とどかないこえ





ガラガラと煩い音が鼓膜を覆い潰し、傍にいた青臭い若者を突き飛ばした直後。
脳天をかち割るのではないかと言う程の音が空気を壊し、その後の事はもう頭には残っていない。




何の話をしていたのだったか。
大学に行きながらこの工事現場で働いていると言ったのは、自分がよく知る青年と同じ大学に通っていた。
名前を出すと知り合いだと言うので、暫くその青年に関する話で盛り上がった。

その青年が近頃───進級する間際、今年の二月頃から付き合いが悪くなったと言う。
原因は俺だと言うと、アルバイトの若者はどういう事か聞いてきた。
隠し立てするような事でもない、そのまま全てを話してやった。


ちょっとした手違いから、今まで自分達が住んでいた場所を離れなければならなくなった。
その時、本当なら置いて行こうとした息子が、何を思ったのかくっついて来てしまった。
心の拠り所が傍に残ってくれたのは嬉しかったが、自分はこうして仕事に追われ、まともに構ってやれない。
それを聞いて我慢がならなくなった彼が、息子を預かるようになり、以来、彼の生活の中心はその子供になった。
まだ小さな子供だから、放って置く訳にいかないと、友人からの飲みの誘いなどを断っているのである。


話を聞いた若者は、神妙な顔付きになり、そんなら言ってくれりゃあいいのに、と言った。
若者は自分が子供が好きだと切々と語り、一緒に遊んでやりたいと言ってくれた。

若者の言葉は有難いが、何せあの子供は気難しい。
青年が預かると言う話になった時、あの子は何も言わずに頷いたが、本音はどうだか判らない。




……判らない。

そんな結論に行き着く程、もう随分と、息子の顔を見ていないのだと思い出す。




前に顔を見たのは確か────三月の終わりに、久しぶりに一日だけ予定のない日が出来た。
丸一日寝倒したい気分もあったが、寝落ちる前に、ああアイツに会わんとなァ、と思い出した。

携帯電話から、いつもと真逆の内容のメールを送ると、十分程経ってから返信が来た。
世話になった教授の送別会があるから遅くなる、先に保育園へ行って子供を迎えてやって欲しい、との旨。


返信メールに添えられていた住所を頼りに、夕暮れの保育園へと向かった。
こじんまりとした保育園に入って、丁度表に出ていた若い保育士を捉まえて、息子の名前を出した。
保育士は一度眼を丸くした後、慌てて園舎に入り、数秒後には別の保育士が現れた。
しばしの立ち話の後、幾ヶ月か振りに見た息子は、前と変わらない生意気な面構えで、父の前にやって来た。


簡単に挨拶をしてから、園舎を出て、青年のアパートに到着するまで、親子の間に会話はなかった。
息子はじっと前だけを見て歩き、自分も同じく前だけを見て歩いた。
別に会話をするのを拒んだ訳ではなかったが、傍目には果たしてどんな光景に見えただろうか。

アパートの中でもやはり会話はなかった。
息子は未だにパンダが好きなようで、ずっとぬいぐるみを手放さなかった。
自分は勝手に冷蔵庫からビール缶を出して開けていた。

………それでも、別段、息苦しさのようなものは感じなかった。



陽が沈み切った頃になって、青年が帰ってきた。
送別会は切りの良い所で抜けさせて貰ったらしい。



三人揃っての夕食は、最寄の美味いと評判のラーメン屋だった。
此処でようやく息子と会話した─────「美味いな」と言う呟きに、「ん」と返事があった。

青年に大学はどうだと聞けば、可もなく不可もなく、と言った。
要は順風満帆と言う事だ。
相変わらず回りくどい奴だと思った。


夕飯が済んでアパートに戻る道すがら、息子が道端で舟を漕ぎだした。
帰って風呂入って歯ァ磨いてから寝ろ、と言えば「んー」などと言う返事があったが、結局持たなかった。
青年に背負われた息子は、暢気にすーすーと寝息を立て、そのまま起きる事はなかった。




