いのケンカだってするけれど、ちゃんと謝って仲直りが出来る。

でも京一はまだ他の子供達との距離を計り兼ねているようで、時々、皆の輪から外れている。
葵や雨紋が遊びに誘っても、其処にいるのが沢山の子供達だと気付いた時、二の足を踏んでしまっている。



少しずつ、少しずつ。
子供達の間で、蟠りは解けつつある。

けれどもあの子自身は、まだその意味に気付けていない。




いつでも、一人ぼっちに戻れる覚悟を、ずっとしたまま。





遊戯室のドアを開けると、一番にぐずり出したマリィと、それを宥める高見沢先生を見つけた。
カーペットの隅では遊び疲れて座り込んだ亮一と、そんな亮一の為に本棚から絵本を持ってきた雨紋。
壬生と如月は、三人分並んだ椅子の真ん中を本置き場にして、それぞれ好きに本を読んでいる。

龍麻と特に仲の良い葵、小蒔、醍醐は今日は先に帰っている。
雛乃と雪乃の姉妹もおじいちゃんが迎えに来て、姉妹仲良く手を繋いで帰って行った。


京一は─────遊戯室の壁に寄り掛かって、いつも見ている動物図鑑を開いている。
その傍らに、マリィがメフィストを抱き締めて丸くなっている。




「きょーいち」




呼ぶと、京一が顔を上げた。
マリィも目を開ける。




「たつま」
「たぅあ!」




目を丸くした京一と、ぱっと嬉しそうな顔になったマリィ。
龍麻が駆け寄れば、マリィは両手を伸ばして抱っこをねだった。


龍麻が京一の隣に座ると、マリィが一所懸命に這って来た。
それを抱いて膝上に下ろしてあげると、マリィはにこにこと上機嫌だ。

京一は眉と眉の間にくっきりとした谷が出来ていて、龍麻が遊戯室に戻ってきたのが不思議でならないらしい。




「おめェ、何してんだ」
「うん」
「うんじゃねェよ」
「うん」




京一が心配だったから、まだもうちょっと帰らない。
なんて言ったら怒り出しそうだったから、龍麻は笑って誤魔化した。



遊戯室に遠野先生と母が入ってきて、ドア横にあるお客さん用の椅子に座る。
遠野先生は少し困った顔をしていたけれど、母は微笑んでいた。

少し悪いことをしているような気はしたけれど、後で怒られるのは仕方がないと思う。
夕飯が遅れる訳だから、父はちょっと待ち惚けさせてしまう事になるし、龍麻もお腹が減る。
だから、ほんのちょっとの間だけ。


龍麻はそのつもりでいたのだけれど、戻ってきた龍麻を見た京一は、そうは思わなかったらしい。




「かえれよ。かあちゃん、まってんじゃねェか」
「だいじょうぶ」
「…じゃねえよ」




呆れた顔で溜め息を吐く京一に、龍麻は少し口の先を尖らせる。




「もうちょっとだけ、へいきなの」
「………」
「うー、うー」
「ね、マリィ」




京一にばかり話しかけるのが不満だったのだろう。
ぐいぐいと服を引っ張るマリィに笑いかけると、マリィはきゃっきゃと嬉しそうに笑った。

しばらく険しい顔をしていた京一だが、龍麻が其処から動かないのと、母が笑顔で待っているのを見て、それ以上言うのを止めた。
言っても聞かないのなら、言うだけ無駄だと踏んだようだ。
手に持っていた図鑑にまた視線を落とす。


龍麻の膝上に乗ったマリィが、床に置いてある本に手を伸ばす。
それは、先程まで龍麻が読んでいた絵本だった。

龍麻が本を取って開くと、マリィは龍麻に抱きついたまま、首だけを巡らせて本を覗き込む。
マリィはまだ字が読めないが、龍麻が声に出して本を読むと、夢中になって絵本の世界に入り込んだ。



