visual hallucination









夢は願望の現われだと言う。
それなら、この光景は自分の望む事なのか。

延々と続く屍の道を立ち尽くし見渡して、京一は自問してみるが、答えは見付からない。




場所は新宿歌舞伎町、メインストリートから随分と離れたビルとビルの隙間にある路地だった。
目的地への道が大回りで面倒だと近道に使おうとする者すらいない、ゴミとゴロツキに溢れた場所。
近くの空き地には何某とか言う大層な名前のついたグループが溜まり場にしており、近くを通ると集会場に引きずり込まれてボコボコにされる、と言う話があった。

その大層な名前のグループの連中が、今京一の足元に転がっている。
実力の程は────あるにはあるのだろうが、京一にしてみれば単なる烏合の衆に過ぎなかった。


屍となって地面に並ぶ人間達は、生きているのか死んでいるのか、京一にもよく判らない。
腕の一本や二本折れているのは間違いないだろうけど、それ以上は判然としなかった。
確認しようとも思わない。



ぬるりとしたものが額を伝い落ちてきた。
鬱陶しくて埃塗れのブレザーの袖で拭うが、後から後から溢れてくる。
どうやら、盛大に切っている箇所があるらしい。

面倒だが病院に行った方が良いだろう、このままだと頭部から腐って行くような気がする。
腐って困るような頭も脳もしていないけれど、実際に腐ってしまったら、こんな自分を受け入れてくれている数少ない人達が悲しむ。
それだけは、どうしてか、許されないと思っていた。



転がる肉の塊から目を逸らし、病院へ向かおうと歩き出す。
が、数歩進んだ所で、足は動かなくなった。

見下ろせば、死んでいるように見えた人間の手が一本、京一の足を掴んでいる。




「逃がさ…ねェぞ……このガキ……!」




鼻血を垂らし、蒼痰の出来た顔で此方を見上げ、睨む男。
ぎりぎりと食いしばった歯の真ん中が抜けているのは、以前からだったか、この乱痴気騒ぎの所為なのか。

─────どっちでも良い。

そう答えを出して、京一は自由な足を持ち上げる。
男の視線がそれを追い、やがて彼の視界は真黒に塗り潰された。


ぐしゃり。
そんな音が足の裏から聞こえたような気がする。

ゆっくりと落とした足を持ち上げると、にちゃりだかぐちゃりだか、気持ちの悪い音がした。
見下ろした男の顔は暗がりでよく見えないが、恐らく原型を留めてはいないだろう。
でもスパイクではないから、言う程酷くはない────京一はそう思った。




路地を抜けて大路に出ようとして、足を止める。
頭部から流れる液体のことを忘れる所だった。
流石にこの状態でメインストリートを歩くのは避けた方が良い。

最短ルートは諦めて、京一は踵を返す。
そうして向き直した道の先に、明かりの切れ掛かった自動販売機を見付けた。



ポケットに手を突っ込むと、小銭がチャラチャラと指先に当たる。
適当に掴んで引っ張り出した。



自販機に小銭を落としてボタンを押す。
ガランと煩い音を立てて機械から吐き出されたのは、本来ならば許されないアルコール────ビールだ。

プルタブを開けて一気に半分ほど飲み干して行く。
其処までしてから、異様な程に喉が渇いていた事に気が付いた。
ついでに夕飯にも在り付いていない事を思い出す。




(食いっぱぐれたな)




今晩はラーメンにするから早く帰ってきてね。
今朝方そんな事を言われていたような気がするが、夕飯になるだろう時刻はとっくの昔に過ぎている。

時計などと言うものは持ち歩いていないから、正確な時間は判らない。
けれど、店はとうに営業時間を迎えて客が出入りしている頃だろうし、第一こんな風体で戻れる訳がない。
最低でも病院で適当に手当てをして貰ってからでなければ、彼女達はまた大袈裟に泣き出すだろう。
……他の誰がどんな顔をしても気にならないけれど、彼女達は駄目だった。


まぁ、食いっぱぐれ自体は然程珍しい事ではないし、逆に言えば彼女達の言葉を守る事の方が稀だ。
気紛れに守る分でも京一にとっては破格の扱いなのである。
彼女達もそれは知っているだろうから、今から慌てて戻る必要はないだろう。



……寧ろ、戻らない方が良いのかも知れない。

そもそも自分は、あの店に常連(と言うにはふらりと消えてふらりと帰って来ていたけれど)だった師が勝手に連れて来た存在に過ぎない。
贔屓にしている客が連れて来たのが、まだ10歳になった子供だったから、彼女達は保護しなければと思っただけ。
その出来事から既に四年が経ち、京一を拾った師が行方を眩ませた今、彼女達に京一を保護しなければならない理由はない。
子供の頃から見ているし、京一自身他に行き場所がないから、優しいあの人達は突き放そうとしないだけで─────………



自動販売機に寄りかかる。
それが原因かは判らないが、元々接触が悪く明滅していた機体の明かりがブツリと切れた。

元々明かりのない路である。
煌煌として見えた自販機の明かりも消えてしまうと、世界は真暗になる。
夜目に慣れた目のお陰で、周辺にある物質の影や形は読み取れるが、それが限界だ。


目の前を猫が通った。
なんとなくそれを目で追う。




(穢ェ猫だな)




暗闇でも直ぐに猫の形と判ったのは、白い体毛をしていたからだ。
これなら夜目に慣れた京一には直ぐに見付けられる。

闇にぼんやりと浮かび上がった猫は、ゴミ箱でも漁った帰りなのか、口に魚の頭を咥えている。
それを奪おうとは思わなかったが、ああ腹減ってるんだった、とぼんやりと思い出した。


無遠慮に見詰める京一の視線を感じ取ったのだろうか。
猫が足を止め、くるりと振り返る。

その猫の顔を────否、瞳を見て、京一は目を瞠る。





(─────紅)





猫の瞳は、暗闇の中で光る。
しかし、京一の前にいる猫の瞳で金色に輝いているのは片方だけ。

もう一方は血と見紛うような緋色をしていた。



うぞり。

目の奥で何かが動いたような気がして、京一は掌で目頭を覆う。
缶ビールが音を立てて地面に落ち、猫は音から逃げるように走り出した。




「………ッ!!」




痛い訳でも、むず痒い訳でも、先程の乱闘でやられた訳でもない。
なんの理由もないのに、突然眼球の奥で何かが動いて、脈動している。




(なんだ?)




