人は最初から一人で

生まれ、歩いて、死んでいく




人の腹から生まれ

人の中で育ち

人に囲まれ目を閉じる


それでも、一人で生きて歩いて死んでいく





生まれた時、其処にあるのは光と闇

赤子が泣くのは、誕生への喜びと、現世の地獄に嘆き泣く為






絵図などよりも、この世は地獄

現世と言う名に最も近い地獄の世界





その地獄の中で、一人、死に物狂いで這って生きる。


















Preta-loka


















傷だらけで帰ってきた少年を、この場所だけは、何も言わずに受け止める。
良くない顔をしている事は少年にも判ったが、何も言わないから、それに甘えて此処にいる。

寝床は手放す気にはならなかったし、何より、此処は居心地が良い。
今となってはくすぐったい言葉も、照れ臭くても、此処なら素直に受け止められた。
何をしても何を言っても、此処の人達はいつも許してくれる、だから。




腹、減った。
そう言えば、いつも暖かい食事が用意される。

疲れた。
そう言えば、いつも暖かい寝床があって。



一時、強い日差しも雨風も、隠れようがなかった時があった。
今よりも小さかった手に木刀一本だけを握って、後は何も持っていなかった。
高架下で寒さに震えて、膝を抱えて丸くなり、眠る事さえ出来なかった日もあった。

そんな日々の後で、柔らかな寝床が出来たから、もう一度あの生活に戻りたくないと思う気持ちが強い。
だからどんなに帰り辛いと少しでも思う時があっても、この場所にだけは、帰って来た。





優しい目で見下ろしてくる優しい人の顔を、最近見ていない。
どんな顔をして見ていいのかが判らなくて、目線を合わせられずにいる。
優しい人はそんな自分に怒りもせずに、無理に顔を合わせようともせずに、ただ此方に合わせて応えてくれた。


今日も同じで、その人は、傷だらけで帰って来た京一を、お帰りなさいと言って受け入れた。
返事をしないで中に入って、定位置になりつつあるソファへと腰を下ろせば、直ぐに救急箱を持って他の人もやって来る。

挨拶はコミュニケーションの基本よ、と何時だったか言われたのを、今もまだ覚えている。
けれども、それをきちんと守っていたのは数年前の話で、最近はめっきり減った。
だけど、やっぱり誰もそれを怒る事はなくて。




「………ッ」
「あ、ごめんね、京ちゃん」




額の傷に消毒液が染みて、一瞬表情が苦悶に歪んだ。

直ぐに謝罪の言葉があって、京一は平気だと首を横に振る。
そうすると、アンジーは眉尻を下げて笑って、そう、良かった、と。



額の傷、目尻の痣、頬の火傷、首筋のを伝う血。
ボロボロになったブレザーはすっかり草臥れて、靴も泥だらけ。

学校に行ったのは、いつの話だっただろうか。
義務教育だと言われても全く興味が沸かずに、気が向いた時にだけ、此処の人達に教えて貰った。
その内容も殆ど覚えていないから、頭の中はてんで軽いんだろうと、自覚があって。
でも学校になんて行く気がないから、そんな事はどうでも良かった。


自分がどんな顔をしていたって、此処にいる人々は気にしなくて。
それ以前から自分を知っている事もあるだろうけれど、何処に行っても何をしても、そのまま受け止めてくれる。

今はそれが心地良くて、




「この手、大丈夫かしらねェ……」
「……なんともねェよ」
「なら、いいんだけど。痛かったら、先生の所に行ってね」




無理強いもなく。
取り上げる事もなく。

やりたいようにやらせてくれる。


それが心地良くて、都合の良いように利用しているような気もして、





「アラ。また、何処かに行くの?」





立ち上がった京一を、アンジーは止めなかった。
まだ手当てが終わっていない事も、言わない。









「いってらっしゃい、京ちゃん」












心地良いのに、時々、泣きたいくらいに酷く痛い。




































理由の判らない痛みも。
満たされない、正体の見えない餓えも。

どうしてか判らないけれど、剣を振るっている時にだけ、忘れる事が出来る。



発作のように、動悸のようなものが始まって、息が出来なくなる時がある。
酷い時には立っていられなくて、胃の中のものを吐き出して、それでも治まらない。

腹の中が空っぽになれば、当然次は腹が減るのに、食ってもそれは満たされた感覚がしない。
餓えているのは其処じゃない、もっと別の何かがだと、けれどもその“何か”が判らない。
何をすればそれが満たされるのか、ずっと判らないままでいる。


憂さ晴らしのように喧嘩をしている内に、その時だけ、動悸も呼吸も思う通りになる事に気付いた。
ムカ付いた輩を足腰が立たなくなるまで叩きのめして、ようやく飢餓感から開放された。





けれど、それは束の間。





いつからそれが始まったのか、自分の事だけれど、判らない。
随分昔からあったような、つい最近の事のような。
昨日の事さえ忘れている事が増えて、それを思い出すのも面倒になった。

