ゆめのつづきを





空気を裂く音がする。
幾つも幾つも、重なり合って、繰り返し。

京一はそれを、母の膝の上で聞いていた。



掛け声に合わせて、木の刀が上下に振れる。
一列に約十人、それが三列、適度な距離を保って道場一杯に広がり、全員で一律して素振りの稽古。

その数十名の前に一人向き合い、背筋を伸ばし、誰よりも大きな声で掛け声を放っている男がいる。
──────その男が、京一の実の父親であった。




まだ二歳になったばかりの京一には、この素振りの意味がよく判らない。
毎日のように皆がやっている意味も、何故皆がこれに打ち込んでいるのかも。

それでも何故か、本能のように、京一は毎日のようにこれを見に道場へやって来る。
今日は母に抱いて連れて来て貰ったが、そうでなくとも、自分の足で此処に来る事もあった。
そうしていつまでも飽きずに、皆の修練風景を眺めている。




「─────素振り止め!」




父の屹然とした声に、全員が一振りを最後に、木刀を下ろす。
門下生達は数秒肩で息をして整えた後、自分達を見る師を真っ直ぐに見詰め、




「ありがとうございました!!」




数十名の声が綺麗に重なる。
師はそれを見て小さく頷いた後、くるりと門下生達に背を向けた。

生徒達は休む者、素振りを続ける者、立ち稽古を始める者と別れ、自由に活動し始める。
修練の辛さを愚痴る者もいれば、こんなのは序の口だと息巻いている者もおり、実に様々であった。



師が─────父が京一の下へと近付いてくる。
京一は丸く小さな両手を伸ばし、父はそれを見て口端を上げて笑った。


疲れているだろう父に甘えたがる息子に、母が苦笑して、膝の上で抱え直す。
少し姿勢が変わった事に気付いた京一は、なんだか落ち着かなくて、膝の上でごそごそと身動ぎした。
さっきと同じ角度を見つけるまで動いて、数秒経って、ようやく落ち着く。

落ち着いたら、もう一度父に向かって手を伸ばす。
父の大きな手がぬっと出て来て、京一の頭をぐしゃぐしゃと掻き撫ぜた。




「っとにこいつは、剣が好きだな」




毎日のように飽きずに道場にやって来る息子に、父は呟いた。

京一はその言葉を気にしていない、聞いてもいない。
父の手にある木刀に興味を示して、最早それしか見えていない。




「明日にでもガキ用の防具を揃えるか」
「二歳じゃまだ無理よ」
「馬鹿言え、藤堂の所のガキは三つでスノボだかなんだか始めたって言うじゃねえか」
「あれだって私は感心しないわ。怪我をしたらどうするの」
「スポーツでも武術でも、やるんだったら、怪我なんて幾つになっても付き物だろう」




過保護だと呆れる父と、無責任だと言う母と。
子育てに置いて違うスタンスを持つ二人のこう言った会話は、珍しいものではなかった。
これで夫婦喧嘩になる事もあるが、今日は生徒達の手前か、それ以上この話題は続かなかった。

それよりも、未だ母の膝の上から手を伸ばす息子の方に目を向ける。
京一は、抱き締められている所為で膝上からは降りられないが、それでも一杯一杯に手を伸ばしていた。


父がにやりと笑って、肩に立てかけていた木刀を少し傾けてやる。
近くなった獲物に、京一の表情が俄かに明るくなった。




「あーッ」




嬉しそうな声を上げて、京一はまた手を伸ばす。
意外と強い子供の力と根気に、母は眉尻を下げて、息子を解放してやる。

ぽてっと床に落ちた京一は、直ぐにむくっと起き上がり、傾いた木刀に手を伸ばす。
もう少しで届きそうになった所で、父は傾けた木刀を真っ直ぐに戻した。
途端に遠くなった木刀に、京一は一瞬きょとんとし、にやついた父の表情を見て、眉間に顔を顰める。