やられていないと思っただけで、何か仕掛けられていたのかも知れない。
そう言えば、グループの中に一人、ガス缶のような者を持っていた奴がいたような気がする。
確かな記憶ではないが、いたのだとして、催涙のようなガスを吹き付けられていたなら、目に違和感があっても可笑しくはない。

ああ、頭部から流れる血もあったのだ。
衝撃が脳にまで届いて何処かを損傷して、感覚器官の何処かに異常信号が出ているのかも。


失明するのは御免だった。
夜闇の世界こそ慣れているが、何も見えない世界は嫌だ。



自販機に寄りかかっていた背中を動かし、両の足で歩き出す。

病院に行く道程は、いつだって気が重く、進まない。
けれど今だけは早く辿り着いて、この異常な感覚から解放されたかった。




(鬱陶しい)




眼球の奥で芋虫でも飼っているような気分がして、吐き気を催した。
耐え切れそうになくて手近な壁に寄りかかり、自販機にしていたように、背中を預けた。

瞼を掌で押えたまま、天を仰いで、ずるずると座り込む。




(鬱陶しい)

(気持ち悪い)




出来る事なら、目の中に指を突っ込んで、頭蓋から眼球を取り出したい。
もう少し理性が働いていなかったら、実際にそうしていたかも知れなかった。
それ程、気が可笑しくなりそうだったのだ。


木刀を握り締める手に、痛い程の力を込める。
樫で出来た持ち手がみしりと嫌な音を立てたが、弛緩する事はなかった、出来なかった。

喉の奥から熱くて気持ちの悪いものが競り上がってくる。
下を向いたら吐いてしまう。
だから上を向いていた。





あの猫の、目。
赤い、紅い、血と同じ色。




記憶の海に沈んでいた情景が蘇る。

子供の頃に見た、祭囃子の中に生まれた、紅い海。
優しい思い出も温もりも、何もかも全て一瞬で飲み込んで行った、紅い色。


それは全ての生き物の体内に流れているものであって、人間ならば皆同じ色をしている。
猫も犬も兎も鳥も同じ色で、それは皮膚や筋肉に覆われているが、ふとした瞬間に直ぐに顔を出してくる。
子供の頃の京一にとっても、別段、見ない訳ではない色だった。

だが、あの血の海を見たのはあれが初めてだ。
人間の体にはあんなにも赤黒い液体が入っているのだと、あの時知った。
そしていとも簡単に失われていくものなのだと。



あの猫も、紅い海を見たのか。
だからあんな色をしているのか。

そんな莫迦げた話がある訳がない、あれは単なる先天性の色素異常が起こす現象だ。
それ以外の意味はない。



ない、筈だけれど───────






眼球の中で蠢く正体不明の生き物が、ぐいぐいと眼球を押し出そうとする。
そのまま球体を割り壊して、外へ出ようとしているように思えた。


それで良い。
それで良いから、出て行け。

失明への恐怖よりも、眼球の奥の生き物の方が怖かった。
このままおぞましい生き物と感覚を飼い続ける位なら、目など見えなくなっても構わない。
それが握り締めたままの己の唯一信じる道を、壊す結果になるとしても。



発狂していない自分が寧ろ不思議だった。
だから余計に苦しい。
何も判らなくなってしまえば、もう何も恐ろしい物など無いから。




目元を覆っていた手を離す。
閉じていた瞼を開けた。

虫が出て行くように。






そうして見上げた、暗闇の空に、紅い穴は浮いていた。










紅い、紅い、



血塗られた世界が其処にあった。











































悲鳴。
それが自分のものだと気付くまで、相当の時間がかかった。



跳ね起きた京一は、瞠目し、呆然として荒い呼吸を繰り返す。

背中を冷たいものが這うような感覚がすると同時に、酷い吐き気に襲われた。
喉を詰まらせるえぐい感触に耐え兼ねて、手の平で口を押さえる。




「お…ぐッ……!!」




吐き出してしまえばいいのか、飲み込んで殺せば良いのか、それは判らない。
結局汚物を自分の膝元にぶちまける事への抵抗から、飲み下す事を選んだ。

ぐ、と息を殺して吐き気を強引に飲み込めば、今度は喉が焼けるように熱くなる。
今度は喉を押さえて咳き込み、京一は背中を丸めて膝に顔を埋めた。


そうして呼吸さえ出来ずに咳き込む京一の背に、何かが触れる。




「───────ッ!!!」




脊髄反射で触れたものを振り払うと、乾いた音がした。
それがヒトの手であると気付いたのは、その時だ。


手を振り払うと同時に振り返って始めて、京一は其処にいる人間を知る。


薄紅色の着流しに、緋色の上掛、褪せた黄色に近い色の髪は、前髪が片目を覆い隠している。
京一が始めてそれらと相対したのは、今から然程遠い記憶ではない。
両手の指で数えて余る程度の前日の事だった。

忘れようにも忘れられないその風体、そんな男に受けた屈辱と、挫かれたプライド。
消したい記憶も消したい過去も、思えば思うだけ、胸の傷が痛み忘却を赦さない。



拳武館十二神将の一人、八剣右近。

京一に敗北と胸の刀傷を負わせた男だった。




「大丈夫かい?」




京一を負かしたその男は、殊更に優しい口調でそう言った。
それを聞いて最初に思ったのは、気持ち悪い、と言う感想で、それを言ってやろうとして出来なかった。
吐き気を無理に飲み込んだ喉がヒリヒリと焼け付いて、声帯がまともに機能しない。


