The past, the present, and the ...






甘かった。
物凄く甘かった。




「39度2分────これじゃ学校は無理ねェ、京ちゃん」




体温計を見て言ったアンジーに、それでも行かないと単位が、とは言えなかった。
そんな気力もなかった。


ほぼ自身の城と化している、『女優』店奥の居住スペースに設けられた寝室で、京一は横になっている。

昨夜、帰って来てから直ぐに『女優』の面々から此処に押し込められ、朝まで大人しく寝ているように言いつけられた。
夕飯はビッグママが作ってくれた粥で、これは全て平らげる事が出来たので、この調子なら明日には…と思ったのは京一だけではなく、アンジー達も同様であった。
その後、夜中に吐き気を催す事もなく、舎弟が駆け込んでくるような事もなく、実に平穏な夜であった。

しかし、朝を迎えても京一の熱は下がる様子はなく、寧ろ昨晩よりも悪化している。
ぐらぐらとした頭で、霞む天井を睨みながら、脳が溶けそうだ、と京一は思っていた。


アンジーは体温計の電源を切って、箱に戻すと、汗を滲ませた京一の額に触れる。
撫でるように触れるその手が、いつもよりも随分冷たい気がするのは、十中八九、自身の発熱の所為。




「残念ねェ、今日は京ちゃんの誕生日なのに」
「…別に、ンな気にする程のモンでもねェよ…」




言ってから京一は、見下ろすアンジーの表情が、心なしか寂しげなものである事に気付く。

自分にとって、自分の誕生日など、それ程意味のあるイベントではない、けれど。
アンジーやビッグママ、キャメロンやサユリにとっては、一年に一度の大切な日のようだから、この日の為にあれこれと京一を喜ばせる為に試行錯誤をしてくれている訳で。
しかし、これだけ高い熱が出てしまい、おまけに一昨日頃から延々とこの症状が続いている事を考えると、果たして今日の日中に治せるかと疑問が沸く。
結果、彼女達が用意してくれた誕生日パーティ等も、主役不参加になってしまいそうで、そればかりは申し訳ない気がして来る。


こんな事になるのなら、早く病院に行って置けば良かった。


自ら病院行きを拒否した事は棚に上げて、京一は思った。
岩山に怒鳴られるでも殴られるでも良いから、看て貰っておけば、こんなにも長引かなかったかも知れない、と。

今日になって悔やんでも仕方のない事だ。
自業自得とも言える。
京一は、溜息と共に目を閉じて、寝返りを打って丸くなった。




「京ちゃん。今日はゆっくり寝ていなくちゃダメよ」
「おう」
「朝ご飯は食べられるかしら。昨日と同じお粥なんだけど」
「あー……持って来といてくれりゃ、勝手に食うよ」
「判ったわ。待っててね」




ぽんぽんと頭を撫でる手。
子供じゃねェんだって、と思いながら、今日ばかりは大人しくその手を受け入れた。


直ぐに戻るからね、と言って、アンジーが部屋を出て行く。
一人になると静まり返る室内で、京一はふぅ、と溜息を一つ。

────寝込まなければならないような風邪を引いたのは、一体何年振りだろうか。
多少の熱やくしゃみと言う症状に見舞われた位なら、無視していつも通りに過ごし、気付いた時には治っていると言うのがパターンだった。
葵や小蒔、遠野からはそんな不精具合に度々呆れられていたが、それで乗り切れていたのは事実だから、京一はこれを特に改善しようとは思っていなかった。

しかし、今回ばかりは失敗だったと、自分でも思う。
侮ったのが悪かったのか、それとも日頃の不摂生のツケが一挙に来たのか。




(どっちでも良いんだけどよ)




