夜中の駆け込み患者というのは、然程珍しいことでもない。
特にこの桜ヶ丘病院に至っては。




すみません、という声がして表に出て、舞子は驚いた。
夜中の来訪者は今となっては見慣れた人物達となっていたけれど、中心に立った少年が抱えている人物に驚いたのだ。



京一の身体はあちこち打ち身だらけで、皮膚が切れて出血もあった。
特に酷かったのは、そんな中で既に出血が止まっていた右足の傷だ。
皮膚は壊死とまでは行かぬものの、色を失い、正常に血液が流動していたとは言い難い。
鬼にやられたのだと醍醐から告げられて、舞子は納得した。
攻撃を受けると同時に、恐らく精気を吸い取られたのだろうと。

すぐに手当てを施して、岩山に託した。
舞子が見た限りでは、見た目ほど酷い状態ではないらしい。
右足も直に動くようになるだろう。


───────けれども、龍麻の表情は晴れない。




「緋勇君……」



葵が何事か声をかけようとして、結局それは形にならなかった。
診療室の前に真っ直ぐに佇んだまま、龍麻は虚空を眺めている。
それに声をかけられる程、強く踏み込むことは躊躇われた。




舞子が見たのだし、岩山が治療しているし─────何より、京一の生命力は強い。
気を失っているのは崩落の際に瓦礫が頭部にぶつかった所為だと推測された。
脳震盪もなく、脳の一時的な血流低下のみで、特に後遺症も残らないそうだ。
右足の失われた精気も、程無く元通りになり、失われた色も元に戻るに違いない。

そして、そんな事になっても、彼の右手は木刀を握り締めていた。
龍麻が京一を運ぶ際に、邪魔になるだろうと醍醐がその手を解こうとしたのだが、頑として手放さなかった。
結局此処に来るまでの間、京一の右手は木刀を握ったまま、今も恐らく離れていないのだろう。
それを見た岩山は、これなら尚更問題はないと言った。
京一がこれを手放さない限りは、大丈夫だと。


岩山は、京一の過去を知っているらしい。
少なくとも、この場にいるメンバーよりは。

だから京一がその木刀にどんな思い入れを持っているか、龍麻達よりも詳しいだろう。



でも、龍麻はそれを知らない。
だからどんなに大丈夫だと言われたところで、揺らぐ心は安定しなかった。






「京一……─────」





その姿を。
その顔を。

その温もりを。


この目で、この手で、この身体で、感じる事が出来なければ。





己の小さな震えさえ、止めることが出来ない。















処置を施した岩山が診療室から出て来たのは、約十分後のこと。
京一を信じているとは言え、鬼の一撃を食らったこともあり、皆一様に心配していたが、
夜が明ける頃にはもう目覚めているだろう、と岩山に言われ、ようやっと安堵の息を吐くことが出来た。

そして、龍麻も。
ひっそりと握り締めていた拳を解いた。



待合に設置された時計を見れば、時刻は午前三時。
鬼と戦うようになってから、夜更かしなんてものとはすっかり良いお付き合いになっている。
葵や小薪もすっかりそんな生活に慣れたが、やはり世間的に見れば、年頃の女の子が街を歩き回っていい時間帯ではない。
鬼の出方を窺う為に街を見回る時も、五人一緒ないし醍醐が付き添うようになっていた。

そして鬼との闘いを終えたなら、如月骨董品店に戻って幾つか気になる事項等を告げあった後、解散。
女性二人が帰る時も、見回り中と同じく、必ず三人の内誰かが見送りをしている。


