1 days album


 ピピピ、ピピピ、ピピピ…と規則正しく一定に鳴る音。
それに促されて、エルオーネはゆっくりと眼を開けた。

 ほんのりとした暖かさを感じさせてくれる、淡いオレンジ色の天井が見える。
それを少しの間見詰めた後、ああ起きなくちゃ、と頭がようやく動き始めて、エルオーネは欠伸を漏らしながら体を起こした。
ぎしりとベッドのスプリングが鳴って、ベッドの端に置きっ放しにしていた分厚い参考書がばさりと音を立てて床に落ちた。

 参考書を拾ってベッドの上に戻し、エルオーネは淡色の花が咲いたパジャマを脱いで、今日一日を過ごす服装へと着替えを済ませる。
その傍らで窓の外へと目を向けると、今日も今日とて雪の銀色が世界を覆っていた。
熱帯気候のバラムでは到底見られないその景色を見慣れるには、実に一年の歳月を要したものだった。

 極北の地、トラビア大陸の中心部に施設を構える、トラビアガーデン────其処が今のエルオーネの住む家である。

 物心つく前に両親を失い、十七年前のエスタとガルバディアの戦争で故郷を失ったエルオーネは、同じ村の出身であった少年とその母と共に、平和な土地であったバラムへと移り住んだ。
それから十五年間をバラムで過ごし、九歳から十八歳までバラムガーデンで就学。
バラムガーデンの高等部過程を終了した後は、大学部の魔法生物学科へと進級を果たす。
そして一年前───大学部二年生になって間もなく、魔法生物学をもっと専門的に学ぶ為、その手の学部に強いトラビアガーデンへと留学を決意した。
転校する事も可能だったのだが、エルオーネはバラムガーデンへの思い入れが強く、出来る事ならバラムガーデンで卒業資格を取りたかった。
こうした生徒の希望はガーデン系列に置いて少なくはなかったから、素行や成績に問題がなければ、概ね了承されていた。
エルオーネも元々の勤勉さと成績が認められ、バラムガーデンに籍を置いたまま、トラビアガーデンに長期留学する事が許された。
期間は二年間で、三年生の過程の終了と共に、エルオーネはバラムガーデンに帰る事が義務付けられている。

 ずっとバラムで生活をしていたエルオーネにとって、トラビアガーデンでの生活の始まりは、本当に判らない事だらけだった。
第一校───本校であるバラムガーデンを含め、世界に四校を構えるこのガーデンと言う名の就学期間は、各ガーデン毎にカリキュラムと方向性を定める学園長と、金銭や資金のやりくりをするマスターと呼ばれる存在で管理されている。
これらは全て独立しており、その為、各ガーデン毎に施設や体系は統一されていなかった。
特に閉鎖的な事で知られるスピラガーデン等は、エボンと呼ばれる宗教が管轄している事から、その土地独自の取決めが多いと言う。
対してバラムは開放的で、異種族に対しても壁がなく、来るもの拒まず、と言った風だった。
カリキュラムの傾向で言えば、トラビアが生物学・地質学などを主とするのに対し、ガルバディアガーデンは軍事学・地政学などに力を入れていると言った違いがあった。

 このように、一言で「ガーデン」と言っても、その様相は各校によって様々なものになっていた。

 吹雪に覆われた外界に比べると、ガーデン内は常に温かな気温が保たれている。
そうでなければ日々を快適に過ごす事は出来ない。
トラビアの地は嘗て人が住めない程に過酷な土地と言われており、今でも真冬になれば氷点下十度を下回る日が続く事も多かった。
そんな過酷な極寒の土地であるからこそ、此処にしか生息できない特殊な進化を遂げた生物・植物が数多く存在しているのである。

 エルオーネは、そんな銀世界と温かな世界を隔てている、分厚い窓ガラスに触れた。
冷えたガラスが体温で温められて、エルオーネの掌の形を残して曇る。
その横にはあっと息を吐きかけて、指先でついついと落書きした。

 窓辺に猫と子猫。
猫の額には一本の線。
我ながらよく描けた───そんな事を思いながら、エルオーネはくすくすと笑った。




 身嗜みを整え、朝食を済ませた後、エルオーネは参考書やレポートをまとめて部屋を出た。


「エルオーネ!」


 扉のロックをかけた所で、呼ぶ声がした。
振り返ってみると、ミントグリーンの髪色の少女が、手を振りながら駆け寄って来る。


「リディア、おはよう」
「うん、おはよう」


 リディアと言う名のこの少女は、エルオーネが参加させて貰っている魔法生物学の研究室に、よく遊びに来る人物だった。
本人はG.F学の研究室の生徒なのだが、この二つの教授同士が仲が良い事もあり、研究室ぐるみで交流を行う事が多かった。
そんな中でエルオーネとリディアも知り合い、同じ世代と言う事もあって、親しくなったのである。

 二人並んで、教室に向かうべく歩き出す。
寮を出て渡り廊下に一歩踏み出すと、ぴんと張った冷たい空気が二人の肌を突き刺した。
一年経ってもこれには慣れない、とエルオーネは小さく身を震わせ、寒さを誤魔化すべく両の腕を摩る。