顔を見たのは、あれきりだ。

では、その前はいつだったか。
少なくとも、一月以上はまともに顔を見ていなかったと言える。


酷い親だな。
自嘲気味にそう考えた。





そうしてぼんやりと、思考の海に沈んでいた時だった。

頭上から張り詰めた声がして、見上げれば巨大な鉄の塊が此方へと落下していた。
思うよりも先に体は動いて、傍らにいた若者を突き飛ばして──────記憶があるのは、其処までだった。

























こうなってしまうと、案外と時間はゆっくりと流れるものだったのだと、認識させられる。
いつもはどれだけ時間があろうと、まだ足りないとしか思わないと言うのに。

それは気が急いているのが原因だ。
自分でも判っているが、それも仕方のない話ではないかとも思う。
生憎自分には時間制限があって、一分一秒だって惜しいのだ。


しかし─────足がこれではどうしようもない。
白い包帯にぐるぐる巻きにされた両足を見て、溜息を吐いた。



その直後に、コンコン、とノックの音。




「どーぞ」




言ってから、引かれたカーテンが開くのを待つ。
ドアの開け閉めの小さな音、数歩分の足音があって、それからカーテンは開かれた。




「師範、」




既に泡沫となった呼び名で呼ぶのは、嘗ての門下生─────八剣右近。
彼は今でもそのつもりでいると言うが、此方の立場は既になくなったも同然なのだ。
ただ、慕って貰える気持ちは有難い。



八剣は、珍しく息を乱していた。
聊か顔色が蒼く見えるのは、間違いなく、自分が原因なのだろう。

八剣はしばし此方の顔を見詰めた後で、包帯に覆われた両足に視線を移す。
眉根を寄せて顔を顰める彼の脳裏には、間違いなく、一人の子供の顔が浮かんでいるのだろう。
自分が預けている、あの生意気盛りの息子の顔が。


数秒間の静寂の後、八剣は長く息を吐いた。




「驚きましたよ。兵藤から連絡を貰った時は」
「ああ、あいつから連絡行ったのか」




兵藤とは、アルバイトの若者の事だ。




「落ち着かせるのに手間取りました。何せ半狂乱状態だったので」
「青いなァ」
「笑い事じゃあない」




クツクツと喉で笑って言ってやると、珍しく睨まれた。


八剣と言う男は、普段殆ど感情を露骨にする事はない。
基本的には笑顔と言う形を繕っており、滅多な事ではこれは崩れない。

なので、どうやら八剣は相当腹に据えかねているらしい。




「友人を助けてくれたのは良いですが、それで自分がこの有様では、本末転倒では?」
「ああ、そうだな。ま、すぐ治るだろうから、気にすんなっつっといてくれ」
「…そういう事でなく」




もう一度じろりと睨まれる。
ふざけない方が良さそうだ、半分は真面目に言っているのだが。


腹筋の力だけで起き上がろうとして、下半身がどうにもならなくなっている事に気付く。
案外と面倒なものだなと思いつつ、肘、腕、手と体重を移動させながら、ゆっくりと起き上がった。

八剣は肩にかけていたバッグを床に下ろし、備品の椅子に腰掛ける。




「麻酔はもう抜けて?」
「いんや、効いてる。局部麻酔だから、頭が眠くならんだけさ。脚は殆ど感覚がねェな」




多少、頭の芯がぼやけているような気はするが、それとこれとは別だろう。
単純に暇を持て余して、脳が居眠りと洒落込もうとしているだけと思われる。

今欠伸をするとまた睨まれそうなので、漏れかけたそれを強引に噛み殺す。
頭をがしがしと掻いて誤魔化してみたら、どうやら行動パターンは読まれているようで、やはり睨まれた。
伊達に長く門下生をしていなかったし、息子を間に挟んで何かと話をする機会は多かったので、観察力の鋭い彼に見抜かれるのも無理はないか。


