感じていたものがなくなって、京一はなんだか落ち着かなくなった。
なんだろうと思って周りを見渡してから、開いたままの寝室のドアを見つける。

ソファを降りて駆け寄り、寝室を覗き込んだ。
其処にはベッドに横になった男がいて、その人はどうやら眠っているらしい。
どうりでいつもの感じ───視線───がないのだと、理解する。


本当に眠っているのか少し疑わしく思えて、京一はそっとベッドに近付いた。
男の顔を覗き込んでみるが、目が開かれる事はなく、どうやら本気で眠っているらしいとようやく確信。




(カゼだろ)




眠る前に八剣の様子を見れば、誰にだって判る。
いつもウソばかりの八剣で、確かにウソをつくのも上手いだろうけど、京一だってそれが判らない程鈍くはない。

八剣はいつもウソをつく。
それは優しいウソだったり、余計なお世話なウソだったりする。
今回のは余計なお世話のウソだと、京一は思った。




「ばーか」




言って、京一は八剣の金糸を一束引っ張る。
それでも起きる様子はない。

しばらくそうして遊んでいると、ぐぅ、とお腹が音を立てた。




京一のお昼ご飯は、保育園に行っていない休日は、いつも八剣が作っている。
外で食べるのは専ら晩ご飯で、朝と昼は必ず家で食べていた。

しかし、八剣がダウンしているとなると、食事を作る人はいなくなってしまう。
大抵は何か作り置きがあるのだが、ここ数日の分は、昨日の晩ご飯でお終いになってしまった筈だ。


─────と言う事は、昼ご飯を作ってくれる人はいないという訳で。




寝室にある八剣の勉強用の机に置いてある、パンダの貯金箱。
底に蓋を開けると、じゃらじゃらとお金が落ちてきた。
思いの外大きな音を立てた金属に、京一は慌てて貯金箱の底を上に向けてひっくり返す。

100円玉を出た分だけ手にとって、ポケットに突っ込んだ。
後は貯金箱に入れ直して、また蓋をする。


八剣が起きる様子はない。
それをちらっと見てから、京一は玄関へ向かった。

靴を履いて、玄関を出て、ドア横の鉢植えの下にある鍵で、ドアを閉める。
元の位置に鍵を戻したら、駆け足でアパートの外に出た。




一人で外を歩き回るのは慣れている。
八剣はやたらと心配して一人にさせてくれないけれど、別に怖いと思う出来事に遭ったこともない。
それを言うと、「だから心配なんだよ」と言って、益々一人にしてくれない。



アパートを出たら右に曲がって、大きな通りに出るまで真っ直ぐ。
大きい道に出たら、左に曲がって一つ目の信号が青になるまで待って。
青になったら、きちんと右と左を見て、もう一回右を見て、横断歩道を渡る。

横断歩道を渡ると一階建てのスーパーがあって、八剣はいつも此処で買い物をしている。
遅くまでやっているスーパーなので、保育園の帰りに一緒に寄る事もあった。


駐車場で動き出そうとしている車に近付かないように気をつけて、スーパーの中へ。
ひんやりとした空気が気持ち良くて、京一は猫のように目を細めた。


ほんのちょっと、冷たい空気を堪能してから、京一は通路を進んだ。
向かったのは、いつもは殆ど通らない、レトルト食品が置いてあるコーナー。
隣コーナーにジャム等が置いてあるので、普段は用がなくても覚えていた。

背伸びして届く場所にカレーのレトルトがあった。
その横にラーメンがあって、本当はそっちが欲しかったけれど、ラーメンは作るのが難しい。
カレーなら電子レンジで温めれば良いから、こっちを選んだ。



レトルトカレー一つを持って、レジに行く。




「189円になります」
「……ん」
「はい、200円ですね。お釣り11円になります」




事務的に仕事をこなすレジを通り抜けて、ビニール袋片手にスーパーを出る。

来た時と同じように、駐車場を車に気をつけながら通り過ぎる。
横断歩道は丁度青で、渡っている人達が沢山いて、それに混じって走って渡り切った。


そのまま真っ直ぐ帰ろうとして──────いつもの曲がり角で、ふと足を止める。
大きな道をそのまま進んだ先に、八百屋があって、八剣は時々其処にも立ち寄っていた。
あの八百屋には野菜は勿論、果物も置いている。



近付いて、そっと中を覗き込む。
八剣が一緒の時に来た事はあるけれど、一人で此処に来るのは初めてだ。
店の主人とも話をした事がない。

店の中は静かで、ぱっと見ると誰もいないようにも思えた。
けれどよくよく目を凝らして店の奥を見れば、何かが動いているのが見えて、多分それが店の主人だろう。


京一は軒先に並んでいる品物を見回した。




(りんご)




─────思い出す。
熱が出た時、差し出されたリンゴのジュース。

今日の八剣が熱があったのかは知らないけれど、




「おや、今日は坊ちゃんだけかい?」




いきなり店の奥から声が聞こえて、びっくりした。





「お使いかい? 偉いねえ」
「あ、え、あ──────」





何を買いに来たの? と聞かれて、咄嗟に言ってしまった、“欲しいもの”。









ウサギのリンゴを見下ろして、どうしよう、と思ったのは、それから数分後のことだった。










2010/08/28

自分の昼ご飯だけ買って帰るつもりだったのに、気付いたら買ってた。
しかも、丸ごとじゃ食べにくいけど、自分じゃまだ切れないから、カットまでして貰って。

うちの京ちゃんは、いつも後になってから色々気付いて真っ赤になります。