従う猫、一匹 5


 何が一番辛い事なのかと言われたら、弟が目の前にいると言う事だった。

 スコールの分まで自分が全て引き受ける。
そう決めた事に後悔はなかったし、彼が苦しい思いや痛い思い、怖い想いをしなくて済むのなら、レオンはそれで十分だった。
それ以上に心が痛む事などないと思ったし、施設にいた頃は、薬で胃を焼かれて悲鳴を上げるスコール見ているしか出来なかったから、変わってやれる事を嬉しいとすら思った。

 けれど、単純に自分が犠牲になればスコールが楽になる訳ではない事は、レオンも理解していた。
スコールが苦しむ事でレオンが心を痛めるように、レオンが犠牲になる事でスコールは悲しむのだ。
スコールがいつか壊れてしまう事をレオンが恐れたように、レオンが壊れてしまう事をスコールも同じように恐れている。
どちらかが犠牲になれば済む等と言う、簡単な話ではないのだ。

 だが、それならどうすれば良かったのかとレオンは思う。
あの地獄のような狭い世界で、互いにいつ来るとも知れない崩壊の日を待てば良かったのか。
人に拾われる事なく、山の中や、細いビルの隙間で終わってしまうのが、一番の幸せだったのかも知れない。
ビルの隙間で眠った時は、少なくとも、生まれて初めての解放の中で目を閉じた筈だったから。
生き延びてしまったから、生きる場所を与えられてしまったから、終わるはずだった願いが際限なく生まれてくるようになったのかも知れない。

 スコールが笑ってくれるのなら、スコールが傷付かないのなら、どんな事にでも耐えられる。
そう思っていた心が、支配される日々が長くなる事に、折れそうになる自分がいる。

 雌のように這い蹲って男に奉仕するのも、支配者に従属するのも、耐えられない事はないと思った。
鼻を突くようなすえた匂いや、喉奥に纏わりつく粘り気や、体内を穢されていく屈辱も飲み込んで行けると。
けれど、そうして汚れて、自分のものではないような高い声を上げて、だらしなく涎を垂らして浅ましく快楽に流される姿を弟に見られる事だけは、我慢できなかった。

 だからと言って、自分にこれ以上の事が出来るだろうか。

 支配者は、二匹の猫の扱い方をよく心得ている。
弟の為に兄は決して自分に逆らう事はなく、兄の言葉は弟にとって絶対的だった。
お互いがお互いの為に生きているようなものだから、それぞれが人質のようなものだ。
そして彼らは、この支配者の世界以外で生きて行く事は出来ず、自ら命を絶って片割れを自由にしてやりたいと思う程向こう見ずでもない。
兄弟が互いの手を握り、繋ぎ合っている以上、彼らは前にも後ろにも行けず、支配者に従う以外の道はなかった。

 離れたくない、一人にしたくない、一人になりたくない────だって世界で唯一の絆なのだ。
スコールはレオンの為に生み出されて、レオンはスコールの為に“兄”になった。

 だから、辛い。
浅ましく変えられていく、堕ちていく姿を、見られているのが。





 朝から一度もスコールと口を利かないと言うのは、恐らく、これが初めての事だったと思う。

 スコールがまだ試験管の中にいた頃でさえ、レオンはずっとスコールと会話をしていた。
特殊な薬液の中にいたスコールは、喋る事は出来なかったけれど、試験管の外側からレオンが声をかければ、その音はきちんとスコールへと届いていた。
二人で一緒に過ごすようになってからは、尚の事。
レオンもスコールも、多弁な訳ではなかったけれど、毎日をほぼ一緒に過ごしていれば、呼びかけでも挨拶でも、何かしらの言葉の遣り取りはあったから。

 大切な弟と会話をしない事を、レオンは苦に感じる事はなかった。
そう思うだけの余裕が、今の彼にはなかったからだ。

 今日、レオンが目を覚ました時には、時刻は昼前になっていた。
いつも、兄が目覚めて起こして貰うまでベッドで丸くなっていた弟は、その時には既に寝室にはいなかった。
彼はリビングのソファの上で、膝を抱えてじっと小さく縮こまり、録り溜めていたテレビ番組を見ていたのだが、レオンが起きて来た時、彼の瞳はテレビを見ているようで見ていなかった。
音の出るものに意識を集中させ、他の情報の一切を遮断しようとしていただけで、番組内容なんてものは頭に入っていなかったのだ。

 レオンは、ソファに座っていたスコールの頭を撫でようとして、止めた。
撫でる事も、抱き締める事も、触れる事すらも、出来ないと、その時のレオンは思った。

 会話のないまま、兄弟は昼食を採った。
レオンは殆ど食べる気がしなかったので、ミルクの入ったコーヒーだけ。
スコールはもそもそとスープとサラダを空にして、その間、彼は一度もレオンと目を合わせようとしなかった。