体調を崩した原因が何であれ、治らない理由が如何であれ、それは京一にとって些細な事だ。
問題は、この調子で風邪が明日以降も長引くかも知れないと言う事。


単位については、補習授業でなんとかなるだろう(死ぬほど面倒だが)。
しかし、誕生日についてはどうしたものか。

誕生日の当日であるからと言って、別段、今日祝って貰わなければならないと思っている訳ではない。
明日だろうが、明後日だろうが、そのまま流れてしまおうが、京一にとっては大した問題ではなかった。
しかし、本人以上に今日と言う日を楽しみにしてくれていた人々の気持ちを台無しにしてしまう事だけは、気が引ける。

────と、考えていると、まるで祝って貰う事を待ち遠しく感じているような気がして、無性に恥ずかしくなった。
小さな子供じゃあるまいし、と布団に潜って思考を閉じようと試みる。


そのタイミングで、がちゃり、とドアの開く音。




「京ちゃん、お粥さんよォ」




もうちょっと遅いタイミングで来て欲しかった。
妙に顔が熱いような気がする。




「…さんきゅ、兄さん」
「お水と、お薬も置いておくからね」
「ん」




アンジーは粥を乗せたトレイをサイドテーブルに置くと、後で鳥に来るわね、と言って部屋を後にした。
再び一人になった京一は、のろのろと起き上り、キャスター付のサイドテーブルの端を掴んで引き寄せる。

トレイを膝の上に移して、一人用の小さな土鍋の蓋を開けた。
ほこほこと温かな湯気を立てた粥には、小さく切られた薩摩芋が一緒に入っている。
レンゲで掬った米に息を吹きかけて軽く冷まし、口の中に入れる。




「……やべ」




味が判らない。
米の味も、芋の味も、まるで判らない。

いよいよやばいな、と思いながら、京一はのろのろと粥を食べ続ける。


今更ではあるが、病院に行って置こうか。
遅い来院に何をやっていたんだと叱られそうだが、流石にこれだけ重症の今、拳骨を貰う事はないだろう────多分。

しかし、行くとしても、行くまでの手段が問題だ。
吾妻橋は捕まえようと思えば捕まえられるだろうが、彼が普段走らせているのはバイクである。
熱を孕んだ体で、この寒空の下で冬風に当たりたくはないし、そもそも、移動中に彼の体に捕まっていられるかも怪しい。
大型トラックも所有しているようだが、高々病院に行く為だけに持ち出させるのも面倒だし、仰々しい気がする。

『女優』のメンバーに車の運転が出来る者はいなかった筈だ。
となると、後はタクシー等の公共交通機関を利用するから、最悪、徒歩しかない。

いずれにしても面倒臭さが優先順位の上位に来て、京一は病院行きを諦めた。
今日は一日、何処にも行かずに大人しくしていよう。


粥を全て食べ切った後、さっさと薬を飲んで、京一はベッドに横になった。

寝て起きたら、今度こそ熱が引いていれば良い。
何度目か知れない細やかな願いをもう一度繰り返して、京一は目を閉じた。



















「38度7分……高いわねェ」




体温計の表示した数字を読み上げて、アンジーは眉尻を下げて言った。
彼女の前には、ベッドに横になった少年がいる。




「大丈夫?京ちゃん」
「ん……ヘーキ」




心配そうに覗き込んでくるアンジーと、彼女の隣で同じように不安そうに見つめるキャメロンとサユリ。
その視線が妙にくすぐったく感じられて、京一は精一杯の平静を装った。

しかし、京一が強がっている事は、誰の目にも明らかだ。
咳やくしゃみと言った症状は見られないものの、顔はすっかり赤らんで、いつも強気な目にも覇気がない。
心なしか潤んでいるようにも見える瞳は、弱った小動物を彷彿とさせて、彼を可愛がる人々には、庇護欲を通り越して、守り包んであげなければと思わせる程だ。


アンジーの手が、京一の目元にかかった前髪を払う。
触れた場所から伝わってくる体温が、いつもと違って冷たい事に気付いて、京一は首を傾げた。




「兄さん、洗いモンした?」
「ううん。ああ、冷たかったかしら」
「うん」
「ごめんね」
「別に。気持ち良いからいーよ」




熱を孕んだ京一には、今のアンジーの体温が触れていて心地良い冷たさに感じるらしい。
離れようとした手を捉まえて、懐くようにもう一度額に当てる子供に、アンジー達は微笑ましそうに目を細める。

