今日も今日とて、京一の顔は痣だらけになっていた。
顔に限らず、まだまだ子供らしい細い腕や、衣服に隠された体も。

対して、一歩先を歩く師・神夷京士浪は疲れた様子も見せない。
何度も繰り返し向かってきた京一を一刀に伏し、息を乱すこともなく、寧ろその場を一歩として動く事もなく。
そんな師の背中を見て思うのは悔しさで、京一はぎりぎり歯を鳴らし、その背中を睨み付けていた。



─────それにしても。
修行が終わった後、こうして師と一緒に歩いて帰るのは珍しい。

ビッグママ曰く放浪癖があると言う師は、気が付いたら、ふらりといなくなってしまう事が多い。
時に京一の修行の約束さえも反故にして、朝早くから姿を消し、日暮れ頃に『女優』に戻って来る事もある。
最初の頃はそんな師にやきもきしていた京一だが、流石に慣れた、と言うよりも諦めた。

そんな師と並んで(正しくは並んでもいないのだけど)一緒に帰路に着くとは、なんとも微妙な気分だ。


……いや、本来ならばこれが正しいのだ。

まだ小学生の域を抜けない京一が、一人で陽の沈んだ後の歌舞伎町を歩いている方が可笑しい。
家出小僧かはたまた迷子かと、何度警察に保護されそうになったか。
その度、家がこの先にあるんだと言い、知り合いも多いから保護はいらないと主張した。
とは言え、だからと言って「じゃあいいよ」と警察官も承諾する訳には行かず、不本意ながら『女優』まで見送られた事は少なくない。

10を越したばかりの子供が歩き回るには、歌舞伎町と言う土地は異であった。
京一はそれを気にした事はなかったけれど。




一人での帰路に慣れ切っていただけに、なんだか変な気分だ。
前を歩く背中を見ながら思う。
一体今日はなんの気紛れを起こしているのだろうか。


─────と、思っていると、前を歩いていた背中が足を止める。
止めて、方向転換する。

京一は慌ててそれを追い駆けた。




「おい、何処行くんだよ」




京士浪が足を向けた方向は、『女優』とは違う。
この道でも帰れなくはないが、遠回りになってしまう。
京士浪も知っている筈だ。

しかし、師は足を止める様子もなく、道を間違えたと言う風でもなく。
颯爽と歩いていく京士浪に、京一は顔を顰めた。


何か用でもあるのか。
それとも、いつもの放浪癖か。

何処に行くのか知らないが、自分がついていく必要はないのではないだろうか。
京士浪は、付いて来いとは言わなかった。
だったら自分は回れ右をして、いつもの道を通って『女優』に帰ってしまって良いのではないか。


そう、思っていたのだが、




「いいから付いて来い」




背中を向けたままの師にそう言われて、京一は顔を顰めつつ、大人しく追い駆ける事にする。



この道の先に何かあっただろうか。
歩幅の差で置いていかれそうになるのを、早足になって進みながら思い出してみる。


道は細く狭い路地で、明かりはない。
こういった道は珍しくないのだが、京一は好んで通ろうとは思わなかった。
じめりと湿った空気や、どんよりとした雰囲気は、幼い子供に優しくない。
京一は別に怖いと思うことはなかったけれど、それでも無意識下で避けていた。

だからつい、きょろきょろと辺りを見回してしまうし、木刀を握る手にも力が篭る。
京士浪に拾われるまで物騒事に身を置いていた事もあってか、どうしても警戒心が先立ってしまうのだ。

対して京士浪はと言えば、歩き慣れた道なのだろう、足取りは澱みない。
時折、何かを見つけたように視線が追い駆ける事があったが、京一にはその先に物体を見つける事は出来なかった。
師の不可解な行動は気にかかったが、師もそれ以上の行動は起こさなかったので、早々に忘れてしまう事にする。


