ホーム・スィート・ホーム -16


「レオン、レオン」


 呼ぶ声がして、レオンは振り返った。

 成長途中の幼い顔立ちでありながら、大人びた光を宿した青灰色と、長く伸びたダークブラウンの髪。
その髪を丁度結い上げていた少年───レオンの名前を呼んだのは、真っ白なワンピースを来た、綺麗な黒髪の少女だった。
少女の名はエルオーネ───レオンが、赤ん坊の頃から面倒を見ている、妹的存在だ。

 駆け寄ってきたエルオーネの腕には、レオンと同じ青灰色の宝石を埋めた、赤ん坊が抱かれている。


「スコール、エル。どうしたんだ?」


 赤ん坊の名前は、スコール。
去年の夏に生まれた、レオンの弟だ。
スコールは、エルオーネに抱かれて、ぐす、ぐす、と泣いている。

 スコールがまだ赤ん坊とは言え、彼を抱えているエルオーネはまだ5歳になったばかりで小柄だから、少し重たそうに見える。
慌ててレオンが手を伸ばすと、スコールの小さな手が求めるようにレオンへと伸ばされた。
エルオーネからスコールを受け取って、よしよし、と揺り籠の要領で軽く揺らしながら宥めてやると、少しずつスコールの眼から涙が引っ込んで行く。


「よーしよし。落ち着いたな」
「スコール、泣き止んだ?」
「ああ。ほら、もう泣いてない。な?」


 レオンが少し身を屈めて、抱いていたスコールをエルオーネに見せると、蒼の瞳はきょとんとして幼い姉を見上げていた。
それを見たエルオーネが、凄い、とレオンを見て、感動したように目を輝かせる。


「ねえ、どうやったらスコールが泣き止むの?私がやっても、ちっとも泣き止んでくれないの」
「どうって……うーん…」


 なんと説明したものか、レオンはエルオーネの問いに困ったように眉尻を下げて笑う。
レオンはただ、母が赤ん坊のエルオーネをあやしていた姿を覚えていて、その真似をしただけの事。
どうやったら、と詳しい説明を求められても、それは感覚的なものに頼っているものだったから、言葉に窮してしまう。

 取り敢えずレオンは、今自分がやった事を、もう一度エルオーネの前でして見せる事にした。


「こうやって、胸に近付けて……そしたら、ほら、安心するから」


 レオンは、スコールの頭を自分の胸へと寄せた。
そうすると、スコールはきょとんとした表情をした後、ふわぁ、と笑う。


「笑った!」
「ああ。ほら、エルもやってみろ」


 小さな弟を落とさないように気を付けながら、レオンはエルオーネの腕にスコールを受け渡す。
エルオーネは、今見た通りに弟を胸に抱き寄せ、目を合わせて笑いかけた。
すると、スコールはぱちぱちと瞬きしてエルオーネを見上げた後、ふわぁ、と笑う。

 やっと弟が笑ってくれたのが嬉しかったのだろう、エルオーネはスコールと向き合ってにこにこと笑う。
それを見て、レオンも知らず笑みを浮かべていた。

 其処へかかる、柔らかな女性の声。


「レオン、エルオーネ。どうかしたの?」


 二人が声のした方へ振り返ると、キッチンから長い黒髪の女性───イデア・クレイマーが出て来た所だった。
彼女は、潮騒の香るバラムと言う小さな島国で孤児院を経営し、嘗てはレオンの父とも交流があった人物であった。
現在は両親を失ったレオン、エルオーネ、そしてスコールを引き取り、面倒を見てくれている。
レオンにとっては第二の、エルオーネにとっては第三の親、そしてまだ赤子のスコールにとっては育て親と言える女性である。

 イデアはエルオーネの腕に抱かれたスコールを見付け、あらあら、と笑みを浮かべて歩み寄る。
膝を折ってエルオーネと目線の高さを合わせると、彼女の抱いたスコールに視線を落とし、


「スコール、お昼寝はお終い?」


 ついさっき、イデアがスコールの様子を見た時には、奥の寝室でベビーベッドの上ですやすやと眠っていた筈だった。
レオンも一緒にそれを確認していたから、傍を離れて、夕飯の準備をすると言うイデアを手伝おうと思ったのだ。
そうして、長く伸びて邪魔になる事が増えた髪を結っておこうとしていた所へ、スコールと一緒の部屋でシド・クレイマー───イデアの夫であり、彼女と共にこの孤児院を経営している人だ───と、他の子供達と一緒にごっこ遊びをしていた筈のエルオーネが、スコールを連れてリビングへやって来たのである。

