招かれざる訪問者
※Gがつくアレの話なので苦手な方は注意。


 “それ”を見付けた瞬間、エルオーネは悲鳴を上げそうになった。
寸での所でそれを押し留めたのは、「今は夜中」と言う理性が辛うじて働いてくれたからだ。
しかし、いっそ叫んでしまえば良かったかも知れない、と後悔するまで然程時間はかからなかった。

 トラビア大陸は、大陸のほぼ全土に渡って万年雪が積もる、極寒の大地である。
トラビアガーデンはその只中にあって、ガーデン施設と言う建物によって壁に覆われ、外界からほぼ遮断される形で存在している。
トラビアガーデンで壁に覆われていない所と言ったら、寮と校舎を繋ぐ渡り廊下と、グラウンドぐらいのものだ。
グラウンドは余りに吹雪が強い日だと使用不可になり、体育の授業は自動的に体育館や武道館を使う事になるので、トラビアガーデンの体育館は他のガーデンに比べると───スピラガーデンなどはガーデン自体の規模が違うので、一律に同じ条件であるとは言えないのだが───比較的大きめに作られている。

 ガーデン施設内は、終始適温が保たれるように管理されている。
トラビアガーデンの内部には至る所に暖房機器が設置されており、これは全て、トラビア大陸唯一の都市である、ザナルカンドの機械技師によって日々整備されていた。
この暖房機器が死んでしまうと、トラビアガーデン内は一気に冷え込んでしまうだろう。
そうなったら、ガーデンに住んでいる生徒や教員、教授のみならず、研究の為に飼育されている生物・魔物の殆どは死んでしまうに違いない。

 だから、トラビアガーデンの生徒にとって、ガーデン内を安定的に過ごしやすくしてくれる暖房機器は、必要不可欠なものだ。
それはエルオーネも重々判っている。
判っているのだけれど、


(やだ!なんで!どうして!?)


 部屋の隅を走り去った黒光りするモノを見た瞬間、エルオーネは胸中で叫んだ。
泣き出す一歩手前の顔で。

 トラビアガーデンの寮内は、謂わば温室のようなものである。
常に一定の気温、一定の湿度が保たれており、寮に住む生徒達にとって、とても快適な空間を齎してくれるのだが────その恩恵に与るのは、其処に住む人間達には限らないのだ。


(いや!いや、いや、いや!やだ、助けて、レオン!)


 此処にいない兄の名を必死で呼んだ。
幼い頃、寂しい時や怖い時、夢中でそうしていたように。

 先程まで読んでいた、分厚い参考書を抱き締める。
身を守る為に、それが如何ほどの防御力も持っていないのは判っていたが、何かに縋り付いていなければ、今直ぐにでも泣き出しそうだったのだ。

 エルオーネの視線の先には、勉強用のデスクがあり、彼女の瞳はデスクの足と壁の隙間に釘付けになっている。
紙一枚を滑り込ませられる程度の隙間には、今エルオーネを怯えさせているモノが潜んでいる。
出来ればそんなものは無視して、なかった事にしてしまいたいのだが、エルオーネがどれだけ臨んだ所で、“それ”は其処に潜んでいるのだ。
いっそ気付かなければ良かったのに、と思いながら、エルオーネは息を殺して“それ”の動向を観察する。

 紙一枚の隙間に滑り込むモノ。
黒光りする素早い“それ”。
学名『Periplaneta fuliginosa』───クロゴキブリ。


(部屋は綺麗にしてるし、食べ散らかしたりなんかしてないし、お掃除だって毎日してるのに!なんで出て来るの!)


 エルオーネの部屋は、いつも綺麗に整えられている。
テストや試験が近付くと、教科書や参考書、ノートにコピーしたプリントにと散らかってしまう事はあるが、終わればちゃんと片付けている。
何より、紙目当てにゴキブリが出て来る事はないだろう。
食べ物は冷蔵庫の中に全部ちゃんと仕舞っているし、菓子を食べた後はウェットティッシュで床を拭いているし、とにかく、エルオーネは部屋の掃除は日々徹底させているのだ。
潔癖症ではないけれど、幼い子供が沢山いた環境で育ったから、衛生面はよくよく気を付けなければならない事は知っていた。
それは子供達が手を離れた今でも癖になっていて、自分の生活環境は出来るだけ清潔に保つように努めている。

