ここは、

誰も踏み込めない、砦のようだから



……束の間、全てから逃げることを赦して下さい














Breeze fortress


















授業中、引き攣る感覚に顔を顰め、シャツの胸元を握る京一に気付いたのは、葵だった。
その様を見てしまったのは、座っている席の角度から、全くの偶然だ。
故に、京一は自分のその動作を葵に気付かれたとは思っていなかった。

赤いシャツの下に隠された彼の其処には、懇意の病院で今朝も巻かれたのだろう包帯がある。
その更に下にあるのは、一週間ほど前の戦いで負った大きな裂傷だ。


葵はその傷を直接見てはいなかったが、岩山の話を聞くところによると、半死半生の傷だと言う。
そんな傷を負っても生きている京一を、岩山は頑丈な奴だと笑っていたが、葵にとってはそれでは済まされない。
これは葵の生来の性格と気質によるものであるから、気にするなと言われても土台無理な話だった。
幸いなのは、普段の京一の表情が常のものと変わりないと言う事か。

しかし、ふとした瞬間の京一の動作を注意深く見ていると、何処かで傷を庇っている節がある。
あれだけの大きな傷であるのだし、包帯も肩から胸部、腹部まで巻かれているから、動きに制約がかかるのも仕方がない。
その度に葵は京一の傷の事が気になって、彼に心配の声をかけずにはいられなかった。



あの傷は、拳武館一の剣術の使い手である男に負わされたものだと言う。
全ては誤解と策謀の出来事で、それを知った時に男とその仲間達は酷く狼狽していた。

葵は、決して彼らの事を厭うてはいない。
どんな理由があるにせよ、人の命を奪う事に葵は賛同出来ないが、それでも彼らの人格まで嫌うことは出来なかった。
何より、直後の式神との戦いの最中、京一と共に葵を庇ってくれたのは、彼の男だったのだ。
感謝こそすれ、憎む道理はない。

だから、二度目は不戦敗を認めたとは言え、京一を一度負かした彼がどれ程の剣の腕を持つのか、葵にも龍麻や醍醐ほどではなくとも、想像する事が出来た。




葵は、ノートに走らせていたシャーペンを止め、数式の乱立する紙を見下ろした。
眉根が寄り、傍目に泣き出しそうな表情が浮かんでいたが、それを見るものは誰もいない。

脳裏に、数日前に見た京一の、少し疲れた表情が浮かぶ。





『─────あ? 治療?』





死闘の後、龍山の計らいで一同は織部神社に集まり、しばしの休息に身を委ねた。
その最中に各々の傷の手当てをし、特に酷い京一などは後で病院に行く事を何度も釘付けていた時だ。

京一は、一番の深手である筈の裂傷の手当てを断った。
葵の《力》で少しでも治癒を早めようと言う申し出も。




『大した傷じゃねェからいらねェよ。それより、龍麻ンとこ行ってやれ』




ひらひらと手を振って、京一は結局、解れた包帯を巻き直すだけに留まった。
その時彼はずっと葵達に背を向けていて、裂傷も見せなければ、その時の表情さえも見せてはくれない。


彼は───京一はいつもそうだ。
肝心なことは何も言ってくれなくて、周りに悟らせることなく、自分一人で片付けようとする。
それは葵も同じ所があるのだが、葵と彼の決定的な違いは、それを完遂できるか否かだ。

葵にとっては悔しいことに、途中でどうしても誰かの手を頼らざるを得なくなり、結果、皆を巻き込むことを申し訳なく思う。
だが、そのお陰で仲間達との絆を得ることが出来、葵自身も全て自分で抱えなくて良いのだと柔軟性を持つ事が出来た。

所が京一は、周りの人間を拒否して遠ざけた上で、全て自分で終わらせてしまう。
何かにつけて周囲を挑発する毒舌ぶりや、実戦慣れした天武の才とも言える剣の腕が、それを執行させる。
そして葵や小蒔達が気付いた時には、彼は一人で───若しくは言わずとも伝わる親友と───事を終着させていた。


