今日と言う日を刻み込もう

記憶が色褪せて行かないように

















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あ、と。
漏れた声は、招かれざる───けれども決して拒否することのない客人。


部屋の主である八剣が、その声を発した人物───蓬莱寺京一へと向き直る。
と、如何にも何か思い出しましたと言うように、京一は読んでいた漫画から顔を上げ、中空を見て口をぱかりと開けていた。

どうしたのかと黙したままで様子を伺っていると、京一はくるりと此方を振り返り、




「今日って何日だ?」




訊ねられて、八剣は部屋の壁にかかっている日捲りカレンダーに目を遣った。




「24日だね」
「あー………」




記された数字を読むと、京一は宙を仰いでやっぱりかーと呟いた。

何が「やっぱり」なのか、八剣にはさっぱり判らない。
問うて良いものだろうかと考えている間、京一はあーだのうーだの、天井を仰いだり首を左右へ傾けたりして何かを思い悩んでいる様だった。



日付を気にすると言うことは、何か先日に約束事でもしていたのだろうか。
それも容易くまぁいいかと片付けられる事ではないような、大切な相手と。


…大切な相手と来て、八剣が一番に思い浮かべた相手は、京一の相棒である緋勇龍麻だ。
恋人である筈の自分が、判っていても妬いてしまうほど、この二人は仲が良いのである。
八剣の発想は当然とも言える。

だがいつまでも悩んでいる所を見ると、その線はなさそうだ。
繰り返すが、八剣が判っていても妬いてしまうほど、二人は互いの事をよくよく理解していて、故に京一も何某か約束事を忘れることがあったとしても「明日言えばいいか」と早々に悩むのを止める筈なのだ。


ならば真神学園のクラスメイト達か。
それ以外の《宿星》の仲間達か。


と、八剣は思っていたのだが、ややもしてぽつりと聞こえてきた声は、




「ま、いいか……明日行きゃいいし」




明日は学校は休みである筈。
京一は剣道部に所属しているそうだが、三年生はもう引退しており、下より万年幽霊部員であったと言う京一は、引退試合後は全く部活に顔を出していないそうだ。
だから本来、京一は学校に行く予定はないと見ていいから、これでクラスメイト達と言う線はなくなった。


別段、どうでも良い事だと言えば、そうなのだろうけれど。
想いを寄せる恋人の事が全く気にならない訳ではなく。

また漫画へと視線を落とした京一の後ろに場所を取って、抱き寄せる。




「読み辛ェ」
「ああ、悪いね」




苦情が出たが気にしなかった。
京一も口には出したが、実際それ程気分を害した様子はない。
抱き締められる事に抵抗があるのだろう、恥ずかしがり屋だから。

漫画から視線を逸らさない京一の肩に顎を乗せる。
八剣の長い前髪が首筋をくすぐるのだろう、鬱陶しそうに其処に手を遣っていた。




「ンだよ」
「いや。さっき何を思い出したんだろうと思ってね」
「別に大した事じゃねーよ」




パラリ、ページを捲る音。




「今日は何か予定でもあったの?」




抱き締められている事と、密着して話し掛けられている事と。
質問に答えるまで八剣が離れない事を察したのだろう、京一はパラパラと漫画のページを捲り、ややするとぱたりと閉じた。

とすっと八剣の体に京一の背中が乗り、そのまま体重を預けてくる。
最初の頃は近付くだけで警戒されたのに、今は随分と気を赦してくれるのが嬉しい。
頬を唇を落とそうとすると、手で押し退けられたが。




「兄さん達が誕生祝するって言ってたんだよ」
「京ちゃん、誕生日だったんだ」
「まーな」




今日が京一の誕生日だったとは。
知らなかったとは言え、特別の日に彼を独占した事になる。
『女優』の人々には悪いが、八剣は少し優越感を感じていた。


だが、『女優』の人々には八剣も世話になった。
最初の頃、警戒されて全く会話が出来ない状態であったのを、彼女達が間に入ることで取り持ってくれたのだ。

思い出した京一が帰ろうとせず、此処に留まると言う事は、京一の無意識の優先順位を見たようで嬉しくも思うのだけど。
世話になった人達に申し訳なさも沸いて来て、八剣は京一の髪の毛先を指で遊びながら問う。




「いいのかい?帰らなくて」
「ん。兄さん達も判ってるだろ」
「俺の所にいるってことが?」
「自惚れんな」




ぴしゃりと返されてしまった。
苦笑が漏れる。



京一は主に『女優』で過ごす事が多いようだが、それも不定期だ。
ふらりと数日帰らずに龍麻の家で過ごしたり、舎弟と歌舞伎町を一晩歩き回っていたり。
『女優』の人々はそんな京一の生活を重々知っていて、無理に束縛したりしない。

