夜、一時




嗅ぎ慣れない匂いに誘われたのだろう。
晩酌をしていた八剣の下に、そろそろと背後から近付いて来る気配があった。



ゆっくりと接近してくるその気配を感じつつ、八剣はマイペースに杯を傾ける。

部屋の中は電気を消している為に暗く、窓から差し込んでくる月明かりだけが世界を照らしていた。
時刻は夜の十二時を越えており、寮内も人がいないのか、皆眠ったのか、しんと静まり返っている。
この静寂の中で飲む酒を、八剣は気に入っていた。


しかし、その静寂もそろそろお終いになりそうだ。




「んにゃッ!」




どんっ、と背中に覆い被さって来た重み。
育ち盛りのその体は、数日前よりもまた一つ、重くなったように感じた。

八剣は盃を片手に、肩口から手元を覗き込んでくる子猫の頬を撫でてやる。




「起こしちゃったかい?」
「くせェ。なんだこれ」




質問を無視して、子猫───京一は自分が聞きたい事を口にする。

背中を上ってくる重みが落ちないようにと背を丸め、八剣は京一の顔に盃を近付けた。
京一はくんくんと鼻をヒクつかせて匂いを嗅ぎ、鼻を摘まんで判り易く顔を顰めた。




「ヘンな匂い」
「お酒だよ。京ちゃんにはまだ早いか」
「早いってなんだ」




くつくつと笑う八剣に、意味が判らないながらも、今の台詞が自分にとって癪に障る者である事は感じ取ったらしく、京一はムッとした顔で八剣を睨む。
八剣はそんな京一の耳裏をくすぐって、機嫌を宥めつつ、答えてやる。




「酒は大人の嗜みの一つでね。この匂いや味が美味いと感じるようになったら、大人になったって言う事だよ」
「………」




勿論、大人になっても酒が飲めない、と言う人もいる。
それは体質的に受け付けられなかったり、アルコール類独特の苦みが舌に合わない、等理由は様々だ。

しかし、京一はそんな事まで知りはしない。
酒が飲めない、ヘンな匂いだと感じる=まだ子供、と言う図式が彼の頭の中で成立したのは、当然の流れだった。


プライドの高い子猫が、これに怒りを感じない筈もなく、京一は八剣の手から杯を引っ手繰った。
零れるよ、と言った八剣の柔らかな注意は、子猫の耳には入っていない。
京一は八剣の背中に乗ったまま、もう一度杯に鼻先を近付け、匂いを嗅ぐ。




「………………」




へにゃ、と京一の耳が判り易く倒れる。
小さな手が鼻を摘まんで、眉の間に深い谷が出来ていた。




「無理しなくて良いよ」
「るせェ、黙ってろ」




返して貰おうと八剣は手を出したが、京一はそれを無視した。

今一度、とまた鼻先を近付け、匂いを嗅いで、やはり同じように鼻を摘まむ。
それを見てくすくすと八剣が笑うと、それこそ京一の矜持に障ったらしく、




「おいコラ!見てろ、こんなモン!」
「あ、ちょ────」




八剣が止める暇もなかった。
京一は、八剣の背中を下りてそう叫んだ後、一気に杯の中身を飲み干した。


八剣が飲んでいたのは、それなりに度数の高い、辛目の酒だった。
それなりにアルコールに耐性のある八剣だが、一気に煽ると酔いが回りそうだったので、熱燗でちびちびと飲(や)っていた。
酒を嗜む八剣でさえ注意しようと思うような酒なのだから、小さな子供が飲んで平気な訳がない。

使っていた杯は小さなものだから、飲んだ量としては大したものではない。
しかし、今まで一滴とて酒を飲んだ事のなかった子猫が、アルコールに耐性などある訳もなく。



飲み干すや否や、ばったりと子猫はその場に引っ繰り返ってしまった。




「京ちゃん!」




言わない事じゃない、と慌てて京一を抱き起す。
杯は綺麗に空っぽになっていたが、それを見事などと褒められる程、八剣も暢気ではなかった。




「京ちゃん、大丈夫かい?」
「うにゃ〜……」




京一は完全に目を回しており、ひっく、と時折しゃくりあげている。
丸い頬は赤くなり、尻尾がゆらゆらと不規則な動きで揺れていた。

抱き上げて膝の上に乗せてやると、赤くなった頬の熱を移すように、八剣の赤い上掛に頬擦りする。
滅多に甘えて来てくれない子猫の可愛らしい仕草に、ついつい微笑ましくなるものの、のんびりこのままにして置く訳にも行くまい。




「大丈夫?気分悪いとかは、ないかな」
「んー……なァんか、きもちィ……ふにゃ」
「酔ってるねェ、完全に」




京一はへらへらと笑っていて、すっかりご機嫌だ。

八剣は京一を抱きかかえて、キッチンに向かった。
コップに冷えた茶を注いで、京一の顔の近くに寄せると、京一はきょとんとして首を傾げる。
飲め、と言うのを無言で察したか、それとも目の前にあったからか、京一は大人しく手を伸ばしてコップを受け取り、ちびちびと飲み始める。


度数の高い酒であるが、幸い、京一は吐きたそうに餌付く事もなかった。
量も少ないし、直に尿と一緒に排出するだろう。

……しかしその前に、子猫はうつらうつらと舟を漕ぎ始めている。




「眠い?」
「……にゅ……」




言葉らしい言葉が返ってくる様子はない。
この調子なら、五分も経たずにまた眠ってしまう事だろう。


八剣は寝室に戻ると、抜け殻状態になっていた丸まったシーツを拾い、京一を包んでやった。
その間の京一は随分と大人しいもので、いつものように八剣の腕から逃げようと暴れる事もしない。
アルコールに浚われた所為で、いつも寄せられている眉間の皺が取れている。

ふらふらと不規則に揺れていた京一の尻尾が、八剣の腕に巻き付いた。
何かと逆立っている毛も落ち着いていて、ふわふわとした触感が八剣の腕に絡まってくる。


八剣はシーツに丸まった京一を腕に抱いたまま、ベッドに寝転んだ。
出しっぱなしの酒や、床に転がったままの杯は、明日の朝に片付ける事にする。




「ん〜……」
「うん?」
「……ぅにゃ……」




擦り寄ってくる温もりを甘やかせば、きゅ、と小さな手が八剣の着物を握る。

その手を柔らかく包み込んで、八剣も遅い就寝に着く事にした。





2012/02/23

2月22日をスルーしてしまった……!悔しいので一日遅れで書き散らし。
前はキャットニップで酔っ払った京ちゃん、今回はガチ酒です。
当たり前ですが、子供にも猫にも酒飲ましちゃ駄目ですよ。