京一は、肝心な所で仲間を頼ってくれない。
葵は度々、そう感じていた。




授業終了のチャイムが鳴り、それで葵の意識は現実へと還る。
はっとして顔を上げ、再び彼を見た時には、彼はいつもの顔で大欠伸をしている所だった。

目尻に涙を溜めて唇を尖らせている様子は、見慣れた日常風景と変わらない。
其処へ彼の相棒である龍麻がひょっこりやってきて、ノートの落書きを嬉しそうに見せるのも。
京一は面倒臭そうにノートを眺めた後、一言二言何か言って、席を立って教室を出て行った。
龍麻はノートの落書きを見下ろして、そうかなァ、と小さく呟いていた。



その様子をじっと見詰めていた葵の横に、小蒔が立つ。




「いつも通りだね、あの二人」




そう言った親友を見上げれば、小蒔は少し安心したような表情をしていた。
彼女もまた、京一の傷や、一連の出来事で沢山の事を一挙に聞かされた龍麻の事が心配だったのだ。

ちなみに、その当人達はと言うと、周囲の事など気にもせずにマイペースだ。
拳武館の事件が起こる以前と、大して変わらない。


そう、いつも通り。
あの二人はいつも通りだ。

いつも通りに何も言わないし、頼らないし、見せてくれない。




「………葵?」
「……うん……」




じっと見つめる親友に、どうしたんだろうと小蒔が名を呼べば、葵の返事はそれが精一杯だった。
心此処に在らずの葵に、小蒔もまた、眉尻を下げる。

日常生活の中に潜む、ふとした違和感に気付いてしまった瞬間、今までの出来事が走馬灯のように脳裏を過ぎる。
特に数日前の拳武館との出来事は、まだ然程の時間が流れていなかった事と、それぞれの衝撃的な出来事の乱立とで、彼女たちの表情を曇らせるには十分すぎる。
周囲に鳴り響く日常風景の雑踏と雑音さえ、今の葵達には酷く遠くにあるもののように思えた。




「葵、顔色良くないよ。次の授業は休んだら?」
「……そうね。そうするわ」
「うん。先生にはボクから言っとくよ」
「ありがとう、小蒔」





席を立って短い感謝を述べる葵に、小蒔は小さく首を横に振る。
そんな彼女に、今度は醍醐が声をかけてきて、葵はそれだけをちらりと見て教室を後にした。





















休んだら、と言われて向かった場所は、保健室ではなかった。
このまま行方を眩ませてしまえば、優等生と知られた生徒会長・美里葵にしては珍しいサボタージュになる。

だが、葵の足は躊躇わなかった。
休憩時間の終了間際を知って、慌てて教室に戻る生徒達と擦れ違いながら、葵は迷わずに進む。
いや、迷うと言う事すら、この時の葵の頭には欠片も残っていなかったのである。





辺りに誰もいない事だけを確認して、葵は中庭へと出た。
其処には一本の大きな木があり、昼休憩などはこの木漏れ日の下で昼食を取る事も多い。
だから、葵や真神の生徒達に馴染みがあるのは、この木の根元である。

だがこの木の上を好んで居場所にしている生徒が、一人いる。



木の下まで来て顔を上げると、一本の太い枝の上から垂れ下がる足があった。

─────京一だ。




「──────……」




名前を呼ぼうとして、出来なかった。
風の音に揺れる木々のざわめきに、その行為を拒絶されたような気がして。



葵は唇を噛んで、意を決して木の幹に手を添えた。
腕に力を込めて体を宙へと持ち上げる。


木登りなんて、葵はした事がない。
《力》を得て、鬼と戦うようになってから、首都高速の上を跳んだり、鉄塔に登ったりしたけれど、それとこれとは別だろう。
子供の頃から思い出してみても、葵はあまりやんちゃな方ではなかったから、木登りの経験はゼロだった。

初めての木登りは酷く難しくて、増して意外に高さのある木だったものだから、葵は必死で登った。
これを京一や龍麻はひょいひょいと登って行ってしまう。
小蒔や醍醐、遠野もきっと登れるのだろうな、と今は関係ないことを思う。