キャメロンが京一の手を握る。
発展途上の少年の小さな手は、大きな彼女の手にすっかり包み込まれてしまった。




「残念ねェ、京ちゃん。こんな日に風邪ひいちゃうなんて」
「んー……」




キャメロンの言葉への京一の返事は、曖昧なものだった。
残念と言えば残念だけど、気にしていないと言えば気にしていない、そんな風。


“こんな日”とは、本日1月24日────京一の誕生日の事。
今日で12歳になる京一の為に、アンジー達は数日前から、誕生日パーティの用意をしていた。
『女優』の常連客も、従業員が可愛がっている少年の事を気に入っており、彼の為にと今日は誕生日プレゼントを持ち寄ろうと計画していたのだが、京一の今の様子を見るに、主役不在のパーティになりそうだ。


頭を撫でていた手と、手を握っていた手がそれぞれ離れると、京一は布団を肩まで引っ張り上げた。
熱くなった幼い体には、暖房の効いた筈の室温さえも、寒く感じてしまうのだろう。




「キャメロン、京ちゃんのもう一枚毛布を持って来てあげて」
「判ったわ。京ちゃん、直ぐ持って来るからね。待っててねン」




ちゅ、と京一の額に唇を押し付けるキャメロン。
京一は、チクチクと触れた彼女の顎を見て、ヒゲ剃ってねえな、と思った。

いそいそと部屋を出て行ったキャメロンに変わって、サユリが京一の顔を覗き込んでくる。




「京ちゃん、他に何か欲しい物はない?なんでも持ってきてあげるわよ」
「んー……喉乾いた」
「お水ね。お茶の方が良いかしら」
「じゃあ、茶がいい」




判ったわ、と言って、サユリは急ぎ足で部屋を出た。
入れ替わりに、毛布を抱えたキャメロンが戻って来る。




「お布団を敷き直している間に、着替えましょうか。京ちゃん、一杯汗かいちゃってるから」
「うぁ……そうする。ベタついててなんか気持ち悪ィし」




のろのろと起き上って、京一はアンジーに抱えられてベッドを出た。

昨晩から続いている熱の所為で、汗が沁み込んだシャツが背中に張り付いているのが気持ちが悪い。
キャメロンがシーツを敷き直し、アンジーが着替えを用意している間に、京一はシャツを脱いだ。
直に外気に触れた肌に、ひんやりとした空気が突き刺さり、




「へ……ふぇっくしゅ!」
「あらら。急がなくっちゃ」




ふるふると体を震わせる京一に、アンジーは大急ぎで着替えを選ぶ。
いつも夜着に使っているシャツとハーフパンツは、生地が薄くていつもは楽なのだが、今日は止めた方が良いだろう。

アンジーが着替えに用意したのは、去年の冬に買ったジャージだった。
運動目的が主であるそのジャージは、吸湿性が良く、生地も柔らかで伸びる。
京一はアンジーに汗を拭いて貰った後、それに着替えて、直ぐにベッドに戻った。


部屋のドアが開いて、ペットボトルとグラスを持ったサユリが戻って来た。
グラスに注いだ水を差し出されて、京一はさんきゅ、と言ってグラスを受け取った。




「朝ご飯はきちんと食べてたわね。京ちゃん、気持ち悪いとか、何処か痛いとか、そう言う事はないかしら」
「ん……ない。ヘーキ」
「無理しちゃダメよォ?」
「してねェって。ホントにヘーキヘーキ」




グラスの水を飲み干して、京一は言った。
頬は赤らんだままだが、水を飲んだ事で少し楽になったのだろう。
まだ覇気には欠けるものの、笑顔に無理を装っている様子ない事で、アンジー達もようやく胸を撫で下ろした。