 スコールは、イデアの問いにぱちぱちと瞬きをして、かくん、と首を傾げる。
う?と不思議そうな色の声が聞こえて、青灰色がじっとイデアを見詰めていた。
エルオーネは、そんなスコールを抱いてソファに座り、


「スコール、おやすみなさい、もういいの?おねんね、いいの?」


 問い掛けるエルオーネだったが、スコールは首を傾げるばかり。
どうしたんだろう、と眉尻を下げて、エルオーネはレオンを見た。
それを受けたレオンは、少しの間考えた後、


「多分、今はもう眠くないんだろうな。でも、起きた時に近くに誰もいなくて、寂しくなって泣いたんだと思う」
「私、おんなじ部屋にいたよ。スコール、一人ぼっちにしてないよ」


 レオンの言葉を聞いて、一所懸命に言い募るエルオーネに、判っていますよ、と言ったのはイデアだった。


「エルもレオンも、スコールを一人ぼっちになんてしないって、判っているわ。だけど、スコールはベッドにいたでしょう。目が覚めた時、お姉ちゃんとお兄ちゃんの顔がすぐ近くで見えなかったから、寂しくなってしまったの」
「ベッドにいたら、起きてもエルの所に行けないだろ?」


 もう立って歩く事も出来るスコールだが、孤児院にはエルオーネと同じ4歳や3歳頃の子供も多く、遊びに夢中になっている内に、小さなスコールとぶつかったり、うっかり踏んでしまったりという出来事が頻繁に起きてしまうので、夜の就寝時以外で寝かせる時は、ベビーベッドを使っていた。
大人しいスコールは、目が覚めても自分でベッドを抜け出そうと言う気にはならないようで、とにかく泣いて兄姉を呼び続ける。
だからレオンもエルオーネも、出来るだけスコールを一人ぼっちにしないように努めているのだが、丸一日をスコールの為だけに注ぐのも難しいものであった。

 ぱたぱたと足音が聞こえて、奥の寝室でエルオーネと一緒に遊んでいた子供達が駆けてくる。
その後ろに、見守るようにシドがのんびりとした歩調でついて来た。


「エル、スコールは落ち着いた?」


 藍色の髪の少女───レイラの声に、エルオーネが顔を上げ、頷いた。
ほら、と抱いたスコールを見せれば、ぱちぱちと蒼の瞳が、レイラと一緒に見下ろす子供達をを見上げ、


「………ふぇええええええええ」
「え、あれ、なんで!?」
「あ、あたい何もしてないぞ!」


 唐突に再び泣き出したスコールに、エルオーネもレイラも慌て出す。
それを見たイデアが眉尻を下げて、おろおろとしている子供達を宥め、


「スコールはまだ赤ちゃんだから、沢山の人に見られるのがちょっと怖いのよ。大丈夫、皆の所為じゃないから、落ち着いて」


 何せ、スコールはまだ1歳なのだ。
人見知りも激しくなる時期だとイデアも判っている。
兄であるレオンと、姉的存在であるエルオーネには懐いていて、二人がしばらく宥めてやれば落ち着いてくれる。

 レオンは、エルオーネにしがみ付いて泣きじゃくるスコールの、亡き母に似たダークブラウンの髪をくしゃくしゃと撫でてやる。
すると、ぐす、ぐす、と泣いていた蒼がレオンを見上げた。
ティッシュを取って顔を拭いてやると、小さな手がレオンへと伸ばされた。
エルオーネからスコールを受け取り、母がエルオーネにしていたのを思い出しながら、腕に抱いてぽんぽんと背中を叩いてあやす。


「ふぇ、ふぇえええ、うええええん……」
「よしよし。大丈夫だからな、スコール」


 力一杯しがみ付いて来る弟を宥めすかしながら、レオンは見上げて来る子供達に「ごめんな」と眉尻を下げて笑いかけた。

 孤児院の子供達は、レオンより大きな子供はおらず、スコールより小さな子供はいない。
だから皆、年上のレオンを兄のように慕い、一番小さな赤ん坊のスコールを可愛がる。
しかし、スコールは専らレオンとエルオーネにしか懐かなかった。
生まれた直後も、母と兄と姉以外の人が抱き上げると、火が付いたように泣き出したものである。