振り払われた手を再び伸ばし、八剣は京一の背中を上下に摩る。
病床人にするような柔らかい手付きを、京一はもう一度振り払った。

八剣は二度も振り払われた手を見下ろした後で、今度は顔だけを此方に向け、




「驚いたよ。大声を上げて飛び起きるから」
「………ッ……」




とんだ醜態を晒していたのだと知って、京一の頬に朱が上る。




「あんな場所で、あんな輩に負けているのを見たのも、驚いたけどね」
「……見たのか、てめェ」




じろりと睨んで問い詰めれば、八剣は肩を竦めて曖昧な笑みを浮かべるだけだ。
言わずとも確かだろう事が容易に想像できて、京一は苦虫を噛み潰す。


今すぐ忘れろ、と言おうとして、出来なかった。
胸部に酷い痛みが走り、呼吸を忘れて蹲る。

その京一の背に、また再び、あの振り払った手が触れた。




「無理はしない方が良い。相当酷くやられているから」
「……最初にそれをやりやがったのは、何処のどいつだよ…ッ」




痛む胸部に手を当てて、京一は傍らの男をもう一度睨む。
背中を撫でる手を振り払うような気力は無かった。


ぎりぎりとした痛みを訴える胸部に当てた手に触れたのは、蛮行によって解け、血を滲ませた布の感触ではなかった。
汗の所為かそれとも開いた傷の出血かで滲んだ、けれどもまだ真新しいであろう包帯。
誰がそんな処置をしたのかは、考えるまでも無く、この部屋の───此処が何処の部屋なのかは判らないが───主であるのは間違いない。

それは────癪に障るが、感謝するべき所なのだろう。
謝辞を述べるつもりはないけれど。



もう少し寝ていた方が良いと言われて、ゆっくりと後ろへ肩を押された。
昨今の疲労と、意識を失う以前の重労働は、未だ躯を重くしている。
胸部の痛みに熱が加わっているのも思い出して、京一は力に逆らわず、布団の上に横になった。

数秒目を閉じて荒い呼吸を繰り返していると、額にひんやりとした布が置かれる。
薄く瞼を開けて枕元を見やれば、水桶と、正座して此方を見下ろす男がいた。




「傷口が開いている。処置はしたが、動かない方が良い」
「…………」
「それと、服は洗濯したからね。明日の朝には乾くかな」




服、と言われてから、京一は自分の格好がいつもと違う事に気付く。


腕を目の高さまで持ち上げると、腕に引っかかっているのが筒袖ではなく、着物の袂である事を知る。
さっきは気付かなかったが、胸元も緩ませた袷が重なっており、腰元には帯の僅かな締め付け感。
真っ白のそれが襦袢と呼ばれる類の下着類であると理解するのに、時間はかからなかった。

恐らくと言うか、十中八九間違いなく、八剣の私物だ。




「後で病院に行った方が良いだろうね」
「……行かねェ」
「案外、子供みたいなんだな」




くすりと笑う気配があって、京一は顔を顰めて傍らの男を見上げた。
案の定、その表情は笑みに形を作っている。

常時笑っている顔と言うのは、自分の相棒もそうである筈だ。
しかし、何故かか龍麻相手は平気な筈の笑顔は、この男相手に限ってはどうにも腹が立つ。
多分、あの日のあの笑顔が、殆ど同じような形を自分を揶揄っていたからだろう。


京一の病院嫌いは、何も病院への苦手意識によるものではない。
とある病院の、とある院長に限った事だ。

だが、そんな事をこの男が知る由もないだろう。
今の京一の一言は、単純に子供の病院ひいては注射嫌いと同様のものとして受け取れたに違いない。
腹は立ったが、否定してわざわざ説明するのも面倒で、京一は笑う男から目を逸らした。




──────そうして飛び込んできた、赤い月。




「────────ッッあ……!」




がさり、と。
瞳の奥で虫が蠢いて、京一は目を抑えて蹲る。

途端に悲痛な声を上げて蹲った京一に、八剣が目を見張った。




「京ちゃん?」




いつもならば「言うな」と反応を返す呼び方に、京一は構わなかった、構っていられなかった。
それよりも、眼球の中を這い回る虫の方がおぞましい。


両手で目を押さえて震える京一に、八剣は眉根を顰める。





「目に何か……?」
「………なんッ…でも……ッ」




心配するような八剣の声に、京一は頭を振って否定する。



虫がいる────京一の感覚としては、その言葉が一番当て嵌まる。

しかし、実際に眼球の中に寄生虫も何も棲んでいないのは、京一自身よく判っていた。
だから眼球に傷を負った訳でも、血管に異常がある訳でもなんでもない。


異常があるのは眼ではなく、自分の頭の方。
そうは思っていても、それだけで眼球の中の虫が気を静める事はなく、ぼこぼこと眼球を押し出そうと暴れ回る。
目元を覆う手の指を、そのまま突っ込んで抉って球体を取って、追い出してしまいたい。
その時の痛みも、その後の永遠の暗闇も、虫が暴れ出せばどうでも良かった。




(気持ち悪い)

(鬱陶しい)


(気持ち悪い……!)




先刻飲み下したばかりの吐き気まで舞い戻ってきた。
傷の開いた胸は熱を持って、汗が噴出すのは、果たしてそれの所為だけなのか。



目を覆う京一の手の平に、男の節張った手が触れた。
それに気付くと同時に、どくりと眼球が飛び出そうなほどに虫が跳ねる。




「触……んなッ……!!」




身を捻ってうつ伏せになる。
が、肩を掴まれて引き寄せられ、再び仰向けにされた。




「京ちゃん、手を放して」
「……嫌…だ……ッ」
「放せ」




飄々とした言葉を拒否すれば、今度は命令の意図を持った声が降って来た。
それも首を横に振って拒絶すると、目元を覆う手の腕を掴まれる。



抵抗の仕方が、まるで駄々を捏ねる赤ん坊のようだと、自分でも思った。
目元を覆う手を退かせようとする力を嫌がるように、子供のように首を横に振って要らないと拒否する。
強引な手段に出た力に対しても、同じように目元を覆ったまま、頭を左右に振るしか出来なかった。

