ゆうきをくれるひと


 しょぼん、とした表情で起きて来た弟に、レオンとエルオーネは顔を見合わせた。
あまり朝に強い子供ではないから、眠いか、怖い夢でも見たのかと思ったが、見た限りではそういう訳でもなさそうだった。
若しも怖い夢を見たのなら、スコールは真っ先に兄と姉の存在を確かめたがり、挨拶するよりも早く抱き着いて来るだろう。


「どうした、スコール」


 レオンが膝を折って、スコールと目線を合わせて訊ねると、スコールは眉をハの字にして、大きな瞳にじんわりと雫を浮かべる。
慌ててレオンが頭を撫でて宥めると、小さな手がレオンの服を掴んだ。


「う、う…うぅ〜……」
「スコール」
「どうしたの?泣いてばかりじゃ判らないよ」


 教えてくれる?とエルオーネが優しく言うと、ぐす、とスコールは鼻を啜って、


「……んかね、なんかね……ここ、じんじんするの…」


 頬、と言うよりも、頬骨の後ろ側を押さえて、スコールは言った。


「…?ちょっと見せてみろ」
「うん……」


 手を放させて、レオンはスコールの頬に触れてみる。
痛いか?と尋ねると、スコールはふるふると首を横に振った。
観察してみても、打ち身等の外傷は見当たらないし、寝違えたのだとしたら症状は首に出るから、違うだろう。

 じぃ、とエルオーネがスコールの顔を見詰める。
するとスコールは、その視線から逃げるように、すす、と頬を押さえて目を逸らした。


「スコール」
「………」
「スコール、お口開けて」


 エルオーネの言葉に、ぎくっとスコールが固まった。
エルオーネの細い眉が吊り上がって、じっとスコールを睨むように見つめる。


「開けなさい」
「………」


 強い語尾のエルオーネに、スコールが恐る恐る、口を開ける。
レオンとエルオーネが覗き込んでみれば、


「……成程。虫歯か」


 まだ乳歯が多い歯の中、奥にある一本が黒ずんでいる。
それを見て呟いたレオンに、口を閉じたスコールが泣き出しそうな顔を浮かべた。
そんな弟を見て、エルオーネは溜息を吐く。


「歯磨き、サボったのね。この間の歯科検診で、気を付けなさいって言われたじゃない」
「………ごめんなさぃ……」


 エルオーネに叱られて、スコールはすっかり落ち込んでしまったようだ。
歯が痛い事に加えて、大好きな姉に叱られてしまっては、泣き面に蜂の気分なのだろう。

 泣きそうな顔で俯く弟を、レオンはぽんぽんと頭を撫でて宥めてやる。


「なってしまったものは仕方がないからな。丁度今日はガーデンも休みだし、朝ご飯を食べたら、歯医者に行くぞ」


 歯医者────その言葉を聞いた途端、がち、とスコールが固まった。


「……歯医者さん、こわい……」


 スコールの脳裏には、一年前───まだガーデンが設立される前で、孤児院にいた子供達と暮らしていた頃───に見た光景が甦っていた。
甘いものが大好きなセルフィが、おやつの後の歯磨きをサボってしまって、虫歯になった。
左右両方の下の奥歯が喰われてしまい、クレイマー夫妻やレオンも気付くのが遅れて、ぷくぷくと可愛らしい丸さのあった彼女の頬は、ぱんぱんに腫れてしまう程に悪化。
他にも、一緒にお菓子を食べていたアーヴァインやサイファーも虫歯がある事が発覚し、この際だから、と子供達全員が歯医者にかかり、検診して貰う事になった。
レオンとエルオーネは特に問題はなかったのだが、大変だったのは子供達だ。
特にセルフィ、アーヴァイン、サイファーは、口の中でキュイーンだのギュオオだのガリガリだのと怖い音を立てる機械に怯え、散々泣いて大人達の手を焼かせた。
その時のスコールは、歯垢や磨き残しなどを注意され、正しい磨き方を教わったりする程度で済んだが、その傍ら、歯医者に行く度に怖いから嫌だ、行きたくないと泣きじゃくる幼馴染達を見ていた為に、歯医者=怖くて痛いことをされる所、と記憶されてしまったのである。