「っつーかさ。オレの事はもう良いから、店の準備した方が良いんじゃねェの?」
「う〜ん、そうなんだけどォ」
「私達皆でお仕事行っちゃったら、京ちゃん、一人ぼっちになっちゃうでしょ。寂しいんじゃないかなってェ」
「ンな、ガキじゃねェんだから、平気だって」
「でもォ〜」




心配なんだもの、と言ってアンジーに抱き締められて、京一は慌てた。




「に、にーさん、伝染るだろッ」
「あら、心配してくれてるの。優しいわねェ、京ちゃん」
「アタシ達、京ちゃんの為なら風邪を伝染されたって構わないのよ」
「バカ言えよ、ビッグママに怒られるぞ」




アンジー達の言葉に、京一は顔を顰めたが、その頬は赤い。
それを見れば、嫌がる彼の本位が「照れ臭い」からだと言うのが判るので、アンジー達にはそんな彼が益々可愛くて堪らない。

いつまでも京一を愛でていたい気持ちはあるのだが、仕事の時間も迫っている。
京一からも急ぐように言われて、アンジーは渋々京一から体を離した。




「それじゃあ、京ちゃん。時々様子を見に来るから、イイ子にしててね」
「ん」
「後で、岩山さんが来てくれるらしいわ」
「げッ。ちょ、なんで!?」
「京サマが伝えて下さったみたい」
「あのおっさん……!」




余計な事をしやがって、と忌々しげに唸る姿に、アンジー達は眉尻を下げて笑う。
京一が桜ヶ丘中央病院の院長を苦手としている事は、彼の周囲の人間にはよく知られた事だ。
けれども、一番に信用していて、信頼している大人である事も確かであった。

なんで、よりによって、とブツブツと言いながら、京一は布団を被る。
来るであろう脅威から隠れようとする、拙く可愛らしい抵抗の姿に、アンジー達はくすくすと笑う。




「じゃあね、京ちゃん」
「イイ子にしてるのよ〜」
「お休みなさい、京ちゃん」




三者三様に声をかけて、アンジー達は寝室を後にした。


しん、と静まり返った部屋の中で、京一は隠れていた布団の中から顔を出した。
赤らんだ鼻頭を擦りながら、のろのろと起き上がる。

寝室で一人で過ごす事は、珍しくない。
夜寝る時はいつも一人だし、稽古を終えた後に店の邪魔にならないようにと此処で過ごしている時も、勿論一人だ。
アンジー達が長い時間をこの部屋で過ごす方が珍しいと言って良いだろう。
この部屋は専ら京一のプライベート空間として認識されているから、京一が此処で一人の時間を過ごすのは、いつもの事なのだ。

────その筈なのに、何故だろうか。




(……なんか落ち着かねェな)




二枚の毛布と冬用布団で、防寒保温効果と一緒に重みを増した布団の中で、京一はきょろきょろと辺りを見回した。

漫画でも何でも良いから、暇を潰せるものが欲しい。
一番良いのはさっさと眠って休む事だが、まるで眠気を感じないのだ。
それでも、横になっているだけで大分休める事にはなるのだが、京一は何もせずにじっとしていると言うのも苦手だった。
眠気が来るまで、何か気分を誤魔化せるものを探して、京一はベッドを抜け出す。


本棚に置いてある漫画は、もう何度も何度も読み返している。
しかし、他に暇を潰せそうなものがないので、京一はオムニバスものの漫画本を取り出した。

ベッドに戻って毛布を被り、本を開く。




(ついてねェなー、風邪なんてよ。昨日、湯冷めした所為だろうな)




風邪をひいて特別困るような予定があった訳ではなかったが、やはり体調不良は歓迎されるものではない。
全身の倦怠感は鬱陶しいし、『女優』の人々にも迷惑をかけるし、何より、治るまでは外に出られないから稽古も出来ない。
学校に行っていた頃は、余裕のある内は風邪に感けて学校を休める、等と思う事もあったけれど、高熱が出た時は辛くて堪らなかった。
体を襲うなんとも言えない重さを思うと、本当にまるで良い事がない。