 困ったように笑って謝る兄に、子供達は少し残念そうな顔をしながらも、それ以上何か言う事はなく、シドに促されて奥の部屋へと戻って行った。
リビングにはレオンとイデア、スコールとエルオーネの四人が残り、エルオーネはスコールと子供達を交互に見て、悩む表情を浮かべている。


「行っていいぞ、エル」
「でもレオン、これからご飯作るんでしょ。スコール、抱っこしたままだと、大変でしょ?」
「おんぶするから手は開くよ。大丈夫さ」


 そう言ってレオンは、リビングに置いてあるタンスの引き出しからおんぶ紐を出して、スコールを背中に背負う。
長く伸びた後ろ髪がスコールの顔にかからないよう、束ねた髪を横に流す。
泣き止んだスコールがそれに興味を示したようで、小さな手が束の根をつんつんと突いていた。

 レオンの背中で落ち着いたスコールを見て、エルオーネがほっと息を吐く。
じゃあ行くね、と言って、彼女は他の子供達の待つ奥の部屋へ向かう。
その姿がドア向こうに消える前に、エルオーネは此方を振り返って、ばいばい、と手を振った。


「ほら、スコール。エルがばいばいって」


 背負った弟にそう言ってエルオーネの方を見せると、小さな手が握り開きで「ばいばい」する。
それを見たエルオーネが嬉しそうに笑って、「また後でね」と言ってドアを閉める。

 さて、とスコールを背負い直してキッチンに入ると、イデアが既に夕飯の準備を始めていた。


「ママ先生、俺は何をすればいい?」
「そうですね……じゃがいもと人参を切って下さい。人参は小さめに、じゃがいもは大きめに。今晩はシチューですから」
「判った」


 頷いて、レオンは水に晒してあったじゃがいもと人参を取り上げ、ピーラーで皮を剥いて行く。
刃を立てて腕を引けば、スー……と薄皮が伸びて行った。


「デッシュが人参嫌いだって言ってた」
「ふふ。あの子の野菜嫌いは、中々直らないわね」
「エルも嫌いなんだ。でも、スコールの手本になるから、食べるって言ってる。いつも泣きそうな顔してるけど」


 レオンの言葉に、イデアがくすくすと笑う。
柔らかな金の瞳が、少年の背に負ぶわれた赤子へと向けられる。


「スコールはどうなるのかしらね」


 レオンは、肩越しに弟を見た。
寝起きて泣いて疲れたのか、落ち着いたスコールはまたうとうとと舟を漕いでいる。

 スコールは最近離乳食を食べるようになったが、量は平均に比べるとかなり少ない。
レオンはエルオーネが離乳食を食べていた時の事をぼんやりと覚えていて、今のスコールよりはよく食べていたような気がする。


「…なあ、ママ先生。スコール、大丈夫かな」
「突然、どうしたのです?」
「スコール、あまり食べないから」


 ────スコールが生まれ、母が逝去して間もなく、レオンはイデアに頼んで育児本を買って貰った。
子供だからと人に任せきりにしないで、自分できちんと弟の面倒を見たかったのだ。
一通りの事はエルオーネの面倒を見た経験があったから、知らない事ばかりではなかったけれど、改めておしめの換え方も覚えたし、抱き上げ方もちゃんと勉強したし、とにかく、本に書いてある事は全部暗記するつもりで読んだ。
しかし、実際にスコールを見ていると、中々本に書いてある通りにはいかない。
スコールの食べる量は本に書いてあるものよりずっと少ないし、ミルクもあまり飲まなかった。
ずっとこんな調子で大丈夫なのだろうか、とレオンは最近、よく不安になる。

 イデアは、レオンの手から剥き終わったじゃがいもを取って、小さな保護者ににこりと笑いかけた。
それを見たレオンは、きょとんとした表情で養い親を見上げ、首を傾げる。


「大丈夫ですよ。スコールは確かにあまりご飯を食べないけれど、毎日少しずつ、大きくなっているでしょう」
「うん。この間より重くなった」
「それなら、心配はいりません。スコールの他にも、あまりご飯を食べない子もいるし、あなたよりも沢山食べる子もいるでしょう。皆それぞれ違うんですよ。本に書いてある事が全部ではありません。本に書いてある事は、一つの基準として考えて、後はその子に合わせてあげるのが一番です」
「スコールに合わせる……」