八剣はまた一つ溜息を吐いて、双眸を細めて此方を見る。




「週末、どうするつもりで?」




ストレートな問い掛けに、此方は苦笑するしかない。
そうすると、またまた溜息を吐かれてしまった。




「アイツにゃ言ったのか?」
「……いいえ。まだ」
「そうか。そりゃ良かった」




今週末は、久しぶりの休みが取れそうだった。
飛び入りの仕事の有無は判らないが、それも大抵は四日前には決まる。
その標準リミットは今日だったから、ギリギリセーフだ。

そういう意味では良い事なのだが、八剣はそれでは納得できないのだろう。
間に入る形で糸の端と端を掴んでいる彼にしてみれば、その糸こそを繋ぐのが役目のようなものだから。


繋がりそうだった糸が、間際になって繋げなくなった。
八剣にとっては、酷く歯痒い話なのだろう。
この青年は、あの子供の事を随分と気に入っているから。




少しの間沈黙があって、どうにもそれが居心地が悪いように感じた。
不思議なものだ、自分の子供とは会話をしなくてもこうは感じなかったと言うのに。

──────いや。
何か感じている事を、考えようとしなかったのかも知れない、無意識ながら意図的に。
久しぶりに見た息子は、果たして覚えていた通りと寸分変わらぬ姿であったかすら、考えないようにしていたのかも。




「……まぁ、なんだ。アイツは大人しくしてんのか」




言ってから、そんな性格の子供ではない事を、勿論親なのだから知っている。
けれど同時に、今はそれすら形を潜めてしまっている事も気付いていた。




「…良い子にしていますよ」




僅かな間を置いた答えは、本音が別にある事を暗に示していた。

答えた八剣の顔は笑ってもいない。
子供が本当に“良い子”であれば、間違いなく、笑って答えるのだろうに。



息子は自分とよく似ていた。
短気で激昂し易く、直ぐに手が出て、息子は更に癇癪持ちの気があった。
子供らしい背伸びをしたがって、時々聞きかじった事を生意気な口調で言って、相手を小馬鹿にして衝突する。

実によく似ていると、妻も娘も口を揃えて言っていた。
それを否定する時も父子の文言が一字一句同じものだから、これが原因の親子喧嘩など日常茶飯事であった。



だが、今の息子はそんな生意気な事を言おうとはせず、じっと黙っている事が多い。




「………莫迦だな、あのクソガキは」




天井を見上げて呟いた。
青年は沈黙している。



莫迦だ。
本当に莫迦だ。

だが、





「………莫迦は、お互い様でしょう」





ただでさえ気難しい子供をそんな莫迦にしたのは、親である自分だ。
それが判っているから、青年の言葉に反論する余地などなかった。





























マリア先生のピアノに合わせて、子供達が合唱している。
子供達の前に立って歌詞をリードしているのは、アン子先生だった。


11人の子供達の中で、大きく口を開けて元気に歌っているのは、葵・小蒔・醍醐・雪乃・雨紋の五人だ。
亮一と雛乃と如月は手拍子で、龍麻はマリィを膝に乗せて、時々目を合わせながら、一緒に歌っていた。
壬生はいつもの椅子に座ってマイペースに本を読んでおり、京一は龍麻の隣に座って、動物図鑑をじっと眺めている。

京一と壬生が合唱やレクリエーションに参加しないのは、いつもの事。
最近は京一が気紛れに参加する事も増えたが、気分次第だ。




『いーぬーのー、 おまわりさん
こまってしまって、 わんわんわわーん、 わんわんわわーん』




犬の鳴き声で、小蒔・雪乃・雨紋のが一際大きく響く。
釣られたようにマリィも大きな声で歌うので、隣にいた京一は耳を塞いで眉毛を寄せる。




「うるせェ……」
「あーぅ、わー!」
「あ〜ッ…!」




此処で自分が大きな声を出しても意味がない事は、京一も判っている。
結局、耳を塞いで図鑑に没頭する以外に出来る事はない。


以前の京一なら、こういう状況になると、直ぐに遊戯室を出て行っていた。
先生が止めても聞かずに、そのまま外で池の周りや、木登りをして一人遊びを始める。
最近はそう言った傾向もなくなってきたが、やはりストレスは溜まってしまうようだった。