 空になった食器をキッチンに運んで、水に晒す。
シンクには、昨晩、洗い損ねていた食器がそのまま残っていた。
水に浸し切れていなかった皿の一部の汚れがこびり付いていて、洗剤を多めに使っても中々落ちない。

 こびりついた汚れが、自分を表しているような気がして、レオンは泣きたくなった。


(────最低、だ)


 昨夜の事を思い出す度、レオンは繰り返し思う。

 毎晩繰り返される、支配者からの凌辱。
面白みが欲しいのか、数日前から、支配者は性交の仕方に変化をつけるようになった。
いつもと違う場所を攻めたり、道具を使ったり────凡そレオンの性知識の範疇を越えた事ばかりだ。
それでも、レオンは男の要求を受け入れて、男の為に足を開き、欲望を咥え込んで熱を注がれた。
そして自身も何度となく絶頂を迎え、男が満足するまで、その行為は続けられていた。

 そんな生活と、夜毎の性行為の中でも、昨日の出来事は最悪だったとレオンは思う。


(スコールに、)


 目を閉じると浮かんでくる、昨夜の光景。
支配者が持ち出した道具を持って、小さな声で謝る、スコールの声。
宛がわれた固く冷たいものが羽音を鳴らして、脳が溶けて行くような痺れに襲われた。

 昨夜の事は、スコールが謝った所から、記憶が途切れていた。
それでも、自分が酷く浅ましい姿を晒したのだろうと言う事は、スコールの様子を見れば判る。


(……多分、イった。スコールの手、で)


 その瞬間の事はまるで覚えていなかったが、気が狂いそうな熱に溺れていた事だけは、薄らと思い出される。

 支配者の手で溺れる事は、まだ、諦めが付いた。
その姿をスコールに見られている事は、レオンの心を酷く苛むけれど、まだ免罪符のようなものが得られるような気がして。

 けれど、スコールの手で絶頂を迎えさせられたのだとしたら、


「……っ……」


 ぞくん、としたものが背中を駆けたような気がして、レオンは唇を噛んだ。


(汚い)


 今更、自分が綺麗な身体をしているなどとは思っていない。
元々、生体実験を繰り返されて、あちこちメスが入っているのだから、肉体的な傷は気にならなかった。

 だから、レオンが“汚い”と思ったのは、自分自身のもっと内側の部分。
快感に飲まれて踊らされて、浅ましく貪るように男の欲望を咥えて、────弟の手で絶頂を迎えて。
理性が飛んでいた時の事だと言われても、自分の体の変化と、それに伴うように堕ちて行く心を受け入れられる訳ではない。

 水に晒していた皿の汚れが、いつの間にか溶けて消えていた。
こんな風に溶けて消えたらどんなに楽だろう────そんな事を考えながら、そうして全てを、一番大切なものを捨てる事が出来ない自分を、レオンはよく理解していた。


(スコール。お前を手放したくないんだ。離れたくないんだ。お前に、軽蔑されたとしても)


 浅ましい姿を見られ、弟の手で絶頂させられて、その事で弟がどんなに傷付いているとしても、レオンはスコールの傍にいたかった。
スコールが生まれた事で“兄”になったから、スコールがいなくなってしまったら、レオンは自分自身の存在意義を見失う事になる。

 自分勝手だ、とレオンは思った。
若しかしたら、とうの昔にスコールは今の生活から逃げ出したいと思っていて、レオンの事も既に見放しているかも知れない。
それなのに、レオンが支配者への従属を選び、日中も常にレオンと2人きりだから、逃げ出す事も出来ずにいるのだとしたら、レオンはスコールを、いたくもない地獄に縛り付けている事になる。

 恨まれているかも知れない。
何よりも大切な、唯一無二の家族に。
そう思ったら、また泣きたくなる位に悲しくなった。


(ごめんな、スコール)


 それでも、やっぱり手放せないし、捨てられない。
行く宛のない孤独と絶望の下に、スコールを放り出す事は出来ない。

 かちゃん、と滑った食器がぶつかり合って小さな音を鳴らした。
ああ、洗わないと、とぼんやりと思い出して、レオンはスポンジと皿を手に取る。
機械的に手を動かして、洗い終わった食器を乾燥機に干して行く。

 全てが洗い終わって、レオンは一つ息を吐いた。
その時、


「………?」


 持ち上げた頭が、ぐわん、と揺れたのを感じて、レオンは眉根を寄せた。
ふらついた体を支える手立てが思いつかないまま、レオンの視界は暗転した。

 兄を呼ぶ弟の声が、酷く遠くから聞こえたような気がした。




自分一人で全てを受け止めようとしていたレオンと、見ているしか出来なかったスコール。
どんなに「平気」と自分自身を騙しても、限界は訪れる。