それでも『女優』の人々との予定や約束事は、優先順位の上位に存在すると見て間違いないだろう。
必ず守ると言う訳でもなかったけれど、頭の隅には残っているようだった。


だと言うのに彼女達との予定を反故にすると言う事は、その予定にあまり気乗りしていないと言う事にも取れる。
折角祝ってくれると言うのに、それは勿体無いのではないだろうか。




「いいんだよ、俺の事は気にしないで帰っても」
「だから自惚れんなっつってんだろーが。ガキ臭ェからヤなんだよ」
「どうして。嬉しい事じゃない」




八剣の言葉に、俯いた京一の頬が微かに赤くなる。

嫌だと言葉では告げたが、彼女達の気持ちは嬉しいのだろう。
天邪鬼な性格だから素直に受け止められないだけで。


今日が誕生日と言うことは、高校三年生の京一は今日で18歳になったと言う事だ。
まだ学生と言う身分だから、大人と言うには曖昧だが、少なくとも子供ではない年齢。
且つ未だ青臭さが抜け切らないものだから、格好つけたくて背伸びする事もある。

そんな京一にとって、もう誕生日は盛大に祝うなんて行事ではなくなったのだろう。
今は嬉しいよりも気恥ずかしさの方が勝る時期だ。



でも、昔から京一を知っていると言う『女優』の人々には、京一のそんな心情はまるで関係なく。
彼女達はただひたすらに、可愛がっている居候の生誕を祝いたくて仕方がないのだろう。




「普段お世話になってるんだから、恩返しと思ってさ」
「祝われてんのが恩返しって、意味が判んねェ」
「気持ちの問題だよ。お祝いを受け入れてくれる事が、彼女達にとってもまた嬉しい事だろうし」




京一の唇がヘの字に曲がって、眉根が寄る。
照れ臭さと、その奥に只隠しにしていた嬉しさと、天秤がぐらぐら揺れているようだった。

八剣としては、今日はこのまま此処にいて欲しいけれど────折角の好意を無碍にするのも、勿体無いと思うのだ。




「ケーキが待ってるんじゃないの?」
「甘いモン好きじゃねェ」
「じゃあ誕生日ラーメンかな」
「なんだ、そりゃあ…」
「好きだろう?」
「ラーメンは悪くねェけどな。可笑しいだろ、絶対」




顔を顰めて言う京一に、そうかなと八剣は笑った。
京一に喜んでもらいたいと思ったら、そういう選択肢もあると八剣は思う。




「いいじゃない、子供臭くても、なんでも。お祝いしてくれるんだから」
「しつけェな……いいんだよ、もう。時間もねェし」




京一に言われて八剣が時計を見ると、成る程確かに、時刻はあと二時間で今日と言う日を終えようとしている。
そんな時間になって今日が誕生日である事を思い出したのだから、『女優』の人々ももう諦める頃合か。

八剣に促されても帰ろうとしない京一は、恐らく、それも考えての事だったのだろう。
誕生日である事を思い出す前ならともかく、思い出して今から帰ったりなんかしたら、祝って貰う事を楽しみにしているように見える。
それでいいだろうと八剣は思うのだが、天邪鬼で、まだ少し背伸びがしたい京一には、誕生日を待ち遠しく思っていた子供のような行動は取れないのだ。



拗ねた子供のように、だからいいんだよ、と言って、京一は顎を引っ込めて俯く。
八剣に顔を見られたくないのだろう。

赤くなった京一の顔は、いつもよりも険が薄れて可愛いと思うのだが、それを言うと彼は怒る。
だから顔が見たいのを我慢して、八剣は少し痛んだ髪を指先で遊ぶに留まった。




「明日は行っておいでよ。折角のお祝いなんだしね」
「言われなくてもそのつもりでェ。じゃねーと兄さん達ずーっと煩ェし…」




それも京一が愛しいからこそだ。
こそばゆそうに首を掻く京一を見て、八剣は笑みを漏らす。




「毎年お祝いして貰ってるの?」
「……オレはいらねェっつってる」
「そう。良かったね」
「お前ェ、オレの話聞いてるか」
「聞いてるよ」




京一の言葉なら、どんな小さな声でも聞き逃さない自信がある。
まぁ、京一が言いたいのは聞こえているかいないかではなく、言っている事を理解しているかと言う事なのだろうが。


判っている、判っているが。
判っているからこそ、良かったねと八剣は口にする。

八剣の誕生日を祝ってくれるような者など、もういない。
唯一知っているのが拳武館館長の鳴滝冬吾ぐらいのもので、あの人は当日にささやかな祝いの言葉をくれる。
でも京一のように、いつまでも子供のように祝いたいと思う人はいないだろう。