そんな弱々しい抵抗がこの男に通じる訳も無い。
もう良いよと相手が匙を投げるまで、京一が延々と抵抗を繰り返すような体力が戻っていないのも、事実だった。



大した時間稼ぎにもならない抵抗は、あっさりと奪われた。


両の手首を掴まれて顔から引き離され、顔の両横に縫い付けられる。
逃れようと全身で暴れようと試みれば、両腕を片手で纏められて頭上に拘束され、空いた片手が脇腹を押さえた。
それでも暴れようとした時、胸部の痛みに全身が強張って、呼吸を忘れる。

痛みに仰け反った京一を、八剣は無言のまま、じっと見下ろした。
その表情が僅かに悲哀を帯びたように歪められているのは、熱で浮いた頭の世迷言か。



正面からじっと見下ろされ、灰の瞳が間近にあった。

目を閉じれば逃れる事は可能だ。
だが、男は再び瞼が開かれるまで、今の状態から動く事はしないだろう。


京一は、茫洋とした意識の中で、見下ろす男の顔を眺めていた。




「眼が─────どうかしたの?」




子供に言い聞かせるような柔らかな口調で、八剣はゆっくりと問い掛けた。




「鬼と?」
「……違う、」
「なら喧嘩で?」
「……違う……!」




原因など何がある訳でもない。
自分の頭が可笑しくなっただけ。

判っているのに、涙が出て来る。
子供のように。



視界が滲むのは、痛みの所為か、それとも別の雫の所為か。
頭まで痛くなってきたような気がして、耐えるように瞼を固く閉じれば、頬を伝うものがあった。




「──────京ちゃん」




呼ぶ声に反応する気にもならなくて、頬を伝うそれを隠す事も出来ず、息を詰めるしかない。

詰めた息を吐き出すように努めても、まるで上手く行かない。
喉から蓋をされたように、呼気そのものの仕方を方法を忘れてしまったようだった。


頬に節張った手が触れる。
両腕は纏められたままだ。

詰めた息を吐き出そうと、魚のように喘ぐ唇に、熱のあるものが触れた。




「ん、ぅ……!?」




別の理由で息が出来なくなって、京一は瞠目する。
開かれた両目に映り込んだのは、窓から差し込む紅い光を反射させる、僅かに褪せた金糸。


呆然と隙間の開いた唇から滑り込んできたものが、男の舌であると気付くまで、数瞬かかった。
その出来事そのものに気をやっている内に、それと自分の舌とが絡められる。

気持ち悪い─────と思ったのは、不思議と、最初の一瞬だけ。
まるで宥めるように頬を撫でられて、絡めた舌をゆっくりと踊らされて、性急さは其処にはない。
両の手首を拘束する手が離れても、京一は暴れようとはしなかった。
そうする事すら忘れていて、ただぼんやりとした頭の中で、薄らと感じられる心地良さに身を委ねる。



男にキスされて気持ち悪くないとか、心地が良いとか。
いよいよ頭が可笑しくなったと、自分でも思う。

でも目の中でざわつく虫は静かになったから、疲労した精神は、それで十分だと考える事を放棄した。




「ん、ふ……」




触れられるのは好きではない。
子供の頃から、他人の熱が近い事が苦手で、今でも慣れない。

自分から触れるのは構わない、触れようと思った人間、許容した人間にしか触れないから。
けれど受ける側となるとそうも行かず、それがどうにも京一は寛容出来ない。


この男は、どちらだっただろう。
問うまでもない、許容していない人間だった。

その筈なのだけど──────




「…ん…はぁッ……ぅ、んん……!」




一度離れて、角度を変えてまた口付けられる。


解放された腕を頭上から身へと寄せて、次に伸ばしたのは、金糸の絡みつく男の首。
間近にあった閉じた男の瞼が僅かに開いて、それが驚きを映し出していたように見えた。
それを見なかった事にして、京一はまた目を閉じる。

咥内を弄る他人の舌の熱がより一層感じられて、ゆっくりと京一もそれに応えるように絡み付ける。
口付けの角度がまた変わって、より深く繋がり合う。




「んぅ…ふ……」




首に絡めた手から力が抜けて行き、やがてするりと滑り落ちた。
京一の眉間に寄せられていた深い皺も消え、強張っていた躯の緊張が解けて行く。




妙な事もあるものだ。

この男に口付けられる事があるなんて事も、それを受け入れている事も。
他人の熱は勿論、いけ好かない男を赦すなんて有り得ない筈だ─────普通なら。



そもそも、何故この男はこんな事をしているのだろう。
路地裏に無様な格好で意識を失っていた自分を拾って、自分のテリトリーまで運び込んで、傷の手当てまでして。

恩を着せるような人間ではないのは、癪に障る事だが、あの闘いでの一件でよく理解している。
思っていた以上に潔いのが、八剣と言う男なのだと。
それが尚更理解できず、だからこそ京一にとって八剣は苦手意識の消えない対象だった。


お世辞にも仲が良い訳ではないし、龍麻と壬生と言う青年のように、遠巻きながらも繋がりがある訳ではない。
一切の無関係と言えばそうで、八剣が何かと京一に構いつけて来なければ、あの事件以降会う事もなかっただろうと思う。




其処まで考えてから─────ああ、だからかと理解した。




(こいつなら)

(別に何も要らねェんだ)




