ホーム・スィート・ホーム -19


「母さん、母さん!」


 息子の呼ぶ声に、レインは振り返った。

 強い光を宿した青灰色の瞳と、肩口まで伸びたダークブラウンの髪を項で括った少年────レオンは、息を切らせてカフェバーに飛び込んできた。
午後のメニューの仕込みのチェックしていたレインは、その手を止めて彼を見る。
息子は、砂埃塗れの格好で、背中に小さな女の子を背負っていた。


「母さん、エルが転んだ。血が出てる。絆創膏、何処にある?」


 きっと一目散に駆けて来たのだろう息子の額には、汗が玉になって滲み出ていた。
背負われた女の子はぐすぐすと泣いている。
それが余計にレオンを焦らせているのだろう。

 レインは煮込みの火を止めてカウンターを出ると、店の戸口の傍で立ちっぱなしで息を切らせている息子に近付いた。
膝を折って目線を合わせてやると、少しずつ、瞳に映っていた焦りが消えていく。


「ちょっと見せてくれる?」
「うん。ほら、エル」
「ふえ…ひっく……うぇええん……」


 レオンが背中の女の子を下ろそうとすると、女の子はふるふると首を横に振って、レオンにしがみ付いて来る。
離れようとしないその様子に、どうしよう、とレオンが戸惑ったように母を見上げた。


「血が出てるのは何処?」
「膝。転んで擦ったんだ」
「洗ってあげた?」
「うん。川の水だけど。駄目だった?水道の方がいい?」


 眉尻を下げて訊いて来る息子に、落ち着いて、と頭を撫でてやる。


「綺麗な水でしょ?だったら大丈夫」
「本当?」
「絆創膏はお母さんが持って来るから、エルを落ち着かせてあげて。もう大丈夫だよって」
「うん」


 レオンは店の端に置いてあるソファに駆け寄り、背負っていた女の子を下ろすと、隣に座った。
レインは食器棚の下に置いていた救急箱を出し、消毒液と絆創膏を取って、息子の所へ戻る。


「エル、もう大丈夫だぞ。母さんが痛いの治してくれるって」
「ひっく…ひっく……」
「ほら、痛いところ見せて」


 レオンに促されて女の子がぐすぐすと泣きながら左足を見せる。
まだぷっくりと、赤ん坊の頃の丸みの名残のがある足には、擦り剥いた白い痕が残り、所々じわりと赤いものが滲んでいたが、それはもう固まっているようだった。
それを見て、駆け込んできた息子の慌て振りを思い出し、大袈裟ね、とレインはこっそり笑う。

 天使の輪が浮かぶ細い黒髪に、くりんと丸く大きな栗色の瞳。
水色のワンピースがよく似合う女の子の名前は、エルオーネと言う。
2年前にレインの幼馴染夫婦の間に出来た子供だったのだが、夫婦は1年前に不慮の事故で還らぬ人となった。
身寄りのなくなったエルオーネは、レインとラグナの下に引き取られ、レオンの妹として育てられている。

 元々レオンはエルオーネを可愛がっていたのだが、引き取ってからはより一層可愛がるようになり、少々過保護な所も見られるようになった。
ちょっとした怪我で大慌てしたり、くしゃみ一つで風邪なんじゃないかと心配したり、……普段の確り者振りは何処へやら、と言った風だ。
レオンは、面立ちと、父が子供のような人である事もあって、「母親似」だとよく言われる。
レインもそう思っていたのだが、エルオーネへの過保護振りを見ると、父にもしっかり似たようだとレインは思った。

 消毒液を少しだけ噴きかけると、擦り剥いた足に沁みたのか、エルオーネが声を上げて泣き出した。
レオンが慌てて慰める。
その間にレインは、エルオーネの膝に絆創膏を貼り終える。