「寒い?」
「うん、ちょっと」
「今日はまだ暖かい方なんだけど」


 苦笑して言ったリディアだったが、無理ないか、と付け足した。


「バラムはずっと暖かいもんね。氷点下の日なんてないでしょ?」
「うん。氷点下って言うのもそうだけど、雪が降ってる日がまずないもの。冬になっても薄着の人がいる位」


 速足に渡り廊下を進みながら、エルオーネは言った。
脳裏に浮かんで来るのは、いつでも元気一杯の少年と、その父親の顔。
その傍らには、寒さで猫のように丸まって動かない弟と、常よりも少しだけ厚着をした兄の顔が思い浮かんだ。

 彼らがトラビアの雪を見たら、一体どんな顔をするだろう。
兄は、仕事柄色々な所に行くから、もう珍しさは感じないかも知れない。
けれど弟と少年は違うと思う───そう考えてから、少年の方はそうでもないかも、とエルオーネは思い直した。
彼と彼の父親は、今でこそバラムに定住しているものの、嘗てはトラビア大陸唯一の都市である、機械都市ザナルカンドで暮らしていたのだ。
豪雪地帯のトラビア大陸の中でも、比較的積雪のない地域であるが、全く雪が降らない訳ではない。
ザナルカンドは今では水上都市と言われているが、都市が作られ始めた初期の地区などは大陸内部に面する山間部に位置しており、此処は豪雪とは言わないまでも、年に数メートルの積雪が観測される場所だった。
少年とその父がザナルカンドのどの地区に暮らしていたのかは知らないが、場所によっては雪も身近なものだっただろう。


(でも、写真を送ってもあんまりそんな感じの反応はなかったな)


 寧ろ随分はしゃいだメールが返って来たような気がする。


(まあ、子供の頃の事だし。あんまり覚えていないのかも)


 少年がバラムにやって来たのは、今から十年前───少年とエルオーネの弟が7歳の時の事だ。
人生の半分以上をバラムで過ごしているのだから、生まれ故郷の記憶が朧になっていても無理はない。


(……私も、あんまり覚えていないし)


 そう独り言ちて、記憶の中に微かに残る風景に、知らず口元が緩む。
それをリディアに見付かった。


「エルオーネ?」
「え?」


 名を呼ばれて、ぱちりと瞬きして顔を上げる。
すると、リディアが拗ねたように頬を膨らませてエルオーネを見ていた。


「もう、全然話聞いてなかったでしょ」


 リディアの指摘に、エルオーネは誤魔化すように笑ってみせる。
そんなエルオーネに、リディアは腰に手を当てて眉尻を吊り上げ、「もう!」と怒った表情を浮かべた。


「大事な話をしてたのに」
「ごめんなさい。えっと……なんだったっけ?」
「今日はエルオーネの所の研究室に、エスタから偉い学者さんが来るんでしょ。そんな調子で大丈夫なの?って言う話!」


 ちゃんと聞いててよ、と頬を膨らませるリディアは、美しく洗練された外見とは違い、とても子供染みていて可愛らしさがある。
身長もエルーネより頭半分程低い為、エルオーネは同い年であると判っていながら、ついつい彼女を年下扱いしてしまう事があった。

 ごめんね、ともう一度詫びて、ミントグリーンのふわふわとした髪を撫でる。
リディアはそれに嫌がるような事はなく、「誤魔化されないからね」と言いながら、くすぐったそうに目を細めた。


「心配してくれてありがとう、リディア」
「ううん。でも、確りしてね、エルオーネ。さっき事務員の人から聞いたけど、エスタから来た学者さん、凄く変わり者で気分屋だって評判の人みたいだから」


 うっかり怒らせたら何を言われるか───脅し染みた事を言うリディアの表情は、悪戯っ子のようだ。
怖いなあ、と眉尻を下げて見せながら、エルオーネの顔は楽しそうに笑っていた。

 トラビアガーデンと科学大国エスタは、非常に親密な間柄である。
科学と魔法を融合させた技術を発展させたエスタは、魔法の研究に関してどの国よりも優れている。
嘗ては、鎖国によりその技術力を自国の中で完結させていたエスタだが、七年前に国際社会へ復帰して以来、優れた科学技術力を他国に惜しみなく輸出するようになった。
魔法生物やG.Fに関する研究にも労力を惜しまない為、それらを中心として研究活動をしているトラビアガーデンの大学部とも連携を取る事が多いのである。

 こうした経緯から、エスタで名のある学者が、他国の若い知恵を得ようとトラビアガーデンを訪問する機会は多い。
エルオーネが在籍する魔法生物学部、リディアが在籍するG.F学部のそれぞれに、非常任でエスタ学者が教授をしているのも、トラビアガーデンとエスタが近しい関係である事を示している。

 だから、エスタの学者が『凄く変わり者で気分屋』と言うのは、エルオーネにとってもリディアにとっても、最早当たり前の事のように認識されていた。


「トラビアに来るエスタの学者さんって、いつも変わってるよね」
「レオンが言っていたんだけど、エスタの天才学者って言われるような人は、皆何処か変なんだって」


 レオン───エルオーネの兄的存在である、額に傷を持った青年は、世界中で知られる大手セキュリティ会社に勤めている。
世界各国から、要人警護から魔物討伐までの様々な依頼を受ける会社で、彼はトップクラスの成績を誇っていた。
そんな彼の最近の任務は、要人警護の仕事が主となっているらしく、この関係でエスタにも度々足を運んでいる。
その都度、所属する会社の特殊性からか、エスタの学者陣から研究に協力してくれと猛アタックを喰らう事が多いと言う。


(───あんな人みたいなのが、今も沢山いるなら、大変よね)


