理想と現実




ずぶ濡れになった子供を前にして、遠野は判り易く深い溜息を吐いてやる。
それだけで、呆れられていると言う事が、この聡い子供には判ったようで。




「…なんだよ」
「なんだよじゃないッ!」
「いてッ!」




唇を尖らせて不貞腐れた顔を作る子供に、遠野は躊躇わず振り上げた手を落とす。
赤茶けた髪をぺしんと叩いてやれば、子供────京一は叩かれた場所を押さえながら蹲る。




「いってェな、なにしやがんだ!」
「それはこっちの台詞よ!なんであんたはいっつも手がかかるのよ〜!」




最近、自分は京一専属の保育士になったのではないか、と遠野は思う。
手のかかる子供である事は重々理解しているつもりだが、保育園には他にも沢山の子供がいるのだ。
その一人一人に保育士がついていられる訳ではない────筈なのに、遠野は専ら、京一の面倒を見ている。

真神保育園にいる子供達は、皆一癖も二癖もある子供で、中には複雑な家庭事情を抱えている子もいる。
お泊りしている雨紋や亮一、壬生、マリィなどが特にそうで、彼らには他の子供達以上に注意を払わなければならない。
心に傷を抱えた子供は、放って置けば傷をどんどん広げてしまい、その上、それを隠す事が上手くなってしまう。
京一も、彼はお泊りの子ではないけれど、特殊な家庭事情を抱えているから、やはり注意しなければならない。


だが、だからと言って、ほぼ毎日のようにつきっきりで世話をしなければならないなんて。
他の子供達はこんなにも手がかからないのに────と、遠野は思ってしまう。



……愚痴ってばかりいても仕方がない。

遠野はもう一度溜息を吐いて、濡れ鼠の子供を抱き上げた。
途端に京一はじたばたと暴れ出す。




「おろせ、アン子!」
「下ろしたらあんた逃げるでしょ。お風呂行くんだから、大人しくしなさい」
「はーなーせーッ!」




暴れる京一から水滴が跳んで、遠野の髪や頬を濡らす。
エプロンが水分を吸って重くなり、眼鏡についた水滴の所為で視界が悪くなった。


真神保育園の子供達の多くは、大抵が素直な子供で、聞き分けも良い。
龍麻や葵や亮一、壬生などは聞き分けが良過ぎるくらいで、我儘も殆ど言わず、それはそれで要注意だと、遠野はチーフであるマリアから教わった。
特に亮一は判り易く、我儘を言わないのではなく言えない、相手に対し委縮し勝ちだった。

そんな中で、京一だけが酷く聞き分けが悪い。
我儘なら小蒔や雨紋や雪乃や、控えめだが如月、雛乃と言った面々にもあるが、京一のように毎日誰かと喧嘩する事はない。
増して、一人で池遊びをしていて落っこちてズブ濡れなんて有り得ない────いや、子供のやる事であるから、誰にでもそうした失敗はあるのだろうけれど、京一は特にその回数が多いのだ。



お風呂場に来ると、遠野は京一を下ろし、濡れたシャツに手をかける。
と、また京一がじたばたと暴れ出した。




「はなせよ!」
「お風呂入るんだから服脱がなきゃダメでしょ。はい、ばんざーい」
「じぶんでぬぐッ!」




遮二無二暴れる京一に、遠野は仕方なく手を離す。


京一は先ず袖から腕を引っ込めて、服の中でもぞもぞと動いた後、裾の下に手を出してシャツを摘まむ。
シャツを肩までたくし上ると、今度は襟周りを摘まんで、頭を襟の穴に引っ込めた。

濡れたシャツは身体に張り付いていて、酷く脱げ難いらしく、うーうー唸る声が聞こえた。
そのまま京一は、うごうごと、シャツのおばけのような状態がしばらく続く。
其処までやってなんで出来ないの、と思いつつ、遠野は襟穴を摘まんで上に持ち上げてやる。