周りの音を拒否するように耳を塞いで丸くなる京一に、他の子供達は気付かない。
隣にいる龍麻も、今はマリィと一緒に歌を歌うのが楽しくて、そちらに集中していた。



イライラして眉毛の間のシワを深める京一。
重い動物図鑑を抱えて顔を隠しても、耳から入ってくる大きな音は変わらない。



歌を歌うのなんて、珍しい事でもないんでもない。
一日一回はマリア先生がピアノを弾いているし、誰かがそれに合わせて歌い出す。
大合唱じゃなくて、誰か一人だけが歌っている事もあって、他の子供達は好き好きに過ごしている事も多い。

京一も、普段なら誰かが歌を歌っている事ぐらい、大して気にならなかった。
自分と壬生だけが歌っていなくて、他の子達が合唱している時でも、うるさい、とまでは思っていなかった筈だ。


─────それが、どうしてだろう。
今日はやたらとムカムカして、落ち着かなかった。




京一の表情がどんどん険しくなっている事に、子供達は気付かない。
ピアノに向かって、子供達に背を向けているマリア先生は勿論、アン子先生もいつものように京一を見えてはいなかった。

イライラ、ぎりぎり、ムカムカ。
いつかのような感覚が戻ってきている事に、京一は気付いていた。
呟いたばかりの「うるさい」と言う言葉を大きな声に出したくて堪らない。
もうそんな事をする必要はないんだと、判っている筈なのに。





「蓬莱寺」





呼ぶ声があった事に、京一は気付かなかった。
耳を塞いでいるから無理もない。

反応を待つ代わりに、京一の体がふわりと宙に浮いた。




「うわ、」
「出るぞ」




何が起きたのか判らない内に、景色が動き始める。
大人の男に抱えられている事に気付いたのは、数秒後の話だった。


犬神先生は京一の返事も待たないまま、彼を抱えたままで遊戯室を出た。
ドアが閉まると、子供達の元気な歌声も遠くなる。

ようやく、京一は耳を塞いでいた手を離した。




「兎に餌をやらなければならん。手伝え」
「やだ」




間髪入れずに拒否した京一を、犬神先生は床に下ろす。




「人参は兎小屋の傍にあるが、キャベツとパンの耳は教職室だ。取って来い」
「………………」




教職室を指差して、行けと促す犬神先生。
京一はしばらくそれを睨みつけていたが、犬神先生の言う通り、兎の餌を取りに行く事にする。


京一は犬神先生が苦手だ。
何を言っても何をしても暖簾に腕押しで、耽々とした反応しかない。
いつも兎小屋の前にいるが、何をしているのか、何を考えているのかも判らなかった。
だから極力、京一は犬神先生に近付きたくない。

けれど、外に連れ出してくれたのは助かった。
あのまま遊戯室の中にいたら、自分が何を言い出したか判らない。



教職室に入ると、高見沢先生と、いつもはいない筈の岩山先生がデスクに座っていた。

岩山先生も京一にとって苦手な対象だ。
迫力満点のその姿を見つけた途端、京一の体が固くなる。


教職室の入り口で固まって動けない京一に気付いたのは、高見沢先生だった。




「あらぁ、京一君。どうしたの?」




高見沢先生の呼びかけにも返事が出来ない。
その向こうで、岩山もまた、此方を見たからだ。


高見沢先生が椅子を立って、京一の前まで歩いてくる。
しゃがんで京一と目を合わせると、岩山先生の顔は、その陰になって見えなくなった。




「……いぬがみが、ウサギのエサとってこいって」
「あらあら、そんな時間なのね。ちょっと待ってね、持って来るね〜」




高見沢先生が立って行ってしまうと、また岩山先生の顔が見えた。
京一はずりずりと後ずさりして、教職室のドアの影に隠れる。

けれど、すぐにぬぅっと大きな影に覆われて、また京一の体が固まった。
振り返ってみなくても判る大きな影の正体は、岩山先生以外の誰でもない。




「お前が一人でいるのは久しぶりだねェ」
「………べつに」




京一にとって、一人でいる事は然程珍しいことではなかった。
龍麻が真神保育園にやって来て、一緒に遊ぶようになってからでも、それは変わらない。
雨紋と一緒に遊ぶこともあるけれど、雨紋が一番仲が良いのは亮一だし、それもやっぱり変わっていない。