京一は隣から聞こえる声に時折目を向けていたけれど、その内、それもしなくなった。





あと少し、もう少し。
この子が不安にならないように。

この子を迎えに来てくれる人が現れるまで、もう少しだけ。




























龍麻と、京一と、如月と。
今日は壬生は泊まりになっているらしいから、残った子供達の中で帰るのは、後はこの三人だけだった。

如月が帰ったのは時計の短い針が6を過ぎた頃。
迎えに来たのは着物を着た女の人で、とても綺麗な人だった。
雰囲気が如月によく似ていて、仕草も丁寧で、ちょっと厳しそうな印象の女の人だった。


如月も帰ってしまって、後に残ったのは泊まりの子供達の他には、龍麻と京一だけ。
龍麻は母が迎えに来ているから、帰ろうと思えばいつでも帰れる。

迎えが来ていないのは、京一だけになってしまった。



窓から覗く外の世界は、夕焼け空も段々と見えなくなってきている。
周囲の家々からは灯りが零れ始め、暗くなる世界を照らし出していた。

もうすぐ空は真っ暗になってしまうだろう。
中々陽が沈まない季節ではあるけれど、沈み始めると早いのは季節関係なく同じ事だ。


こんな時間になっても、京一のお迎えはまだ来ない。


ひょっとして何かあったのかな、と龍麻は顔も知らない京一の親を心配していた。
京一の方は気にした様子はなくて、図鑑を読むのに飽きたのか、お絵かき帳を取り出して、床に寝転がって絵を描いている。
偶に時計を気にするように顔を上げるけれど、確認すると直ぐに意識を絵に戻してしまった。

マリィ同様に、遊び疲れた亮一も、雨紋の横でカーペットの上に寝転んで眠っている。
雨紋はまだまだ遊びたそうにしていたが、幼馴染が眠ってしまったので、賑やかにしようとは思っていないらしい。
亮一と一緒に読んでいた本を本棚に戻して、子供向けのマンガ雑誌を持ってきてまた広げている。
壬生はマリア先生のお手伝いをすると言って、マリア先生と一緒に遊戯室を出て行った。




京一がこんな時間まで残っているのは、いつもの事なのだろう。

誰も京一がいる事を特別気にしていない、京一自身もそうだ。





龍麻の膝上に乗ったマリィが、何度も身動ぎして、膝の上から落ちそうになる。
出来ればマリィが落ち着けるような姿勢を取らせてあげたいけれど、その度、今度は龍麻が辛い姿勢になる。
難しいなぁ、と思いながら、龍麻はああでもないこうでもないと、何度も姿勢を変えて模索していた。

その様子を見た遠野先生が、小さく苦笑して、歩み寄って来た。




「緋勇君、マリィちゃん預かるわ」
「……はい」




龍麻のシャツを掴むマリィの姿は、離れてしまうことに少しばかり寂しさを感じさせた。
けれど、今のまま何度も何度も姿勢を変えていたら、いつかはマリィが起きてしまうだろう。


遠野先生がマリィを抱き上げる。
離れる直前、遠ざかる気配を夢ながらに感じたのか、マリィがいやいやと小さく首を横に振った。
そのまま泣き出しそうなマリィに、遠野先生は慌てず、よしよしとあやしてやった。

遠野先生に抱かれるマリィに、龍麻が手を伸ばし、金色の髪を撫でてやる。
それからマリィの小さな手に自分の手を寄せれば、きゅっと小さな手が龍麻の指を握った。



可愛いな。

一心に慕ってくれるマリィに、龍麻はいつも思う。




「マリィちゃん、ホントに緋勇君のこと好きなのねー」
「ぼくもマリィ、すきです」
「うんうん」





仲の良い保育園の子供達に、遠野先生は嬉しそうに頷いた。
眼鏡の奥の目が意地悪っぽくきらりと光って、




「京一ももうちょっとねェ。緋勇君みたいな事言えたら可愛いのに」
「べつにおまえにかわいいとか思われてもうれしかねェよ」
「そういうのが可愛くないって言ってんのッ」




ぴしッ、と遠野先生の指が京一の額をデコピンする。
京一が少し赤くなった額を押えて顔をあげ、ムスッとした顔で遠野先生を睨む。
遠野先生はそれを気にした様子はなく、寝息を立て始めたマリィを抱え直している。