「─────ぷは」
「はい、良く出来ました」




ぽんぽんと、ようやく出て来た京一の頭を撫でてやる。
京一はぶんぶんと頭を振ってそれを追い払う。

ほんっと可愛くない。
思いつつ、遠野はズボンを脱ぐ京一を見守る。



脱いだズボンとパンツを蹴り投げて、靴下を引っ張るようにして脱いで。
裸になった京一を促して浴槽に連れて行くと、京一は湯船の縁に上ろうとした。
危なっかしいその姿に、遠野は今日何度目かになる溜息を吐いて、京一の脇の下に手を差し込んで掬い上げる。

足元からゆっくりと湯船に浸からせてやる間、京一は大人しかった。
追い炊き機能のお陰で、真神保育園のお風呂はいつでも温かく、京一もこれに入るのは嫌いではないらしい。
少し熱めのお湯が好きで、いつも落ち着かない京一も、この時ばかりは静かに湯に浸かっている。


全身が湯船に浸かると、京一は一度、息を止めて頭まで湯の中に沈んだ。
三秒もしない内に出て来ると、子犬のようにぶんぶんと頭を振る。




「ちょッ、やだ。濡れるじゃないの!」
「いーだろ、これくらい。オレなんかズブぬれだったんだから」
「あんたのは自業自得でしょッ」
「今日はちげェ!カエルがいたから」
「そもそもあんな遊びしないのッ」
「いてッ」




あんな遊び、とは、池の中に浮いている石を浮島にして跳び渡る遊びの事だ。

京一が真神保育園に来てから、彼はしばらくの間、他の子供達と殆ど遊ぼうとしなかった。
龍麻が保育園に来るようになって、少しずつ変わって来たけれど、それまではいつも庭の片隅の池で飛び石遊びをしているか、保育園にある一等高い木の上に上って遠くを見ているか、どちらかだった。
最近は他の子供達と打ち解けて来たし、ケンカをする回数も減っていたので、池で遊ぶ事も減っていたのだが────……




「もうあんたは池で遊ぶの禁止!」
「なんでだよ」
「そうやって落っこちるからでしょ」
「ちょっとしっぱいしただけだ。もうおちねェ」
「前にもそう言ったじゃない。結局、それで何回落ちたと思ってんの」
「そんなの、いちいちかぞえてねェや」
「あたしだって数えてないわよ。数えられない位何度も落ちたって事!」




遠野の言葉に、京一は拗ねたように唇を尖らせる。
湯の所為とは別に、ほんのりと頬が赤いので、自分の失態は一応覚えているらしい。

それを誤魔化すように、京一は湯船から逃げ出した。




「あッ、コラ!」
「ふろあきた!おわり!」




湯船から飛び上がるようにして浴槽を逃げ出し、京一は一目散に脱衣所へ。
転ぶから走るな!と注意する遠野を無視して、無事に脱衣所に到着すると、用意してあったタオルを掴む。

京一は自立心が強いようで、着替えもそうだし、こうした時に世話を焼かれるのを嫌う。
自分の事は自分で、出来る事は全部自力で、と思っているようだった。
しかし、やはりまだ三つになったばかりの子供、どうにもその手つきは乱雑で。


─────はあ、と遠野は溜息一つ。
もう一つタオルを手に取って、しっとりと濡れた赤茶色の髪にそれを乗せた。




……此処に来たのは、沢山の子供達と触れ合いたかったから。
なのに、今は専ら、この手のかかる子供につきっきり。

けれどそれも悪くないと思うのは、手のかかる子ほどなんとやら、と言う奴なのだろうか。






2011/12/03

子供達と絡め易いので、何かと登場するアン子。

基本的に彼女は京一の面倒見役になってます。
特別贔屓してると言う訳ではなくて、誰かが見ていないと危なっかしいのですね。で、アン子が見ている時に限って何かやらかす。