夕方になって子供達が皆帰って、雨紋や亮一のようなお泊まりの子が寝てしまえば、京一は自分の迎えが来るまで一人になる。
遊戯室でマリア先生か犬神先生が見ている中で、お絵かきとか絵本を読むとか、一人でじっと時間が過ぎていくのを待っている。


一人でいる事に、京一は慣れている。
誰かと一緒にいる方が慣れていない位に。

龍麻と一緒にいるのも、雨紋と遊ぶのも、時々他の子と遊ぶのも、嫌いじゃない。
でも雨紋が亮一と一緒にいるように、葵が小蒔と一緒にいるのと同じように楽しいのかと言われると、京一には判らない。
時々、唐突に、やっぱり一人の方がいい─────そんな事を考える時もあった。



教職室のドアに凭れて、床に座る京一。
岩山先生はそれを見下ろして、小さく息を吐いた。




「お前はもう少し、声を出した方がいいね」
「………?」




岩山先生の言っている意味が判らなくて、京一はきょとんとして顔を上げる。




「嫌だ嫌だって暴れてる位が丁度良いって事さ。お前は子供なんだからね」
「……ガキじゃない」
「たかが三つのガキが何言ってんだい」
「四つだ!」




指を四本立てて言えば、そうかい、と淡白な返事。
岩山先生はもう背中を向けていて、自分のデスクに戻ろうとしていた。
それをむーっと睨みつけていると、入れ違いに高見沢先生が戻ってくる。




「京一君、お待たせ〜。はい、ウサギさんのご飯」




小さな竹籠に入れられた、山盛りのキャベツとパンの耳。
京一はそれを受け取ってから、ぺこっと頭を一度下げて、教職室を離れる。



園舎の玄関から外に出て、兎小屋に向かう。
犬神先生はいつも通りそこにいて、金網の隙間から兎に人参を差し出していた。

兎小屋の中で、いつもはバラバラに散らばっている筈の兎が、今は犬神先生の前に集合している。
白、黒、茶色の兎が一箇所に集まっている様子は、遠くから見ると、毛玉が固まっているように見えた。


犬神先生の後ろまで行くと、先生の方が京一を見た。
一瞬、京一の体が固まる。

立ち上がった先生は、京一の前まで来ると、無言で右手を差し出した。
その手にキャベツとパンの耳の入った竹籠を渡すと、また犬神先生は無言で兎小屋の前に戻る。
金網の隙間から人参、キャベツ、パンの耳を入れていくと、兎達は夢中になってそれを食べる。




終わりかよ、と京一は思った。

犬神先生はいつものように兎小屋を見ていて、京一の方は見ていない。
言いつけられたキャベツとパンの耳は持ってきたから、京一のお使いはこれでお仕舞いなのだろう。
だから京一が遊戯室に戻るのも、このまま外で遊んでいるのも、自由と言う事だ。


……けれど、なんだか遊戯室に戻る気にはなれなくて。
なんとなく、犬神先生の隣に立って、じっと兎を見下ろす。




「……ウサギって、なかねェな」
「………いいや」




なんとなく思った事を口にしたら、隣から否定の声がした。


京一は犬神先生を見た。
犬神先生は兎を見ている。




「鳴く兎と、鳴かない兎といるそうだ。一般的には、オスの方がよく鳴くと言われている」
「……ふーん」
「声帯を持たない為に、他の動物と同じような鳴き方はしない。犬猫のようにははっきりとしたものではなく、食道器官を震わせる事で音を出している。音は小さい。しかし、天敵に襲われる、生命の危険を感じる等の時は、叫ぶ事もある」
「…………」




聞いていない事を延々と解説する犬神先生に、京一はもう興味を失っていた。
セータイだの、ショクドーキカンだの、なんの事だか京一にはさっぱり判らない。
取り合えず、鳴かない訳ではないのだと言うだけで十分だ。