だが、今日は葵も小薪も、中々帰ろうとしなかった。
葵は勿論、普段ケンカばかりの小薪も、やはり仲間が心配なのだ。

また、常にない程に取り乱していた龍麻のことも気にかかるのだろう。



それ程までに自身が焦燥していたのだと改めて認識させられて、今更恥ずかしくなる。
同じく、心優しい仲間達に、龍麻は感謝して、




「皆、ありがとう。今日はもう遅いから、帰って休んだ方がいいよ」



いつもの笑みを浮かべて、言った。


約数十分ぶりに見たクラスメイトの穏やかな笑顔。
葵がそれに口元を綻ばせた。



「緋勇君は、どうするの?」
「僕はもうちょっと此処にいるよ」
「京一だったらもう大丈夫なんだよ?」





心配で此処を離れられないのか、と問うように小薪が言う。
それを否定は出来なかったから、龍麻は曖昧に微笑んだ。



「それは、判ってるよ。でも、此処に京一一人残したら、明日何言われるか判らないし」



何せ、此処は桜ヶ丘中央病院。
京一が何よりも苦手としているスポットである。

夜中の駆け込み、鬼との戦闘で負った傷を手当てしてくれる場所なんて、此処ぐらいしかない。
如月の元に行けば応急処置程度はしてくれるが、専門的な治療になると頼る場所は此処だけだ。
龍麻達にとっては有り難い場所で、葵も龍麻も、それぞれ世話になった。


しかし、京一にとっては何度来ても世話になりたくない場所らしい。



腕は全幅の信頼を寄せているけれど、それとこれとは別。


昔からの付き合いである所為で、岩山は京一の過去のことをよく知っている。
京一にとっては忘れてしまいたいであろう恥ずかしいことまで。
此処に来るたびに皆の前でそれを暴露されるのもあって、京一はつくづくこの場所を避けようとしていた。


だと言うのに、一人で置いて皆帰ってしまったら。
明日一番に彼から文句の嵐が降ってくるだろう事は容易に想像できる。




醍醐達もそれが想像できたらしく、苦笑を漏らす。




「そうかもな……じゃあ、龍麻は此処に残るのか」
「うん。僕、一人暮らしだし、怒られる心配もないから」



醍醐はともかく、葵や小薪はそうも行くまい。
こっそり家を抜け出している事がいつバレても可笑しくないのだ。
バレて詮索されて、誤魔化すのも限界がある。

それに、自分達は学生だ。
早く帰って寝ないと、明日の授業に支障を来してしまう。



「醍醐君、二人を頼むね」
「ああ。さ、行きましょう」
「うん。帰ろう、葵」
「おやすみなさい、緋勇君」
「おやすみ」



就寝と別れの挨拶をして、龍麻は小さく手を振る。
葵と小薪がそれに応えて、手を振った。


既に営業を終えた為に手動になっているドアを開け、三人は夜の闇の中に溶けて見えなくなって行く。
それを暫く見送ってから、龍麻は踵を返した。





向かうのは、診療室。





京一の明日の文句を気にしての行動ではない。
文句でもなんでもいい、京一の言葉なら龍麻は受け止めるつもりだった。
最後にはきっとラーメン奢りでようやく怒りは収まるのだろう、それが毎回のパターン。

心配していない訳ではないけれど、それでは岩山の腕を疑うようではないか。
大丈夫だと彼女が言うのなら、それは本当に大丈夫だ。
龍麻も、京一同様、彼女の腕に全幅の信頼を持っている。


だから、此処に残ったのは、何も京一のご機嫌取りだとか、心配だからだとか、そういう事じゃなく。









(───────京一、)








あの手を、握りたかったから。























舞子はナースセンターに言ったのか、岩山の姿も見られない。
最低限の電気しか点いていない廊下を歩き、龍麻は京一の病室を探した。
見つけるのに然程の時間はかからず、程無くして“蓬莱寺 京一”とプレートのかかった部屋を見つける。

音を立てないように──最近の病院はそんな気遣いをせずとも、あまり音がしないものだけど──扉を開ける。
広い部屋には四つのベッドが用意されていたが、使われているのは一番奥の一つだけだった。



馴染んだ呼吸の気配が、其処から伝わる。

仕切りのカーテンを引くと、ベッドに横たわる親友の姿があった。



鬼との戦いと、崩落によって出来た小さな傷のある場所には、包帯やガーゼが当てられている。
以前九角の罠に落ちた時、京一に此処に連れて来られたのを思い出す。
あの時、自分もこんな姿だったのだろうか、と。

そして、京一もこんな気持ちだったのだろうか、と。



「………京一」





呼んでも返事はない。
判ってはいたけれど、顔を見たら呼ばずにはいられなかった。

そうして返事がない事に、また不安になる。




「……京一」



何度呼んでも、結果は同じことだ。
京一が目を覚まさない限り、言葉は帰ってこない。




判っている。
判っている。

京一はそんなに弱くない。


明日になったら、いつもと同じように学校で逢える。
小薪に今日の失態を揶揄されて、憤慨して、醍醐に止められて、葵と自分が宥めるのだ。
遠野が何処からかやって来て、話を聞きたがり、予鈴が鳴るまで賑やかな日常風景。
そして夜になったらまた街に出て、鬼を倒して、如月の所に行って。