 ふ、と。
エルオーネは記憶の海から浮かび上がってきた人物像に、眉尻を下げて笑みを漏らす。

 エルオーネの記憶の光景の大半は、バラムの青い海原と晴れ渡る空で埋まっているが、その数分の一の中に、違う風景があった。
一つは山間の小さな村にあった、咲き誇る花畑と、小さなバーでずっと聞いていたジャズピアノの音。
もう一つは、何処までも広がる寂しい赤い空と、無機物に覆われた無音の世界。
前者は生まれ故郷のもので、後者は幼い頃に誘拐されて無理やり連れて行かされた、嘗ての大国エスタの風景だった。

 幼い頃にエルオーネは誘拐事件に遭い、故郷と遠く離れたエスタの地へと攫われた。
その時のエスタは、現在の治世とは掛け離れた世界で、軍事大国ガルバディアと戦争の真っ最中で、時の大統領によって独裁政権が行われ、民衆にも圧制を強いていた。
そんな中で幼いエルオーネが出逢ったエスタの学者は、子供心にも判る程、酷く偏屈で変わり者であった。
語尾についていた言葉だとか、服装だとか、自分の希望が通らないとジタバタと駄々を捏ねる子供のような振る舞いをしたりとか。

 誘拐されていた時の記憶は、辛くて寂しいものばかりだった。
けれど、喉元過ぎればと言うものなのか、それとも単に幼過ぎたからなのか───エルオーネのあの頃の記憶は、幸いにも彼女の人格形成に影響を及ぼすことはなかった。
父のように慕っていた人に救出された後、レオンとその母がいるバラムに送られ、平穏な日々を過ごせた事も、その理由の一つと言えるだろう。
だからエルオーネは、こうしてストレス感を抱く事もなく、幼い頃の記憶を掘り起こす事が出来る。

 政権が代わり、あの日から十七年の歳月が経った今でも、あの変わり者の学者はエスタで現役で活躍している。
その名は世界中にも轟く程で、現在世界で流通している魔法グッズの殆どは、彼の研究が実を結んだ成果であると言える。
正に天才学者と言う言葉は彼の為にあるようなもの、等と言う文句もある昨今だが、彼の活躍振りと同じく、変わり者振りも変わりないらしい。


(変な人だったなあ。本当に)


 小さな子供の前でも、体裁もなく地団駄を踏んだ大人の姿を思い出す。

 ───と。


「エルオーネ!」
「きゃっ!」


 耳元からの大きな声に、エルオーネはびくっと跳ねた。
短い悲鳴に周囲の若者達───トラビアガーデンの生徒達だ───が何事かと一瞬振り返った。

 驚きからドキドキと鳴る鼓動に顔を赤らめながら、エルオーネは目の前で拗ねた顔をしているリディアを見る。


「び、びっくりした。急に大きい声出さないでよ、リディア」
「急なんて事してないよ。エルオーネがぼーっとしてるからでしょ」


 言われて、エルオーネはまた自分が記憶の海に浸っていた事に気付く。


「ご、ごめんね……」
「もう。そんな調子で本当に大丈夫?」
「うん、もう平気。ありがとう」


 怒った表情から一転し、心配そうに覗き込んでくるリディアに、エルオーネは笑って頷いて見せる。
それでもリディアは伺うようにエルオーネを見詰めていたが、予鈴の音に慌てて踵を返す。


「いけない、遅刻しちゃう。ごめんね、私、もう行くから」
「うん。心配してくれてありがとう」


 ひらひらと手を振るエルオーネに、同じように振りかえして、リディアは自分の教室へと駆けて行く。
円形の廊下を遠ざかって行く彼女を数秒見送った後、エルオーネも直ぐ傍にあった自分の教室へと入って行った。




「───この研究により、ガルキマセラには一次空間と二次空間の狭間に長期滞在できる事が可能である事が判明したと。これに続き、同研究の成果で、イヴァリース大陸に生息するラビット種にも短時間ながら亜空間に滞在できると判った。この研究を更に利用したものが……」


 滝のように流れて行く教授の文章が、鳴り響いたチャイムによって途切れる。
この教授は時間きっかりに始まり、時間きっかりに終わる事で知られていた。
それが話の途中でも変更はなく、強制的に授業は終了となり、続きを求める生徒の声を聞き流し、さっさと教室を出て行ってしまう。
その代わり、次の授業の時には寸分狂わずに前の授業の続きから始めるので、学生達からは「録音データを一時停止・再生しているみたいだ」と言われている。

 今日も通常通りに授業を終わらせた教授は、颯爽とした足取りで教室を出て行った。
教授の言葉に耳を傾ける為に静まり返っていた教室に、賑やかさが返ってくる。
お腹空いた、と言う生徒の声が多く上がるのは、時刻が正午を過ぎたからだろう。


「ん〜〜〜っ……」


 丸めていた所為で縮んでしまった背筋を目一杯伸ばして、エルオーネは席を立った。

 エルオーネが履修している科目の授業は、今日はこれで終了した。
午後からは研究室に行かなければならない。
その前に腹ごなし、とエルオーネは食堂へと向かった。

 その廊下の途中、鞄の中に入れていた携帯電話がバイブレーションを鳴らす。
取り出して液晶画面を見てみると、兄の名前が其処にあった。
壁際に寄って、手近にあったベンチに腰を下ろす。