「動物は鳴く事で主張する。危険を察知した時、助けを呼ぶ為に、他の仲間に危険が及ばない為に。野生でも家畜でもそうだ。己の身体に異常を感じた時、それを知らせるサインとして、音を出す手段を取った。求愛行動もある。己の存在を主張する手段として、鳴き声を使う動物もいる」




犬神先生に良いか悪いかも聞かずに、京一は竹籠からパンの耳を取った。
金網から小屋の中に落とすと、小さな茶色の兎がパンに齧りつく。




「いずれにしろ、鳴くと言う行為は、何かしらのサインを示していると言う事だ」




今日の犬神先生はよく喋る。
いつもは最低限の言葉だけで、後は黙ったままなのに。
話しかけても、一言二言返って来るだけで多い方なのに。

やっぱり変だ、よく判らない。
隣の大人にそういう感想を抱いて、京一はじっと兎を見下ろす。
この兎達は、いつも自分達を見ている大人が、こんな変な大人だと知っているんだろうかと思いながら。



じゃり、と音がして京一が顔を上げると、犬神先生が立ち上がっていた。
竹籠の中身は、いつの間にか空っぽになっている。
結構入っていたと思うのだけど。




「蓬莱寺」
「……なんだよ」




呼ばれて、京一はぶっきら棒に返事をした。


犬神先生が此方を見下ろした。
アン子先生やマリア先生よりずっと背の高い犬神先生は、時々子供に怖がられる事がある。
けれど、京一は背が高い人なんて慣れているし、岩山先生の方がずっと怖いから気にならない。

無精ヒゲとか、短い髪とか、全然似合っていないエプロンとか。
なんとなく眺めていたら、大きな手がぬっと出て来て、京一の頭に置かれた。




「子供の内に鳴いていろ。お前はそれで十分だ」




鳴いていろ。
声を出せ。

それが、少し前の自分がやっていた事とは別の話であると、少なからず理解できた。
でも、それならどういう風に声を出せば正解なのか、それは判らない。




くるりと方向転換して、犬神先生が歩き出す。
園舎に向かっているのが判って、京一はそれを追い駆けようとは思わなかった。
でも、兎小屋の前にいるのも仕方がない気がする。

どうしよう────と考えていたのは、ほんの少しの間だけ。
保育園の中で一番高い木へ走る。



なんだか、久しぶりのような気がする。
木の幹の凸凹に、丸みのある手を器用に引っ掛けて登りながら、京一は思った。



少し前までは、毎日登っていた。
それがどうして登らなくなったのか。

─────他の子供達と遊ぶことが増えたからだ。


京一が一人で遊んでいると、葵が声をかけてきて、京一がそれを無視して、小蒔や雪乃とケンカになる。
ケンカが始まると雨紋も加わってきて、醍醐が小蒔を庇って、大騒ぎで雛乃が泣いて……と言う連鎖がいつも起きていた。
その連鎖を避けて、一人でじっと木の上で過ごしていた。

けれど、龍麻が来てから、少しずつ変わって、ケンカもするけど遊ぶことも増えた。
自ずと一人になる時間は減っていって、夕方を過ぎた頃には、外遊びに飽きて、先生のいる遊戯室で過ごすようになっていた。





龍麻と一緒にいるのは好きだ。
雨紋と遊ぶのも嫌いじゃないし、他の子と遊ぶのも、最近は嫌じゃないと思う。

でも、時々、よく判らない“何か”を感じる事がある。




前と同じ高さの場所まで登りきる。
一階建ての園舎より、少し高い位置。

太い枝の上に立って、園舎を見下ろした。
他の子供達の歌を歌う声が、まだ元気に響いている。











晴れ渡った空の下。


なんだか、何処にも行けなくなったような気がした。












楽しい筈なのに、楽しくない。
嬉しい筈なのに、嬉しくない。

本当に欲しい物に手を伸ばすことすら出来なくて、悲鳴をあげる心に知らない振りをする。