その手を掴んで








ケンカには勝った。
勝ったが、その後が面倒なことになった。








足が動かない。
それに気付いたのは、路地裏で派手に暴れた後の事だ。

挫いたとか、捻ったとか、そんなレベルではない。
耐え切れずにズボンの裾を捲り上げて見てみれば、有り得ない程に蒼くなった皮膚。
そろそろと触れば激痛が奔り─────多分、骨が折れたか罅が入ったか。

ケンカの途中から感覚が鈍ってきていた事には気付いていたが、まさかこれ程とは思っていなかった。


ケンカの時はケンカに集中しているから、躯の多少の故障は意識に昇らなかった。
いちいち気にしていたら相手に先手を取られてしまうのだから無理はない。

そしてケンカを終えて、そろそろ戻ろうかと気を抜いて、数分歩いた後。
段々と足が持ち上がらなくなって(若しかしたら、そう思う以前から足は動いていなかったのかも知れない)、その内引き摺るのも辛くなって、鬱血の青痣を直に見た瞬間、こりゃ駄目だとその場に崩れ落ちた。





腕も動くし、肩も壊れていない。
内臓がどうかなった訳でもないし、失血した訳でもない。

でも、足が動かなかったら歩けない。





小さな段差一つが辛い。
階段なんか上れない。
緩やかな筈の坂道も、いつも以上にきつい。

痛みが脳に繋がって、熱まで持ち始めたのか、全身が重くなって来た。
壁に背を預けて座っているのも辛くて、ズルズルずり落ちていく間に、気付いたら地面に伏していた。


こんな所を誰かに見られたらと思うと、本当に情けない。
特に真神のクラスメイト、更に言うなら相棒だ。
彼にだけは絶対に見られたくない。

……まぁ、彼が用もないのにこんな路地裏に来る事はないだろうけど。



でも、それはそれで困る。
だって自分は、自力で此処を離れることも出来ないのだ。



行きたくないけど、病院に行かないと。
大嫌いなあの先生の所に行かないと。
だって歩けないのは困るじゃないか。

……でも、動けないから其処にも行けない。
這い蹲っても、進めない。






(案外、腹ン中もやられてんのかもな……)






骨折だけの発熱にしては、少し可笑しい。
じわじわと寒さのようなものも感じて来た気がするし。

何発か腹や背中にも食らったから、それが今になって響いているのかも。



視界の端に見えていた、ビルの隙間の狭い空が、灰色になって行く。
此処には屋根がないから、降り出したら大変だ。
移動しないと。

……でも、動かないから。






(……一回、寝て起きりゃ、なんとかなるか?)






安易で馬鹿な考えだ。
もう直ぐ雨が降りそうなのに。

でも他に出来ることがないんだから、仕方がない。


そう思って、目を閉じようとして、









「そんなところで寝ていたら、通りすがり野良犬に襲われるよ」









冗談めかした声が聞こえて、京一は判り易く顔を顰めた。


閉じかけていた目を開けて、首だけどうにか動かす。
頭の中はもう亡羊としていたが、まだ現実に繋ぎ止められている。

だから、其処に立っていた人物の顔もよく見えた。






「……しょうがねェだろ。眠ィんだよ」
「巣に帰るまで頑張ったらどうだい? 此処より温かいだろう」
「足痛ェから無理」
「転んだのかな」
「野良犬が噛んだ」
「じゃあ急いで病院に行かないと。野良犬だったら、ワクチンなんかしてないだろうし」
「歩けねえ。お前が連れてけ」
「いいの?」






冷たいコンクリートの上で、妙な言葉遊びが続いた後。
最後に告げた京一の言葉に、八剣は問いかけて来た。


陽光がないお陰で、見上げる際に視界に障害を与えるものはない。
影もそれ程濃くないから、京一は八剣の表情を知る事が出来た。

そうして見えた彼の顔は、なんだか随分楽しそうで、






「俺で良いの? 子猫ちゃん」






誰が猫だ。

言い掛けて、京一は止めた。
どうせ自分を指差してくるに決まっている。


のろりと起き上がって、壁に背を預ける。






「お前が野良犬じゃねェならな」
「ああ、それなら大丈夫だ。俺は犬じゃないからね」






言いながら、八剣は京一に手を差し出した。



これはターニングポイント。
此処で、今後の人生が天国と地獄か決まる────と言う事にしておいてみる。


地獄だったら、この手の向こうにあるのは野良犬の溜まり場。
それも腹がペコペコに減っていて、道を行き交う人達からは煙たがられて、薄汚れた野良犬だ。
多分、そいつらは体が大きくて、爪は伸びて、口を開けば涎がだらだら落ちるのだ。

天国だったら、温かい毛布と、美味くて豪華な食事と、ちょっと痛い注射とか。
注射が終われば満腹になれて、ふかふか綺麗な布の上で丸くなれる。




さて、目の前のこいつは?










言葉遊びで、腹の探り合いをしながら、本当はとっくに判ってる。
手を差し出した男こそ、子猫を取って喰おうとしている狼だと。

知っているから、その手を掴んでやろうと思う。













他に選択肢がないんだから仕方がないだろ、と。
そんな風にならないと、手を取ろうとしない京一。


最近、京ちゃんと猫だ猫だとばっかり書いてますね、私…
だって猫っぽいんだもん(開き直る)!!

八剣は狼だったり虎だったり狐だったり……一番イメージで強いのは狐かなー。