「もしもし、エルオーネです」
『ああ、レオンだ。元気にしてるか?』
「うん」


 耳に心地良い低音は、間違いなく、聞き馴染んだ兄のもの。
この声を聞くのは、実に一か月ぶりの事だった。


『今なら休憩時間だろうと思って電話したんだが……忙しかったか?』
「ううん、大丈夫。レオンは、お仕事は終わったの?」


 大手セキュリティ会社に身を置いているレオンは、実に多忙な日々を送っている。
要人警護の任務で、二十四時間、長い期間であれば二週間以上を拘束される事もある。
昨今は過激派テロリストが世界各国でその活動を広げている事もあり、一瞬の油断が命取りになる事への理解から、エルオーネは出来るだけ自分から兄に連絡を取るのを自粛していた。
本当は毎日でも話をしたいのだが、自分の我儘で彼を振り回す訳には行かない。
何せエルオーネのトラビアガーデンでの生活は、彼からの仕送りで全て賄われているのだから。
それを除いても、エルオーネは兄の邪魔などしたくないと思っているから、自然とエルオーネから兄への電話の回数は減っていた。
その代わり、仕事が一段落した時や、たまの休日には必ずと言って良い程、レオンから電話がかかって来ていた。

 エルオーネの質問に、ああ、とレオンが短く答える。


「今度は何処に行っていたの?」
『イヴァリースだ。ブルオミシェイスに行ったんだが、やはりあの辺りは寒いな』
「こっちも寒いよ。今日も雪が降ってる」
『トラビアは年中雪が降っているような土地だからな。ガーデンの中は防寒も確りしているだろうが、ちゃんと暖かくするんだぞ。風邪をひくからな』
「うん、大丈夫。レオンの方こそ、あんまりお仕事頑張り過ぎて倒れたりしないでね。無理な話だとは思うけど、怪我にも気を付けて。二年前みたいな事はもう嫌だよ」
『判っている』
「本当かなあ」


 クスクスと笑いながら言えば、電話の向こうで「信用がないな」と少しばかり困ったような声が聞こえてきた。
それに対して、当然よ、とエルオーネは追い打ちを食らわせてやった。

 二年前───レオンは全治二ヶ月の大怪我を負った事がある。
バラムにはあまり大きな医療施設は存在せず、大事故等に巻き込まれた時の搬送先は、バラム市内の病院ではなく、街の近くに聳えるミッドガル社のビルであった。
世界に名だたるセキュリティ会社は、あらゆる分野で最先端技術の輸入を積極的に行っている為、医療関係の分野でも秀でている面がある。
そんな場所に入院と言う形で滞在したレオンであったが、医療班が見つけた当初は、このまま死んでも可笑しくない程に満身創痍であった上、生命力も風前の灯となっていたのだ。
幸運な事にレオンは一命を取り留め、後に後遺症を残す事もなく回復したが、あの時に見た兄の姿は、エルオーネにとってトラウマにも成り得るものがあった。


「レオン、無茶したら嫌だよ。スコールだって悲しむんだから」
『ああ、判っている』


 聞こえる声に、確りとした意思の強さと、優しさが滲む。

 スコールは、レオンが何よりも、誰よりも大切している弟だ。
エルオーネにとっても、レオンの存在と同じように、実の弟のように愛しいものであった。

 エルオーネとスコールの間には、四歳の年の差があった。
スコールはバラムガーデンの高等部二年生で、幼馴染の少年───ティーダと共に毎日通っている。
兄のレオンやエルオーネと違い、幼い頃から内向的な性格で、人とコミュニケーションを取る事が苦手だった。
今では形を潜めたが、子供の頃は些細な事でよく泣いて、エルオーネや兄の傍を決して離れようとはしなかった。
そんなスコールにとって、二年前の兄の凄惨な姿は、エルオーネ以上にショックだったのではないだろうか。

 エルオーネもスコールも、分別がつかない小さな子供ではないから、レオンの仕事に怪我が付き物なのは理解しているつもりだ。
けれど、判っていてもやはり心配せずにはいられない。
出来れば何事もなく、無事に、元気な姿で帰って来て欲しいと思うものだ。


「本当の本当に、気を付けてよ」
『ああ。あんな事には二度とならないようにするよ。絶対に』
「絶対、ね」


 交わすこの約束は、いつでも裏切られてしまうものだと、エルオーネは判っている。
だからこの口約束は、自分自身が安心したい為のもの。
レオンはきっとそれを判っていて、エルオーネの気持ちに応えてくれているのだろう。

 幼い頃から、兄と自分と弟と、三人で寄り添って生きて来た。
弟が七つを数えた時、弟と同じ位に泣き虫な少年がやって来た。
それからは三人が四人になって、今でこそエルオーネは一人離れた地にいるけれど、こうして声を交わして繋がっている。

 だから、これからもずっと、皆揃って繋がっていたい。

 そう思ったエルオーネの耳に、賑やかな声が聞こえてきた。


『レオン、帰ったっスよー』
『ああ』
『あれ、電話中?仕事?』
『いや、エルだ』
『マジっスか!』


 電話に近い筈のレオンよりもずっとよく聞こえてくる、トーンの高い声。
それはエルオーネが幼い頃からよく知っている、少年───ティーダのものだった。


『俺もエル姉ちゃんと話したい!』
『やめろ、ティーダ。邪魔するな』


 レオンとよく似た声が、トーンの高い声を遮る。
レオンと血の繋がった弟であり、エルオーネにとっても弟同然の存在の、スコールのものだった。


『別に俺は構わないが。いっそのこと、スピーカーにするか。二人とも話したいだろ?』
『ほら!』
『せめてアイスを冷凍庫に入れてからにしろ。溶けるぞ。お前が食べたいって言うから買ったんだろ』


