Yearning 後編





──────カラスが鳴いている。


真神学園は、夕暮れを望める高台にある。
その坂を下りながら、龍麻は隣を歩く親友を見た。




真神学園剣道部は、ほんの三年前まで、「弱小部」と不名誉な呼び名で知られていた。
部員は五人以上居れば多い方で、大会などは大会進出は愚か、予選通過すら勝ち取る事は出来ない。
他校との交流試合すら黒星だらけで、毎年、他校の勝ち癖をつける為の踏み台となっていた。

広い武道館の剣道場はいつもガラ空き。
週一回しかなかった部活日には、剣道場である筈なのに、人数の多い空手部や柔道部が使用し、剣道部は隅の方で細々と素振りをしている程度と言う光景が、長い間続いていた。


真神学園は戦前から建っており、空手部、柔道部、弓道部などの武道を元としたクラブは、長年好成績を残してきた。
剣道部も例に漏れてはおらず、校長室には嘗ての生徒が残した盾やトロフィーが並んでいる。
武道館にもそれは並べられ、クラブ毎に配列されており、毎年一つ、また一つと数を増やしていた。

けれども剣道部は何年前からか、ぱったりとそれが途絶えてしまった。

轟いた名が廃れていくのは案外と早く、結果、残ったのは過去の栄光と言う名の亡霊だけ。
剣道場に入りきれない程とも思えた人数の部員は、次第に少なくなり、最後には団体戦に望めない程にもなってしまった。


剣道部の名門高校は、他に幾らでもある。
過去の栄光しかなくなった学校で、今一度その光を浴びようとする者など、皆無に等しかった。
何せ光を浴びたくとも、その舞台にすら立つ事が出来ないのだから。




それが一変したのが、二年前の春。
真神学園剣道部の現主将、蓬莱寺京一が入学した年であった。




その年の地区大会予選で、京一は正に一騎当千に相応しい成績を残す。


元より、“歌舞伎町の用心棒”として名を馳せていたものだから、ケンカの強さは有名だった。
素行不良もよく知られており、そうした人間を大会予選に出す事に良い顔をしない者も多かったが、意外にも剣道部に置いて京一は真面目な態度だった。
サボリ癖は当時からだったが、定められたルールを守り、立会い相手がいないのなら一人黙々と素振りをしている。
“歌舞伎町の用心棒”の噂に戦々恐々としていた他部員と顧問にとって、これは驚くべき事であった。

弱小部と呼ばれて久しい真神学園剣道部であったが、大会を夢見る者がいなかった訳ではない。
だから毎年のエントリーには必ず願書を出しており、結果は一回戦敗退を繰り返していた。
京一は、その下馬評を見事に覆したのである。


当時、京一のケンカではない剣の強さを知っている者は、同校生徒でさえ存在していなかった。
あまつさえ他校に対しては、蓬莱寺京一と言う人間が真神学園剣道部に在籍している事自体、知られていなかった。

地区大会よりも前に他校との交流試合があったが、その時、京一は部活をサボタージュしている。
逃げた訳でも隠れた訳でもない、単純に面倒臭かったのだ。
部活で立会い稽古をすると、噂の腕っ節とは違い、決まって判定に持ち込まれる。
ルール無用のケンカと勝手が違うからだろうと、部員達は京一のぼかされた強さを思い込んでいた。

だが、真実はなんの事はない、彼が本気を出していなかっただけの事。


大会予選で京一は個人の部を制圧し、勝ち抜きルールであった団体戦の全試合を一人で討ち取った。

京一の破竹の勢いはそれで終わらなかった。
都内最弱とまで言わしめた真神学園剣道部の、まさかの予選を勝ち抜き、地区大会への進出。
地区大会では団体戦がラウンド制であった為、一回戦敗退となったが、京一は個人の部で優勝した。
その後には全国大会地方予選を経て、何十年振りかの夏の全国大会に進出し、更にはインターハイへ進み、その全てで京一は個人戦の優勝を果たした。



真神学園の武道館には、真新しいトロフィーや楯が一気に増えた。
夢のまた夢とまで言われた優勝旗も飾られた。

その全ては、京一一人が成した功績だ。
剣道部が強くなった訳でも、なんでもなかったが────顧問が感極まって泣いてしまったのも無理はないだろう。


思わぬ剣士の登場に、真神学園は勿論、他校も沸き上がった。
遠野のように乗り込んでくる新聞部もいて、京一の存在はあっと言う間に知れ渡る。
共に彼の経歴も知られたので、一つ二つ大きな揉め事もあったのだが、それはまた別の話だ。