どうして急に木登りなんてしているのか、葵は自分でもよく判らなかった。
ただ頭の中を占めているのは、木登りの事ではなくて、この木登りの先にいる彼の事。





京一は、何も言ってくれない。

何も言ってくれないけれど、ちゃんと葵を気遣ってくれる。
春から夏に移り変わる間の、あの冷たい態度も、葵を巻き込まんとしてのものだった。


彼は、そうだとはっきり言ってくれた訳ではないけれど────それも気遣いだったのだろう。
判り易い優しさで押し退けられれば葵は退くかも知れないが、あの頃は然程親しい仲でもなかったし、葵の性格から考えると、優しい拒絶では本当の意味で身を引くとは思えなかったから、あんなに冷たい言い方をした。
自分の言葉で葵が傷付き、自分が嫌われる事で、彼女が危険から遠ざけるようにしていたのだろうと、今なら思う。

結局、あの頃から葵は無茶ばかりで、今でも時々京一からきつい一言を貰う時もある。
それでも言葉の端々にあるのは「気にするな」とか、「大丈夫だから」と言う事で、葵は確かにそれに救われている部分があった。

それらは、親友の小蒔や、柔らかく優しい龍麻や醍醐にはない、厳しい優しさだった。



でも、それは彼自身を孤独に追い遣る手段だと、時折思う。
そうして、だからこそ葵は、今こんな行為をしているのだ。





京一は何も言ってくれない。
絆の中で、彼は何処かで孤独だった。

だから、彼になら、と言う甘えが葵の意識の何処かにあった。



一緒に悩んで欲しい訳でもなく。
何か優しい慰めが欲しい訳でもなく。
どちらかと言えば、一言で切り捨ててしまって欲しいのかも知れない。

小蒔や遠野は一緒に悩んでくれる、龍麻は一緒に顔を曇らせてくれて、醍醐は慰めてくれる。
それらとは違うものを求めている時、葵は彼を選んだ。


誰にも言えない時、誰にも見せられない時、それでも何かが破裂して其処から溢れ出して失血してしまいそうな時。
傷を塞ぐでも、同じ場所に傷を作るでもなく、破裂しそうな場所を小く細い針で刺してくれるような彼の存在は、葵にとって決して小さくはなかった。





どれだけの時間がかかったのかは判らない。
葵がようやく彼と同じ高さにまで登れた時、葵はすっかり疲れていた。


そんな中、肩越しに覗いた彼の表情は、眠っているようで眉間の険が抜けて何処か幼さを帯びていて。
葵が彼のそんな顔を見たのはこれが初めてで、葵は少なからず驚いた。

その所為もあって、そして腕の疲労に耐えかねて、葵の手は幹からするりと離れてしまった。




「きゃ……」




悲鳴を上げる暇もなく、上がったのはそんな端的な音だけ。
だが、それでも彼を目覚めさせるには十分だったようで。

落ちる、と思った瞬間に、葵の手は確りとした手に繋がれていた。




「何してんだ、オメーは」




腕一本で葵の体重を支え、京一は呆れた表情で葵を見下ろした。


落下への恐怖心の動揺から、葵の心臓は早い鼓動を打っている。
そんなことなどお構いなしに、京一は「よッ」と短い掛け声一つで葵の体を持ち上げ、自分が座る枝へと座らせた。