「うー……ッ」
「ほれほれ」




傾けたり戻したり。
息子を揶揄って遊ぶ父親に、母は溜息を吐くしかない。




「なんだ、諦めたか?」
「うー……」




にやにやと笑う父を、息子は強気な目で睨む。
息子にどれだけ睨まれた所で、父が怯む訳もなく、寧ろ面白いものを見つけたと言わんばかりだ。

京一は、父に似て我慢が利かない性格だった。
当然、足が飛び出る。




「おう、やるかクソガキ」
「ばーか! とーちゃんのばーか!」




大きな手に顔を押さえられると、リーチの差で京一の攻撃は届かない。
それでも両腕をぐるぐると回しながら、京一は精一杯の口撃に出た。
無論、それも父に通用する訳もない。

口先ばかりで相手に勝てる訳がない事を、この小さな子供はよく知っている。
京一は自分の顔を抑える父の手に捕まると、ぎゅうううと思い切り爪を立てた。
伸び気味だった尖った爪が皮膚に食い込むと、流石にこれは堪えたようで、慌てて大きな手が離れる。


父は腕に残った爪痕を見て、短い溜息を吐く。




「お前なァ。そんなにコレ欲しいか」




其処までムキになる事じゃあないだろうと。
呟く父親を無視して、京一はまた木刀に手を伸ばしている。

母がそんな息子を抱き上げ、自分の膝上に戻した。




「駄目よ、あなたにはまだ重いから危ないわ」




届きそうだったのに引き離されて、京一はむーっと口を突き出す。




「三つになったら作ってやるよ、お前の木刀。もうちょいと軽い奴でな」
「それがいい」




作ってやるから我慢しろと言う父だが、京一は父の木刀が良いと言う。
特別なものでも何でもないのだが、それが欲しいと。

多分、父がいつも持っているからだろう。
それだけで息子にとっては特別なものになる。


しかし、だからと言って愛刀をそう簡単に譲れる訳もなく、父は苦笑した。




「馬ァ鹿。こりゃ俺んだ」
「うー…!」




貰えると思っていた訳ではないが、面と向かってそう言われると腹が立つ。
おまけに舌を出して小馬鹿にした表情で言うから、尚更。




「ばーかばーか。とーちゃんのばーか」
「馬鹿って言った方が馬鹿だ」
「とーちゃん、さきにいった!」




だから父ちゃんが馬鹿だ、と。
言い返す息子に、その前にお前が言っただろうと京一の頬を摘んで引っ張る。
子供の丸い頬は、実によく伸びた。



二歳の息子相手に意地を張り合う夫に、妻は呆れて溜息を吐くしかない。
門下生たちのいる前でまで、こう言った遣り取りは、威厳も何もあったものではなかった。


とは言え、そうした事を気にしているのは、母のみだ。

京一が毎日のように道場に顔を出すものだから、最早生徒にとっては慣れ親しんだ光景だ。
寧ろ、ああ今日も此処の親子はいつも通りだ、良かったなと、見守る姿勢の者も少なくない。
中には京一に飴やら菓子やらを渡して、餌付けする生徒もいる程である。



父の手が息子の頬を引っ張り、その大きな手の甲を息子の小さな手が抓っている。
どちらもそこそこ痛いのだろうに、意地を張り合って「絶対に先に放さない」と燃えているのが傍目にも判る。

親子はよく似ているので、こうなると簡単に決着はつかない。
切欠がない限り。




「──────京ちゃん」




その切欠を作るのは、大抵、一人の青年だった。


京一と父が顔を上げると、褪せた金色の髪をした青年が此方を見下ろしていた。
こんな髪色をしているが、外国人でもハーフでもないと言う。
事実、名前は八剣右近と言う、極めて日本人特有の名前をしており、セカンドネームもない。

大学一年生の八剣は、小学生の頃に剣を始め、高校入学を期に上京し、その時住んでいたアパートの最寄にあったこの道場へと通うようになった。
高校三年生の時は受験への危機感から暫く控えていたのだが、最近はその心配も終わったので、休んだ反動なのか、ほぼ毎日出ずっぱりで通い詰めている。




「よう、八剣」
「どうも」




今日一日でまともに顔を合わせたのは初めてだ。
挨拶をする師に、八剣は軽く会釈をしてから、その場に腰を下ろした。

にこにこと笑みを浮かべて京一を見詰める八剣。
京一はしばらくそれを受け止めた後で、ぷいっとそっぽを向いてしまった。




「どうも嫌われてるねェ、俺は」
「すみません…」
「いやいや。奥さんは悪くありませんよ」




眉尻を下げる母に、八剣は首を横に振って笑む。



生意気盛りで反抗期の一期目にいる京一だが、そうでなくとも、京一は人見知りが強かった。
八剣以外にもこうして京一に構いたがる門下生はいるのだが、京一は中々懐かない。
差し出された飴がお菓子は受け取るが、それも直ぐには食べないで、ポケットにしまっている事が多い。