 アイス、アイスかあ。
久しぶりに聞いた単語に、エルオーネはこっそり笑みを漏らす。
トラビアガーデンに来てから食べていないけれど、バラムは年中常夏の気候だから、今日も太陽が眩しいに違いない。
そんな日差しの下で、少年達は今日も元気に過ごしているようだ。

 ばたばたと慌ただしい音が聞こえた後、「代わって!」と元気な声が響く。
判った判った、とレオンが言って、聞こえてくる声が変わった。


『もしもし、エル姉ちゃん?』
「はい、なぁに?」
『本当にエル姉だ!』
『煩い、ティーダ。声が大きい』
『何スか、スコールだってエル姉と話したい癖に。いてっ!怒るなよ!』


 昔から恥ずかしがり屋で気難しい性格の弟だ。
図星を指されると言葉の代わりに手が出てきて、大抵、それの被害に遭うのは幼馴染だった。
半分は彼が揶揄っている所為なので、自業自得でもあるのだけれど。


「スコール、あんまりティーダをいじめちゃ駄目だよ」
『だって、スコール』
『……ティーダが悪い』
『えー』
「ティーダもスコールを揶揄わないの。ね?」


 優しく諌めるように釘を指せば、はーい、と子供らしい返事が返ってくる。
スコールの方は何も言わなかったが、彼が今どんな顔をしているのか、エルオーネは直ぐに想像できた。
きっと、俺の所為じゃないのに、と拗ねて唇を尖らせているに違いない。

 エルオーネは漏れる笑みを隠しつつ、電話の向こうの弟達に、ふと気付いた事を尋ねてみる。


「スコールもティーダも、今日は授業はどうしたの?平日でしょ?」


 バラムガーデンの高等部二年生の二人は、平日は漏れなくガーデンで就学するのが義務である。
今日は木曜日、時間は昼を過ぎた頃だから、いつもならガーデンの食堂で過ごしていて、この時間にバラムの街に帰ってくる事は有り得ない。


『うーん、なんか判んないけど、午後は休校になったんだ』
「休校…?」
『先生達が緊急会議がどうのって言ってた。詳しい事は、俺達は知らされてないから…よく判らない』
『だからサボりじゃないっスよ!』


 曖昧ながら声明するスコールに、ティーダが被せるように言う。
本当なんだよ、と繰り返す必死な声に、エルオーネは今度は零れる笑みを隠さなかった。


「ふふ、大丈夫。判ってるよ。スコールもティーダも、真面目だもんね」
『ティーダは違うと思う』


 すかさず帰って来た弟の言葉に、エルオーネは声を上げて笑った。
ティーダの拗ねる声が聞こえて来て、ごめんごめん、と謝る。


「課題とか頑張ってる?」
『うん』
『ティーダは頑張ってない』
『またなんでそういう事言うんだよ』
『昨日、俺のノート写しただろう』
『ティーダ、余り丸写しに頼るなよ。テストで泣きを見るのはお前だぞ?』


 兄と弟の同時攻撃に、ティーダの泣く声が聞こえてきた。


『エル姉ー!』
「ちゃんと自分で解ける所はやってる?」
『やってるよ』
『嘘つけ……』
『やったってば!』
「うん、判ってる」


 冷ややかなスコールの声に反論するティーダに、エルオーネは宥めるように努めて優しい声で言った。
勉強嫌いのティーダが、彼なりに頑張っているのは、彼を知っている人間なら判る事だ。
スコールも理解しているだろうけれど、それでもこんな意地悪を言うのは、さっき揶揄われた仕返しに違いない。

 賑やかだったティーダの声が尻すぼみになって行く。
次に聞こえて来たのは、少し控えめみ抑えられた、スコールの声だった。


『エルは…元気にしてるのか?』


 嫌な思いをしていたり、大変な目に遭っていないか。
弟の気遣う声に、エルオーネはうん、と頷いて返事をする。


「私は元気だよ。でも、もうちょっとスコールやティーダの声が聞けたら、嬉しいかな」
『………』
『スコール顔赤いっス』
『煩い!』


 電話向こうの弟達の遣り取りが可笑しくて、エルオーネはくすくすと笑う。


『エル、揶揄わないでくれ』
「あら、酷い。本当の事なのに」


 また受話器の向こうが静かになる。
子供の頃は素直に喜んでくれたのに、スコールは思春期に入ってから、こういう話をすると直ぐに真っ赤になって黙ってしまう。
かと思ったら、どたばたと言う騒がしい音と、スコールの名を呼ぶティーダの声が遠くなりながら聞こえてきた。

 かちゃかちゃとボタンを操作する小さな音。
スピーカー設定を切って、またレオンの声だけが聞こえてくる。


『エル』
「スコール、どうしちゃったの?」
『二階に上がって行った。難しいな、あれ位の年頃は』


 レオンのその言葉が酷く老成して聞こえて、エルオーネは眉尻を下げて苦笑する。

 ───所で、と。
電話の向こうで、気を取り直すようにレオンが話題を変えた。


『明日、来月分の生活費を送るつもりなんだが、何か不足はないか?欲しいものとか』
「ううん、大丈夫。寧ろ、ちょっと多いくらいなんだよ」


 エルオーネのトラビアガーデンでの生活は、レオンの稼ぎで賄われている。
大手セキュリティ会社でトップクラスの成績を誇るレオンは、俗に“高給取り”と揶揄される職種だった。
そんな彼から送られてくる仕送りは、学費分を除いても、一学生の生活費としては過分なものであった。
レオンにしてみれば、急な入り物があってはいけないと心配しての事なのだろうが、それも引かれても良い位だとエルオーネは思う。