京一と遠野先生のこんな遣り取りは、いつもの事だ。
遠野先生だけではなく、マリア先生も京一に対しては似たようなスキンシップを取っていた。


遠野先生がマリィの為の毛布を取りに言っている間に、京一はまたお絵かき帳にクレヨンを乗せている。
龍麻もその隣に横になって、頬杖で京一の絵を覗き込む。

京一のお絵かき帳を埋めているのは、殆どパンダの絵だ。
時々他の動物も描いているけれど、一番数が多いのは、やっぱりパンダだった。
描いているのがお絵かき帳じゃなくて地面でも、これは変わらない。




「きょういち、ぼくもおえかきしたい」
「………ん」




龍麻の言葉に、京一は端的に答えて、クレヨンケースを寄せて来る。
折り畳んでいたお絵かき帳も見開きにして、こっちを使って良いと無言の許可。


京一のクレヨンケースの中は、色の順番はバラバラになっている。
減っているのは京一が今使っている黒が一番で、それから白、赤、黄色、橙色。
緑や空色は少し減っていて、後はあまり使っていなかった。

黒が一番減っているのは、京一がいつもパンダを描いているからだ。
他の色よりもダントツの減り方で、もう半分以下の長さになっている。



龍麻は赤のクレヨンを取って、三角形を描く。
三角の中を綺麗に塗ってから、緑色で三角形の一片にトゲトゲを描いた。
緑色も綺麗に塗りきると、次の色を手に取ろうとして、それがケースの中にない事に気付く。

次に必要な色は、黒。
でも黒は、まだ京一が使っている。


龍麻は少し考えた後で、橙色を手にとって、三角の横に橙色の丸を描いた。
次は茶色で丸の橙色の上半分と、下の外側を塗って、赤色で丸の中にお椀を描く。

白だと描いた色が見えないから、代わりに赤色を使って線を描いていく。




「…………」




隣で身動ぎする気配があって、龍麻は隣の友達を見る。
京一は顔を上げて、遊戯室の壁にかけられている時計を見詰めていた。

時計の短い針は6を過ぎて、長い針は3を過ぎている。


─────迎えは、まだ来ない。




「おそいね」
「……べつに」




ぽつりと呟いた龍麻に、京一は素っ気無い言葉。
けれども隣を見れば、お絵かき帳を見る目が、なんだか頼りなさそうで。




「……おむかえ、こないのかな」




まだ来ないのかな、と。
龍麻は、そう呟いたつもりだった。

けれども、僅かに言葉が足りなくて。




「─────きょういち?」




黒いクレヨンを握った京一の手が、小さく震えていた。
どうしたんだろう、と龍麻が京一の横顔を見れば、何かを耐えるように口を一文字に噤む京一の顔があった。
その顔は、なんだか泣き出しそうに見えて、けれどそれを堪えていて、だから余計に見ていて苦しくなる気がした。


何か、悪いことを言っただろうか。

龍麻は、自分の先の言葉に足りないものがある事に気付けなかった。
それでもきっと自分の所為だという事はぼんやりとだが理解できて、どうしよう、と眉の端が下がる。




「……きょーいち」




泣き出しそうな顔を見ているのが辛くて、龍麻は手を伸ばした。
茶色の髪を撫でると、大きな瞳が此方を見た。

京一はしばらく、じっと龍麻を見詰めた後で、お絵かき帳に視線を戻し、




「……もうおまえもかえれよ」




その言葉が、龍麻には酷く冷たい、さよならの言葉に聞こえた。
どうしよう、怒らせた────そんな思考に囚われて、今度は龍麻が泣きそうになる。

京一の頭を撫でていた手を下ろして俯いていると、また京一が顔を上げた。
少し驚いたように目を丸く見開いた後で、京一が困ったように眉毛を下げて小さく笑う。
それから、今度は京一の方が手を伸ばして、龍麻の頭を撫でた。




