はいどうぞ、と言って渡された紙切れ。
その用途は直ぐに判ったが、だからと言ってどうすれば良いのかは、京一には判然としなかった。


店のカウンターには、百円ショップで見つけたものだろうか、高さ50センチ程度の小さな笹竹が飾られている。
それには、今しがた京一も渡されたばかりの、細長い長方形の紙切れが吊るされている。
紙切れにはアンジー達が書いたのだろう筆跡で、何かがつらつらと書かれていた。

だから今日が七夕の日である事は、京一にも直ぐに思い出された。




(……オレに何書けってんだよ)




ニコニコと笑顔で見下ろすアンジーの視線に、少しばかり居心地の悪さを覚えつつ、京一は胸中で呟いた。


この紙切れには、願い事を書けば良いのだが、その願い事が一向に浮かばなかった。
強いて言うなら、ふらりふらりといなくなる師匠をどうにかしてくれ、と言った所だろうか─────それこそ願うだけ無駄な話に思える。

だが、「願うことなんかない」と紙切れを突き返すのもどうかと思う。



取り合えず、紙切れを手にソファに腰を下ろした。
ソファ前のテーブルには、マジックペンが置かれている。




(ラーメン食いたいとかで良いのか…?)




食べ物に関する事なんて、ビッグママに言えば済む事だ。
神様にお願い事をするよりも、ずっと確実で手っ取り早い。

それでも、白紙のままにするよりは良いかも知れない。


もうこれでいいや、とペンを手にとって、蓋を抜いた時。
カラリと音がして、店の出入り口を見ると、一週間ぶりの師の姿があった。




「京サマ、お帰りなさい。これ、どうぞ」
「……ああ」




出迎えたアンジーが差し出した紙切れを、京士浪が受け取る。
それを手に持ったまま、バーカウンターの椅子に腰掛けると、ビッグママが奥からペンを差し出した。
ペンを受け取った手が直ぐに動き出す。


京一は持っていたマジックペンをテーブルに転がして、ソファを立った。
子供にしてみれば高さのある、カウンターの椅子によいせっと上って、京士浪の手元を覗き込む。
ちらりと京士浪が此方を見たが、特に何も言われなかった為、京一は気にしなかった。

紙に書かれた文字は、一文字一文字が別れていなくて、全部繋がっていて、ぐにゃぐにゃになっている。
それが実家の道場にかけられていた、家訓だか戒めだかを記す文章と似ている事には直ぐ気付けた。
だからこれは落書きではなく、寧ろ立派な文字らしいのだが─────何と書いてあるのかは、京一には皆目検討がつかない。




「……なんだ、コレ」




書き終わりと同時に、ポツリと呟いた。

京士浪は、またちらりと弟子を見遣った後で、




「家内安全、無病息災、商売繁盛。明鏡止水、不惜身命……」
「……何処の標語だよ」




神妙な顔をして───と言っても、殆どいつもと変わらぬ表情なのだが───書いているから、何かと思えば。
余りにもお約束過ぎて、京一は拍子抜けした気分でテーブルに突っ伏した。

京士浪は相変わらず、そんな弟子を気にすることもなく、紙切れをビッグママに差し出す。
ビッグママもまたいつもと変わらない表情でそれを受け取り、笹の葉へと吊るした。
それを確認することもなく、京士浪は椅子を折り、踵を返す。


京一は未だに白紙のままの自分の紙切れを手に、師が書いた紙切れを眺める。
書いてある事は大した内容でもないのに、書体が達筆過ぎる所為で、とても素晴らしい内容だと錯覚してしまう気がする。

あんな内容でも良いなら、真面目に悩んでいる自分がバカみたいに思えてきた。
こんなのなら、もうラーメンで良いだろう。
京一は溜息一つ吐くと、当初の予定通り、明日の夕飯のリクエストを書く事にした。




─────が、マジックペンを紙に押し付けた所で、手が止まる。

くしゃり、と節張った大きな手に、頭を撫でられたから。




振り返れば、師としっかりと目があった。


高さのある椅子に座っているお陰か、今だけは視線の高さがいつもよりもずっと近い。
首が痛くなる程に見上げなくても、直ぐに師の顔が判る。

その師の顔が─────何処か、笑っているように見えて。




………それから数分。
テレビなら、放送事故とも思えるような沈黙の後、




「…………明日は稽古をつけてやる」
「…………………おう」




低い静かな声で告げられた言葉に、京一が反応できたのはそれだけ。




京一の頭から手を離すと、京士浪は店の一角、窓際にある席へと移動した。
ビッグママが準備していた日本酒を運ぶと、一人静かに手酌酒を傾け始める。

師が店にいる時は、よく見られる光景だ。


そそ、とサユリが京士浪の傍に近付き、徳利を手にする。
酌をすると言うサユリに、京士浪は無言で空になった杯を掲げて見せると、直ぐにサユリは酒を注いだ。
ビッグママに言いつけられて摘みを作っていたアンジーがキャメロンを呼び、摘みを運んでと頼む。
そのついでに、京ちゃんもそろそろ晩ご飯だね、とビッグママが呟いた。



暫くの間それを見詰めた後で、京一ははたと我に返ると、がりがりと頭を掻く。
ついさっき撫でられた場所が、無性にむず痒いような気がした。

それから、点一つだけがついた紙切れと、手に持ったままだったマジックペンを見下ろす。





ミミズがのたくったような、お世辞にも綺麗とは言えない字だが、それを咎める人はここにはいない。
だから京一は、短い一言だけを書くと、さっさと自分で紙切れを笹に吊るしに行った。






自分が一番に願うこと。

───────『強くなる』。



その先の事は、今は願いすら浮かばないけれど。
せめて、この優しい世界が守れるくらいに、強くなりたいと思った。









2010/07/07

師匠が出演すると、漏れなく真面目な話になる気がする。こんなでも七夕仕様です。

京士浪なりの気遣いの話になりました。
「無病息災・家内安全・商売繁盛」→世話になっている『女優』の人達へ。
「明鏡止水、不惜身命」→将来有望、しかしてまだまだ未熟な弟子へ。

……私、京一に夢見てるけど、師匠にはもっと夢見てるようです。


『明鏡止水』…一点の曇りもない鏡や静止している水のように、よこしまな心がなく明るく澄みきった心境を指す。
『不惜身命』…身体や命を大切にすること。命を疎(おろそ)かにすべきではないということ。

少年期から中学生時代にかけて、京一は色んな面で無茶してそうなので、師匠から戒めと励みを込めて。しかし肝心の京一は意味判ってません(爆)。