「はい、これでお終い」
「エル、エル。終わったって」
「ひっく…うえぇえええん!」
「まだ痛いのか?」


 泣き止まない妹を見て、今度はレオンの方が泣きそうな顔になる。
他に何処か怪我をしたのか、と訊くレオンだが、エルオーネは泣いてばかりで、答えられない。

 どうしよう、とレオンが母を見た。
縋るように見詰めて来る青灰色に、レインは眉尻を下げて苦笑する。


「ほら、エル。もう大丈夫だから、泣かないの」


 レインはエルオーネと目を合わせて、柔らかな声でそう言った。
ぐす、とエルオーネが鼻を啜って、レインを見詰める。

 絆創膏を貼った足を拾い、患部を覆うように手を重ねる。
レインは傷は直接触らないように、傷の周りを撫でるように摩ってやると、少しずつエルオーネは泣くのを止めた。


「痛いの痛いの、飛んでいけー!はい、レオンも一緒に」
「痛いの痛いの、飛んでいけー!」


 二人声を合わせて言うと、エルオーネはぱちりと瞬きして、擦り剥いた膝を見る。
その時にはもう涙は止まっていた。


「どう?まだ痛い?」


 レインが訊くと、エルオーネはふるふると首を横に振った。


「おまじないが効いたのね。良かったわね、エルオーネ。レオンも、ね」
「うん」


 怪我をしたエルオーネ本人よりも、レオンの方が不安で不安で仕方がなかったのだろう。
ほっとしたように、ようやく息子が笑うのを見て、レインは仕様のない子ね、と思う。

 其処へ、ドタバタと慌ただしい足音が響き、壊さんばかりの勢いで店のドアが開けられる。


「エルが怪我したってえ!?」


 その勢いたるや、エルオーネを背負って駆け戻ってきたレオンの比ではない。
転がり込んできた余力で、ラグナは滑って転び、ごろごろどたんばたんと店のテーブルを巻き込んで床に倒れる。
日々の掃除のお陰で埃が立つ事はなかったが、店の中は滅茶苦茶である。

 落ち着きのない父の、いつも以上に落ち着きのない帰宅に、レオンが呆れたような目で彼を見る。
その隣では、エルオーネがぽかんとして同じ方向を見ていた。


「あいててて……」
「ラグナ。あなた、もうちょっと普通に帰って来れないの?」
「ンな事言われたってよぉ〜」


 ラグナはぶつけた頭を押さえながら起き上がり、テーブルを元の位置に戻して────あ!と振り返る。


「エル!エル、大丈夫か!?怪我したんだろ、痛くないか?おじちゃん、痛いのなくなるおまじない知ってるんだぞ。今直ぐ治してやっから」
「おまじないなら、さっきやった」


 放って置くとどんどん喋るラグナを遮ったのは、息子だった。
父の声に掻き消されないように、気持ち大き目の声を出す。


「エル、もう痛くないって」
「ホント?ホントか?」
「そうよ。ねー、エル?」


 レインとレオンに言われて、エルオーネはきょとんと首を傾げる。


「痛いの、どうなっちゃったんだっけ?」
「とんでっちゃった」


 舌足らずな声で答えたエルオーネの言葉に、ラグナがほっと息を吐き、石畳の床に座り込む。
行儀悪いよ、とレオンが言ったが、ラグナはへらりと笑って見せるだけ。
レインはそんな夫を見て、漏れる苦笑を隠して、怒った表情を作って見せる。


「あなたが毎回そうやって慌てるから、レオンも慌てて、エルが不安になるのよ。大人がちゃんとしてあげなくちゃ。子供はそれが判るんだから」
「いや〜……判ってんだけどさぁ。面目ねえ」


 つい、と眉尻を下げて笑って見上げて来る夫。
この人も、本当にしょうがない人、とレインは思う。

 他の子供が怪我をしても、「大丈夫、大丈夫」と宥めすかして落ち着かせて、きちんと手当もしてられる程に確りしている筈なのに、この父子は、一等可愛がっている少女の事になると揃って形無しだ。
父の方は息子に対してもそうだから、息子よりもかなり重症である。