だから早く治したい、と思う気持ちもあるのだが、やはり眠気がないので寝る気にはならない。
せめてベッドから出来るだけ出ないように過ごすのが、京一の精一杯の譲歩である。


しんと静かな部屋の中で、本のページを捲る音だけが聞こえる。
そんな事は、いつもと何ら変わらない事だ。
だと言うのに、何故だろう。




(……ヒマ)




暇潰しにと開いた漫画が、まるで役目を成していない。

外に遊びに行きたいだの、剣が振りたいだの、思っている訳ではないけれど、酷く落ち着かない。
ついさっきまで────アンジー達が部屋にいる間は、そんな事は少しも考えていなかったのに、彼女達がいなくなって一人になった途端に、この始末。




(……ガキじゃあるまいし)




まるで寂しがっているみたいだ。
思って、京一は拗ねるように唇を尖らせる。


病気になると弱気になると言うけれど、それでも、5歳や6歳の子供ではないのだ。
面倒を見てくれる人がいないからと言って、寂しがったり不安になったりする必要はない筈。
何故なら、部屋を出てほんの数メートル先に行った所には、『女優』の人々がいつもと同じように営業を始めているからだ。

京一が、毎朝毎晩、往復している距離に、彼女達はいる。
目を閉じて耳をすませば、微かにではあるけれど、常連客の声と一緒に彼女達の声が聞こえて来る。




(……いつもと同じだ)




誰もいない訳じゃない。
世界に一人きりで取り残されている訳でもない。
判っている。

判っているのに、




「………っ」




思考を振り払うように、京一は頭から布団を被った。
漫画は開いたまま、枕の傍に投げられる。
もう読む気にはならなかった。


寝てしまおう。
眠気はないけれど、無理やり眠ってしまおう。

らしくない自分の思考は、風邪の所為だと思う事にした。
だから、治ってしまえば、もうこんな思考は残っていない筈。
願いにも似た気持ちでそう思って、京一はぎゅっと強く目を閉じた。













ひそめくような小さな声で交わされる会話。
その詳細までは聞き取れなかったが、その音が京一の意識を覚醒へと促したのは確かだった。


ぼんやりと目を開けると、暗がりの中で柔らかな暖光に照らされる天井があった。
電気消したっけ、と思ってから、またひそめく声が聞こえた。

ごしごしと目を擦りながら起き上がる。




「おや。起こしてしまったようだね」




今度は、はっきりとした声が聞こえた。
眠気の取れない目を擦りながら顔を上げると、寝起きに見るには中々のインパクトがある顔があった。
思わず、ガチ、と固まった京一だったが、寸での所で悲鳴を上げなかったのは、体に染みついた拳骨の痛みへの防御本能だろうか。

其処にいたのは、桜ヶ丘中央病院の院長である、岩山たか子だった。
初めて彼女と会ってから2年が立つが、京一は未だに彼女の顔を見る事に慣れる事が出来ずにいる。
等と言う事を言ったら、また脳天に拳骨を貰う事になるので、絶対に口外はしない。

岩山の傍には、アンジーとビッグママがいた。
アンジーは心配そうに京一を見下ろしている。


目が覚めたのならもう一度調べようか、と言って、岩山は首にかけていた聴診器を手に取った。
シャツを捲り上げられて、金属が京一の胸元に当てられる。
暖かい布団の中で蹲っていた京一には、金属の冷たさは中々沁みるもので、京一は一瞬息を詰めた。

岩山は京一の体を診察した後、シャツを戻し、口を開けるように言った。
あ、と開いた京一の咥内を覗き込んだ後、




「もう良いよ。熱はどうだい」
「んぁ?んー……」
「さっき測った時には、微熱程度に下がっていたけどね」




京一は額に自分の手を当てた。
眠る前、倦怠感と一緒にあった頭の重さのようなものは、感じなくなっている。
布団から体を起こしても、体温と外気の温度差に体が震える事もない。