プライドも矜持も、あの敗北で一度に全てズタズタにされた。
信じていたものも、自分自身が持っていた何もかもを、この男は砕いたのだ。

無様な姿を晒すのも、この男に限っては既に過去に起きた事の繰り返しに過ぎない。


押し殺す行為そのものが、既に無意味なのだ。




「ふ、ぁ……ッ……」




唇が離れて、ようやく呼吸が可能になる。
肺に酸素が送られて、傷のある胸部が大きく上下するのを自覚して、ようやく呼吸の仕方を思い出した。


閉じていた瞼を僅かに持ち上げれば、男の顔はまだ直ぐ近くにあった。
ゼロ距離と言うほどではないけれど、ふとすれば触れ合いそうな程だ。

見下ろす男の灰色の瞳は柔らかい。
その眼球のハイライトが僅かに赤みを帯びている事に気付いた瞬間、あの感覚が蘇る。




「………ッ!!」
「京ちゃん」




思い出した筈の呼吸がまた詰まって、片手で目元を覆う。




「……大丈夫だよ」
「……ッるせェ……!」
「大丈夫」




頭を撫でる手。
振り払おうと子供のように腕を振り回しても、それは離れない。

頭を抱えるように抱き寄せられて、男の胸板に押し付けられる。


衣擦れの音が聞こえて、それが着物の帯を解く音だと気付いた。
頭の奥で警鐘が鳴っているのは判っていたが、京一は沈黙したまま、男に身を委ねている。

目を覆っていた手を掴まれて、無理のない力で、ゆっくりと放される。
それでも閉じたままの瞼に柔らかなものが一瞬触れて、それがキスであると判った。
それから柔らかい布地が当てられて、




「……何して、」
「見たくないものがあるなら、この方が楽だろう。そうでないなら、勿論、取っても構わない」




布地を頭の後ろで結ばれるが、それは決して固くはない。
取ろうと思えば一瞬で取れる、その程度の遮蔽。

戸惑いがないとは言わないけれど、拒絶する理由も───何故か───見付からなくて、京一は暗闇を受け入れた。





暗闇と、紅い光と。

極端な二択しかないのであれば、京一は迷わない。
中途半端はグレーゾーンよりも、選ぶ手段と理由は深くなくて構わない。





子供が親に抱かれるように、腕の中に囚われている事は理解している。
だが拒絶するには、あまりにその腕の力は曖昧なもので、そんな触れ方に慣れていない京一に戸惑いを呼んだ。
迷っているならこのままでいても良いよな────と、滅裂とした思考が生まれる。


八剣は愚図る赤ん坊を宥めるように、京一の背中を撫でている。
時折遊ぶように項をくすぐり、背骨のラインを指先でなぞり、また宥めるように鼓動に合わせて背を叩く。
それを何度も繰り返していた。

それらに身を委ねている内に、京一の躯から緊張と言う強張りは解けて行く。
妙な奴だと思う傍らで、案外と居心地が良いから、つい。



耳朶の裏を男の指がくすぐって、僅かに肩が跳ねた。
見えない分だけ、触れるその熱を強く感じるものだから。




「……っあ……」




耳元に唇を寄せられる。
細い髪が頬に触れる感触で判った。

吐息が耳をくすぐって、京一は肩を竦め、手探りで男の打掛を探す。




「んッ……ふ、ッ……」




手の平の感覚だけで探した肩口。
上等だと判る生地に皺を寄せて、京一は其処を強く握り締めた。


ぴちゃ、と耳元で濡れた音がする。
温かい柔らかな肉質が耳朶をなぞって、京一は零れそうになる吐息を殺す。

男の片手がするりと背中をなぞって下りて行き、京一の臀部を弄る。
気持ち悪、と胸中で悪態をついても、振り払うような気力はなかった。
好きにさせていれば、それは次第に前へと周り、既に乱れていた袷から内側へと滑り込んでくる。




「ッ……!」
「大丈夫」




何が大丈夫なのか、京一には判然としない。
しないが、抵抗はしなかった。




「う、ん……!」




下着の中に侵入した手が、京一の中心部に触れた。
覆うように包み込んで上下に扱く。

男と言うものは刺激されれば反応するし、増して若い躯である。
其処が硬く張っていくまで時間はかからなかった。
視界を遮られ、触れる感覚に鋭敏になっている今なら、尚の事。




「あ、…っは、……ぅん…ッ」
「直ぐにイきそうだな」
「…ん、んッ……ふぁ…!」




耳元で囁かれた言葉に、顔に朱が昇るのを自覚した。
唇を噛んで耐えようと全身を強張らせれば、逆に解すように耳元に吐息を拭き掛けられる。




「ん、んぅ……ッ」
「随分、溜まってたみたいだねェ。処理はしていなかったのか?」
「る、せェッ……んんッ…!」




そんな事は此処数日、考える暇もなかった。
穏やかでない日々を送り、事によっては数日気を張り詰めることも珍しくない。
下世話な話など別世界の出来事も同然だ。

この男に触れられて感じているのは、その所為だ。
男の肩に縋るようにしがみついて、京一は胸中でそう吐き捨てた。


中心部への上下の刺激が速度を増して、京一は息を詰める。
喉を逸らせて息を殺せば、浮き上がった鎖骨を舌が舐めて形をなぞる。

張り詰めた先端に指の爪を立てられて、それが限界だった。




「あッ、あ……! ふ、あ……ッ」




吐き出した汚濁が男の手を汚し、京一の太腿を流れ落ちる。


開放感と虚脱に苛まれて、八剣の肩にしがみついていた京一の手から力が抜ける。
ぱたりとそれが蒲団の上に落ちて、京一は気だるさに身を任せ、仰向けで艶の篭った呼吸を繰り返す。

脱力した太腿を押され、脚を広げられる。
八剣の手がそのまま中心部から更に下へと降りて行く。
慎ましく閉じられた蕾に触れると、指先で其処を僅かに押し上げた。




「あッ……ぅ…!」
「痛むか」




当たり前の事だ。
其処は受け入れる器官ではないのだから。

けれども八剣は構わず、京一の蜜で濡れた指をゆっくりと押し進めて行く。




「いッ、あう…! 痛……ッ!」




有り得ない場所からの痛みと異物感に、再び京一の躯が強張る。

押し戻そうと締まる肉壁の中で、八剣の指は擦るようにゆっくりと回転する。
鳴らそうとしているのが京一にも辛うじて理解できた。


唇が重なり合う。
詰まる息を強引に吐き出させるように、八剣は京一の歯列をなぞって隙間を作ると、舌を侵入させた。
逃げる京一の舌を絡め取って捕まえると、外へと引き摺り出してしまう。
半開きになった京一の咥内から、途切れ途切れの呼吸が漏れた。