さて、この道の先に何があるかについてだが─────京一には、とんと判らなかった。
この細い道が何処に続いているのかも判らないし、道は真っ直ぐに見えて斜めに延びているようだった。
これでは、自分が今どの方角を向いているのかも判らない。

そうなると、もう自分に出来る事と言ったら、京士浪の後ろを付いていく事だけだ。
Uターンは赦されなかったし。



京一は、少しだけ京士浪との距離を縮めた。
そうすると京士浪がちらりと此方を見遣ったが、京一は目線を合わせないように顔を背ける。
京士浪はしばらく京一を見下ろしていたが、やがて前へと向き直った。




正直。
正直に言おう。
早く帰りたい。

と言うのも、誰の目にもハードと判る修行の後なので、エネルギー切れなのである。
胃の中は空っぽで、今の時間を考慮してもそれは無理のない事だ。


早く帰って食事にありつきたい。
汗と泥で汚れた服はさっさと脱いで、風呂に入ってさっぱりしたい。
そうしたらもう寝るだけだ。


しかし、前を歩く京士浪は、そんな弟子のことなど知ったこっちゃない風だ。

でも、京一が歩くのを止めたり、別の道に入ったり、Uターンしたりしたら気付くのだろう。
気付いた後、止めるのか放置するのかまでは、京一には判らない。




しばらく歩いた。
その時間が長かったように思うのは、見慣れぬ道を歩く緊張感からだろうか。



いつまで真っ直ぐ行くのだろうと思い始めた頃、京士浪は角を曲がった。
慌てて京一も曲がり、見失わないように距離を詰めた。
京士浪は立ち止まって京一を待つような事はしなかったから、見失ったら大変だと思った。

幾つか角を曲がると、少しだけ道が開けた。
しかし大きな通りに比べるとやはり細く、車一台通れば一杯になってしまうような広さだ。


通りの両端には、ぽつぽつと街頭ではない灯りが点いていた。
あまり大きくはない看板を出した飲食屋の玄関の灯りだった。




「お、ラーメン」




ラーメン屋の看板を見つけて、京一は思わず呟いた。
が、その店には閉店のプレートがかけてある。
ちょっとがっかりした。


京士浪は其処へは目もくれず、進んでいく。
京一は路地を歩いていた時とは別の意味で、辺りをきょろきょろと見回しながらそれを追い駆けた。

しばらく行った先にあった小さな店の前で、京士浪が足を止める。
同じように足を止めて京一が店を見上げれば、古いと判る引き戸の玄関に、赤い暖簾がかかっていた。
暖簾には『そばや』と大きな江戸文字で書かれている。




「あ……おい!」




京一が暖簾を見上げている間に、京士浪は引き戸を開けて中に入ってしまった。


京一は蕎麦などそれ程好きではない。
同じ麺類ならラーメンが断然好きで、興味をそそられる店もその系統ばかりだ。
蕎麦を嫌いとは言わないが、あまり魅力は感じなかった。

けれども、此処で慣れない道に一人立ち往生するのも辛い。


閉じかけた引き戸をもう一度開けて、京一は店の中に入る。
京士浪を探すと、もうカウンター席に座っていた。
取り敢えず、京一も其処から一つ席を空けて横に座る(なんとなく隣に座るのは気恥ずかしかった)。




「らっしゃい、旦那。お久しぶりで」
「……ああ」
「旦那は盛り蕎麦で……坊主、お前ェはどうする?」




どうやら京士浪の馴染みの店らしい────と思った所で、店の主人に問われ、京一はきょとんとした。
我に返ると慌ててメニュー表を見るが、何がどう美味いのか、先ず蕎麦に馴染みのない京一にはよく判らない。