考えようとすると、呼吸が出来なくなる。
だから、必然的に考えるのを止めた。



気を抜いたら、飢餓が来る。
気を抜いたら、呼吸を持って行かれる。

だから、ずっと警戒していた。
見えない何かが、何処かに引き摺り込もうとするから、警戒した。
まだ死にたくない事だけが、明確だった。





いつしか、思うようになった。

此処は、地獄に似ている。
いや、現世の皮を被った、地獄だ。





幾ら食っても満たされない。
食ったものは全て吐き出して、結局零になる。

息が出来ない。
自分の意思だけで息が出来ない。
意識しないと、呼吸の仕方を忘れてしまう。



出口のない地獄。
這い上がる壁さえもない、地獄。









道端で女を犯している男がいた。


背中を蹴飛ばしてやると、蛙が引きつったような声を上げて、男がひっくり返る。
女が呆然と此方を見上げて、数瞬、京一の顔を見てから直ぐに立ち上がって駆け出した。

ヒールの鳴る耳障りな音が遠くなった頃になって、漸く男が起き上がる。





「てめえ糞餓鬼! 何しやがる!!」





女を助けたつもりはないし、正義感なんてものでもない。
見付けて、ただ気に入らなかった、だから蹴飛ばした、それだけの事。


無言のままの京一に、男は眉を跳ねさせる。
バチン、と弾く音がした直後、路地に滑り込んだ灯りが銀を反射させた。

けれども、それは京一の琴線に触れる事はない。
いつしか感情が、感覚が、麻痺するようになってきて、そのまま元に戻らなくなった。
向けられる刃を恐れる意味が判らなくて、口元に浮かぶのは歪んだ笑みだけ。




昔は、どうだっただろうか。
怖いと思った時もあったのだろうか。

今よりもずっと見える視界が低かった頃は、世界はどんな風に見えていたのだろう。
こんなに地獄みたいな世界だったなんて、一度だって考えた事があっただろうか。





「大人ァ舐めんじゃねえぞ、固羅ァ!」





向かってきたナイフの動きは、目を閉じても追える。
滅茶苦茶に振り回されたところで、京一にはなんの苦にもならない。


一歩前に出て、足を払う。
バランスを崩した男の背中を、木刀の柄頭で打った。
蹴った時と同じ、耳障りな声が鼓膜を震わせる。

蹈鞴を踏んだ後で、男は振り返って何か判らない言語を撒き散らした。
唾が跳んで、京一は眉間に皺を寄せる。




「……汚ェモン撒いてんじゃねェよ、ブタ野郎」
「あァア!?」





怒髪天を突いた男は、眼球を引ん剥いて京一を睨む。


木刀を一度振るう。
刃が当たって、ビルのガラスが派手な音を立てて割れた。
ガシャガシャと煩い音が狭い路地に響く。




一つ、息を吐いた。
スムーズに。

筋肉が動くのか、伝達が早い。
信号どおりに躯が動いて、後は本能が命じるままに。
呼吸は意識しなくても、絶える事なく出来ていて。




ナイフが肩を貫いた。
男がにやりと笑う。

その男の顔に間近に近付いて、同じように笑って見せれば、男の顔が引き攣って。








「手前が舐めんな」







右手を振るって、風の切る音がした後で、鈍い音。
見れば男の腕は奇妙な方向に曲がっている。


ナイフが突き刺さったままの肩は、不思議と痛みがない。
信号どおりに筋肉は動くのに、どうしてか、痛みの信号は聞こえない。
腕だって問題なく持ち上がるし、振り下ろせる。

それでも邪魔臭くて鬱陶しかったから、左手でナイフを掴んで引き抜いた。
ズルリと肉を切り裂いて出てきた銀の刃は、紅に濡れてやけに綺麗に煌いた。





痛いとか。
苦しいとか。
辛いとか。

そんなものは要らない。
そんなものは邪魔なだけだ。





男は曲がった腕を抱えて、埃臭い地面の上でのた打ち回る。

痛い、痛い、痛い、痛い、叫んで騒いで泣いている。
同じ言葉を、ついさっきまで己が組み敷いた女が叫んでいた事を、この男は覚えているのだろうか。


右手に木刀を、左手にナイフを持ったまま、男に近付いた。
影に気付いて男は逃げを打ったが、腰が抜けたか、立てずにその場で這い蹲る様はまるで芋虫だ。
追い付くことは容易くて、背後に立って、木刀を振り翳す。

そのまま躊躇せずに打ち下ろせば、男は仰け反って地面に落ちた。





痛い、痛い、助けてくれ。

そう叫ぶ男が、今まで何をして来たかなんて知らない。
それでも、今と逆の立場で同じ事をしていたのを想像するのは容易くて。


助けてくれ、なんでもするから、死にたくない。

して欲しいことなんて何もないし、死にたくないなら逃げればいい。
這い蹲って幾らだって逃げられる、足と腕一本があるのだから。





顔が歪む。

笑みで歪む。



息が楽だった。
こんな事で、自分は容易く息が出来る。

この現世の皮を被った地獄で、まだ生きていられる。







「なあ、悪かった! 悪かった! だから頼む、助けてくれ……!」





あまりに必死に懇願するのが癪に障って、尻を蹴飛ばす。
男は今度は尻を抑えて、仰向けになってじたばたと呻いた。


あれだけ強気に向かって来た癖に、女を力で支配していた癖に。
同じ人間とは思えない程に無様な有体に、京一は無意識に舌を打った。





同じ台詞を言った女に、お前は一体何をした。
同じ台詞を言った奴に、お前はどんな事をした。

そんな事は知らない、知らないけれど。



そいつが願った通りにしてやったと、お前は絶対を持って言い切れるか?