太い木の枝の上と言う、不安定といえば不安定な、それでも一息つける場所に落ち着いて、葵はホッと息を吐く。
そんな葵を見て、京一は頬杖をついて目を窄めていた。




「で、何してんだ」




数秒前と同じ質問をした京一に、葵は眉尻を下げて笑った。




「ちょっと気分転換に」
「ほーぉ。あの優等生がねェ」




厭味のような言葉を口にしながら、京一はニヤニヤと笑っていた。
今年の春の内に見ていた刺々しいものではない、小蒔や醍醐を揶揄っている時の表情だ。




「で、サボった感想は?」




そう訊ねてくる京一は、今が既に休憩時間を終えている事をちゃんと理解しているらしい。

葵も改めて自分が今サボっているのだと感じて、少しドキドキとする内心を隠せない。
この動悸は、いけない事をしているような、そんなスリル感から来るものだ。





「ちょっとだけ、楽しいかも」
「そりゃ良かったな」
「でもやっぱり駄目ね。先生達に申し訳ないもの」
「……そーかい」




両手を広げて肩を竦める京一は、申し訳なさなど微塵も感じた事がないと言う。




「そんで、どういう風の吹き回しで、優等生がサボりなんかやってんだ?」




敢えて“優等生”と言う言葉を頻発させる京一に、葵は腹は立たなかった。


このままサボっていれば、真神学園のマドンナである美里葵のイメージに関わる。
それは本人が気にしなくても付き纏ってくるもので、案外と大きなダメージになったりするのだ。

不良生徒がちょっとした優しさを見せた時、マイナス評価は一気にプラスに向かう。
逆にいつも優しい生徒がちょっとした意地悪を見せた時、プラス評価は一気にマイナスへと下降する。
京一はそれを判っていて、また葵の性質も考えて、あまり長居するのは得策ではないと言うのだ。



けれども、葵は構わなかった。



枝に腰掛けて足を宙に下ろし、幹に寄りかかって、葵は遠く抜ける青空を見上げる。




「……色々あったから」




零れた葵の呟きは、独り言に近い。
それでも京一はちゃんと聞き留めてくれた。




「拳武館の連中か」
「それもあるけど。……色々」
「……まァな」




多くは聞かないままに同意をする京一も、葵と同じように思っているのかも知れない。
一週間前の拳武館の出来事だけでなく、今年の春から続く、沢山の戦いの渦を。




「……京一君、傷は?」
「あ? 問題ねェよ」
「………そう」




嘘、とは言わなかった。
言えなかった。

大きな傷だったら、開いていたら、倒れたりしたらどうしよう───そんな心配を拭ってくれる、嘘。
京一が大丈夫だと言う限り、その言葉を信じると、そんな甘えを赦してくれる、嘘。
京一のその嘘に、葵は甘えている。



風が吹いて、木の枝のざわめきが校舎の壁に反響して響く。
先程は声を出すことを拒絶されたような気がしたのに、今度はそれは感じられなかった。
寧ろ、周囲からの音を葵達から拒絶しているような、そんな気さえして。

……今なら、何を、どんな事を声に出しても、何処にも聞こえないような気がする。
このざわめきに包み込まれた、この小さな世界以外には。




「………いい?」
「あ?」




小さく、小さく問うた葵に、京一は眉根を寄せた。

数秒、二人の間に沈黙が続く。
京一が何も言わないことに、葵は甘えた。




「沢山の事が起きたから……少し、疲れているだけなんだと思うの」




それは、葵の弱音と本音だった。
いつも、どんな時でも真っ直ぐに前を見詰めようとする彼女の、奥底に押し込めた本音。




「まだ終わりじゃないのは判ってる。まだ終われないのも判ってる。こんな事、言ってちゃいけないのも……」




真神に集った仲間達の中で、一番最初に戦う事を決めたのは葵だ。
それぞれに皆その想いに同調してくれたけれど、鴇の声を上げたのは葵なのだ。

そんな自分がこんな事を言い出すのはいけない事だと、葵は思う。




「少しだけ……何もかも忘れたいって、思ってしまうの」
「……ンなの、よくある事だろ」




何を今更言い出すのかと言う京一は、逃げたいと、忘れたいと思った事があるのだろうか。
葵には判らなかった。

互いの顔を見ないまま、葵の独り言と、京一の相槌のような独り言は続く。




「でも、忘れてしまったら、今までの事を全部否定してしまうような気がする」
「その後思い出してるんなら問題ねェさ」
「忘れて、もう思い出さないで、昔みたいに怖い事も痛い事も知らない頃に帰りたい」
「思うだけなら罪にゃならねェ。そう思うのも、別に罪でもなんでもねェ」

「この目の事も……知らない頃に戻りたい」




呟きを非難するように、ジン、とした痛みが葵の右目を襲う。
それは今年の春に始まり、夏から秋にかけた頃に頻発するようになった痛みだ。
そして秋の終わりに近付いたあの日、覚醒した《力》。