「ふぁ、は……あッ、あ…はぁッ…」




ぐ、ぐ、と秘孔を押し広げていく指。
その異物感はいつまでも消えない。

けれども、痛みは僅かであるが消えて来たような気がする。




「あッ、あッ…んぁ……ッ」
「いい顔だ」
「……んぅッ……」




褒めているのか、揶揄しているのか。
聞こえる声はどちらにも取れる色をしていて、京一にははっきりと理解することは出来なかった。




片足を持ち上げられて、高い位置で引っ掛けられる。
痴態を晒している事は────強引に頭の中から追い出して、考えない事にした。

体内で指が間接を曲げて、内壁を押し広げる感覚に、京一の喉から高い声が上がる。




「んぁッ……!」




ぞくりとしたものが背中を駆け抜けて、シーツを手繰り握り締めてその感覚に耐える。
だが八剣は更にそれを与えようと、同じ箇所を繰り返し刺激した。




「あッ、や…ん、あ、あッ……!」




刺激のタイミングに合わせて、京一の躯が何度も跳ねる。

しこりになっている部分を指が掠めれば、一際甘い声が上がった。




「ひぅうッ…!」
「此処か」
「ふあ、や! あ、くぅッ……!」




頭を振って悶える京一。
その耳元に唇を寄せて、八剣は笑みを含んだ声で囁く。




「あまり暴れると、帯が解けるよ」
「………ッ」




──────それはつまり、あの紅を再び目の当たりにすると言う事だ。

一気に蘇った感情は、“恐怖”と呼びなわされるもの。
途端に硬直したように息を詰めた京一に、八剣は悪いね、と詫びの言葉を零した。


何も見えない暗闇の世界は、重なり合った熱や、触れるものに対して嫌でも敏感になる。
布の擦れ合う音も常よりもはっきりと聞こえるし、体内で蠢くものも必要以上に形を確認するような気になってしまう。
こんな事をして来る男の顔は見えないから、何を考えているのか判らない。

でも、あの紅い月を見るよりは良い。
あの日の色で塗り潰されてしまったような世界の中で、眼球の中に虫を飼うよりは、ずっと。



……眼球の奥が疼き出す。
男の言葉に嬉々として、そうしろとでも言っているようだ。

布の上から瞼を押えて、見えない天井を仰ぐ。




「痛むか?」




八剣の問いが、どの痛みに対するものなのかは判らない。
何れにsちても、京一に応える余裕などなかった。

沈黙する京一の頬にキスを落として、八剣はゆっくりと指を動かす。




「んッ…ふ、う……んんッあッあッ……!」




声を零す度に上下する胸。
包帯で覆われた其処に男の空いていた手が滑り、見えない傷の形を確かめるように撫でる。


彼が自分で負わせた傷だ。
その太刀筋のラインは、恐らく見なくてもなぞる事が出来るだろう。

綺麗に傷痕の上をなぞる手は、決してそれを圧迫するような事はしなかった。
けれども、存在が其処にあるというだけで、痛みに対する動物の本能なのか、京一は躯に力が入ってしまう。
それによって秘部の締め付けが強くなり、八剣の指を圧迫し、自分諸共に苛む事になる。




「う、ん……!」
「改めて傷を見たんだが……よく生きているよ」
「あうッ…! あ、や、んん…!」
「殺したとばかり思っていたしね」




それは────自分でも不思議だと、京一も思う。



この男に斬られた数瞬、現実を受け入れる事が出来なかった。
それでも、地面に倒れて僅かに残った思考が思ったのは、これで自分は死ぬのだと言う事。

不思議と恐ろしいと思わなかったのは、其処まで思考が追い付かなかったからだろう。


あの時、吾妻橋は柱に縛られて身動きの出来ない状態だったし、仲間達が来る事に期待はしていなかった。
他の三人の舎弟はあの姿勢のまま動けずにいて、放置してきていたし、他の誰かに連絡をしようとも思わなかった。
“舐めた真似”をしてくれた敵に対しての怒りと、売られた喧嘩を買うと言う、京一の行動はそれだけが理由だった。

それを呆気なく打ち壊された後に残ったのは、絶望と失望だけ。
他の事など、何一つ湧き上がっては来なかった。


それから、どう言う訳か判らないが、目覚めた時には見慣れぬ老人の下にいて。
傷は其処で手当されたのだろうけれど、それ自体も不思議だった。
包帯の下の有様を見たのは、事が終わった後の事だが、その時にはあの時の出血ほど酷い状態ではなくなっていた。

日本刀は斬る事に特化した刃物であるから、まともに手入れをされていれば、酷い傷痕にはならない事が多い。
しかし、だからと言って、人体に全く欠損が出来ない訳ではないのだ。
斬られてからどれ程の時間が経って治療されたかは知らないが、あれだけの負傷を、事もなかったかのように治療するのは難しい。
更には直後に戦闘などしてのけているのだ、通常では考えられない事である。



斬り捨てた八剣にしてみれば、あの場で戦闘に参加している事は勿論、生きていた事そのものが予想外だったに違いない。




「それだけ頑丈なのに、……意外と繊細なんだな」
「……黙…れッ…!」




見えない目で睨むように顔を向ける。
其処に彼の顔があるかは知らないけれど。

くりゅ、と男の指が体内でしこりを押し上げて、京一の喉から堪えることを忘れた声が上がる。




「ふぁッ、あッ! やッ…!」
「別に悪いとは言っていない。俺が知っていたのは、“歌舞伎町の用心棒”だったものだからね」
「ん……や、あん……! あッ……」




何処でどういう噂を聞いていたのか、それは京一の知る由ではない。
拳武館と言う機関からして、様々な情報は行き交っているのだろうが、其処から選ぶ情報はやはり必要なものだけだろう。
京一が普段何処でどう過ごしているのか、それを人伝か監視カメラか、そんなもので見たものが精々だ。