そして京一も、口ではどんなに天邪鬼にしてみても、心の底で嬉しさを感じているのが判る。
だから、良かったねと言わずにはいられないのだ。




見上げた八剣が笑みを梳いているのを見て、京一は顔を顰めた。
何笑ってんだと、尖った唇が音なく雄弁に語っている。

その唇にキスを落とすと、ぱちりと京一は一度瞬いた────何が起きているのか判らない様子で。




「ン……ぅ!?」




呼吸が出来ないことと、八剣の顔がゼロ距離にあること。
そして、それらの理由に気付いて、京一の喉の奥でくぐもった驚きの声が漏れる。




「ん、ぅ……!」




顎を捉えて、固定されて。

京一の頭は斜め後ろを向けられているが、体は正面を向いたまま、八剣に面しているのは背中側だ。
首も体も苦しい状態になって、京一は抱き締められたままでジタバタと暴れた。


解放すると、すぐさま拳が跳んでくる。




「何しやがるッッ」
「キスだよ。したいと思ったから、ついね」
「殺すぞ、このナンパ野郎ッ!」




掴みかかって来た京一の腕を捉え、此方から引き寄せる。
そのまま八剣は、彼を自分の後方へと引っ張り倒した。

どてっとうつ伏せに倒れた瞬間、痛みを訴える小さな悲鳴が上がって、どうやら鼻柱を打ったらしい事を察する。
顔を摩っている仕草が子猫に似ていて、八剣は苦笑しながら、彼の体を押して仰向けにさせた。




「ってー………」
「ごめんね」
「絶対ェ悪ィと思ってねェだろ」




忌々しげに呟かれた言葉を、八剣は否定しない。
全く思っていない訳でもないが、詫びた言葉ほど罪悪感は感じていないのが本音であった。

───────が。



京一のアンダージャツが捲れて、其処に隠されていたものが露になると、八剣はつい眉根を寄せていた。







其処にあるのは、消えない刀傷。







刀は“斬”に関しては、最も飛び抜けた威力を持つ道具であると言って良い。
粗悪品に関してはピンからキリまで様々だが、八剣の持つ刀は無銘でありながら、見事な出来栄えものもだ。
だが、“人を斬る”となると一筋縄では行かない。

それを容易く操り、暗殺の道具として選び、あまつさえ“鬼剄”と言う技を習得している八剣は、剣に関して相当の腕を持つ事になる。


日本刀による刀傷は、その切れ味の鋭さから、斬られた事に気付かない程に綺麗なものになる。
動かぬ状態であったり、小さな傷であるのなら、治療すれば痕に残るのは縫合痕くらいのもので、裂けた皮膚は実に見事に繋がりあうのだ。




京一の傷も、そう。
あの時裂けた皮膚も、今は綺麗に繋がっている。

けれども、あまりにも大きく深い裂傷であった所為だろうか、治り切らない内に次の戦闘に身を投じた所為か。
彼の皮膚は確かに繋がっていたけれど、不自然な盛り上がりが袈裟懸けに走っている。
縫合した跡は痛々しく残り、傍目には完治しているように見えるが、気温の低い日は疼く事もあるだろう。


それは恐らく、一生消えない八剣の罪だ。




はたりと動きを停止してしまった八剣に、京一は打った鼻柱を押さえていた手を離し、自分を見下ろす男を寝転がったままで見た。

そうして、八剣が見ているものを自分も見つける。




「……まだ気にしてんのかよ」




邂逅の時の傷を見る度、それまでどんなに饒舌に喋っていても、途端に八剣は口を閉じてしまう。
それは彼があの瞬間の事を如何に後悔しているか、言葉以上に雄弁に語る。


京一が起き上がると、捲れていたシャツが本来の形に戻り、傷跡を隠す。
だが八剣が手を伸ばし、布越しに腹に触れれば、僅かだが奇妙な凹凸を感じる事が出来る。




「気にするよ。多分、一生」
「莫迦じゃねェのか。もう終わったじゃねェかよ」




そう、確かに終わった事だ。
各々思うところは残ったけれど、事件そのものは終止したのである。


あの日がなければ、八剣はこの少年に逢う事はなかった。
逢う事がなければ、この少年が傷を追う事はなかった。

どちらが良かったのかと聞かれると、八剣は直ぐに答える事が出来ない。
出逢えた喜びは何にも劣らないし、傷付けた罪悪感は何よりも重い。
あの事件に関連して傷付けた人物は京一一人ではないのだが、その誰よりも、彼との出来事が八剣のウエイトを占めている。




自分の腹に触れる八剣の手を、京一は無言で見下ろしていた。



実際の所────傷は完全に治ったとは言い難い。
寒さ以外でも、動き回っている最中に縫合痕が引き攣るような感覚を尖らせる時がある。
岩山からも、なるべく安静にしていろと言われていた。