岩山から聞かされた葵の《力》の真意は、とても重く、けれども葵にとって嬉しいものでもあった。
背負うものの重みを受け止める意思は、仲間の存在によって齎され、皆がそれを受け止めてくれた事も、また嬉しくて。


けれども時折、自分の持つ《力》の意味と重みを思い出しては、潰されてしまいそうになる。
こんな風に重みを背負っているのは、自分だけではないと判ってはいるけれど。




「逃げたいの。忘れたいの。でも、皆の事は覚えていたい」




《力》の事を忘れたい、その重みから逃げたい。
けれど、《力》を得て培われた絆は失いたくない。

それは都合が良すぎる事だと、自分でも自覚があった。




「頑張らなきゃいけないのは判ってる。でも、潰れてしまいそうなの……」




胸の上で握った手が震えているのが判る。
伏せた瞼を持ち上げたくないと思う自分がいる。

こんな事では駄目だ。
自分は前を向いて歩いていかなければならない。
それが、自分が背負ったものだから。


こんな事を言い出しても、きっと仲間達は困惑し、戸惑うだけだと葵にも判っている。
でも、彼の前でだけなら赦されるような気がしてしまうから、つい。




「………止めたいのか」




ざわめきと沈黙の隙間に滑り込んだ彼の声は、とても静かだった。

静かで、厳かで、けれども決して押し付けがましいものではなく、ただ問い掛けただけの声。
問い掛けの先を無理に掲示しろとも言わず、ただ、葵の声が還ってくるのを待つだけ。



葵は黙っていた。
なんと言って良いのか判らずにいた。

止めたいと思ってしまう弱い自分がいた事は確かで、だからこんな事を言い出しているのだと自覚している。
けれど、止めてしまう訳には行かないと、いつだったか聞かされた『宿星』とは別に感じている自分もいる。
今此処で何もかもを投げ出してしまえたら、確かに楽になるかも知れないけれど、きっと一生後悔する。


逃げたい。
逃げたくない。

止めたい。
止めたくない。


相反する感情は葵の胸の内をギリギリと締め付けて、彼女を苛む。




胸の上の手を強く強く握り締め、唇を噛む葵の横顔を、京一は視界の端で捉えていた。
数秒の静寂が酷く長いものに感じられたが、それは京一を苛立たせるには足りない。
京一の胸の内は、漣を忘れた水辺のように、静かなものだった。