 レオンは小さく反芻した後、背中ですぅすぅと寝息を立てている弟を見た。
あまり食べない、とは言え、スコールの頬はぷくぷくと丸くて柔らかく、ピンク色に色付いていて、健康そのものだ。
───それなら、イデアの言う通り、何も心配しなくて良いのだろう。


「判った、ママ先生。ありがとう」


 青灰色から心配と不安の色が消えて、安堵したような色が灯って、イデアを見上げる。
弟との8歳の年齢差や、今の環境でも一番年上と言う事もあって、レオンはとてもしっかり者だ。
けれど、彼の世界もまだまだ未知のもので溢れているから、不安になる事も決して少なくはないだろう。

 小さな子供達と、赤ん坊と共に、この少年も導いて行かなければ。
今直ぐにでも独り立ちしようと、走り出している少年を見詰めて、イデアは想いを新たに子供達を向き合おうと心に決めた。






 昼間を目一杯遊んで過ごし、夕飯も食べ終えると、子供達はそろそろ眠たげに目を擦るようになる。
8時が過ぎた頃には皆風呂も入り終えて寝るように言われ、レオンも子供達の手本になるようにと一緒に寝室に入って行く。
とは言え、まだまだ眠れない、と言う子供もいない訳ではなかったから、二人一緒に同じベッドに入ってひそひそと内緒話をしている子がいたり、テレビで見たヒーローショーの真似をしていると思ったら、スイッチが切れたようにぱたりと寝落ちる子がいたりと、夜の過ごし方も様々だ。

 子供達が一人、また一人と眠るのを見守った後、レオンも目を閉じた。
一日の殆どを、子供達の世話とイデア達の手伝いに費やしているレオンが、疲れていない訳もなく、あっと言う間にレオンは夢の世界に旅立った。

 それからしばらく、寝室は静かなものだったのだが────


「…えっ、…えっ、…ふぇっ…」
「……んん……」


 直ぐ傍で聞こえる小さな声に、エルオーネは目を覚ました。
重い瞼をなんとか上げてみれば、一緒のベッドで眠っていたスコールが目を覚まし、愚図り出している。


「スコール、どうしたの…?」


 小さな声でエルオーネは訊いてみたが、スコールはぐすぐすと泣くばかり。
エルオーネは、目を擦りながら起き上り、スコールを抱いて膝に乗せた。

 昼にレオンから教えて貰ったやり方を思い出しながら、よしよし、とスコールをあやしてあげる。
しかしスコールは中々泣き止まず、エルオーネはお腹が空いたのか、おしめが濡れているのかとスコールを観察してみるが、一向に泣く原因は見付からない。


「う…ん……」


 隣のベッドで眠るレオンが身動ぎするのを見て、エルオーネは慌てた。
昼間、年下の弟妹の面倒を見ながら、イデアやシドの手伝いをするレオンが疲れているのは、幼いエルオーネにも判る。
眠った後でまでレオンに大変な思いをさせるのは、エルオーネとて望む事ではなかった。

 エルオーネは、レオンからスコールを隠すように、スコールを膝に乗せたまま、兄に背を向けた。
よしよし、と頭を撫でたり、背中をぽんぽんと叩いたり、レオンがスコールにしている事を思い出しながら一所懸命にあやす。


「えっ、ふえ、ふえ、えええ……」
「よしよし、いい子いい子。ね、だから泣かないで。おねんねしよ?ね、スコール、泣かないで」


 しかし、エルオーネの奮闘も虚しく、スコールは一向に泣き止まない。
ねんねしよう、とエルオーネが布団に下ろして寝かしつけようとすると、小さな手が一所懸命にエルオーネの手を掴んで、離れるのを嫌がる。


「ふえ、ふえええ、うぇええええん!」
「あ、あ、駄目だよ、皆寝てるんだから。ね、泣かないで、泣かないでよ。皆が起きちゃうよ」


 スコールの泣く声が大きくなって行く。
このままだと、レオンだけでなく、他の子供達も起きてしまう。

 エルオーネはスコールを抱き締めて、布団の中に潜り込んだ。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
お願いだから泣かないで、お願いだからもう一度ねんねして。
願うように心の中で繰り返すエルオーネの目尻には、涙が滲んでいる。

