嫌なにおいがして、目が覚めた。
起き上がって見回すと、切り株の椅子に座った狐が、葉っぱの包帯を取り出している所だった。




「ああ、起こしちゃったか」




振り向いて、八剣が言った。
しかし、京一にその声は聞こえていない。

ベッドを下りて歩み寄る。
京一の右足は、まだちゃんと治っていないから、庇いながら歩く。
ひょこひょこ近付いてくる仔狐に、八剣は眉尻を下げて笑った。




「大丈夫だよ、気にしなくていい。大した事はないから」




それも京一には聞こえていなかった。

京一の目に映っているのは、赤い色。
八剣は手で庇って隠しているけれど、指の隙間からその色が覗いていた。



赤い色。
嫌なにおい。

あの日、全部が壊れた時、それらが全部を塗り潰していくのを見た。



それが今、この目に見えていなくても、においに気付いた時点で、京一にはもういつもの思考回路は残っていなかった。




一歩前で立ち止まった京一に、八剣はへらりと笑う。




「大丈夫だよ」




よくよく見れば、尻尾にも赤い色がついている。


ざわざわ、何かが背中を昇ってくるのを感じた。
それは頭の中を物凄い速さで食い潰していく。

自分の足の痛みは、感じなくなっていた。
それより、八剣が隠している場所と同じ、腹の奥がずきずきする。



八剣は葉っぱの包帯と、山菜採りの狸の一家に貰ったと言う薬草を取り出した。
くるりと京一に背中を向けて、それらで手早く処置を済ませる。

その間、京一はじっと、八剣の背中を見ているだけで動かなかった─────動けなかった。


動けなかったけれど、もう一度赤い色の滲んだ尻尾を見た瞬間、勝手に体は動き出した。




─────あぐ。




「………………京ちゃん?」




ふさふさの尻尾に噛み付いた。
違う、牙は立ててない。

尻尾にしがみついて、くっついて。
赤い色の滲んだ場所を舐めた。
大嫌いなにおいに鼻が曲がりそうで、それでも離れなかった。



まずい。
にがい。
きもちわるい。

でも、赤い色を見る方が嫌だった。



京一が舐めている場所に何があるのか、八剣も気付いた。
京一が何をしているのかも、判った。




「大丈夫だよ」




三度目の同じ言葉。
けれど、やっぱり京一には聞こえていない。


舐めていると、赤い色がなくなった。
でもまだにおいが残っている。
京一は尻尾から離れないまま、濡れて少し固まった毛を舐め続けた。

そんな仔狐に微笑んで、八剣は余った薬草を箱に戻して、尻尾を京一から取り上げる。
離れてしまったふさふさに、珍しく仔狐の表情に不安が灯る。




「おいで、京ちゃん」




向き直って腕を広げる八剣。

その腹には、もう赤い色はない。
でもにおいは消えていないし、葉っぱの包帯が巻いてある。


葉っぱの包帯に釘付けになって動けない京一に、八剣の方が動く。
固まった仔狐を抱き上げて、膝上に乗せてやる。
すると、京一がもぞもぞと身動ぎして、その上から下りようとした。

京一が抱っこから逃げようとするのはいつもの事だが、今回は理由が少し違う。
八剣の腹にあるものが気になって、そのにおいが気になって、どうしても其処に落ち着けそうになかった。

けれど、八剣は離してくれない。



腕の中にすっぽり囲われて、まるで籠の中みたいに狭い。
でも、冷たい訳じゃないから、この狭いのは嫌いじゃない。

逃げるのを諦めてじっとしていると、ふわふわ、ふさふさしたものに包まれた。
そのまま抱き締められて、益々狭い籠の中にいるみたいになる。


耳を触られた。
くすぐったくて、ぴくぴく耳が勝手に動く。

くすくす、笑うのが耳元で聞こえた。





「ほらね。大丈夫だ」





くしゃくしゃ、頭を撫でられて。
耳の後ろをくすぐられて。
ふさふさの尻尾に包まれて。

何度も同じ言葉を囁かれる。
その度、何かが零れ落ちていくような気がして。



───────心のどこかで、急き止めていたものが全部溢れ出して行く。





それから、少しの間。

何処に行くにも、狐の後ろをついて歩く、仔狐の姿があった。






2010/12/29

なんとなく書きたくなった、“まがみのお山”。

チビ京くらい、トラウマなしで……書きたいんですが(汗)。
小さい子が必死に色々我慢してる所を、大人が頭撫でたり、抱き締めたりっていうのが好きなんです。
まずこの小さい子の状態を変えない事には、どうにもねえ……