 だからエルオーネの部屋には、あの黒光りする生き物が好んでいるようなものは存在しない。
それなのに、どうしてあの生き物は此処にやって来たのだろう。
いや、理由など如何でも良いのだ。
問題なのは、“あれ”が“此処に”いると言う事。


(殺虫剤、殺虫剤って何処に置いたっけ。やだ、だめ、目を離しちゃ駄目。あそこにいるの、まだあそこに。あそこから出て来た時、見てなかったら、何処に行ったか判らなくなっちゃう)


 知らない間に部屋を出て行ってくれるのなら良いけれど、いなくなったと判らないと、やはり怖い。
部屋の何処かに潜んでいるかも、と思うだけで、エルオーネは背筋が凍るのが判った。

 やっぱり、最初に見つけた時に叫べば良かった。
そうすれば誰かが、隣の部屋にいる子が助けに来てくれたかも知れない。
その子がゴキブリ退治が出来るか否かは判らないが、少なくとも、一人でない分だけ、出来る事も、動く勇気も増えるのに。

 魔法生物学部に進学してから、苦手なぶちゅぶちゅな虫や、ぶんぶん飛ぶ虫の飼育もした事がある。
最初は嫌で嫌で仕方がなかったが、義務とは言え、面倒を見ていると心なしか愛着も湧いてくる。
野生のそれらは相変わらず苦手だが、幼い頃のように泣いて兄を呼ぶ事はなくなったし、幾らか耐性もついた。
───が、あれだけは駄目だ。


(いや、いや、助けてレオン!やっぱり駄目、ゴキブリだけは駄目ーっ!)


 遠い日に戻ったように、エルオーネは必死になって兄を呼んだ。
此処にはいないと判っていながら。

 エルオーネが大嫌いな虫を退治してくれたのは、いつも彼だった。
ハエタタキでもスリッパでも丸めた新聞紙でも、何でも良いから武器を作って、素早く正確に叩き落とす。
潰れたそれを新聞紙で包んでゴミ箱に捨てて、ゴミ袋は直ぐに焼却炉に持って行って燃やして、虫が出た場所は綺麗に拭いてくれる。
其処までしてくれた後で、「もういないぞ」とエルオーネを宥めるように頭を撫でてくれて、それでようやく、エルオーネは安心するのだ。

 小さな子供達が沢山いた頃でも、虫を退治するのはレオンだった。
虫が平気な子はいたけれど、大体ターゲットを誤ってしまったり、ドタバタしている内に虫が飛んだりして、更に大騒ぎになる。
また、いつも確りしている姉代わりのエルオーネが一番にパニックになってしまうので、子供達も一緒にパニックに陥ってしまう。
結局は、年長者で虫退治にも慣れていたレオンに任されていたのである。

 けれど、此処に兄はいない。
此処にいるのは、エルオーネ一人。
誰も頼る事は出来ないから、自分自身で退治するしかない。

 ───そう思った時、


「エルオーネ、まだ起きてる?」


 部屋の扉をノックする音がして、エルオーネは思わず肩を跳ねさせた。
リディアの声だ。


「リディア?」
「うん、そう。夜中にごめんね、まだ起きてるみたいだったから、ちょっと聞きたい所があって……」


 大丈夫?と問う声に、大丈夫じゃない、と思った。
問いかけに対する答えとは、別の意味で。


「入っても良い?」
「ちょ、ちょっと待って。直ぐ開けるから。本当にちょっと待って」


 繰り返すエルオーネの言葉に、うん?とリディアが不思議そうな声を漏らしたが、エルオーネには今それを気にしている余裕はない。
固まっていたベッドの上から下りて、視線はデスクの隙間から外さずに、じりじりと横歩きでドアに向かう。
ドアの前まで来ると、やはり視線は動かさずに、手探りでドアロックを外した。

 がちゃり、とドアが開けられて、ミントグリーンの髪の少女が入って来る。


「お邪魔します……どうしたの?」


 壁にぴったりと背中を寄せて、ある一点を凝視しているエルオーネに、リディアは当然、首を傾げた。
エルオーネは相変わらず参考書を抱いたまま、リディアに一瞬視線を向けただけで、また視線を元に戻し、