警戒心が強いのだ、この幼子は。
京一が掛け値なしに懐いて信頼している人間と言ったら、家族以外にいない。
そう言った年頃でもあるので、仕方がないとも言える。


それでも八剣は、この幼子の事が気に入っていた。




「師範の木刀は、京ちゃんにはまだ重いでしょうね」
「ああ。小刀のものならともかく、こいつは俺用の特注品だ。持った途端に引っくり返るのがオチだな」
「ほら見なさい。危ないでしょ」




父と門下生の会話に、母が言い聞かせるように息子に告げる。
しかし京一はムスッとした顔をするばかりで、一向に聞き分ける様子がない。

何がどうだから駄目だと言われても、幼い京一にはよく判らない。
理路整然と並べ立てられた所で、だって欲しいものは欲しい、としか思わなかった。
幾ら母に咎められても。


京一は母の腕から強引に脱出を試みる。
抱えられているとは言え、父のように強い力ではないし、抜け出すことは可能な筈だ。


母の肩に手をかけて、昇る。
直ぐに母の手が背中を掴まえたが、構わずに上り続けた。
肩を上り切ったところで、今度は降りようとして────残念な事に、一端抱えられて、元の位置に戻される。

それで諦める京一ではない、上が駄目なら今度は下だ。
頭を下げて母の脇を潜ろうとする。




「そういやな、八剣。お前がこの間持ってきた茶菓子、美味かったぞ」
「そうそう。あんな高いものを……良かったの?」
「気にしないで下さい。大学の友人があの店の息子なので、形が歪んだとかで店に出せない物を分けて貰っただけですよ。で、折角なので此方にもと」




世間話に花を咲かせる母は、それでも息子の行動には逐一注意を払っている。
落ち着きのない京一であるから、うっかり目を放したら、何をするか。

抜け出そうとしては連れ戻され、逃げたと思ったら抱え上げられる。
それを何度か繰り返している内に、京一の忍耐力と根気は尽きたらしい。
先に父と喧嘩をしていた事も相俟ってか、疲れたように母に寄り掛かった。


ようやく大人しくなった京一を改めて抱え直して、母は胸ポケットから小さなキーホルダーを取り出す。
京一の一等お気に入りのパンダのキーホルダーだ。

目の前に降りて来たパンダに、京一はすぐに手を伸ばす。
今度の欲しいものは直ぐに手の中に納まって、京一は満足そうにそれで手遊びを始めた。



大人しくなって遊びだした京一を、父と八剣の視線が追う。
京一はそれに気付かず、パンダを掲げたり、手の中に隠して覗いたり。

これで今日の夕飯まで機嫌を損ねている、と言う事はないだろう。


無邪気な幼子の姿に小さく笑みを浮かべて、八剣は手を伸ばす。
今なら大丈夫だろうと思ったからだ。

──────が。




「………………」
「うーん、難しいねェ」





柔らかい頬に指先が触れたと思ったら、かぷり。
京一の尖った牙が八剣の手を噛んだ。

本物の犬のように本気で噛み付いている訳ではないので、慌てる程の痛みはない。
しかし、簡単に手を引っ込められない程度には、顎に力が入っている。




「こら、京一!」
「てッ」




ぱしっと母の手が京一の頭を叩く。
ようやく指が解放されて、八剣は首にかけていたタオルで手を拭いた。



京一の人見知りの激しさと警戒心の強さは、そのまま行動にも現れる。
知らない人間には先ず近付かないし、相手が門下生だと言っても簡単には触らせない。
触ろうとすれば噛み付いたり、皮膚を抓ったり、抱き上げようとすれば蹴飛ばしてでも逃げ出したりする。

それでも特別に機嫌の良い時は、頭を撫でる位は良しとしてくれるのだ。
許可していると言うより、単に気付かない程に何かに夢中になっていると言う風だが。


門下生の中で、八剣は最も京一に構いつけていると言って良いだろう。
茶菓子の件もその一環で、やはり子供を捉まえるには胃袋から、と言った発案だった。
茶菓子は父母には好評で、京一の姉からも美味しかったと喜ばれたし、ついでに弟もよく食べていたと教えて貰った。