その後も京一は交流試合、大会全てで活躍した。
一年の三学期の終わりには、近隣高校の剣道部で京一の存在を知らない者はいなくなった。

翌年からは剣道部の入部希望者が爆発的に増えており、その殆どは京一のファンだった。
当の京一は面倒臭そうな顔をしたものの、自分のファンと言われて悪い気はしない。
サボタージュ癖は相変わらずだったが、彼の強さも相変わらずで、大会では後輩の声援を受けて如何なくその強さを発揮した。




─────真神学園剣道部が現在も在る事が出来るのは、京一のお陰と言っても過言ではないのだ。




……とは言っても。
現在の剣道部は、まさか京一一人だけが強い、と言う訳ではない。

蓬莱寺京一が群を抜いて強い事に変わりはなかったが、二年生は勿論、京一と同期の三年生も十分強い。
嘗て京一一人で勝ち抜いた大会では、各人が好成績を残すようになった。
団体戦も京一抜きで勝利をもぎ取り、個人の部でも入賞を果たし、優勝する事も珍しくはなくなった。


弱小部と呼ばれ久しかった、真神学園剣道部。
その強さを根から叩き上げたのは、誰であろう、京一に他ならなかった。




『蓬莱寺には、えらく扱かれたもんだ。俺達に対してのが、一番酷かったんじゃないか? 問答無用だったからな』




龍麻に昔話を語っていた三年生の剣道部員は、しみじみとした面持ちで告げた。
胴着の胸元には“相原”と名が縫われていた。




『特に俺や松本なんかは、あいつと同じタイミングで入部してるからな。同期って奴で、余計に容赦がなかったんだよ』




今一年生に対して行っている指導などは、まだ優しい方だと言う。


二年前は、立会い稽古となると全く手加減なしで、終いには防具なしでかかって来いとまで彼は言った。
竹刀と言えど当たれば痛いし、竹が折れて弾けるなどの事故で怪我をする事もある。
打突で吹っ飛んで床で頭部を打つ事も少なくはないから、防具なしの勝負なんて、本来なら以ての外だ。
しかしそのお陰で、緊張感の中で洞察力や反射神経が鍛えられた。

相手の足運び一つさえ見逃さない京一は、ルール無用のケンカの中、防具など身に着けずにチンピラ相手に大立ち回りする。
時に明らかな凶器と対峙する中で育まれた強さは、無茶や無謀はあるものの、確かに部員を育てる事が出来ていた。




『でもなあ、俺たちはまだ良い方だったよ。同じ一年生だし、大会であれだけ強いの見せ付けられたら、俺たちが雑魚扱いされたって文句言えなかった。少なくとも、あの頃は』




相原も、二年生の指導に当たっている松本と言う人物も、真神学園剣道部への入部が、剣道に触れる初めての機会だった。
それで京一のあの強さを見てしまうと、はっきり言って、逆らう気などなくなってしまう。
歯に衣着せない京一に腹が煮えなかったと言えば嘘になるが、実力を鑑みれば仕方がないとも思えた。

しかし、当時の二年生、三年生は流石に業腹であっただろうと、相原は言う。




『蓬莱寺の奴、先輩の指導もやったんだ。もう生意気ってモンじゃなかったよ』




相手が先輩だろうが同輩だろうが、京一には関係ない。
目上を敬うような───自分より強ければ別かも知れないが───精神など、京一にある訳もなく。
欠点を指摘する目に間違いがないだけに、“先輩”の立場である彼らは、歯噛みした事だろう。

衝突が起きたのは一度や二度の話ではないが、京一にとっては、相手が自分の話を聞こうが聞くまいが、どうでも良かった。
彼にとって他者を鍛える事に目ぼしい意味はなく、顧問に頼み込まれたから、ただそれだけの事だ。
結局、弱小部と呼ばれようと、剣道で一本取る事を臨む先輩が堪える事となった。


当時の───今もであるが───京一の最大の欠点は、言葉が足りない、と言う所だろう。
生来の口の悪さも相俟って、最低限の事を突きつけるように言うので、言われた側は針の筵を押し付けられたような気分になってしまう。

……それを京一は、恐らく、判っていて直そうとしない。
面倒臭いのもあるだろうが、自分が他者にわざわざ好かれるような態度を取る事をしなかった。
そんなものだから、彼は恨まれるばかりだ。



その話を聞いた時、龍麻は先日まで繰り返されていた、相棒とクラスメイトの遣り取りを思い出した。

葵、小蒔、醍醐。
京一は必ずと言って良い程、彼女達に冷たい態度を取り、特に葵に対しては顕著だった。
冷たく少女を突き放した京一に、龍麻も何度か「言い過ぎ」だと漏らしたものである。