───────目障りだ。






自分の肩を貫いたナイフを持ち上げる。
ヒ、と男が引き攣った悲鳴を上げた。




何処に落とす?
どうやって落とす?


斬首刑などで人の首が跳んだ時、人は数瞬意識が残っていると言う。
頭蓋に穴が開いただけでは、人はまだ死なないらしい。

ならば、何処にこの刃を落とす?












「─────────────ッッッ」














ガキッ、と音がして。
折れた刃が跳ねて、頬を傷付けた。

皮膚の隙間から零れた紅が、男の顔に落ちる。


男は既に泡を吹いて、白目を向いて、失禁しながら気絶していた。




指の隙間から零れ落ちるように、ナイフが音を立てて地面に転がる。
刃を失ったそれは、もう既になんの役にも立たない、単なるガラクタに成り果てた。



立ち上がって、数歩下がって男から離れる。
足が縺れて、後ろに転んだ。

吐き気がして、左手で口を押さえて、ぬるりとしたものに気付く。
開いた手には、己のものに違いない、紅一色。
けれども一瞬、それが自分のものではなく、他人の────其処に転がる男のものであるような気がして。





「────────……ッッぁ………!!」





息。
息、が。


息、が────出、来ない。





ドクドクと、鼓動が煩い。

目の前がぐるりぐるりと歪んで、手が震えた。
肩からごぽりと血が漏れて、けれども痛みが判らない。


息をしないと、死んでしまう。
息をしないと。

でも、どうすれば息が出来たか、もう判らない。







何かが足を掴んでいる。
何かが腕を捕まえている。


何かが、引き擦り込もうとする。



見えない何かが、何処かへ連れて行こうとする。









慌てて立ち上がって─────そのつもりで、酷く動きは遅かった。

機ばかり急いて、足は縺れて、腕が震えて、立ち上がることさえ容易に出来ない。
肩が熱くて、腕に力が入らない。


漸う木刀だけを手にして、壁を伝いに立ち上がる。
失神したままの男は目覚める様子もなく、動かない。
それももう目に入らなかった。



何かが纏わりついてくるかのように、酷く足が重い。
まるで自分のものではないような気がして、其処だけ既に引き擦り込まれているような気がする。

立ち止まっては行けない。
立ち止まったら、あっと言う間に連れて行かれる。
そうなったら、二度と戻って来られない。


剣を振るっている時だけは、そんなものは何一つとして感じない。
だけれど束の間離れたら、直ぐに餓えたそれらは敏感に感じ取ってやって来る。

どんなに抗ってみても、どんなに振り払おうとしても、それらは決して離れない。
まるで取り憑くように傍にいて、隙を見せれば引き擦り込もうとして。
抗えば抗うだけ、何かが酷く餓えて行く。




抵抗するのは、疲れる。






(疲れ、た)






痛みなんて感じない。
苦しいのも、辛いのも、判らない。

だけど、疲れた事だけは、やけにはっきりと判って。


それならいっそ止めてしまえと、餓えた何かが誘いをかける。



それもいいかと、時折、考えて、








「ああ、京ちゃん、此処にいた」








呼ぶ声がして顔を上げれば、路地の出口で、見知った人が立っている。
優しい顔をして、優しい笑みを浮かべて、此方を見ている。


ずるずる足を引き摺って、目の前まで来て立ち止まれば、やはり優しい瞳が見下ろして。
直視できずに俯いたら、大きな手がそっと頬を撫でた。
持ち上げられる事はなかったから、顔を見られる事はなかった。

また怪我しちゃったのねェ、手当てしなきゃね。
理由も何も聞かないで、それだけ言って、行きましょうと告げる声。




甘えているようで。
利用しているようで。

だって、居心地がいいから。


現世に近い地獄の中で、此処だけ酷く心地良いから。






帰りましょうと伸ばされた手を、躊躇いながらも掴んでいる。





















暗い道の真ん中で、光なんて見えない

闇しか見えないこの世界で、光の見付け方が判らない



それでもまだ、光が見たくて、生きている





一人で、暗い道を歩く

一人で、生きて歩いて、いつか死ぬから



その時までに、もう一度光を見てみたくて









現世に近い地獄の中で、這い蹲って生きている


















中学時代、京士浪が失踪した後です。
あの時期の荒れに荒れまくった京ちゃんに非常にときめいております(台無し!)。
そしてアンジーさんには、京一に対して何処までも“愛”でいて欲しい。

全編殆どモノローグですね、こういう文章好きなのです。
そして普段はほのぼの書いてますが、根はシリアス好きの人間なので、こういうタイプは書いてて結構楽しんでます。


タイトル[Preta-loka]はサンスクリット語で[餓鬼世界]。