この他にも、逢う度に飴を渡したり、京一が好きそうな本を見せたりと、京一の父曰く「涙ぐましい努力」は続いている。
しかし現在は、残念ながら一向に実る気配はなく、京一は相変わらず八剣に触られると噛み付いていた。

とは言え、これでも幼子の態度は軟化した方だろう。
赤ん坊の頃など、触れようとする気配を察知するだけで泣き出して、母か父に助け出されるまでは泣き止まなかった。
今も気を許してくれている訳ではないけれど、飴を受け取ってもらえるようになっただけ、かなりの進歩なのだ。



母に叱られた京一は、口を尖らせはしたものの、直ぐにまたパンダで遊び出した。




「ったく、妙な噛みつき癖つけやがって」




手が出ないと思ったら口か、と呟く父だが、京一は聞こえていない。
八剣も然程気にしてはいなかった。




「甘噛みみたいなものですから、平気ですよ」
「お前のその態度が一番甘いぞ」




噛まれた手をひらひらと振って問題がない事をアピールする八剣に、父は呆れたように溜息を吐く。




「こういうのは、甘やかすと付け上がるんだ。躾てやらにゃ舐められるぞ」
「?」




ぐいぐいと京一の頭を揺らす父に、息子はきょとんとして父を見上げる。
それから急な父の行動の意味を判じかねて、むーっと頬を膨らませた。

その一連の仕草すら、八剣にとっては愛らしい。


上機嫌に息子を宥める門下生に、師範はまた溜息一つ。
この青年には何を言っても無駄であると、師もよく理解しているのだ。



父を見上げていた京一の視線が、父の顔から少し逸れる。
肩に立て掛けていた木刀を、まん丸な瞳がじっと捉えた。

ことり、京一の手からパンダのキーホルダーが滑り落ちて、床に転がった。
直ぐに八剣が拾って差し出したが、京一はもうそれには見向きもせず、数分前と同じように父の木刀に手を伸ばす。
目に留まるとやはり諦められないようで、京一は母に止められるのも聞かずに、いつまでも手を伸ばしていた。




「京一、駄目よ」
「……やれやれ、しゃあねェなァ」




全身で木刀を欲しがる京一は、母の腕ではもう抱え切れない。
最早木刀しか見えていない息子に、父は苦笑する。




「母ちゃん、放してやれ」
「…もう」




夫の言葉に、妻もまた溜息を吐いて、京一を床に下ろしてやる。
京一は直ぐに立ち上がって、父の肩に立て掛けられた木刀を掴んだ。


仕方ないと言いながら、父もそんな息子の姿が嬉しいのだ。
自分の人生のほぼ全てを占める剣術に、息子が興味を示しているのだから、喜ばない訳がない。

道場には木刀以外にも竹刀が置いてあり、これなら京一でも子供用であれば持つ事が出来る。
これで素振りの真似事をしたり、父がしているように肩に立て掛けて座ったり。
竹刀での打ち合いで響く竹が撓る音を怖がる様子もなく、寧ろ夢中になって見学している程だ。

そののめり込み振りに、こいつは絶対強くなる─────と、父が親バカな事を考えるようになるまで、時間はかからなかった。




「ほれ、ちゃんと立て」
「ん」
「両手で持てよ」




小さな手では、まだ木刀の柄をしっかりと掴む事も出来ない。
それでも京一は嬉しそうに、父の言う通りに姿勢を正して、示された場所を握って、構えを取る。
勿論、父の補助付きでだ。


父の特注で作られたこの木刀は、普通の木刀よりも少しばかり長さがある。
大人用である事を差し引いても、大刀向けに作ってある為、一般の木刀よりも長くなっている。
まだ二歳になったばかりの京一が持てる重さではない。

