It is great, and it foolish father





その時、聞こえた叫び声が、京一の思考を強制的に中断させた。




祭りの中に騒ぎはつきものと言えど、その叫び声は尋常ではなかった。
声が聞こえた方向を探してみると、父が消えていった方向にある。

食べかけのポップコーンを放り投げて、京一は走った。
ざわざわと壁になっている人垣を掻き分けて、ぎゅうぎゅうの隙間を無理矢理開けて、身体を押し通す。
何度か文句を言われたし、足を踏まれたし、踏んだし、散々だったけれど、京一は前に進んだ。


人ごみをどうにか潜り抜けて、路に出た時、大柄な男に邪魔だと突き飛ばされた。
派手な柄のシャツを着て、煤けたズボンに、雪駄を履いた二人組みは、慌てた声を上げて走っていった。

─────京一は、それを見送る暇はなかった。




ざわざわと人が作った壁の内側で、倒れていたのは、父親だった。






─────父ちゃん





そう父を呼んだのは、随分久しぶりだったかも知れない。
稽古の最中に呼ぶなんて持っての外で、最近は日常の中でさえそう呼ぶ事はなくなっていた。

けれど、久しぶりに呼ぶのがこんな場面だなんて、思ってもいなかった。






父ちゃん、父ちゃん






地面に伏した父の顔は、苦悶に歪み。
脇腹からは夥しい鮮血が流れ、地面に水溜りを作っていた。
よく似合っていた着流しも赤黒くなり、酷く気持ちの悪い色になっている。

京一は怪我をするのは日常茶飯事だったが、こんなに沢山の血を見た事はなかった。
それこそ漫画やアニメの中の世界の話で、現実、目の前にそんな事が起きるなんて。







父ちゃ……──────







伏した父の傍らに縋り付いて、そのがっしりとした体躯を揺さぶる。
ぬるりとした生温かい液体が、小さな手に付着した。
それでも構わず揺さぶって、声が帰ってくることだけ願った。

けれど、子供の願いは叶わなかった。


周囲の人垣はざわつくばかりで、誰も近付こうとしない。
賑やかな祭りの中で起きた悲惨な光景に、如何して良いのか判らないのだろう。




まだ、体温は温かいのに。
触れた身体は酷く冷たくて、動かない。

撫でてくれた、手のひらも。


何故、どうして、父親がこんな事になっているのか。
京一にとって過程は最早どうでもよくて、ただ、目の前の現実だけが存在していた。




涙が零れなかった理由は判らない。
泣くのがみっともないと思ったからじゃない。
そう思う事さえ、その時は出来なかった。
その後も、なかった。




自分を突き飛ばした二人の男を思い出す。
慌てた声を上げて、逃げるように走って行った二人組。







「ごめんなさい…! ごめんなさい…っ!」






女性が一人、泣いていた。
細い手首に痣が残っている。



父は、ヤクザ者の抗争だとかによく首を突っ込んでいた。
別に何処に味方しているとか言うのではなく、一般人が巻き込まれるのを良しとしなかった。
京一には、単に危ないことを好んでいるようにしか見えなかったけれど。

私の所為でお父さんが、と泣く女性の言葉は、聞こえなかった。
それでも頭の中は働き始め、奴等に絡まれた彼女を助ける為に、父が。
腰に差していた木刀を握った右手が、雄弁に語る。







なんでこんな事にならなきゃいけない?
なんでこの人が泣かなきゃいけない?

なんで父ちゃんが。






──────悪いのは、あいつ等じゃないか。










それからの行動は、理性なんてものとは程遠く。
力を失った父の手から、木刀を取り上げた。

柄に埋め込まれた数珠具が音を立てた。
仏教に信心がある訳でもないのに、どうしてそんなものを付けているのか不思議だった。
今でも不思議だ、でももう理由を知る事はきっとないだろう。
だって、父は。



もう。








大嫌いな、父親。

憧れていた、父親。




なんで、こんな。





誰が、こんな。










木刀だけを手に、走り出した。
祭りに来た人々が止めようと手を伸ばしたけれど、振り払って。
夜の街に解けて消えた、奴等を追って。




父ちゃんがいて。
母ちゃんがいて。
姉ちゃんがいて。

それが、京一の傍にある筈のもので。


父ちゃんに散々扱かれて。
母ちゃんに手当てして貰って。
姉ちゃんに揶揄われて。

それが、毎日の風景である筈のもので。



それが、続くものだと、思って。





母は父の事を愛していて、姉も父の事が好きだった。
京一は父が嫌いだったけれど、憧れで。

───────奪われていいものなんかじゃなくて。








大嫌いだった。
大嫌いだった。

だけど。




あの人は、家族にとって、大切な人で。







誰にも奪っていい権利なんて、ある筈なくて。













──────────赦さねぇ










父がいなくなって。

母はこれからどうすればいい?
姉はどんな顔をする?