 すると、頭まで被っていた布団が捲られて、


「どうしたんだ、エル、スコール」


 見上げた先にあった青灰色に、エルオーネは抱き着いた。


「レオ、レオン、レオンぅ……」
「よしよし。スコールもほら、おいで」


 泣き出したエルオーネの背中を撫でてあやしながら、レオンは泣き続ける弟に手を伸ばす。
小さな手が精一杯伸ばされて、きゅ、とレオンの指先を握った。
レオンはその手を引いて、スコールを自分の膝の上に乗せた。


「よっ……ほら、エル。落ち着け」
「だって、だってぇ……スコールが、スコールが」
「判ってる。スコール、どうした?怖い夢でも見たのか?」
「うあぁあああん、わあああん、あぁあああ」
「よしよし。怖かったんだな。大丈夫、怖いものはもういないぞ」


 レオンが宥め落ち着かせようとするが、スコールは中々泣き止まない。
ぶんぶんと何かを嫌がるように首を横に振って、力一杯レオンにしがみ付いて来る。

 カチャリ、とドアの開く音がした。
レオンが部屋の戸口を見ると、夜着にカーディガンを羽織ったイデアが立っている。


「どうしたの。スコール、目が覚めてしまったの?」
「そうなんだ。怖い夢を見たのかも知れない」
「そう。スコール、いらっしゃい」
「頼む、ママ先生」
「ひっく…ひっく……」
「ほら、エルも泣くな」
「だって…だってスコール、ちっとも泣き止んでくれないから…」
「うん、判ってる。エルはよく頑張ってくれたな。ありがとう」


 レオンはスコールをイデアに預け、泣きじゃくるエルオーネを抱き締めて、艶やかな黒髪を優しく撫でる。

 細く、柔らかく、沁み渡るような聲がレオンとエルオーネの耳に届く。
振り返ると、ベッドの縁に腰掛けたイデアが唄を歌っていた。
腕に抱かれたスコールは、まだ愚図ってはいるものの、少しずつ落ち着いて来ているようで、滴を浮かべた蒼がイデアを見上げている。

 それぞれのベッドで眠っていた子供達が、ぽつりぽつりと目を覚ます。
聞こえる声に、なんだろう、と起き上がった子供達は、窓辺の月明かりに照らされて唄う“母”を見て、わぁ、と目を輝かせた。
レオンに抱かれて泣きじゃくっていたエルオーネも、心地良い歌声を聞く内に泣き止んで、兄の腕の中でゆっくりと目を閉じた。
他の子供達も再び布団に潜って、母の子守唄を聞きながら夢路へもう一度旅立つ。

 イデアの腕の中で、スコールが静かな寝息を立て始めた。
その頃には、子供達はまた眠りについていて、起きているのはレオン一人。
エルオーネを抱いた格好のまま、じっとイデアとスコールを見詰めていた。


「────おやすみ、スコール。さ、レオン、あなたも」


 休みなさい、と言いかけて、イデアは声を失う。
じっと此方を見詰める蒼灰色に、心なしか、泣きそうな色が灯っている。


「どうしたの、レオン」


 イデアの声に、きゅ、とレオンが唇を噛んで俯く。
さら、と長い髪が揺れた。

 小さな子供達の相手をしていて、邪魔になる事も少なくはないだろうに、短く切るのを拒む為に、この一年で伸びたレオンの髪は、背中にかかる程に長くなっている。
それは時折、妹達にポニーテールにされたり、リボンを結ばれたりと、良い玩具になっていた。
レオンもそれを嫌がる事はないし、完成を見てはしゃぐ妹達を見る目はとても嬉しそうなのだけれど、イデアは、レオンが髪を切らない理由はそれだけではないと感じていた。

 ベッドサイドに膝を曲げて、レオンと眼の高さを合わせると、青灰色が僅かに下へ落ちた。
向けられた先には、すぅすぅと眠る弟がいる。
妹を抱く少年の腕が、小さく震えていた。