「あの…その、……ちょっと、……手伝って、欲しいんだけど」
「何?」


 小首を傾げ、きょとんとした表情で問うてくるリディアに、エルオーネは罪悪感が浮かぶ。
けれど、自分一人ではどうしようもないのだ。

 エルオーネは、あそこ、と言って、ゆっくりとデスクの僅かな隙間を指差した。


「…………ゴキブリ」


 くるり、リディアが踵を返したのが判った。
すかさず彼女の腕を掴む。


「待って待って待って!お願い、一人にしないで!助けて!」
「無理無理無理!私ゴキブリ駄目だもん!」


 じたばたと暴れて、リディアはエルオーネから───正確にはこの空間から逃げようとする。
そんな彼女に「薄情者!」とエルオーネが叫んでしまったのは、無理もない。


「私だって駄目だよ!だからお願い、手伝って!」
「手伝うって、どうやって!?」
「見てて!さっきあそこに入って行って、それから出て来てないの。殺虫剤出してくるから、見張ってて!」


 見張るくらいなんでもない、と言っていたのは、ガキ大将気質の子だっただろうか。
そんなあの子も、足の上に乗られた時には、割れんばかりの絶叫を上げていた。
エルオーネだったら間違いなく卒倒している。

 ゴキブリが苦手な人間からしてみれば、見張ると言う行為も非常に勇気が必要とされる事だった。
何せ、いつ其処から飛び出して来るのか判らないのだ。
出て来た瞬間に何をするかも判らないし、最悪、羽を広げて飛び回るかも知れない。
どうしてあんな生き物に羽根なんかついてるんだろう、と常々思う。

 腕を掴むエルオーネの力に根負けして、リディアは改めて部屋の中に入った。
扉を閉めた音や衝撃で“あれ”が出て来るかも知れないと、殊更にゆっくり、音を立てないようにドアを閉める。


「お、お願い、ね。殺虫剤、取ってくるから」
「早く。早くね」


 見張りをリディアに任せて、エルオーネは冷蔵庫の上に置いていた殺虫剤を手に取った。
時間にして五秒足らずの行動なのだが、その五秒が“あれ”らにとっては絶好の逃亡のチャンスなのである。
逃亡先が部屋の外なら良いが、室内の別の場所に潜り込まれでもしたらと思うと、エルオーネは気が気でなかったのだ。
そんな彼女にとって、偶然にも部屋にやって来てくれた友達は、救世主であった。

 殺虫剤を軽く振って、蓋を外し、長いノズルを取り付ける。
じりじりとデスクに近付いて、ノズルをデスクの隙間に差し込んだ。

 噴射。

 ブシューッ!と勢いよく噴出される薬液は、独特の匂いがして鼻をツンとさせる。
その匂いも嫌いなのだが、奥にいる黒光りする生き物を退治する為と思えば、耐えられる。
5秒、10秒、20秒……殺虫剤に書かれている「約10秒噴射する」と言う指定時間を大幅にオーバーして、エルオーネは噴射を続けた。
そのまま一本丸々使い切ってしまうのではないかと思う程に。

 30秒を僅かに過ぎて、エルオーネはようやく噴射ボタンから指を離した。
薬品の匂いが部屋の中に充満している。


「……終わった?」


 遠目に見守っていたリディアが問うた、瞬間。
サササッ、と黒い小さな影が隙間から飛び出して来た。


「きゃーっ!」
「早く早く!殺虫剤やって!」
「いやあ〜っ!」
「やだ、飛んだーっ!」
「こっち来ないでー!」


 阿鼻叫喚の地獄絵図である。
エルオーネは夢中で殺虫剤を振り回して噴射し、リディアも決して広くはない部屋の中を逃げ回る。

 娘盛りの女性が二人で夜中に上げた悲鳴は、近隣の生徒達の耳にも届いた。
此処は女子寮である。
其処に住む生徒が、助けを求めて悲鳴を上げるとなれば、只事ではない。


「エル、どうしたの!?」


 一番にエルオーネの部屋に飛び込んできたのは、エルオーネの隣の部屋に住んでいるレナだった。
エルオーネよりも2歳年下であるが、意思が強く、我慢強い性格をしており、生来の生き物好きとあって、生物学部に所属している。
魔法生物学部とはゼミが重なっている事もあって、エルオーネとは親しい仲であった。