周囲の予想は当然的を射ており、京一は父の補助がなければ、木刀を正眼に構える事も出来ない。
小さな手には太過ぎる柄は、木を抜けば床に落ちてしまいそうだった。


それでも、初めてちゃんと持たせてもらえたからだろう。
京一の表情は興奮からか紅潮して、口元が嬉しさを隠せずにいる。




「いいか、離すぞ」




正眼に構えさせた状態で、父が言った。
京一がこくんと頷く。



父の手が離れると、一気に重さが京一の細い腕にかかってくる。
長い獲物を支えられる筈もなく、木刀の切っ先が床に落ちて、硬い音を立てた。




「う〜ッ……!」




構えを保てなかったのが悔しいのだろう、京一が唸る。
歯を食いしばって持ち上げようと腕に力を込めるが、切っ先は一向に床から浮かない。

うんうん唸って木刀を構えようとする京一に、八剣は眉尻を下げて、




「ほら、京ちゃん────」
「やッ!」
「……おやおや」




手助けしようとした八剣を、京一は高い声で拒否した。
ぶんぶんと首を横に振る京一に、八剣も手を引っ込める。

京一がいつも眺めている門下生達は、皆一人で自分の木刀を構えられる。
なのに自分だけが出来ないと言うのは、京一にとってとても悔しい事だった。
彼が今持っているのは大人用で、尚且つ父専用に特注されたもので────と出来ない理由はちゃんとあるのだが、幼い京一には其処まで考える余地はない。


京一は木刀を握り直すと、気合一発、せぇのと呟いて思いっきり腕を振り上げた。

切っ先が浮いて、京一の腕の高さに合わせて木刀が持ち上がる。
おお、と父が思わず感嘆の声を漏らした。




「わ、」




勢い良く振り上げられた木刀は、手首の振りの力でそのまま上段まで持ち上がる。
それで良い所で留められれば良かったのだが、持ち上げる事しか考えなかった京一に、其処までの事は出来ない。

振り上げる力の勢いと、木刀の遠心力で、木刀は京一の頭上まで切っ先を上げた。
勢いに飲まれた京一の体はそのまま引っくり返り、それでも木刀は離さない。
しかし木刀が矛先を傾けて、幼子へと落ちようとして─────大きな手に掴まれる。


尻餅をついた京一に、父は息子の頭をぐしゃぐしゃと撫で、




「よしよし、離さなかったな。大したモンだ」
「……もう、冷や冷やしたわ」




満足そうな父に対して、母はほっと胸を撫で下ろす。
息子が引っくり返った瞬間、彼女は死ぬほど肝が冷えた事だろう。


京一の手は、未だに木刀の柄を握ったまま。
父も取り戻そうとはせず、息子の好きにさせていた。




「大したガキだ」




もう一度ぐしゃぐしゃと頭を撫でられて、京一は猫のように目を細める。
いつもなら嫌がるような事なのに、ずっと持ちたかった木刀が手の中にある所為か、振り払おうとはしない。


父の両手が京一の両脇に差し入れられて、小さな体が持ち上げられる。
胡坐を掻いた父の膝上に乗せられると、京一はきょとんとした表情で父の顔を見上げた。

京一が父の膝上で大人しくしている事は滅多になく、嫌がって暴れ出す事が多い。
けれども時折、父の機嫌と息子の機嫌が同じ値で良い時は、そのまま大人しく甘えていた。
今回も木刀を取り上げられる様子はないし、持たせて貰えたしで、京一の機嫌はすっかり上がっていて、父も父で息子の成長が嬉しかった。






「流石、俺の息子だな」






にーっと笑って見下ろしてくる父に、京一の頬が少し赤くなる。



褒められているのが嬉しくて照れ臭くて、京一は口を尖らせながら俯いた。





























ふわり。
ほわり。

目が覚めた。




柔らかい布団にうつ伏せになっている。
埋めていた顔を持ち上げて、京一はきょろきょろと辺りを見回した。

隣に龍麻がいて、丸くなって寝ている。
その向こうには葵と小蒔が向き合って寝ていて、他にも醍醐、如月、壬生、雨紋、亮一、雛乃と雪乃が、それぞれの布団に包まっている。
いつも龍麻にくっついているマリィは、他の子供達に潰されないように幼児用のベッドの上で眠っていた。


寝る前にお昼ご飯を食べたから、今は昼寝の時間なのだ。



起き上がって目を擦る。
頭の中はすこしぼんやりとしていて、寝転がっていたらもう一度眠れそうだった。
けれども、なんとなくそうする気にはなれなくて、布団の上で胡坐に座って頭を掻く。