「下がった。多分」
「咳やくしゃみはないんだったね」
「ない」
「ふむ……」




岩山は、京一の手を取って、手首に指を当てた。
腕時計で時間を測って、一分、脈拍を数える。
その間、京一はじっと大人しく座っていた。




「どうだい、先生」
「────大丈夫だろう。熱も引いたし、本人もケロッとしてるしね。ただし、きちんと上は着せる事。風邪は治りかけが肝心だからね」
「判りました。良かったわねェ、京ちゃん」




ビッグママと岩山の会話を聞いて、アンジーが嬉しそうに京一の頭を撫でる。
その手は、眠る前とは違い、冷たく感じる事はなく、いつもと同じように温かなものだった。




「さ、京ちゃん。行きましょ」
「行く?」




アンジーの言葉に、何処に?と首を傾げる京一。
くすくすとアンジーが笑った。




「お誕生日パーティよ。サユリ達もお客さんも皆、京ちゃんが来るのを待ってるの」
「パーティって……今からか?」




京一が部屋の時計を見ると、あと一時間で日付が変わろうと言う所だった。
まだ今日中であるから、京一の誕生日は終わっていないけれど、────『女優』の従業員だけでなく、客も待っているとはどういう事だろう。
皆、起きるかどうかも判らない京一をずっと待ち続けていたのだろうか。

目を丸くする京一へ、ビッグママが上着にとダウンジャケットを手渡した。
アンジーに促されながらそれを着ると、床の底冷えが堪えるだろうからと、アンジーに抱き上げられる。
12歳にもなって、と焦る京一だったが、アンジーは下ろしてくれそうにない。


寝室から廊下へと出ると、成程、ひんやりとした空気が京一を襲って、ふるりと肩が震えた。
「寒い?」と聞かれて首を横に振った京一だが、手を袖の中に引っ込める仕草を見れば、強がっているのが明らかだ。

意地を張りたがる年頃の子供が無理をしないよう、アンジー達は足早になって、廊下を通り過ぎた。
近付いて来る店へと続くドアの向こうで、何か賑やかな気配を感じて、京一は顔を顰める。




(……なんか)




なんだか、酷く、むず痒い。
ドアが開いて、沢山の人々から向けられた言葉が、益々それを助長させた。




















傍らに何か動くもの────人の気配を感じて、目が覚めた。
ぼんやりと、靄がかかったような思考のまま、ゆっくりと目を開ける。




「おや。起きたのかい」




聞き慣れた声に、その持ち主が誰であるのか予想して、心の準備をしてから首を傾ける。
予想通り、其処には桜ヶ丘中央病院の院長である、岩山たか子の姿があった。

幼い頃から何度も見て来た彼女の顔だが、未だに京一は見慣れない。
いや、見慣れてはいるのだが、そのインパクトにはまだ慣れていないと言うべきか。
何れにしろ、口に出せばそれはそれは素敵な目に遭うのが判っているので、絶対に言葉にはしない。


岩山は、京一の腕を取って、手首の脈を測っていた。
その手が離れるのを待ってから、京一は起き上がる。




「気分はどうだい」
「あー……ちったぁマシになったな。頭痛もしねェし」
「熱も引いたようだね」
「……みてェだな」




岩山の言う通り、脳を溶かすのではないかと思う程に熱かった体が、今はすっかり落ち着いている。
やっぱり寝るのが一番だったんだな、と思いつつ、昨日も一昨日も寝る事は寝たよな……と若干の理不尽を感じて、眉根を寄せた。