 そんなレナも、黒光りする“これ”だけは駄目だったようで、部屋に入るなり飛来して来たそれを見た瞬間、エルオーネやリディアに負けず劣らずな悲鳴を上げた。


「きゃーっ!ゴキブリーっ!」
「あっ、外に出ちゃう!」


 レナが咄嗟に回避行動としてしゃがんだものだから、飛行物はそのまま空きっぱなしになっていたドアの外へと飛び出してしまった。
部屋から出て行ってくれた事はエルオーネにとって幸いだが、このままにしておく訳には行かない。
何せ女子寮、ゴキブリを放って置いたら、何処で第二の被害者が生まれるか判らない。

 外の騒ぎを聞きつけて、あちこちで部屋のドアが開く。
そして見付けた、真っ白なタイルの廊下を駆け抜けていく小さな黒の塊に、悲鳴の連鎖が起きていた。
ゴキブリは静かな隠れ場所を急ぎ求めてか、大胆にも廊下の真ん中を走っている。

 寮内は大騒ぎになっていた。
───が。


「はあっ!!」


 気迫の一声と共に振り下ろされたのは、丸めた雑誌。
その武器を握っていたのは、紫色の髪をした、眦の尖った女性だった。


「ファリス!」
「姉さん!」


 エルオーネが女性の名を呼ぶと、遅れてレナが嬉しそうに彼女を呼んだ。

 レナに「姉さん」と呼ばれた彼女は、正真正銘、レナの姉であるファリス───本名はサリサらしいのだが、本人は「ファリス」と呼んで欲しいと言うので、此方で定着している───であった。
ファリスは雑誌の表紙から数ページ分を破いて、床で潰れた“それ”を包め取り、手近な場所にあったダストシュートに投げ入れた。
ついでに退治に使った雑誌も捨ててしまい、これで終わり、とパンパンと手を叩く。

 レナがファリスに駆け寄って、頼もしい姉の胸に抱き着いた。


「姉さん!」
「ったく、レナの悲鳴が聞こえたから何かと思えば……」


 呆れたように言いながら、ファリスは妹の頭を優しく撫でている。
そんな彼女の下に、エルオーネとリディアも駆け寄った。


「ありがとう、ファリス。さっきの、あれ……私の部屋から出て来たの」
「エルの部屋から?あんたの部屋、いつも綺麗なのに、珍しい事もあるもんだな」


 いつも汚れているような部屋なら、注意の一つも出来るのだが、エルオーネの部屋は常に整頓されている。
ファリスもそれを知っているから、どういう訳なのか、と不可解そうに眉根を寄せた後で、


「こりゃ寮内を一度大掃除した方が良さそうだな。あれだけ綺麗なエルの部屋に出て来るんなら、他の部屋にいたって可笑しくないし」


 寮長に話をつけて、日取りを決めておこう。
そう言ったファリスに、エルオーネだけでなく、リディアとレナも頷いた。


「さてと。ほらほら、皆さっさと寝ちまいな。あんまり遅くまで起きてると、寮長に怒られるぞ」


 手を叩いて、この騒ぎはお終い、と言うファリスに促されて、ドア前で経緯を見守っていた生徒達が部屋へと戻る。
レナは部屋には戻らず、ファリスと一緒に寝る事にしたようで、彼女の部屋へと入って行った。
残ったエルオーネとリディアはと言うと、


「……リディア」
「……うん」
「……リディアの部屋、行ってもいい?」


 黒光りする“あれ”はもういなくなったけれど、ついさっきまで存在していたのは確か。
おまけにエルオーネがパニック同然になって殺虫剤を振り回したので、部屋の中は薬品臭で一杯になっており、戻る気にはなれない。

 リディアは眉尻を下げて、エルオーネへ振り返る。


「いいよ。私も聞きたい事あったし」
「良かった、ありがとう」


 ほっと息を吐いたエルオーネに、困った時はお互い様、とリディアは言った。
明日の朝、部屋に戻った時の惨状は今は忘れる事にして、エルオーネはリディアの部屋で一夜を過ごすのだった。





女子寮大パニック。おかしら格好良い。
女の子たち書くの楽しい…けど怖い目に遭わせてごめん。

私はゴキブリ見ると固まります。遠くから殺虫剤噴射が精一杯。
余談 : この話を書いた後にリアルに出現して泣いた。