「……一緒でいい」




結局そう言うしかなく。
しかし、店の主人は気を悪くした様子はなく、威勢の良い声を上げてざるを手に調理場に立つ。


手際良く蕎麦を仕立てていく主人を見て。
京一は隣───一席空いているが───にいる師を見遣る。




「……オレ、金持ってねェよ」
「ああ」
「…払えねェぞ」
「ああ」




京一の言葉に、京士浪は何処までも端的に返す。

元々、然程饒舌に喋る男でもないが、この時ばかりは京一も戸惑った。
つまり奢りって事か、と思いつつ、今までにない事だと言う事実が混乱を誘う。


その間にも蕎麦は出来上がり、二人それぞれに盛り蕎麦が出された。


京一の混乱は未だ続いていたものの、京士浪が食べ始めたのを見て、京一も箸を伸ばす。

先程、京一は蕎麦にはあまり興味がないとしたが、それでもこの蕎麦は美味かった。
蕎麦なんてラーメンに比べたら味気ないものだとばかり思っていたから、これは意外だった。
頭の中のランキングに変動はないものの、蕎麦への印象が一変したのは事実だ。



ズルズルと二人分、蕎麦を啜る音がする。

客に注文分を提供した主人は、明日の仕込みでもするのか、店の奥に引っ込んでいる。
其処から包丁の音やガスコンロの音は聞こえるが、それ以外は至って店内は静かだった。


美味い店なのに、繁盛していないように見えたのが不思議だった。
が、隠れ家的なものなのかなと思い直す。

今食べている蕎麦は間違いなく美味いけれど、立地条件はあまり宜しくないように思える。
大きな通りからは随分離れているし、看板も大きくなく、知っていてもうっかり素通りしてしまいそうな外観だった。
見た目で味を決めるつもりはない京一だが、それでも第一印象で店に入るか入らないかと聞かれたら、あまり入らないような気がする。



食べ盛りの京一が蕎麦を全て平らげるまで、それ程時間はかからなかった。
店奥から戻って来た主人が、空になった京一のざるを見付ける。




「坊主、替え玉食うか?」
「えぁ…えーと……」




主人の言葉は嬉しかったのだが、何せ自分持ちで払う訳ではないから、少々躊躇する。
一応師の奢りらしいが、そうであると当人から聞いた訳でもないし。

ちらり、隣の京士浪を見遣る。
京士浪は恐らくそれに気付いているだろうに、我関せずで蕎麦を食べている。
駄目だと言わないなら良いか、と京一は都合の良いように解釈することにした。
後で怒られても知ったことか、今は腹を満たすのが先決だ。


主人に向かってこくりと頷けば、ぬっと大きな手がカウンター向こうから出てきて、京一の頭をぐしゃぐしゃに撫でる。




「そうだそうだ、遠慮すんな。替え玉はタダだからな」
「そうなのか?」
「今日だけな。特別だからよ」




何が特別? と京一が問う暇はなかった。
主人がさっさと調理場に行ったからだ。

腑に落ちない所はあったものの、それでも結局、まぁいいかと思う。
タダ程高いものはない反面、タダ程安いものはないのだ。
それで食べ盛りの胃袋が満たされるのなら、幸いだった。


隣にいる大人は、やはり何も言わない。
蕎麦を食べるペースを崩す事もなかった。



二玉目の蕎麦が京一に出される。
直ぐに箸をつけた。





ズルズルと、二人分の蕎麦を啜る音だけが聞こえる店内。
その壁には、いつもは貼られていない一枚の紙が貼ってある。



『五月五日 こどもの日
   小学生以下 替え玉無料』



……蕎麦に夢中の子供がそれに気付く事は、終ぞなかった。








2009/05/06

こどもの日ということで(一日遅れ……(泣))。

龍龍の師匠は、無口と言う印象がどうしても拭えません。
甘やかすのもこんな感じになるんじゃないかなと。京一は甘やかして貰ってるのに気付いてませんけど(笑)。
でもこんな感じがいいなぁ。


食べに行ってるのが何故蕎麦なのかと言うと、ゲームの師匠が蕎麦好きだからです。