木の枝葉の隙間から覗く秋晴れの青い空を見上げて、京一は口を開く。





「いいじゃねェか、止めちまえ。誰もお前を恨みゃしねェよ」





その言葉に、え、と葵が声を漏らして京一へと振り返る。
空を見上げる京一と彼女の視線は、交わる事はなかった。




「息するのも苦しいぐれェに辛いってんなら、放り投げて逃げたって良い。誰でもそうやってるモンだ。お前だけがそれを赦されねェ訳がねェ」




何処か投げ遣りな、突き放すような声だ。

……それが今の葵には心地良い。
無理をするなと言ってくれる────とてもとても遠回りで判り難い言葉で。




「何処の誰でも、どっかで何かから逃げてる」

「親とか、教師とか、勉強とか、どうでも良いちっぽけな悩みとか」

「振り回されて逃げ回って、楽な道探そうとするもんだ」




ざわざわ。
ざわざわ。

木の枝葉が鳴らす音の隙間に滑る彼の声は、とても静かで、とても優しい。




「……京一君も、そうするの?」
「だから此処にいんだろ」




葵を見、座す木の枝を指差して、京一はにやりと笑った。
それを見て、ああそう言えば今現在の授業は生物だったのだと、今になって思い出した。


京一は勉強が嫌いだ。
学校も嫌いだと言う。
真神学園の生物教師などは大嫌いだ。

だからこうやって授業をサボるし、補習を言い渡されてもまるでやる気を出さない。
嫌いなことから逃げている。



話の趣旨が変わっている事に葵は気付いていたけれど、修正しようとは思わなかった。
ニィと悪戯をした子供のように笑う京一に、葵も───久しぶりに───笑みが零れる。



枝葉のざわめきの音が止んで、チャイムが鳴った。
思いの他時間が経っていたのだと知る。




「ホレ。優等生はさっさと戻んな。いつまでも此処にいると、妙な噂立てられるぞ」
「妙なって、どんな?」
「不良生徒が優等生を悪の道に〜ってな」




クツクツと笑う京一は、それで良いなら戻らなくても良いけどな、と続けた。
その言葉は少しだけ、葵を誘惑する。

けれども葵は微笑んだだけで、スカートを押えながら地面へと飛び降りた。


京一や龍麻はしょっちゅう三階の教室からグラウンドへと飛び降りている。
そんな彼らにとっては、一際大きいとは行っても、家屋の三階と二階の間程度の背丈の木は、然程高くはないのだろう。
鬼と戦っている最中など、地上何百メートルと言う高さで応戦する事もあるのだし。

けれども今は日常の中であって、葵は木登りなんて初めてだったし、鬼と対峙している時のように全身に氣を巡らせている訳ではない。
葵の運動神経はごく普通の女の子程度で、ついでにどちらかと言えば運動は苦手な方だ。

案の定、葵は着地に失敗して、尻餅をついてしまった。




「いたた……」




埃を払いながら立ち上がってみれば、頭上から笑う声が落ちてくる。
見上げれば、京一が此方を見下ろしながら笑っていた。

葵は眉尻を下げる。




「京一君も授業に行かないと、また補習になっちゃうわ」
「あ? いいんだよ、オレは」
「駄目よ。一緒に行きましょう。次は英語だから」




貴方の嫌いな生物の授業は終わったからと。
誘ってみれば、京一は関係ないねと木の幹に寄りかかってしまう。




「マリア先生に怒られるわよ」
「へーいへい」
「京一君」
「テキトーに行くって」




ひらひらと手を振って、さっさと戻れと京一は言う。
葵は腰に手を当てて、もう、と怒った声を出してみたが、当然効果は見られない。



葵は、暫くの間、そうして京一を見上げていた。
京一は手を引っ込めてしまうとそれきりで、もう声を聞かせてくれることもない。
葵が此処に来た時に彼を見つけた時と同じ情景が、其処にはあった。

風が吹いて枝葉がざわめきの音を立て、京一はきっともう目を閉じてしまった事だろう。
ざわめきの中は、再び彼だけの砦となったのだ。


あのざわめきの砦の中は、とても不思議だ。
それは、彼が砦の主だからだろうか。






「………ありがとう」






一緒に悩んでくれる仲間も。
一緒に苦しんでくれる仲間も。

葵にとってはかけがえのない存在だ。


でも、ほんの少しだけ、何もかも投げ出したいと思った時。
求めるのは優しく暖かい温もりではなくて、突き放す冷たい温もり。
それはとても判り難いけれど、だからこそ、他の誰にもない言葉をくれる。

逃げたいと思う心に鞭打つ事はなく、まるで背を押すかのように突き放してくれる、彼。
決定打になる一線を決して越えない程度に、柔らかく突き放してくれる、彼。




右目がじん、と痛んだ。
眉根が寄るのは仕方のない事だ。
けれども、俯くことはなかった。





「貴方がいるから、私は──────………」






小蒔がいるから頑張れる。
遠野がいるから頑張れる。

龍麻がいるから頑張れる。
醍醐がいるから頑張れる。


京一がいるから──────頑張らなくても良いんだと、思う事が、出来る。











そうして、また前を見て歩いて行ける。


いつか、一人で立っていられなくなる日まで。














アニメを改めて一話から最終話までぶっ通しで見た後で、本編ラストの京一と葵の遣り取りが印象に残った結果。
葵はかなり京一に傾倒していたような、京一にしか話せない事とかあったんじゃないかなーと言う雰囲気があったので……

最終話の泣きじゃくる葵と、葵を慰める京一が好きです。「じゃあ、もう止めろよ」と言った時の京一が好きです。