日常と非日常を繰り返す日常。
其処に自分達はいて、京一もいて。

苺牛乳を飲んでいる自分の横で、京一は舎弟を相手に昼飯を賭けたささやかな賭け事。
買った分だけせしめた焼き蕎麦パンやら、菓子パンやらを龍麻と分ける。
食べ終わって舎弟達がいなくなったら、面倒臭い授業はサボって屋上で暇を持て余して。
そのうち龍麻が寝てしまって、放課後になった頃に目が覚めると、京一が顔を覗き込んでいる。
よく寝んなぁ、お前、と京一が言って。
その後ろのグラウンドの方で、皆が自分達を呼んでいる。


抜けきらない眠気にぼんやりしていたら、差し出される。




行くぞ、と。


促す手が、目の前に。









「───────……京一……」







あの手を、失いたくなかった。





……躊躇いもなく差し出される手に、戸惑ったのは最初だけだった。



美味いラーメン屋があるから一緒に行こうぜ、と気安く声をかけられた、それが最初の第一歩だ。
出逢いから印象からあまりに唐突過ぎて、またその誘いも龍麻にとっては唐突だった。
だから如何答えれば正解なのか判らず、固まっていたら、その手が動いた。

答えない龍麻に焦れた京一は、問答無用で龍麻の手を掴み、引っ張って行った。
“転校生”に興味を惹かれ、遠巻きに見ていた生徒達の事など、まるで見ていない。
自分のやりたいようにやる────龍麻の手を引っ張って行ったその背中は、そんな風だった。
きっとあそこで龍麻が京一の誘いを断わったとしても、きっと引き摺って行ったのだろう。
そしてあのラーメン屋で「美味いだろ?」と聞いてきたに違いない。




龍麻の手を半ば強引に掴んだ手は、力強く、温かかった。




あの時、龍麻は魅入られたのだ。
力強く、不器用で優しい、京一の手に。

まだ居場所の定まらなかった龍麻に、此処にていいんだと、行ってくれた手に。





それから、ずっと。
龍麻は、伸ばされる京一の手を掴んでいた。

その手を掴む為に、己のこの手があるんだと思うほど。









だからあの時、他意もなければ、きっと無意識だったのかも知れないけれど。
それでも伸ばされた手を掴めなかった事に、愕然とした。

瓦礫に埋もれた温もりに、もう二度と、その手が掴めないんじゃないかと。








「違うよね、」







眠る京一の呼吸は、安定している。
包帯やガーゼは痛々しく映るけれど、見るに耐えない程じゃない。
埃は綺麗に拭き取られて、顔色も此処に運んで来た時に比べれば断然マシ。



龍麻が焦がれた手は、ちゃんと此処に在る。




だから、掴めないなんて、ことはなくて。








「また、」







力なく投げ出されている手に、己の手を重ねた。
ほんの数十分の間離れていただけなのに、随分久しぶりのように感じる。


両手で包んで、持ち上げて。
コツリ、額にそれを当てる。

触れた場所から、温もりが伝わる。







「また、伸ばしてくれるよね」







手の中の温もりを、掴まえるように握り締めた。





明日になったら、また。



いつものように、
屋上で。

いつものように、
皆で。



いつものように、
二人で。





いつものように、














『龍麻』












その手を、伸ばして。
僕を連れ出してくれるよね。


君は、そんなつもりはないのかも知れないけど。




“僕”が“僕”で在れる場所へ。












握り締めた手のひらの中で、

握り返す力に気付いた瞬間、





──────泣きたくなって、嬉しかった。












龍京なのに京一喋ってない(爆)。
京一が精神安定剤な龍麻が書きたかったんです。

出逢い初っ端に木刀振り回し、「気に入らねぇ」と言い切った京一が、
放課後になると一緒にラーメン食いに行こうとか、きっと誰より一番気安く声をかけてきたりしたら、
流石にどう対応していいか困るんじゃないかと。


受けが攻めに手を差し伸べるのが好きです。