けれども、現在、京一と彼女達の溝は埋まりつつある。
価値観の違いでの衝突はあるが、以前ほど刺々しい空気はない。





すぐ隣からの視線に気付いたか、京一の首が此方を向いた。




「なんだよ?」
「ううん」




首を横に振った龍麻に、京一の目が訝しげに細められた。
けれども追求はなかったので、龍麻もまた視線を前に戻して歩を進める。



周囲に人影はない。

生徒は全て帰ってしまったのだろう、遅くまで残っていた剣道部の部員も皆。
京一は面倒臭がっていたが、一応主将だし、どうせたまにしか顔を出さないのだからと、武道館の戸締りを任されていた。
その為、京一が学校を出たのは、全校生徒の中で一番最後だったと思われる。


学校を出た事で、学業終了と言う気分になったのか。
京一は欠伸を漏らして、橙に染まった遠くの町並みを見下ろしていた。
完全に気が抜けてしまった彼の横顔は、龍麻がよく知る表情だ。

けれども背筋は伸ばされていて、彼が案外姿勢正しい人間である事を、龍麻は始めて知った。
何事も面倒臭がる彼は、大抵背中を丸めているので、酷くはないが若干猫背の印象があったのだ。


……その背中を随分と小さく縮めていた少年を、龍麻は思い出した。




「あの子」
「…あ?」
「泣いてたね」




主語を指示代名詞にしたものだから、京一は何の事だか判らなかったらしい。
眉根を寄せている京一に、龍麻は改めて言おうとして、少年の名前を知らない事を思い出す。

しばしの時間を置いてから、京一は思い当たるものを呼び起こしたようで、




「あの一年か」
「うん」
「いいんだよ、あれで」




きっぱりと言い切った彼を見れば、真っ直ぐに前を見ている。




「怖いなら、さっさと止めりゃいい。怪我しねェ内にな」




幾ら防具をしても、幾らスポーツでも、怪我はつきもの。
突き指や打ち身では済まない事は少なくないし、足運びを鍛えれば自然と血豆が出来て皮が剥ける。
無茶な体運びをしたり、一瞬でも気を緩めれば、何処かを痛め、最悪使い物にならなくなる事だってある。

試合などは持っての外、そんな壇上に立つ事すら出来ないだろう。


彼がどんな気持ちで剣道部に入部したのか、龍麻も京一も知らない。
京一などは興味もないようだった。

それでも龍麻は、今の京一の言葉に零れる笑みを誤魔化せない。
横目にそれを捉えた京一が睨んだが、龍麻は開き直ってへらりと笑った。




──────と。




「せ、せん、先輩ッ!!」




響いた声に龍麻の足が止まり、僅かに遅れてから京一も立ち止まる。

振り返って坂の上を見れば、其処には小柄な少年。
部活で京一に完全に圧倒されていた、あの一年生だった。


京一と龍麻が最後の生徒だとばかり思っていたのだが、彼とその友人はまだ残っていたのか。
少年の向こうに、心配そうに見守る二人の男子生徒がいて、揃って部活中に見た顔であった。


少年は慌てて二人を追い駆けてきたのだろう。
汗を滲ませた顔が夕日に照らされて、幼い面が一所懸命に京一を見詰めていた。
緊張の所為か、足元が震えていて、立っているのもやっとと言う風だ。

少年は大きく息を吸って、




「僕、ちゃんと、やります! 強く、なりますッ!」




大きな瞳の端から、また零れ落ちそうに溢れ出す雫。
少年はそれを拭う事もせず、けれども零すまいと目を瞠る。




「次の時は、ちゃんと…ちゃんと、構えます。絶対に!」
「…口じゃどうとでも言える」
「絶対です!!」




冷たく斬り捨てた京一の言葉に、少年は弾けるように叫んだ。




「だから……お願いします! 先輩みたいに、強くなりたいから!!」




──────京一の強さは、剣道部に身を置く者にとって、憧れだった。

素行の悪さはさて置くとしても、大会で見せる強さは現役にして伝説化していると言って良い。
背筋を伸ばし、正眼に剣を構え、凛とした空気を纏う彼は、他の者にはない存在感を醸し出している。
故に、吾妻橋達のような舎弟とは別の意味で、けれど同じ深さで、京一に心酔する人間は珍しくはない。