「レオン、本当にあんなに一杯じゃなくていいんだよ。先月分とか、先々月とか…結構残ってるし。別に贅沢する気もないし」
『だが、女性は何かと必要なものもあるだろう。キスティやセフィもそう言っていたしな。蓄えはあった方が良いぞ』


 ……その蓄えも、十分すぎる程にあったりする。

 エルオーネは贅沢をするような性質ではない。
寧ろ、質素にひっそり、穏やかに過ごせていられたら、それ以上を望む事もない。
レオンとてそれは同じことで、“高給取り”と呼ばれはしても、レオンの金銭感覚はごく普通の一般市民レベルである。
寧ろ贅沢をする方が落ち着かず、給料の大半は自動的に貯蓄に当たる事になっている。
そんなレオンの下で生活しているスコールも、ごく限られた趣味に費やす他は、殆ど浪費する事はない。

 エルオーネはこっそり溜息を吐いた後、小さく笑みを浮かべた。
レオンが妹であるエルオーネや、弟のスコール、その幼馴染であるティーダに対して過保護な一面があるのは、昔からの事だ。
寧ろレオンの場合、年下達の面倒を見る事で自分自身に役割を感じている所もある。


「もう、判ったよ。ちゃんとレオンが送ってくれた分、貰うから。でも本当に不足なんてないからね。ご飯もちゃんと食べてるし、研究に使うものも買えてるし。今以上には送らなくていいから」
『そうか?……なら、いいか。スコールもそうだが、お前達、もう少し物欲を持った方がいいぞ』
「レオンもね」


 欲がないのは兄弟揃って同じ事だ。
エルオーネにしてみれば、自分や弟よりも、レオンの方がよっぽど物欲がないと思う。


(レオン、昔から私達の事ばっかりなんだもの)


 何が欲しいとか、何がしたいとか───エルオーネは、レオンの口からそう言った話を聞いた事がない。
彼はいつだって、エルオーネや弟達に「何が欲しい?」と聞いてばかりなのだ。

 それがエルオーネには少し寂しい。
幼い頃は無心にレオンに甘えていたスコールも、最近は少しずつ変化を見せて来て、レオンに「何かしたい」と思うようになっていた。
けれどそれを伝えても、レオンはやんわり断ってしまう。


(私だってレオンを甘やかしたいのに。スコールだって)


 通話の途切れた携帯電話の液晶を見て、エルオーネは拗ねたように唇を尖らせた。
暗くなった液晶画面は、今日はもう彼と繋がる事はないだろう。
エルオーネからかければ繋がるが、エルオーネはこの後は夜まで研究室に篭る予定だった。
とてもではないが、のんびりと家族の談話が出来るような時間は取れそうにない。

 携帯電話を鞄の中に入れて、エルオーネは座っていたベンチを立った。
スカートの皺を直して、改めて食堂へ向かって歩き出した。




 コンピューターを長時間見ているよりも、紙面の文字を追っている方が余程良い。
エルオーネはそう思う。


「んー……」


 長時間同じ姿勢を続けていた事と、モニター画面と向き合っていた所為で、肩凝りと眼精疲労に見舞われている。
まだ21歳なのに、やだなぁ、などと考えながら、エルオーネは両手を上に伸ばして背筋を伸ばす。

 す、と何かがエルオーネの目の前に差し出された。
眼精疲労から合わないピントを調整しようと、ごしごしと手で目元を擦って、エルオーネは改めてそれを見る。
あったのは、半透明の綺麗な蜜色をした、ローズマリーティーだった。

 エルオーネが顔を上げると、藤色の瞳がエルオーネを見下ろしている。
エルオーネが所属する魔法生物学部の研究室で、主任研究員を務めているミンウだった。


「ありがとう、ミンウさん」
「ああ」


 柔らかな笑みを浮かべるミンウに、エルオーネは笑みを返し、温かなローズマリーのすっきりとした香りを堪能し、そっと口に含む。


「どうかな」
「美味しいです。ミンウさん、紅茶淹れるの上手ですね」


 研究の合間、ミンウはタイミングを見て色々な紅茶を淹れてくれる。
エルオーネも簡単なインスタント程度なら淹れる事はあるが、こんなにも良い香りは中々出せないし、綺麗な色を出すのも難しい。

 ミンウはエルオーネの言葉に嬉しそうに目を細めた。


「気に入って貰えたなら幸いだ。ローズマリーには疲労回復の効果がある。今日は長丁場になりそうだから、こうしたものも取り入れなければな」
「そうですね。……疲労回復、かあ」


 頷いた後、蜜色を見下ろして呟いたエルオーネに、ミンウはしばし思考した後、


「……良ければ、私が使っているハーブを少しあげようか。淹れ方も教えよう」
「えっ、良いんですか?」
「君には随分世話になっているからな」
「そんな、好きでしている事ですし……寧ろ、学生の私が長く此処にいるのって、お邪魔にならないかなって」


 エルオーネの言葉に、ミンウがくつくつと笑みを漏らす。


「とんでもない。うちの研究室は、昔から中々人が集まらないと評判だったんだ。その癖、やる事は何かと多い。君が来てくれたお陰で、私達は大分楽をさせて貰えるようになった。真面目で根気強い君には、皆感謝しているんだ」