「かあちゃん、まってんじゃねェか。かえったらメシなんだろ」
「……うん」
「はらへってんなら、もうかえれ」




マリア先生や遠野先生や葵のような、決して柔らかい言葉ではない。
けれど、困ったように笑った顔で言う京一の声は、とても優しい音を紡いでいた。


京一が言うように、確かに、お腹は空いていた。
いつもなら既に家に帰っていて、夕飯も食べ終えて、父と一緒にテレビを見ている頃だ。
それが大幅にずれ込んでしまっているのだから、食べ盛りの龍麻は勿論、ずっと待っている母も、家で待ち惚けになっているだろう父も、当然空腹なのは想像に難くはない。

龍麻の方が京一を心配して帰るのを遅くさせて貰っているのに、龍麻が京一に心配されてしまった。
これでは意味がない。



同時に────やっぱりこの子は凄く優しい、と思う。



龍麻の目に、じわりと水が浮かんで来た。
京一がまた驚いた顔になって、頭を撫でていた手を引っ込める。

龍麻は、引っ込んだ手を掴まえて握った。




「きょういち、ひとりぼっちになっちゃうよ」
「なんねェよ。マリアちゃんいるし、とおのセンセいるし」
「いるけど、ひとりぼっちになっちゃうよ」




マリィと亮一は眠ってしまったし、雨紋もマンガ雑誌を下敷きにして床で寝てしまった。
壬生はまだ職員室から帰って来ない。
遠野先生は遊戯室にいるけれど、ずっと京一に構っていられる訳ではない。

龍麻が帰ってしまったら、京一はまだ来ない迎えの人を一人でずっと待たなければならない。
自分だったら寂しくて耐えられないから、龍麻は京一を放って置けなかった。


けれど、京一は困った顔で笑うだけ。




「べつに、おそかねェよ。いつもだし」




いつも────いつも、こんなに遅いのか。
いつも一人でずっと待っているのか。




「なれてるよ」




そんな言葉は嘘だ。
龍麻には判る。
だって、嘘だったらあんなにも泣きそうな顔はしない。

けれども京一は、なんでもない顔をしてクレヨンをケースに戻し、蓋をする。
お絵かき帳も閉じてしまい、立ち上がると、横になったままの龍麻の手を引っ張って強引に立たせた。




「ほら、もうかえれよ。とうちゃん、いえでまってんだろ」
「……うん」




夕方になると母が迎えに来てくれて、家に帰れば父が待っている。
それが龍麻にとっては日常。

でも、この保育園には、その日常が日常ではない子供達もいる。



立ち上がった龍麻の手を引っ張って、京一は龍麻を母の下まで連れて行く。
椅子から腰を上げた母に龍麻が抱きつくと、京一は頭の後ろで手を組んで、いつもと同じ仏頂面。

そんな京一に母が笑いかける。




「ひーちゃんと仲良くしてくれて、ありがとうね」
「……べ、つに」




母の言葉に京一は素っ気無い返事だったが、顔が赤くなっていた。
むず痒さを誤魔化すように鼻の下を掻いたりして、母が微笑ましそうに笑みを深める。




「大丈夫よ。きっともう直ぐ、お迎え来てくれるから」
「知ってる」
「そう。良かったわねえ」




母の皺のある手が、優しく京一を撫でる。

遠野先生や高見沢先生に撫でられると、頭を振って振り払うのに、今日はそれをしなかった。
京一は赤い顔のまま、何処を見ていいのか判らないようで、あちこち視線を彷徨わせている。



それでも龍麻は心配だった。

こんな時間になってもお迎えが来ない京一は、いつになったら寂しくなくなるのだろうかと。



龍麻の胸中は判り易く顔に出ていて、京一もそれに気付いた。
京一はそれ以上何かを言うことはなく、母の手が離れると、くるりと背中を向けて、積み木が置かれている部屋の一角へ。
此方に背を向けて座ってしまったから、もう龍麻にあの子の表情は見えない。

見えないから、龍麻は余計に、京一が本当はどんな顔をしたいのか、考えてしまう。
泣き出しそうな横顔が頭から離れなくて、龍麻は自分まで泣きそうになっている事に気付いた。
泣いたら母を困らせるし、優しいあの子はまた無理をして笑うだろう。
龍麻は泣きたいのを誤魔化すように、母の脚に顔を埋めてしがみついた。