日常生活でどう過ごしていようと、それはどうでも良い事だろう。
ターゲットは狩る対象であって、その為に使える情報以外は、記憶メモリの余分にしかならない。


その知らなかった顔を、八剣は今見ている。

……見られている。
きっと誰にも────あの優しい人達以外で見せた事のなかった、情けない姿を。




「ん…あ、あ、う……!」




泣きたい気分になってきた。
けれども、どうしたって涙は流れないだろう。
瞼を覆った布が全て吸い込んでしまうから。

だったら、きっとこの男には判るまい。
散々に砕かれたプライドを、更に微塵にすり潰すこともないだろう。




「意地を張るのが好きなのか?」
「…っふ、ん、んッ、ふぅんッ……!」
「それとも、意地を張るしかなかったのかな」
「ひぃうッ…! や、痛……ぁ…!」




くちくちと、秘部で卑猥な音がする。
顔だけじゃなく、全身が熱くなるのが判る。




「あッ、あふッ、ひぃん…! あッあッ、あん……!」




受け入れる器官ではない箇所に、有り得ないものを受け入れて。
それで感じている自分が可笑しいと思うような理性は、とうの昔に捨てていた。


紅い月が昇る日はいつもそうだ。
現実と非現実の境界が曖昧になって、理性と本能が判らなくなる。
いやと言うほど現実的に思考が働いたり、理由のない破壊衝動に駆られたり。

世界が紅に染められる日は、そんな事ばかりが起きて、だから面倒事も起きる。

だから、今更だ。
こんな可笑しな出来事が起きても、驚くような気にもならなければ、避けようとも思わない。
どんなに逃げても、あの紅い月は空から自分を見下しているのだから。



胸部の痛みと、下肢の痛みと快感。
混ざり混ざって、脳の伝達神経までも冒して行く。




「んぅ…! う、ふぁ……あ…!」
「いいよ、出しても」
「あぅ…あ、あ、あッ…!」




頬に舌が這う。
ぞくりとして、京一は身を震わせた。
同時に秘孔内部が強く締まり、男の指を締め付ける。

そのまま緊張が解れるのを待たず、八剣は京一の前立腺を突いた。




「ひぃぅッ! ひあ、あ、んぁああぁッ………!!」




絶頂を迎えることへの抵抗はない。
逆らうと言う行為そのものを忘れて、京一は声を上げて達した。

























意識の覚醒と共に見えたのは、暗闇。
それと同時に感じたのは、自分よりも少しだけ低い、ヒトの体温。

何度か身動ぎした後で、その体温が自分ヲ抱きこんでいる事を知る。



誰かに抱き締められるなど、『女優』の人々を除けば、何年振りになるだろう。
あの人達以外を許容する事はなかったし、赦そうと思った事そのものがない。

思ったよりは、居心地が良いと思う自分がいる。
彼女達とは違う力強さやくすぐったさはなくて、ただ触れているだけ、その延長のような熱。
その人物の顔が見えないから、今は、尚更。




「少しは落ち着いたかな」




声が聞こえて顔を上げる。
見えはしないけれど。




「悪かったね、急にあんな事をして」
「………」
「紛らわすには手っ取り早いと思ったんだが」




それにしたって唐突過ぎるし、極端だろう。
増して男が男相手になんて、よく出来たものだ。

思ったけれど言わなかった、他に誤魔化せる方法もなかっただろうと自分でも思う。


共犯者同士なら、互いに何も言える訳がない。




男の手が京一の頭を撫でて、視界を覆う布の結びにかかる。




「解くかい?」
「………いい」




それ程固い結びではないから、八剣の手を借りずとも、解こうと思えばいつでも解ける。
当然今なら京一自らの手で取り払う事も出来た。

けれど、京一は今はまだ暗闇の中で良いと思う。




「聞いていいかな」
「……何を」
「何を見ていたのか、と言う事だよ」




まるで内緒話のように潜められた声で囁かれた言葉に、僅かに京一の頭が揺れた。
布で隠された瞼の裏で、瞳が右往左往とするのが自分でも判る。


上げた頭がどの方向を向いているのかは判らないが、直ぐ其処に壁のように男が存在しているのは判った。
横になった自分の傍らに男も転がり、親が子供を守るように眠るように、抱かれているのだと。

……その躯の向こうに何があるのか、不意に気になった。
同時に瞼の奥が微かに蠢いて、京一はそれを誤魔化すように、男の胸に顔を埋める。




今更、守る矜持もプライドもない。
散々張り続けた意地は壊された。

それなら、もう、良いだろう。




「………月」




呟かれた言の葉に、頭を撫でていた男の手が止まった。




「紅い月」




紅い月が見える。
あの日の紅で塗り潰された、赤い世界が。



本当に月が紅い訳ではない事も、他者にはごく普通の空が見えている事も判っている。
自分の目が、頭が可笑しくなっただけで、後は何も狂ってなどいない。

父親がいなくなった日から何度となく繰り返されてきた、紅い月の夜。
幼い頃はそうでもなかったと思うのだが、それを見ると、いつからか眼球の中で虫が蠢くようになった。
暴れる虫の所為で眼球が傷付くとか、そう言う不安は不思議と一度も持った事がない。
恐ろしいのは、目の中に虫がいる事そのものだった。


赤い月が見える日は、決まって面倒事に巻き込まれた。
……単純に、それに対する回避能力が欠落しているだけだとも思うが。



こんな時の紅は駄目だ。
遠い日の、祭囃子と匂いを思い出す。



逃げても逃げても、紅い月は追ってくる。
遥か天上から嘲笑うように此方を見下ろして、何処までもついて来る。
朝になって月が沈んで太陽が昇っても変わらない、その夜にはまた紅い月が昇る。

眼球に巣食う虫を黙らせる為に、恐怖を苛立ちに変えて捌け口を求めて暴れていたのが、中学生の頃だ。
けれどどれだけ暴れても、天上に昇った紅い月を見れば、また虫は騒ぎ出す。