そんな京一の頭をくしゃりと撫でる手があった。




「どーしたの、京一」




京一が顔を上げると、アン子先生が傍にしゃがんで此方を見ていた。




「……おきた」
「うん、みたいね。でもまだお昼寝の時間よ」
「……しってる」




まだ誰も起きていないし、アン子先生も起こそうとしていないし。
だったらまだ寝ていなきゃいけないんだろう、とは思う。

京一は猫が顔を洗うように、手や腕で顔をぐしぐしと拭いた。




「眠くない?」
「……ねむい」
「じゃあねんねしよっか」
「………やだ」




正反対の反応をした京一に、アン子先生は眉毛をハの字にする。
いつもの天邪鬼が顔を出したと思ったのだろう。




「皆もねんねしてるんだから、京一もねんねしなきゃ」
「………やだ」
「もう、しょうがないなァ」




ぶんぶんと首を横に振って寝たくないと言う京一に、アン子先生は溜息一つ吐いてから、小さな体を抱き上げた。

アン子先生は京一を布団から離すと、さっきまで自分が座っていた椅子に腰を下ろす。
揃えた膝の上に京一を乗せて、胸に抱き寄せて、ぽんぽんと規則正しく背中を叩いてあやし始める。


時間は二時前。
お昼寝の時間になってから、まだそれ程経ってはいない。
京一が眠った時間も、然程長くはなかったと言って良い。

お昼ご飯の前、京一は雨紋と亮一と一緒に追いかけっこをやっていた。
思い切り遊んだ後、お腹一杯に食べたので、眠くなるのも無理はない。
ほんの数分眠っただけでは、まだまだ体力は回復しない。


直ぐにとろとろと京一の瞼が降り始めて、アン子先生はくすりと笑う。
いつもあんなに天邪鬼で生意気な子供でも、眠気にだけは勝てないらしい。




「何かお歌うたおっか?」
「……アン子、ヘタだからいい」
「ホントいっつも可愛くないわね、アンタ」




むにー、とアン子先生の指が京一の頬を引っ張った。
痛くはないが放っておくには邪魔で、京一はむずがるように首を振って、アン子先生の胸に顔を埋めた。




「……アン子って、おっぱいないな」
「このッ」
「いてッ」




アン子先生の拳骨が京一の頭に落ちる。
硬い痛みに、京一は頭を抱えた。




「いってー……」
「ほら、もう寝るのッ」




皆も起きちゃうでしょ、と囁くアン子先生に、京一は不満そうに頬を膨らませる。
けれども、また背中を打つリズムに、とろとろと瞼が下りて行く。



アン子先生からは、なんだか甘い匂いがする。
チョコレートのような匂いがして、今日のおやつはなんだろう、と京一はぼんやりと思った。


昨日のチョコチップクッキーは美味しかったけど、一緒に渡された野菜ジュースは嫌いだった。
今日はどっちも好きなものだったら良いな。

そう言えば、しばらくヨーカンとか饅頭とか食べてない。
ドーナツも好きだけど、久しぶりにヨーカン食べたいかも。




……そんな事を考えていたら、くしゃりと頭を撫でられた。






思い出した、大きな手。

もうずっと触った記憶のない、大きくて強くて、暖かい手。


あの手とこの手は、ちっとも似ていないけれど、感じる温もりだけはよく似ていて。





………なんだか目の奥が熱くなった気がして、

気付かれないように、アン子先生の胸に顔を埋めた。
























隣がなんだか寂しくなって、目が覚めた。

そうしたら思った通り、一緒に寝た筈の男の子がいなくなっていた。



龍麻は眠い目をごしごし擦りながら起き上がる。
周りをきょろきょろと見回すと、葵や小蒔達はいつものように寝ているのに、隣にいる筈の子だけがいない。
何処に言ったんだろうと部屋を全部見渡して、ようやく見つけた。