「……駄目なのかな」


 ぽつりと零れた言葉は震えていて、泣いているのだろうか、とイデアは思ったが、少年の瞳に滴は浮かんでいない。


「ママ先生。やっぱり、俺じゃ、代わりにならないのかな」
「何の代わりですか?」
「………母さんと、父さんの」


 ────1年前の夏の終わり、この孤児院の片隅で息を引き取った母と、戦争に行ったまま戻ってこなかった父。
レオンは、二人の分まで、エルオーネとスコールを守ろうと思った。
怖いものも、傷付けるものも、絶対に二人には近付けさせないと誓った。
1年前のあの日、自分を呼ぶ小さな手を掴む事が出来なかった瞬間の悔しさを、二度と繰り返すまいと心に決めた。
そして、父と母の分まで、生まれたばかりの弟を愛そうと思った。

 レオンの想いに呼応するようにして、スコールは成長し、兄を求めて小さな手を精一杯に伸ばす。
それに応えれば、またスコールはふわりと笑って、エルオーネも笑って、レオンの心は温もりで満たされる。

 けれど、時々────今夜のように、どんなにあやしてもスコールが泣き止まない時。
イデアの腕で抱かれて、ようやく眠りにつくのを見て、レオンは思う。
やっぱり自分じゃ駄目なんだろうか、と。


「昼の時は、泣き止んだのに、さっきは駄目だった。エルも泣き止まなかった。母さんは、いつでもエルを泣き止ませてやれる事が出来たのに。俺も父さんに撫でられたら、安心できたのに。俺じゃ母さんみたいに出来ない。父さんみたいにしてやれない」


 やっぱり駄目なんだろうか。
やっぱり、母じゃないと、父じゃないと。
一体、何が足りなくて、兄の自分では駄目なのだろう。

 泣きそうで、けれど決して泣く事はない少年に、イデアは優しく微笑みかけた。


「レオン。あなたは、スコールが愛しくはないの?」


 直ぐにレオンが首を横に振る。


「それなら、代わりになろうなんて、思わないで。あなたはあなたのまま、あなたらしく、スコールを愛してあげて」
「……俺らしく?」


 反芻して首を傾げるレオンに、イデアは頷く。


「レインの、お母さんの代わりなんて、出来なくていいの。お父さんの代わりなんて、ならなくていいの。あなたがお父さんとお母さんの代わりになったら、あなた自身は何処へ行くの?スコールが抱っこしてっておねだりするのは、お父さんでもお母さんでもなくて、此処にいる“あなた”でしょう」


 イデアの細く、白い、たおやかな手がレオンの頬を撫でる。
急ぎ足で大人への階段を駆け上る少年の頬は、彼の気持ちとは裏腹に、まだまだ幼い丸みがあった。


「だから、レオン。お母さんの代わりじゃなくて、あなたがスコールを愛してあげなさい。お母さんにして貰った事を、“あなた”がスコールにしてあげるの」


 柔らかな金色の瞳が、1年前まで当たり前に見ていた母の笑顔と重なって、レオンの知らず強張っていた体から力が抜ける。
イデアは、レオンに抱かれたまま眠っていたエルオーネを、ベッドにそっと横たえた。
抱く温もりが離れて、何処か心細そうに見上げて来る少年に、彼を今最も必要としているであろう赤子を渡してやれば、


「………うん。そうするよ」


 眠る小さな弟に頬を寄せて、レオンは言った。
青灰の瞳には、もう泣きそうな色も、悔しそうな色もない。
ただ純粋に、守るべき存在への慈しみと愛で溢れている。


「さあ、もう眠りなさい、レオン」
「うん」


 レオンは、抱いていたスコールをエルオーネの隣に寝かせると、スコールを挟んで同じベッドに横になる。
イデアは布団を引き上げて、三人を包み込んでやった。


「おやすみなさい、レオン」
「おやすみ。……ママ先生、」


 背を向けかけて聞こえた呼び声に、イデアは振り返る。


「……ありがとう、ママ先生」


 そう言って笑んだ少年に、イデアも微笑む。
もう一度ベッドに近付いて、イデアは三人の子供達の額にそっとキスをした。
ふあ、とスコールから吐息が漏れて、それを見たレオンが小さく笑う。

 眠る赤子の小さな手が、レオンのシャツをきゅうと握る。
栗色を隠す瞼が微かに震え、薄く開いて、レオンを見た。
ふ、と笑みを浮かべる妹に、レオンももう一度笑みを浮かべて、二人で弟を抱いて眠りについた。





レオン9才、エルオーネちゃん5さい、スコールくん1さい。

一日でも早く大人になろうとする兄と、まだまだ幼い姉と、小さな弟。
弟が大好きなのは、“お兄ちゃん”と“お姉ちゃん”です。