だが、だからと言って弱った姿なんて曝せるものか。
目の前に自身が犯した大罪を突きつけられたかのような男を見たら、余計にそう思ってしまう。


だから、京一は傷跡を隠さない。
見られた所で動揺もしない。

治ってるんだから、終わったことなんだから、もう良いんだと。



……そう思うくらいには、京一はこの軽薄そうな面立ちをした男に傾倒しているのだ。
唇を噛み、罰を望むかのような顔を、気に入らないと思うくらいには。




「お前のヘナチョコ剣なんざ、痛くも痒くもねェんだよ」




鼻で笑うように言い切った京一に、八剣は顔を上げる。
見つけた京一の表情は、あの時────抜けた青の下で二度目の邂逅を果たした時の顔に似ていて。

あの精錬とした面立ちに、八剣は己の敗北を悟ったのだ。




「ヘナチョコとは、酷いね」
「事実じゃねェか。オレにゃ敵わねェんだから」




そのヘナチョコに、一度大敗している過去には、目を閉じる。
そうしてようやく、八剣は罪の意識を僅かな間でも追い払うことが出来るのだ。




「オレより弱い奴の剣なんざ、皆ヘナチョコだ」




自信満々に言い切ってやる様子が、小さな子供の自慢話にも聞こえて。




「だから一々シケた面してんじゃねーよ、似合いもしねェ癖に」
「そう?哀愁があるのも良いと思うけど」
「どんだけ自惚れ屋だ、テメェは。ンないいモンな訳ねェだろ」




ぱたり、起こしていた体をまた床に倒して、天井を見上げながら京一は言った。
八剣はその腹に当てていた手を離し、寝転ぶ京一に覆い被さるように、彼の頭の左右に手を置く。

見上げ、見下ろした互いの顔は、今はもう笑っている。




「でも確かに、京ちゃんの誕生日にするような顔じゃなかったね」
「それは関係ねェだろ」
「あるよ。折角のめでたい日だからさ」




祝いの席に、沈んだ顔は不要だ。
どうせするなら、喜んだ顔をして見せないと。

だが、それの主役である筈の京一は、不愉快そうに顔を顰めてしまう。
顔が赤くなっているので、それもポーズ的な表情なのだろうが。




「別にめでたかねェよ……」
「俺にはめでたい日だよ。
京ちゃんが俺と出逢う為に生まれて来てくれた日だからね」
「だーかーら!自惚れんなっつーんだ、テメェはッ」




牙を見せて吼える京一の顔は、どんどん赤くなっていく。

天邪鬼も此処まで来ると大変だ。
いつまで経っても素直になれないから、羞恥心ばかりが溜まっていく。


その火照った頬に手を添えて、キスを落とす。
京一はむずがる子供のように頭を振ったが、八剣を押し退けようとはしなかった。

……そういう事をするから、こっちが自惚れてしまうなんて、彼は知らないのだろう。




「で……めでてェって言うんだったら、なんかくれるとかねェの?」
「ああ、」




キスを甘受しながら問う京一に、八剣は少しの間考えたが、



「俺をプレゼント、っていうのはどうかな」
「ベタ。つまんね」
「面白みを求められてもねェ……」




眉尻を下げる八剣に、京一はクツクツと笑い出す。
全く意地悪な恋人だ────それも含めて好きなのだから、八剣は本当に敵わない。




「それで、受け取ってはくれないのかな?」




触れ合いそうなほどに唇を近付けて囁くと、京一は一度、判りやすく顔を顰めた。
が、直ぐに溜息をの様な呼吸を漏らして、体から力を抜く。




「どうせ返品不可だろうが」
「確かにね」
「じゃあ勿体ねェから貰っといてやらァ」




言って、降るキスの雨を京一は受け止めて。
シャツの下に潜り込んだ手が、あの傷痕に触れても、拒絶する事はなく。

その傷痕は、八剣にとって己が犯した罪であると同時に、自身の痕跡を愛しい者に刻み付けた証でもあり。
消えない事に罪悪感を感じながら、失われない事に安堵を覚えている自分もいるのだ。
この傷が此処にある限り、この少年の躯から己と言う存在が消え去ることはないのだから。


そして、これから刻まれる“痕”も。
消えてしまう痕だと言うなら、何度も繰り返して刻むから。









幾年月が流れても、

今日の日が何十回と繰り返されても、



消えない“痕”を刻み込む。











“傷痕”ネタが大好きです。
でも誕生日に使うネタじゃない気がする(滝汗)。後半がなんだか重い空気だ!

うちの八剣は、あの事件に関してずっと複雑な心境です。京一に瀕死の重傷を負わせた事は、特に気にしてます。
此処の八剣が京一に対して何処までも寛容的なのは、こういった罪悪感があるからなのかも。