 真っ直ぐに向けられる言葉に、ぽんぽんとエルオーネの頬が赤くなる。
どんな顔をして良いのか判らなくなって、恥ずかしさを誤魔化すような愛想笑いを浮かべるのが精一杯だった。

 研究室の出入口の扉がノックされたのは、そんな時だ。
入って来たのはエスタから来た学者で、リディアが言っていた通り、酷く変わり物である事が一目見て知れた。
何せ、顔一杯に不可思議な化粧を施していて、手や指先を小刻みに動かし、真っ赤なアイシャドウを施した目をぎょろぎょろと動かす様は、まるで爬虫類が獲物を探しているようだった。

 トラビアガーデンでは、比較的エスタの学者の来訪が多い為、生徒が彼らを見かける事も少なくない。
エルオーネもそれは同じで、幼い頃には特に変わり物の学者の姿を見ていたから、今更ちょっとやそっとの変人を見ても驚かないつもりでいたのだが───想像していたものよりも、ずっと変わった人物が来た事に、エルオーネは心なしか驚いていた。
が、それを当人の前で露見させる訳にはいかないので、エルオーネは研究の経過記録やメモを取る事に集中し、時折響く奇怪な声には、聞こえない振りをし続けた。

────が。


「おっひょおおおおお!」


 一気に近付いて来た声と顔に、エルオーネは思わず、その時手に持っていた資料の束を抱き締めて息を飲んだ。
悲鳴を上げなかったのは奇蹟かも知れない。


「おっ、おっ?おおっ?」
「あ、あの……何か…?」


 目元と唇を真っ赤に染める紅色は、まるで隈取のようで、エルオーネは睨まれた小動物のように縮こまる。
そんなエルオーネの様子に気付いて、博士との間に割り込んでくれたのは、ミンウだった。


「博士、彼女に何か?」
「ん?いんやあ、別に?」


 にまにまとした笑みを浮かべる博士に、エルオーネはミンウの背中に隠れる。
博士としては素晴らしい知識と経験を持っていると言うし、悪い人ではない───と思うのだが、如何せん、不気味なのである。

 怯えた様子のエルオーネを見て、あららぁ、と博士は眉尻を下げた。


「そんなに怖がんないで、僕ちん悲しい」
「あ…す、すみません」
「ううん、いいのいいの!僕ちんが悪かったよ。アナタいい人ねぇ〜。気を付けなさい?」
「はあ……」


 悲しげな表情を浮かべたかと思うと、次には笑っている。
かと思ったら優しげな目で見下ろされて、エルオーネはその変化に追い付けず、首を傾げた。

 戸惑う様子のエルオーネに、庇い立っていたミンウが向き直る。


「エルオーネ、君はもう戻りなさい」
「え?でも……」


 今日は一晩をかけて、サンプルを観察する予定があった筈。
学生のエルオーネは明日も授業がある為、研究員より先に上がらせて貰う予定になっているが、その時間まではまだ十分余裕がある。
その分だけ、今の内に済ませられる事を片付けて、徹夜組の負担を減らして置こうと思っていたのだが、ミンウはそれをしなくて良いと言うのだ。

 いいから戻りなさい、と少し強い語気で言われ、エルオーネは大人しくそれを受け入れる事にした。


「えっと…それじゃあ、お先に失礼します」
「ああ。すまないな」
「じゃあね〜ん」


 荷物をまとめたエルオーネは、ドア前で一つ頭を下げた。
ミンウが詫びをする隣で、博士がひらひらと鮮やかな色のマニキュアが塗られた手を振っている。

 常とは違う、異様な雰囲気に包まれた研究室から解放されて、携帯電話を取り出して時間を確認すると、午後八時を過ぎた頃だった。
いつもと違う環境に気疲れしたようで、研究室を出た時には、思わず心の底から安堵の息を吐いてしまう。


(びっくりした。あんな人がいるなんて知らなかったな。昔は、見なかったと思うけど……)


 今日初めて出逢った学者の変わり者振りは、エルオーネの記憶に残る、奇天烈な天才学者と同じ位に強烈なものだった。
やはりエスタには、一風変わった人が多いらしい。
まだ心なしかドキドキと鼓動を打っている心臓を宥めつつ、エルオーネは寮に戻るべく歩き出した。




 夕飯を終えて、入浴を済ませた後、エルオーネはベッドの上で参考書を開いていた。
傍にはノートが開いてあり、要所要所の書き抜きをしながら、参考書のページをめくる。


(この参考書だけじゃ足りないかな。ミンウさんに頼んで、論文も見せて貰った方が良いかも)


 頭の中で組み立てつつあったレポート内容を書くには、情報が物足りない事に気付いて、エルオーネは頭を掻いた。
艶のある黒髪の毛先が指に絡まって、その一本を摘まんで目の前まで持って行く。
枝毛が出来ているのを見付けて、エルオーネは眉根を寄せた。

 ベッドを下りて洗面所に向かい、眉バサミで枝毛から少し上の部分を切る。
艶のある黒髪は、幼い頃から兄や弟が「好き」と言って誉めてくれたもので、彼らの母が生きていた頃は、毎日のように彼女に梳いて貰ったものだった。
だから大切にしたいのに、大学部に進学してから睡眠時間が減った所為か、最近ダメージの表れが見られるようになった。
昨日も日付が変わってから暫く参考書を読んでいたし、バラムにいた頃のように規則正しい生活が送れなくなっているのは事実だ。