しがみついてきた龍麻を、母はあらあら、と苦笑して抱き上げた。
今度は母の肩に顔を埋めていたら、ぽんぽんと優しく背中を叩いてくれる。




「ありがとうね、えぇっと……京一君」
「きょーいち、またあした」




母と龍麻のバイバイに、京一は返事をしなかった。
代わりに、右手をひらひら振っている。

それだけを肩越しに見て、龍麻はまた、母の肩に顔を埋めた。


遊戯室のドアを開けると、外側から開けようとしたのだろう、マリア先生の姿があった。




「まあまあ、マリア先生」
「お迎えご苦労様です、緋勇さん」
「いいえ。此方こそ、お世話になっております」
「ありがとうございます。あら、緋勇君、どうしたの?」




母の肩に顔を埋める龍麻に、マリア先生が心配そうに覗き込んでくる。
龍麻は泣きそうな顔を隠して、マリア先生の視線から逃げた。




「お友達とバイバイするのが、寂しかったみたいで。ねぇ、ひーちゃん」
「……ああ、京一君ね。大丈夫よ、明日になったらまた遊べるわ。ね?」




母とマリア先生の言葉に、龍麻はなんとか、小さく頷いた。

もう一度お互いにぺこりと小さく頭を下げると、母は廊下へ、マリア先生は遊戯室へと入れ違いになる。
それから、閉まりかけたドアの隙間から、マリア先生の声が聞こえて来た。




「京一君、お迎えよ」




声が聞こえて直ぐにドアが閉まってしまったから、その後の遊戯室の事は知らない。

母は龍麻を抱き上げたまま、真っ直ぐに園舎の玄関口へ歩いて行く。
龍麻はの首に抱きついていて、遠くなっていく遊戯室で、ようやく帰る準備を始めているだろう友達を思う。





良かった。
良かった。

一人ぼっちにしなくて良かった。


本当はもっと一緒にいたかったし、一緒に遊戯室を出たかった。
一緒に靴を履き替えて、一緒に玄関を出て、一緒に歩いて帰りたい。

でも良かった。
自分の方がほんのちょっと早く部屋を出る事になったけれど、あの子ももう帰れる、お迎えが来た。
もうあの子は一人ぼっちじゃない。


寂しいのを誤魔化すように、困った顔で笑わなくていい。





下駄箱の前で母の腕から下ろしてもらって、下駄箱に入れていた鞄と靴を出す。
靴を履いて、鞄を背負って、もう一度母に抱き上げて貰った。

その傍らに、壁に背中を押し付けて立っている男の人がいる。
さっきはいなかったし、マリア先生が「お迎え」と言っていたから、きっとこの人が京一のお迎えなのだろう。
龍麻の父よりずっと若くて、父と言うより、兄ではないかと言う表現の方が似合う。


母はその男の人に小さく会釈した。
男の人も口元に笑みを浮かべて、同じように頭を下げる。



園舎を出ると、外は大分暗くなっていた。
星こそまだ見えないし、空の一部は燃えているように赤く光っていたけれど、殆どが黒で塗り潰されている。

あの子は毎日、こんな時間まで、ずっと迎えを待っている。








遠ざかっていく、毎日を過ごす、龍麻のもう一つの家。
沢山の友達と一緒に過ごす、家。

遊戯室から出てきたあの子が、男の人に抱き上げられるのを見て、ほんの少しホッとした。



でも、もう少しだけ早く、迎えに来てくれたらいいのにな。
あの子が寂しい顔をしなくて済むように。










久しぶりの執筆……(汗)。

京一のお絵かき帳は殆どパンダばっかりです。ページを捲っても捲ってもパンダ。
気が向いたら他のも描きます。

龍麻のお母さんはのんびりしている人なので、息子のちょっとしたワガママもあまり怒りません。
怒っても多分「仕方ないわね」って笑顔でちょっと注意かな。龍麻自身が滅多に聞き分けない事がないし。
お父さんにはちゃんと連絡入れてあります。龍麻視点なので書かず仕舞いでしたが……