月が紅いなんて、とんだ虚言だ。


今日の帰り道だって、葵と小蒔は綺麗な月だと笑っていた。
龍麻と醍醐は何も言わなかったが、きっと同じように思ったに違いない。

紅い月を見ているのは自分だけだ。
赤黒いフィルターに覆われているのは、虫が巣食った自分の眼だけ。
世界は何も、何処も、壊れてなどいない。




「………そんだけだ」




見えているのは紅い月。
見ているのは紅い瞳。

あの日、海のように溢れ出した紅い血と同じ色の世界。


幻視に囚われた瞳が見ているのは、そんなものだった。



これでこの男も幻滅しただろう、と頬を押し付けた熱に抱かれて思う。
いや、そもそもこの男が自分に偶像を持っていたという事そのものが有り得ない。
一番の失態と情けない姿を、一番最初に見られているのだから。

あれから何故かこの男は自分に構いつけてくるが、それは物珍しい玩具を手に入れた感覚なのだろう。
苦手意識からして、打てば響く京一の性格は、飄々として他人を煙に巻く男には面白いものだろうし。



そう思っていたら、額に柔らかな熱が押し付けられる。
─────キスだった。




「別に怖がる事じゃない」
「……知ってる」




紡がれた言葉は、きっと誰もが言うだろう言葉だと思った。
相手が龍麻でも、葵でも、きっと同じ事を言うだろう。

けれど、その先が違った。




「紅い月なら、俺も見てる」




その言葉にこそ驚いて、京一は布に覆われた目を見開いた。
見えるのは暗闇だけ、赤い世界もなければ、男の顔も見えないままだ。


京一の驚愕を感じたのだろう、くすりと笑う気配がある。
揶揄の色ではなく、純粋に可笑しかったと笑う声。




「そう意外な事でもないだろう? それとも、俺がまともな神経の男だと思ったかな」
「……まともな神経した人間が、弱った人間を犯すかよ。おまけに男だぞ」
「俺が言っているのは其処じゃないんだけどねェ」




判っている、そんな事は。



拳武館は暗殺集団だ。
八剣は其処に属する十二神将の一人である。
京一が知っている以上に人の生死をその手に握り、斬り捨てて来たに違いない。

人の生死をその手に握ると言う事は、それが生であれ死であれ、決して簡単に割り切れることではない。
京一とて中学生の頃に散々痛めつけた人間が、後に生き続けたのか死んだのか、判らない事は多い。
それは決して直接的ではないけれど、人の生死を握っていたのは確かだろう。


今年の夏、きっと歯車が一気に加速を始めた鴉の事件に巻き込まれた少女がいた。
後に不可思議な形で再び龍麻の前に姿を見せた彼女に、龍麻は巻き込んだ事への罪悪感でもあったのだろうか。

小蒔は遠い記憶を重ねた少女の死に嘆き、苦しみ、弓を引けなくなるまでになった。
醍醐は同じ道を歩み、そして引き裂かれた友人と分かち合えないままの死別に今も苦しんでいる。
葵は人が死ぬ事そのものに酷い抵抗感と拒絶感を抱いている、恐らくその切欠も生死が彼女の手に委ねられた瞬間が遠い日にあったのではないだろうか。



人の生死をその手に握り、終わりの引き金を引く。
その重みはどんなものだろう。
引き金を引いた後、其処に何もないなんて事はない。

魂が抜けて入れ物になった肉魂と、引き換えに生きている自分が其処にはいるのだ。


そんな出来事が延々と繰り返されて、まともな思考でいられる人間の方が、きっと少ない。




「紅葉はそうでもないと思うけどね。館長もそんなつもりはないだろう。皆、それぞれにそれぞれの正義があって拳武館にいる」
「……お前ェもあんだろ」
「一応、ね。だが、それでも決して、そう軽く刀を振るっている訳じゃあないよ」




斬る瞬間に見えるのは、飛び散る紅。
斬る瞬間に感じるのは、刃が肉を切り裂く感触。

斬った後に残るのは、世界を染める、紅い色。




「いつからだったかな。見上げた空が、随分と紅く見えたんだ」




八剣の言葉が真実か嘘か、それは京一には判らない。
京一の言葉を、虚言と笑い飛ばす事が出来るように。




「面白いね。同じ世界が見えているなんて」
「……知るかよ、お前が見てる世界なんざ」
「それに意外だ。この世界が怖いとは」




人の話聞いてねェな。
続く八剣の言葉にそう思いながら、京一はふと気になった。




「お前は……なんともねェのかよ」
「紅い月が?」
「………」
「全然。そういうものなんだろうと思ったよ」




ああ、こいつも可笑しい人間なんだ。
平静とした声で紡がれた言葉に、京一は小さく笑った。


同じ世界が見えていて、その世界を受け入れている男。
こいつの方がオレより可笑しい人間だ。
眼球の中に虫がいる訳でもないのに赤い月を見上げて、それを普通に受け容れるなんて、正気の沙汰じゃない。

同じ月を見ているから、同じ世界を共有出来る。
だからこんなにも居心地が良い。




「だから、また紅い月が見えたら此処に来ればいい。怖いのなら見えないようにしてあげるから」
「………気持ち悪」
「酷いねェ」




クスクスと笑う男。
頬を押し付けた胸板が上下して、少し鬱陶しかった。
















紅い月が見える時。
あの人達の下に帰らなかったのは、彼女達を赤黒い色で染めたくなかったから。

紅い月が見える時。
友人達を振り返らないのは、彼らを紅黒い色で穢したくなかったから。



でも、此処なら良いだろう。
此処なら虫も静かで大人しい。
紅い月を見ない限り。

そして此処に唯一存在する男は、既に紅い世界に身を置いている。
仲間や優しい人達のように、守りたいと思う事もない。




紅い月。
紅い瞳。

紅い世界。




暗闇に覆われたままなら、紅い世界でも怖くはない。













シリアスって言うより、暗い……そして長い! 前後編に分けて尚長い!
「紅」や「月」と言うキーワードは、どういう訳か強く惹かれます。結果、こんな暗いものを書いてしまっているんですけども……

うちの京一って深層心理の部分ではかなりネガティブ思考なので、一回落ちるとこんな感じでどんどん落ちて行きます。
八剣はいつも大人な感じで書いている事が多いですが、時々こんなのが書きたくなります。