とは言え、熱が下がって良かったのは確かだ。


京一が部屋の時計を見ると、時刻は夜の11時。
その横に表示された日付は、まだ24を映していた。

ベッドを出る京一を、岩山は止めない。
歩き回って良いと言う事か、それとも自己責任で後は自分で面倒を見ろと言う事か────両方だろうな、と京一は思った。




「なあ、センセー。兄さん達は?」
「まだ店の方にいるよ」
「店、まだ営業してんのか」
「いいや」




聴診器や血圧計など、わざわざ病院から持って来たのだろう診察道具を鞄に戻しながら、岩山は言った。




「皆、店の方でお前を待ってるよ。誕生日パーティの用意をしてね」




────やっぱりやるのか。

岩山の言葉に、京一は些か顔を顰めながら思った。
しかし、顰められた表情と違い、彼の耳は僅かに赤くなっている。
それが何よりの本音である事は、京一と言う人間を知る人間には当たり前の事。


京一はベッドを出ると、深い溜息を吐きながら立ち上がった。
がりがりと頭を掻きながら、壁に立てかけていた木刀を持って、部屋を出て行く。




「ガキじゃねェんだから、もうそんな事しなくて良いっつーのに…」




増して、今回は風邪をひいていたのだ。
もしも今晩の間に熱が下がらず、下がったとしても日付を越えた後であったら、彼女達はどうするつもりだったのだろう。
……恐らく、どうするつもりもないだろう、一日遅れの誕生日パーティが開かれるのは想像に難くなかった。

一体彼女達は、京一が何歳になるまで、誕生日パーティを催すつもりなのだろう。
豪華な夕食は確かに嬉しいが、ケーキだのプレゼントだの、もう手放しで喜べる年齢ではないのだ。
おめでとう、の一言を貰うだけでも、無性にこそばゆい気持ちになるのに、まるで我が事のように喜ばれては、祝われる筈の自分の方が恥ずかしい気持ちになる。

かと言って、もう誕生祝を止めてくれ、と言う気にはなれなかった。
彼女達が、今日と言う日を楽しみにしてくれているのが判るからだ。


廊下を歩く京一の足取りは、確りとしている。
昨日の夕方、学校から帰る時には覚束なった足下だが、今日はそうした危なさはない。

気になる事があると言ったら、腹が減っているので、それの所為で少し気分が悪いかも知れない。
朝から今まで一度も起きた覚えがないので、丸一日を眠り通していた事になる。
つまり、朝食の粥を食べて以来、何も口にしていない訳で────成る程、腹が減る訳だ。


後ろをついて来る岩山の気配を感じながら、京一は突き当りのドアのノブに手を伸ばす。
握ろうとして、京一はふと動きを止めた。




「どうかしたかい?」




岩山の声に、京一は小さく笑みを漏らし、




「いや。なんか、似たような事が前にもあったような気がしてよ」




誕生日の当日に、風邪をひいて。
起きているのが辛い程の熱を出して。
寝て過ごして、目が覚めたら、岩山が傍にいて。

あの時は、アンジーとビッグママも傍にいた。
ひょっとしたら、あの時だけではなく、時折様子を見に来てくれていたのかも知れない。
広くて静かな世界から隠れるように、布団に潜り込んでいたから、気付かなかっただけで。


京一はドアノブを握った。
これを押し開けたら、きっとクラッカーの音が鳴って、お決まりの言葉が投げかけられる。
判っているから、幼い頃よりも、余計に気恥ずかしさが募るが、この扉を開けない訳には行かない。











一つ息を吐いて、いつもと同じように、ドアを開ける。


予想した通り、弾ける音がしたけれど、その数が想像よりも、そして去年よりも遥かに多くなっていた事には驚いた。














過去、現在、そして未来へ移ろう中で、変わっていくものも変わらないものも、きっと大切なものである事には変わりない。

誕生日らしくない誕生日小説になってしまった。うちのサイトではよくある事。
京ちゃん【愛】とくればやっぱり『女優』の皆さんだけど、龍麻や吾妻橋も京ちゃん大好きです。
あとついでに八剣もちゃっかり誕生パーティに御呼ばれしてると思います。なんでいるんだお前って言われる。