「よし。エル!痛いのないないしたなら、もう一回お外行こうぜ!」


 ラグナが意気揚々と立ち上がって言うが、エルはしばらくラグナを見上げた後、ふるふると首を横に振った。


「ありゃ?なんで?」
「………ぶんぶん、いたの」
「虫がいたって」


 エルオーネは虫が嫌いだ。
蝶やトンボは平気だけれど、蜂やムカデなんて大の苦手で、見ただけで泣き出してしまう。


「虫がいて、びっくりして、転んだんだ」
「なんだとう!?そいつの所為でエルが怪我しちゃったんだな。俺がやっつけて来てやる!」
「あ、ラグナ!」


 レオンの言葉を聞くや否や、ラグナは拳を握って店を飛び出した。
レインの止める声も聞こえていない。

 帰って来る時も出て行く時も、本当に彼は賑やかだ。
その傍ら、店の中はまた穏やかなもので、


「父さんがやっつけて来てくれるって」
「ぶんぶん、いなくなる?」
「うん。見に行くか?」
「……んーん」
「そっか。これから何する?」
「おえかき」


 じゃあ、上に行こう。
そう言ったレオンに促されて、エルオーネがソファを下りる。
二人仲良く手を繋いで、店の端の階段を登って行くのを、レインは柔らかな眼差しで見届けた。






 ぽつり、ぽつりと客が帰り、店を閉めた後、ラグナも花の手入れを終えて戻ってきた。
肥料を蒔いたり、虫を手作業で除去するのは、地味に見えるが、かなり大変な作業だ。
そんな肉体労働をこなしてくれるラグナに、労いの紅茶を淹れて、なんでもない話をして……そろそろシャワーを浴びて眠ろうか───と思った所に、二階から階段を下りて来る小さな音が二つ。


「母さん……」
「あら」


 エルオーネと手を繋いで、一緒にゆっくり階段を下りて来るのは、レオンだった。
二階にいたのはこの二人だけなのだから、当然だ。

 レオンは眠そうに目を擦っているが、エルオーネの方はぱっちり起きているようで、レオンが手を離すと、ラグナの方へ駆け寄って行く。
小さな手を一杯に伸ばして突進してきたエルオーネを、ラグナは抱き上げた。


「どした〜、エルぅ。もうおやすみの時間だろ?」


 時刻は十時前で、いつもならレオンもエルオーネもとっくに寝ている筈だ。
実際、レオンは一度は寝入ったようで、欠伸をしたり目を擦ったり、足取りも少しふらふらしている。
それでもレオンはなんとかカウンターまで辿り着くと、椅子に登ってテーブルに突っ伏した。


「どうしたの、レオン」
「…エルが、眠くないって」
「お昼寝のし過ぎかしら」
「……多分」


 外で大嫌いなぶんぶん(蜂)に襲われた後、レオンとエルオーネは家に帰って、二階のリビングでお絵描きをしていた。
しばらくしてから昼食を終えると、エルオーネは午前中に目一杯遊んだことと、満腹感とで一度ぐっすり眠ってしまったようで、これにより回復したエネルギーが余ってしまい、今日はまだ遊びたくて仕方がないらしい。
レオンは昼間、エルオーネが眠った後、数カ月に一度、村にやってくる行商人から買った計算ドリルを解いていた。
だからレオンはいつも通り、眠ろうと思っているのだが───可愛い妹に何度も何度も起こされてしまい、中々休む事が出来ず、堪りかねて助けを求めて連れて降りて来た、と言う訳だ。

 ラグナがエルオーネを膝の上に乗せて、両手を柔らかく掴んで、操り人形の要領でぴこぴこと動かしてやる。
きゃっきゃとはしゃぐ声がして、それはとても微笑ましいとレインも思うのだが、レオンの方はすっかりお休みモードになっている。
カウンターテーブルに突っ伏したまま寝落ちそうな息子に、無理ないか、とレインは笑みを零す。
どんなに普段しっかり者に見えても、この子もまだ6歳なのだ。

 レインはハーブティーの茶葉を収納してある棚を一つ開けて、茶葉をフィルターに淹れた。
温めたハーブティポットにセットし、湯を注いで少しの間蒸して待つ。
その間に、カウンター向こうの父子は、相変わらずの賑やかさと、眠たげな声でやり取りが続いた。