オレは、長男だから。
守らなきゃいけない。
強くならなきゃいけない。

父ちゃんの、代わりに。
父ちゃんを殺したような、悪い奴等から。



だけど、そんな事をしても、父はきっと戻って来ない。
どんなに強くなっても、どんなに守ってみせても、頭を撫でる手は、ない。












─────────オレが、赦さねぇ……!!












母から、姉から、父を奪った奴等を赦さない。
傷付かなくていい人達を傷付けた奴等を赦さない。



父はもう動かない。
もう剣術を教えてくれない。
もう難しい話をしない。

もう、頭を撫でてくれない。


母にありきたりな台詞で愛を囁くこともしない。
姉にワガママに振り回されて、仕方ないなと折れることもない。




だって、もう。













祭囃子が遠い。
提灯の灯火が見えない。





幼い頃に、


暗がりの中で、ぶっきら棒に道を教えてくれた、大嫌いで、憧れの、手は、




──────────もう、
































「きょーいち」









聞こえた呼ぶ声に、瞼を上げた。


眠ってはいなかった。
けれども、動くのが面倒で、声の方向を見ようともしなかった。

そうしていると相手の方が動く気配がして、程無くして、声の主は京一の視界にひょいと入り込んできた。




いつも京一が昼寝をしている木の上。
特等席だか指定席だか、とにかく京一は今日も其処にいた。

そして相棒のような親友のような、不思議と馴染んだ間柄になった転校生も、最近は其処によく現れるようになった。





「京一、今日は眠そうだね」





幹に寄りかかった京一を見ながら、龍麻は枝に腰掛けて言う。
京一は返事をせず、また瞼を閉じた。





「寝るの? 京一」
「……寝ねェよ」
「そう。珍しいね」




此処にくると、京一は大抵寝ていた。
足の下に人が来ると、気配に敏感で目覚めるけれど、やっぱりまた眠る。

夏休みを終えても、まだ太陽の日差しは強く、屋上では暑いばかり。
此処ならば適度な木陰に適度な風、昼寝をするにはもってこいだ。
だから、誰の邪魔も望まぬ時、京一は大抵此処に来た。
─────そうして、それを判っていて龍麻も此処へやってくる。



龍麻はじっと京一を見ていた。
京一もその視線を感じていた。
眠らない理由を龍麻は問わなかったし、京一も言おうとは思わない。

二人で、ただ其処にいた。


時刻は昼前、まだ授業中だった。
京一がサボりを誘った訳でもないのに、龍麻が自主休講を取るのは珍しい。
授業に出ていてもぼんやりしていて寝ている事が多いけれど、一応、出席だけは取るのだ。
何故か京一がサボタージュの誘いをかけると、断わる事をしないが。

今のこの時間の授業は、確か生物だった。
また犬神に目ェつけられるな……と思いつつ、京一は溜め息を飲み込んだ。





黙したまま動かぬ京一を、龍麻がぐっと身体を伸ばして顔を覗き込む。






「京一」





呼ばれて、片目だけ開けてみた。
近い距離に龍麻の顔がある。
判っていたから、驚かなかった。







「今日は、なんだかいつもと違うね」
「いつも通りだろ」
「そうだね」






違うと言う言葉を否定すると、龍麻はそれに頷いた。
……よく判らない。



見上げてくる瞳は、何処までも澄んでいて透き通って見える。
其処に映った自分の顔を見たくなくて、京一はまた目を閉じた。


瞼の裏側を見ている眼球が映し出しているのは、暗闇ではなかった。
木漏れ日の隙間から零れた陽光が、丁度眼球の上に落ちてきている。
薄い皮膚膜の中にある血管が透けて見えて、視界は黒ではなく、赤で一杯になった。

