泣きたくないから笑う







近所に住んでいた猫がいなくなった。
仔猫と仲の良い猫だったのに。






八剣がその猫と最初に逢ったのは、一週間前の事だった。



仕事を終えて部屋に戻ると、いつもなら絶対に出迎えなどしない筈の仔猫────京一が、玄関先で八剣を待っていた。
少し驚いていると、珍しく仔猫の方から「お帰り」を言われて、益々驚いて。

その傍ら、リビングのソファをやけに気にするから、覗き込んでみると案の定。


京一が連れ込んだのは、怪我をした老猫だった。


見つけた途端に、京一は追い出すな、と八剣に詰め寄った。
これまた珍しく、京一の方から八剣に“お願い”して来たのだ────腹が減っても退屈でも、何の催促もしない仔猫が。

八剣がそんな事を考えているとは京一の知る由ではないが、八剣は別段、この部屋に猫が増えても一向に構わなかった。
寧ろ、京一を一人で部屋に残していた方が、寂しがるのではないかと心配していた程である。
良い遊び相手が出来たと思えば、別段、何も気にする事はなかった。
滅多に鳴きもしない老猫であったから、恐らく、同僚達の迷惑にもなるまいと。



老猫の手当てをしてから、三日。
その老猫は、挨拶もそこそこに──あの猫は京一と違って人語を介せない、故にこれは京一の言である──部屋を出て行ってしまった。
元々野良であるから、これは仕方がない。

また京一が寂しがるかなと思ったが、その心配は杞憂に終わった。
老猫は部屋を出て行きはしたものの、近所の何処かをねぐらに決めたのか、度々部屋のベランダに姿を見せた。


老猫が部屋に上がることは二度となかったが、それでも京一は嬉しそうだった。
それを言うと、真っ赤になって否定したが。




時々、八剣を放ったらかしにして老猫と一緒にいる事には、大人気ないながらも少々妬いたけれども。
仔猫が嬉しそうにしている事や、寂しくない事は八剣にとっても、有り難かった。








だけど、野良だ。
他の猫と縄張り争いでもしたか、人に追い立てられたか。

……ふらりといなくなってしまっても、それは仕方のない事で。









昼日中。
ベランダに出て、落下防止の柵に寄りかかっている仔猫。

尻尾はじっとしていて、時折先端がピクッと動いて、同じように寝てしまった耳も時々動く。
……それだけで、それ以上はなくて。


いつもなら、昼寝をしている時間だ。
老猫がいた頃もそれは同じで、一緒にベランダで丸くなって眠っていた。
そんな猫達の為に、八剣はベランダでも室内と同じように眠れるように、スノコで敷板と囲いを作ったものだった。

そのスペースに、京一は最近、毎日のように納まっている。






「京ちゃん、ご飯だよ」






少し遅い昼食になったのに、京一は振り向かなければ、反応もしない。
じっと柵の向こうに広がる世界を見つめているだけ。



京一の顔は、八剣からは見えない。
見せてくれなかった。

老猫がいなくなってから、京一は此処────ベランダにいる間、一度も八剣に顔を見せない。
無理に覗き込もうとは思わなかった。
仔猫だってプライドはある、だから八剣は気付かないふりをして、何も言わない事に決めた。



ベランダと部屋を繋ぐ窓を開けたまま、八剣は踵を返した。
じっと見つめていては、仔猫は動かないだろうから。

背中を向けると、少ししてから、窓の閉まる音がした。






「飯、なんだ?」






問う声に八剣が振り返ると、うきうきと、楽しみだと言う顔をした京一。






「ラーメンだよ。インスタントで悪いけど」
「いい。美味ェし」
「そう。ありがとう」
「…お前褒めたんじゃねーよッ」






拗ねた顔をして、でも顔を赤くして京一は八剣を睨んだ。
それに笑みを返せば、ふんっと一度そっぽを向いて、いそいそ椅子に登る。


きちんと手を合わせてから、箸を持つ。
多少癖はあるものの、京一はちゃんと箸を仕えるようになった。

熱いラーメンで火傷しないように、少し冷ましてから口に運ぶ。






「美味しい?」






問いかければ、返ってくるのはコレでもかと言う程に嬉しそうな笑顔で。












甘え下手で、寂しがり屋で、意地っ張りな仔猫。

一所懸命、笑ってくれるから。



いつか泣ける日が来るまで、今はまだ、知らないふりをしていよう。
















老猫は普通の猫なので、人の言葉は喋れません。
京一は獣人なので人語・猫語が喋れます。
なので、八剣は猫に御礼を言われても判らないから、京一から伝言みたいな感じ。

……こういう事は本編中に記した方がいいですよね、すみません……


老猫は京士浪……とか言ってみたりして。
いやいや、そこ等辺は設定してませんが。