「エルー、お兄ちゃん眠いってさ。エルもねんねしなきゃダメだぞ〜?」
「ねんね、ない!」
「ねんねしないのかぁ?そんな子の所にはなぁ、怖〜いオバケが来るぞぉ。ねんねしない悪い子誰だぁー!って」
「おばけ、こないよ。おばけきたらね、おにーちゃ、やっつけてくぇるの」
「そうかー。でもお兄ちゃん、眠いんだよなあ。な?」
「……うん……」
「すっごく眠いから、お兄ちゃん、オバケが来ても起きてエルを助けてあげられないかも知れないぞ。いや、お兄ちゃんが先に食べられちゃうかも知れないぞ〜?」
「おにーちゃ、たべられちゃぅの?」


 じわ、と栗色の瞳に涙が滲む。
それを見たラグナが、大慌てで首を横に振った。


「そんな事ないぞ!俺が絶対、エルもレオンも守ってやるからな!」
「ふぇえ……」
「あー!大丈夫だって、エル!怖くない、怖くな〜い。ほら、高い高〜い!」


 ラグナは椅子を下りて、エルオーネを頭上に掲げてくるくると回り出す。
エルオーネは、いつもよりもずっと高い場所から見る世界が面白いのか、くるくると回るラグナの楽しそうな表情が伝染したのか、すぐにきゃっきゃと笑い出す。
レオンは其方をちらりと見ただけで、また直ぐにテーブルに伏せてしまった。

 レインは、そろそろ頃合いだと、ポットを軽く揺らして液体の濃さを均等にしてから、少しずつマグカップへと注ぐ。
柔らかな香りがカウンターの一角に漂って、レオンがとろとろと目を開けた。


「……母さん、それ…」
「好きでしょう?はい、レオンの分」
「うん……」
「エルのもあるわよ。おいで、エルオーネ」


 可愛らしいチョコボの絵が描かれたマグカップを見せると、エルオーネがぱあっと目を輝かせた。
エルオーネは自分を抱く父に、あっちあっち、と指を差す。
ラグナがカウンターに戻って、エルオーネを膝の上に乗せ、レインの手からマグカップを受け取る。

 レオンが少しずつ、冷ましながらハーブティーを飲む。
その真似をするように、エルオーネもふぅふぅと息を吹きかけて、マグカップを傾けた。
子供の手には少し大きなそれを、ラグナに支えられながら、零さないように気を付けながら飲んで行く。


「飲んだらねんねしようなー、エル」
「ねんね」
「うん。お兄ちゃんもねんね、エルもねんね。な?」
「おじちゃんとレインは?」
「おじちゃんとレインも、もう直ぐねんねするよ」


 本当?と栗色の瞳が見上げて来るのを見て、ラグナは本当、と頷いた。
にこぉ、と笑う娘に、ラグナの鼻の下が伸びる。


「…父さん、だらしない」
「だって可愛いんだよ〜。レオンも、エル可愛い!って思うだろ」
「それはそうだけど」
「あ、勿論レオンも可愛いぞ!それに、俺に似て格好良いしな!」
「…別にそんなの聞いてないよ…」


 眠たさの所為もあるのだろう、素っ気ない事を言ったレオンだが、耳がほんのりと赤い。
ラグナもそんな息子に気付いたようで、可愛い可愛い、とくしゃくしゃとダークブラウンの髪を撫でた。
柔らかな髪がピンピンとあっちこっちに跳ねる。

 程なく、二つのマグカップが空になると、ふああ、と息子と娘の口から揃って大きな欠伸が一つ。
レインはティーポットを洗い終えると、エプロンを解き、レオンの手を引いて、ラグナはエルオーネを抱いて、二階の寝室へと上がって行った。





レオンくん6さい、エルオーネちゃん2さい。

お兄ちゃんになりました。兄バカの片鱗が覗いてますが、お父さんにはちょっと冷たい(照れ隠し)。
皆エルが可愛くてしょうがない。