隣にいた男の子────京一は、椅子に座ったアン子先生の膝の上。
抱っこして貰って、そのまま寝ているようだった。


龍麻は布団から出ると、てってっとアン子先生の下まで歩く。




「あれ、緋勇君、起きちゃった?」




京一を落とさないように気をつけながら、アン子先生が龍麻を見て言った。

龍麻はアン子先生の直ぐ傍まで来ると、抱っこされている京一の顔を覗き込む。
けれど、京一はアン子先生の胸に顔を埋めていて、どんな顔をしているのかは見えなかった。




「アン子せんせい、きょういち、どこかいたいの?」
「ううん、ちょっと目が覚めちゃっただけ。大丈夫だよ」




ぽんぽん、ぽんぽん。

アン子先生の手が、規則正しく京一の背中を叩いている。
京一の背中もそれに合わせて小さく揺れていて、今はもう眠っているのが判った。



京一は、抱き上げられるといつも嫌がる。
唯一大人しくしているのが、保健室の岩山先生が相手の時。
それ以外は、怪我をしたから無理をさせないようにと抱き上げられても、直ぐに離せ下ろせと暴れ出す。

けれども今の京一は、抱き締められている事に安心しているように見える。
龍麻も母に抱っこされた時はとても安心できるから、今の京一がとても安心しているのは、見れば判る事だった。




………いいなあ。




眠る京一を見て、龍麻はぽつりと思った。




「アン子せんせい、ぼくもだっこしたいです」




そう言った龍麻に、アン子先生はしばらく京一と龍麻を交互に見た。




「えーっと……ちょっと待ってね、京一、寝かせてくるから」




椅子から腰を浮かせようとしたアン子先生の腕の中で、京一がむずがるように身動ぎする。
離れるのを嫌がるように、小さな手がアン子先生のエプロンをぎゅっと握った。

いいなあ、とまた龍麻は思う。
思ってから、アン子先生が勘違いしている事に気付いて、エプロンの裾を引っ張った。




「せんせい、ちがう」
「え?」
「ぼくも、きょういち、だっこしたいです」




もう一度お願いすると、アン子先生はきょとんとして龍麻を見た。
えーと、と目があちこちに泳ぐアン子先生は、龍麻の言葉の意味を頭の中でもう一度再生しているのだろう。

アン子先生は、抱いていた京一を落とさないように抱え直して、じっと見上げて来る龍麻を見た。




「いいけど…京一、結構重いよ。大丈夫?」
「ぁい」
「うーん……」




大丈夫かなァ、とアン子先生が呟く。


龍麻が幾ら大丈夫と言っても、アン子先生はどうしても不安になる。
これが京一ではなくマリィならそれ程心配はしないのだけれど。

何せ龍麻と京一は同じ四才で、身長で言うと京一の方が少し大きいくらいだ。
これで抱っこがしたいと言われても、抱えた途端に二人揃って引っくり返ってしまうのが目に見えている。
それは良くない。



アン子先生はふっと思い立って、京一を片腕で抱いて、空いた手で龍麻の手を取る。




「おいで、緋勇君」




促されて、龍麻はアン子先生の後ろをついて歩く。
何処に行くんだろうと首を傾げていると、さっきまで自分達が寝ていた布団に戻っていた。




「よいしょ…っと」
「………む……」
「はい、いー子いー子」




少しむずかった京一。
宥めるように、アン子先生は頭を撫でた。

そんな京一の隣に、龍麻もまた寝転ぶ。




「じゃあ緋勇君、京一のこと、後お願いしていいかな?」
「ぁい」




手を上げて返事をした龍麻に、アン子先生は笑う。
ぽんぽんと龍麻の頭を撫でて、アン子先生は他の子供達の様子を見ようと立ち上がった。



京一は、猫のように丸くなっている。
ようやく見れた寝顔は、日向ぼっこをしている猫のように安心していた。
けれども、抱き締めてくれていたものがなくなったからか、少しばかり寂しそうにも見える。

そんな京一を、龍麻は寝転んだまま、抱っこする。




「うー……」




京一は少しの間ごそごそと身動ぎした後で、また寝息を立て始めた。




「んー……」
「ん」




猫が擦り寄るように、顔を寄せてきた京一に、龍麻も身を寄せる。
くっついて眠るのは少し暑かったりするのだけれど、嫌がるほどの事じゃない。
寧ろ、京一が温かいからだと思ったら、嬉しいくらいで。









抱き締めて、抱き締められて。

伝わる温もりを共有しながら、一緒に眠る。



寂しい夢が、早く終わることを願いながら。













京一の過去話その一。まだ家族が皆一緒だった頃。
離れ離れになるまでの経緯は、また別の機会に。

龍麻はやっぱり京一の事が大好きです。