 かと言って、容易に睡眠時間を優先させる、と言うのも難しい。
やらなければならない事は山積みだから、どうしたって睡眠時間や食事の時間は削ってしまうのだ。

 ───ポーン、とインターホンの音が鳴ったのが聞こえた。
時刻は午後十一時を迎えようとしており、来訪者など余り見られない時間である。

 エルオーネが部屋の扉を開けると、研究室帰りなのだろう、鞄を持ったままのリディアが立っていた。


「こんばんは。ごめんね、こんな時間に」
「ううん」


 構わないと首を横に振れば、良かった、とリディアが微笑み、手に持っていた袋包みを差し出した。


「これ、ミンウさんから。紅茶のハーブだって」
「ありがとう」
「それじゃ、遅くにごめんね。おやすみ、エルオーネ」
「おやすみ、リディア」


 ふわりとライムグリーンの髪を躍らせて、リディアは自分の部屋へと向かった。
それを少しの間見送った後、扉を閉めて、エルオーネは袋包みをキッチンに持って行き、カウンターに置いて封を開けた。
中にはローズマリーだけではなく、カモミール、ジャスミン、レモングラスなど、様々なハーブが入っている。
それぞれの袋に名前と効能が書いてあり、淹れ方をメモしたカードがセロハンテープで貼られている。

 時間も遅い事だし、集中力も切れてしまったし、今日は勉強はお開きにして、紅茶の淹れ方を一つ試してみる事にする。
明記されている効能を確かめながら選び、“安眠効果”と書かれているキャットニップを手に取った。
カードに書いてある通りの手順を進めていくと、ほんのりと爽やかな香りが鼻孔を擽る。
浸出を終えてティーカップに置いていたフィルターを取ると、淡いレモン色の液体がゆらゆらと揺れていた。

 キッチンの片付けを手早く済ませ、寝室に戻ってベッドに腰掛ける。
す、とカップを口元に運び、匂いをゆっくりと吸い込みながらティーを飲む。


(あれ?)


 何処かで飲んだことがあるような、そう思ったら匂いも嗅いだ事があるような。
エルオーネはカップから口を放し、レモン色の液体を覗き込んで首を傾げた。

 頭の中に、柔らかなダークブラウンと、花のような笑顔が浮かぶ。


(───うん。そうだ)


 思い出したのは、幼い頃の記憶。
昼寝のし過ぎで、夜になって眠れないと言って兄に構って欲しがって、怒る事が苦手な兄を困らせた。
弱った兄は、バーを営んでいて夜遅くまで起きていた母の下にエルオーネを連れて行き、母から温かな飲み物を貰って、エルオーネに飲ませていた。
レオンも一緒にそれを飲んでいて、カップが空になった後、程なく二人揃って夢の世界に誘われた思い出がある。

 あれはキャットニップのハーブティーだったのか。
生まれ故郷には沢山の花が咲いていて、ハーブを栽培している家もあったと思う。
バラムに移り住んでから飲む事がなかったので、記憶の海に沈んでいたが、こんな場所で───バラムからも生まれ故郷からも遠く離れたトラビアで、思い出に出逢う事があるとは思わなかった。


(レオンは憶えてるかな?)


 レオンとスコールの母が亡くなったのは、スコールが生まれて間もない時の事。
エルオーネが4歳、レオンが8歳の時だったから、彼はエルオーネよりも鮮明に故郷の風景を覚えているだろう。
この香りが、優しい母の笑顔とともにあった事も。

 ミンウから疲労回復の効果があると聞いて、真っ先に思い浮かんだのがレオンだった。
子供の頃から何かと苦労して来て───彼はそうは思っていないだろうけれど───、今でも仕事に追われてばかりの彼に、何かしてやりたいと思った。
けれどそれを言ってもレオンは笑って断るばかりだから、さり気無く彼を労う事が出来れば、と。

 貰ったハーブは、明日にでも買い足して、淹れ方のメモと一緒にバラムに送ろう。
多分、弟が淹れてくれる筈だ。


(スコールにも、お裾分け、ね?)


 生まれて直ぐに死に別れた母の温もりを、スコールは憶えていない。
細くて白い、けれど温かな腕に抱かれていた事も、彼は記憶に残せなかったようだった。
だからスコールが知っている“母”は、窓辺の写真立てて微笑んでいる姿だけ。

 父や母がいない事を、弟が寂しがったと聞いた事はない。
エルオーネも自分自身の両親の事を覚えていなかったが、やはり寂しさを感じた事はなかった。
両親がいない寂しさ以上に、兄とその両親が沢山の愛情を注いでくれたからだ。

 ───けれど幼い日、レオンは時折、エルオーネを両親が耕していたと言う畑があった場所に連れて行った。
其処はエルオーネが物心ついた頃には綺麗な花畑になっていたけれど、其処にいると、兄ではない誰かに抱き締められるような気がした。
その瞬間、エルオーネは不思議な安心感に包まれて、心の中がふわふわと幸せで一杯になるのを感じていた。


(本当は、私が淹れてあげたいんだけど)


 レオンがエルオーネにそうしてくれたように、今度はエルオーネが兄と弟に、あの安心感を伝えてあげたい。
でも、今は遠く離れているから、それは少しだけ保留にする。

 空になったカップをシンクで水に浸けて、エルオーネはベッドへと戻る。
幼い頃の記憶と同じ、夢路の香りが部屋の中に残っているのが感じられた。





妹でお姉ちゃんで母親代わり。
エルオーネサイドは本編(オフ本)では余り書かないので、こっちでちょいちょい何か書けたらなーと思ってます。