勿論、剣の腕をどれだけ磨いた所で、誰も京一にはなれない。
憧れは憧れでしかなく、彼と同じ強さを手に入れることもないだろう。

それでも、彼の存在が一つの道標である事は、確かなのだ。




息を切らせ、肩を震わせる少年に、京一は背を向けた。




「京一」




きっと誰も出来ないだろうから、龍麻が彼を呼んだ。

それに促されたからと言う訳ではないだろうけれど、きっかけにはなっただろう。
放って置けば何も言わない彼の、口を開かせるくらいには。




「来週、顔出してやる。そン時、気が向いたら相手してやるよ」




それが彼の名誉挽回のチャンスであると、きっと少年も判っただろう。
その時に彼自身が出来る事を果たせば、それで彼の気持ちは伝わる。



歩き出した京一を追って、龍麻も坂を下って行く。
坂の上では、少年の友人たちの良く頑張ったと労う声が零れていた。


龍麻の少し先、僅かに低い位置にある背中は、真っ直ぐに伸ばされている。
いつものように木刀を肩に担いで歩く姿に、龍麻はいつであったか見た、師の背中を重ねた。

随分小さな頃に見た背中は、広く大きくしっかりとしていて、いつでも龍麻を守ってくれた。
きっと、あの少年も京一に対して、同じ背中を見ているのだろう。
自分の行く道を示してくれるんだと、自分自身の未来の姿を投影して。





不思議なものだと、龍麻は思う。
けれど、自然な事のようにも思えた。





生来の口の悪さで、選ぶ言葉はいつも辛辣なものばかり。
優しい態度の一つも取らず、厭味を言っては衝突し、まるで望んだように敵ばかり作る。

けれども、京一を慕う者は多い。
そして自身を慕う人間と共にいる時、案外と彼は静かな色をその瞳に灯すのだ。
其処にあるのは、不器用でぶっきら棒な優しさだった。


後輩達の声が聞こえなくなった所で、京一が振り返る。
直ぐ後ろを歩いていた龍麻の黒と、京一の赤みがかった瞳がぶつかって、




「ラーメン行くか? 龍麻」




──────そうやって笑いかければ、きっともっと人に好かれるのだろうに。

笑ったと思ったら人を揶揄うものだったり、意地の悪さを滲ませたりするから、また相手を怒らせる。
ほんの少し唇の端を上げるだけで、あの少年も京一を怖がる事はなくなるだろう。
遠巻きに見ているばかりの他の後輩達だって、滅多に顔を見せない不良の主将が、意外と面倒見の良い性格だと気付くだろう。


けれども、何処か遠い人間だからこそ、その背中に憧憬を重ねる者は多く。




「京一、凄いね」
「……はァ?」




ぱちりと瞬きして、首を傾げる仕種は、常と違って随分と幼い。
その姿は、あの少年たちが思い描く“蓬莱寺京一”の人物像とは違うものだ。


龍麻は坂を下る足を早めると、京一の手を捉まえた。
そのまま歩いて行く龍麻に、京一は踏鞴を踏みながら追う足を動かす。

おい、と言う声があったが、龍麻は立ち止まらず、彼の手を引くのも止めなかった。










真っ直ぐ伸びた背中。

その背に憧れる人がいる事が、少しだけ羨ましい。



けれど、振り返って直ぐ其処にあるのは、見慣れた“親友”の顔だから、自分にはそれで十分だと思った。














剣道部が書きたかったんです。捏造もっさりですみません。
真神の剣道部が京一が来るまで弱かったと言うのは、ドラマCDから。
アン子が言っていたのは「弱かった」と言うことだけなので、此処まで設定化はされていませんが。


ゲームの京一は飄々としてても明るい性格だから、慕ってくれる後輩も、反発する後輩もいそう。で、本人は慕ってくれる後輩は可愛がって、反発する後輩は好きにさせてそうな。あまり細かい事気にしてない気がします。

アニメの(と言うか、このサイトの)京一は基本的に人を褒めないし、なんか褒めたかと思ったら厭味だしで、一発目はまず威圧しそうなイメージです。
ついでにスパルタな気がします。あの師匠から優しく教えてもらうとかなかっただろうし、とにかくぶつかって体で覚える感じ。理屈を説明されても、頭だけじゃ判らなくて、やっぱり体で。ただ、師匠は(京ちゃんが荒れてた時を除けば)威圧とかしなかったとも思いますが。
でもうちのサイトの京ちゃんは愛されてますので。


龍麻は、真神学園に来るまであまり友達がいなかったようだし、来てからもこういう先輩後輩の関係は薄そうな。
鬼退治部の皆で楽しんでるので、特に問題はないけど、周りを見てちょっと羨ましがってたりとか。あったらいいな。