がり。

ガリ。

ガリ。



ずる。

ズル。

ずる。





何かを削る音がして、何かを引き摺る音がして。
その音の方向を向いた時、京一の目にはこれと言って何も映ってはいなかった。


見えているのは、いつもと同じ広い道。
広くて動き易い場所だからと、師に稽古をつけて貰っている運動公園の傍。
あともう一つ、向こうに見える信号付きの横断歩道を渡ってしまえば、到着する場所。

都心の真ん中にぽっかりと空いた運動公園には、平日の昼間はあまり人がいなくなる。
朝ならジョギングする人がいて、夕方なら遊ぶ子供や若者の姿があるのだが、この時間は酷く静かだ。
だからさっきのような、小さく奇妙な音が聞こえたのだろう。



京一は振り返ると同時に、立ち止まっていた。
そうした後、何もない、いつもと同じ光景に違和感を感じて首を傾げる。





ガリ。

ずる。

びちゃ。





違う方向からまた聞こえて来た。
首を巡らせれば、横に建っていた建物と建物の細い隙間からだった。

じっと其処を見ていると、また音が聞こえて来た。





びちゃ。

ビチャ。

ぐちゃ。





細い隙間の道は、確かゴミと埃しかなくて、時々痩せこけた猫か犬がいた筈。
隙間の広さは大人が一人通れる程度、暗くて奥の方は殆ど見えない。
音はその奥の更に向こうから聞こえて来る。

そんな場所に、何がいるのか。



未知のモノへの恐怖より、好奇心の方が上回った。

躊躇わずに一歩踏み出す。
見えないモノの正体を確かめる為に。





──────が。




「やめておけ」




背中から声が降って来たと思ったら、ぐんっと襟首を引っ張られた。
あと数センチで路地の影を踏もうとしていた足が宙に浮き、後ろに踏鞴を踏む。
ついでに首が絞まって、ぐえッと潰れた声が出た。


首にかかった圧力が抜けて、シャツの襟周りが撓む。
足は二、三歩後ろに下がったものの、尻餅をつくという無様な事にはならなかった。

一瞬、息が出来なくなった腹いせに、引っ張った張本人を見上げて睨む。



何すんだ、と言おうとして、出来なかった。




「……おい、」




呼んでみたが、返事はなかった。



じっと暗い暗い隙間の向こうを見ている、自分と何処か似ている(らしい)男の顔。
常に無表情で固められたその瞳に、剣呑さが滲んでいるのは気の所為か。

道の向こうに何がいるのか、この男は知っているのだろうか。
だからそんな顔をするのか。
それなら、「やめておけ」と言う言葉が出てくるのも納得出来る。


道の向こうを睨んだまま、動かない師をじっと見詰める京一に、またあの音が聞こえて来た。





びちゃ。

ぐちゅ。

ガリ。

ぐちゅ。

ガリ。

ビチャ。

どちゃ。





音はいつまでも繰り返されている。


京一はふと、昨日の夜にテレビで見た洋画を思い出した。
宇宙から飛来したエイリアンが人間を襲うという、パニックアクションだった。

エイリアンが動く時、同じような音がした。
エイリアンが何か襲う時、同じような音がした。
エイリアンが人を食べる時、同じような─────




「うえッ……!」




まだ記憶から薄れてはいなかったシーンを思い出して、京一は気持ちが悪くなった。
それほどスプラッタな場面ではなかったのだが、見ていて眉間に皺が寄ったのは覚えている。

暗い道に背中を向けて、都合良く立っていた木の根元に座り込む。
ぐぅぐぅ腹の奥が回っているような気がする。
とてもじゃないが、これから稽古をする気にはなれない。


おえッと何度か吐き出すように喉を鳴らしてみたが、幸か不幸か、何も出ては来なかった。
それはそれで気持ちが悪いと思っていると、後ろから影が落ちてきた。
振り向いてみれば、いつもと同じ無表情の師が立っている。




「今日は帰るぞ」
「………ん、」




端的な言葉に、京一も頷いた。


歩き出した師に直ぐに倣う。
いつもは半歩か一歩後ろをついて行ったが、今日はそうする気になれなかった。

建物が密集した都会は、建物の数と同じ位、細くて狭くて暗い路地が存在する。
常ならば全く気にしなかったそれらが、今はなんだか酷く気持ち悪いものに思えた。





がり。

ガリ。

がり。


ずる。

びちゃ。

ズル。

ぐちゃ。





耳の奥に残る音。
その音に誘われた訳ではないけれど、ちらり、京一は細くて暗い道に目を遣った。

それから、後悔する。




「────────!!」




何か、いる。
暗闇の中から、何かがぱっかり口を開けて、こっちに手を伸ばしてくる。

叫び掛けた京一の口を塞いだのは、師の骨張った無骨な手だった。




「声を出すな。黙って歩け」
「…………、」
「いいな」




頷けば、口元から手が離れて行く。
その手を掴んでしまったのは、殆ど無意識だった。





師はそれ以上何も言わなかった。

ただ繋いだ手だけは、確りとした強さがあって、早くこうなりたいと思った。
暗闇の中から伸びる手を、もう怖いと思わなくて良いように。








2011/06/07

第二話、第三話で京一の事態の飲み込みが随分早かったような気がしまして。
桜ヶ丘中央病院とも長い付き合いだし、霊障の類は昔から馴染みがあったんじゃないかと勝手に思ってる私です。

葵が倒れて、犬神が桜ヶ丘中央病院の名前を出した時、「なんでお前が知ってんだ」って言ってた辺り、多分あそこの病院は一般的には“普通の病院”なんじゃないかな。ゲームでも普通に産婦人科やってたし。