いつの間にか、見慣れてしまった色だった。
あの日を境に、あの瞬間から、いつの間にか。







「京一」






呼ばれた後、何かが頬に触れた。
温かい体温と、それを覆う薄手の布と。
ああ龍麻の手か、と気付いた。

その後で、思い出す。
幼いあの日、くしゃくしゃに髪を掻き乱した大きな手を。


だらりと垂らしていた左手を上げて、龍麻のその手を振り払った。





「オレぁガキじゃねぇよ」
「うん。でも、したくなったから」
「なんだそりゃ」
「したかったから、僕が。京一の頭、撫でたいって」





また龍麻の手が伸びて、もう一度振り払おうかと思ったが、結局やめた。
やればやった分だけ、龍麻は繰り返し撫でようとするだろう。
一々払う動作をするのが面倒臭くなって、京一は龍麻の好きにさせる事にした。



触れる手は、少しだけ硬かった。
拳で戦う者の手。
少しだけ、それが父の手を思い起こさせた。

記憶の中の自分は小さかったから、その手はとても大きく思えた。
今の自分と、あの頃の父と、どちらの手が大きいのか、確かめることは出来ない。
だから京一の中で、あの手はいつまでも大きいままだった。
だってあの日、父の時間は止まったのだから。






(────そういえば、)






くしゃくしゃ撫でる手は止まりそうにない。
閉じた瞼の裏側は、まだ赤かった。






(……思い出したのは、久しぶりかも知れねえな)





誰かの手を、父の手と重ねて思うこともなかった。
決して忘れてはいないつもりだったけれど、思い出すことは少なくなっていた。


嘗ては憑り付かれた様に、あの瞬間の映像を繰り返し繰り返し思い出していたのに。
その度に渦巻く感情は更に荒れて、ただ我武者羅に強さを求めて、剣を振った。
無意味であろう争いも繰り返し、気に入らない人間を打ちのめした時、ほんの少しだけスッキリした気がした。
けれども次の瞬間には巻き戻しをしたかのように同じ映像が脳裏に蘇り、腸が煮えくり返る。
─────そんな、繰り返し。

今は何処にいるのかも知らぬ師に出会い。
同じく荒んでいた醍醐に出会い。
この学校に入学して、二年と少し。

求めていた強さには足りない、けれども前ほど焦がれることはなくなった。



最後の最後、ケンカ別れの時に言われた師の言葉の意味は、まだ判らない。
父がいつもいつも腰に木刀を下げていた意味も、まだ判らない。

判らない、けれど。




優しい思い出だけに逃げていたら、忘れた事も出来たのかも知れない、けれど。

母のように、姉のように、優しい夫を、父を求めていたら。
悲しみに嘆いて泣いた後、柔らかな思い出を柔らかな絹に包むことが出来たのかも知れないけど。









(…今頃になって夢に出るなんざ。忘れるなって言いたいのか?)









思い出さなくなっていたのは、思い出す暇がなくなっていたから。
過去の緋色よりも、目の前の透明な光に目を奪われるようになったから。



右手の中、紫色の太刀袋の中の木刀を、強く握り締める。
ぎりりと音がしたような気がした。

一瞬、龍麻の手が止まる。
しかしすぐに動きは再開された。
何事もなかったかのように、その手は京一の頭を撫でる。





─────誰かに頭を撫でられたのは、どれくらいぶりだろう。






最後に、頭を撫でたのは、










(…………安心しろよ)











優しい母でもなく、
強気な姉でもなく、

今目の前で撫でている、相棒でもなく。




大嫌いな、父親で、












(アンタの事は、ずっとずっと、大嫌いだから)












家族を置いて逝ってしまった、

最後までよく判らないままだった、




それでも強かった、






────────大嫌いで、憧れの、父親。















憎むほどに嫌いであれば、


あんたの存在が薄れることはないからさ。

















二幕第三話の、京一の幼少期のシーンから捏造妄想勢い執筆。
木刀がどうも形見っぽかったので、其処から発展させました。

父ちゃん大好きっ子でも良かったんですが、やっぱりツンデレにしてみました。
なんだかんだ言って、父ちゃんの事は好きなんです。嫌いで、憧れで、好き。複雑。
そして忘れない為に、薄れない為に、嫌いと言い続けるのです。
淡い優しい感情よりも、刻むような憎悪の方が頭に残るから。


なんで京ちゃんは家に帰らないんだろう。
でもって、いつから帰っていないのか。

京一の家族についてはやってくれないんだろうか……