 怖い、嫌い、行きたくない、と呟くスコールだったが、こればかりはレオンもエルオーネも容赦してやれない。
放って置いて辛くなるのはスコールの方なのだ。


「スコール、歯医者さんはちゃんと行こうね。でないと、美味しいもの食べられなくなっちゃうよ。ママ先生に貰ったクッキーも食べられないよ。それでもいい?」
「やあ……」


 ぶんぶんとスコールが首を横に振った。


「じゃあ頑張ろうな。大丈夫、俺も一緒に行くから。な?」


 痛む頬に当てられた、スコールの小さな手に、レオンの手が添えられる。
良い子にしてたら、すぐ終わっちゃうよ、と言うエルオーネに、スコールは小さく頷いた。




 ご飯を食べて、きちんと歯を磨き終ったら、歯医者に行く。
そう決められたからか、スコールの朝食スピードはいつもよりもずっと遅くなっていた。
歯が痛くて上手く食べられないのもあるだろうが、それよりも、食べ終わった後の事が憂鬱で仕方がないのだろう。

 食事を終えると、レオンが食器の片付けをしている間に、スコールとエルオーネが歯を磨く。
それからスコールとエルオーネが外出の準備をしている間に、レオンも歯磨きを済ませた。


(歯医者が終わったら、買い物して帰るか……いや、スコールにそんな余裕があるのか微妙だな)


 歯ブラシを洗面棚に戻して、レオンはキッチンに戻り、冷蔵庫を開ける。
昼食用のパンが切れている事に、今朝になって気付いたのだ。
歯医者が終わって、頑張ったご褒美…と言う名目でスコールにお菓子を買ってあげても良いのだが、菓子の所為で虫歯になったものだし……と考えていると、階段を下りて来る足音が聞こえた。


「レオン、スコールが…どうしたの?」
「ああ、ちょっと。パンがなくなってるから、昼飯をどうしようかと」
「じゃあ、私が買いに行こうか?歯医者、何も皆で一緒に行かなくても良いと思うんだ」
「まあ……そうだな」


 なんとなく、当たり前のように三人一緒に歯医者に向かおうとしていたが、必ずしも三人揃っていなければいけない訳ではないのだ。
レオンとしては、いつでも妹弟の手の届く場所にいたい所だが、スコールにもエルオーネにも、自分の時間と言うものはある。
ガーデンにいる時は勿論、家でもそれは同じだし、生活の効率を考えれば、別々に行動した方が良い事も多い。


「じゃあ、パンと…他に何か。なんでもいいぞ、お菓子でも」
「ふふ、もうそんなに子供じゃないよ。でも、本は買って帰ってもいい?」
「ああ」


 やった、と小さくガッツポーズをする妹に、レオンの口元が綻ぶ。
其処へ、エルオーネの服をくいくい、と引っ張る小さな手。


「あ、ごめんね、スコール」


 ひょこっとエルオーネの影から、スコールが顔を出す。
そのスコールの腕には、スコールと同じ位に大きな頭の、ライオンのぬいぐるみがあった。

 ライオンはずっと昔に絶滅した動物で、“百獣の王”の呼び名を持っていたと言う。
しかし、スコールの腕に抱かれたライオンは、まるまるとしたフォルムで可愛らしく、王者の風格を表す顔の周りの鬣も、綿を詰めた三角の形の布で表現されていた。
それはスコールが4歳の誕生日の時に、レオンとエルオーネが作って贈ったプレゼントだった。
スコールはこのぬいぐるみを宝物のように大事にしていて、夜眠る時には必ずと言って良い程抱き締めている。
一人で留守番をする時、寂しい時や悲しい時も、ぬいぐるみを抱き締めて、じっと良い子に待っているのだ。

 そのぬいぐるみが、今から歯医者に行こうと言うスコールの腕の中に。
レオンはしばらくそれを見下ろして、


「……スコール。ひょっとして、持って行くつもりなのか?」
「…………」


 レオンの問いに、スコールは答えなかった。
代わりに、ぎゅう、と両手でぬいぐるみを抱き締める。


「汚れちゃうから、置いて行きなさいって言ってるんだけど…」


 困ったように眉尻を下げて言ったエルオーネに、スコールはぬいぐるみの頭に顔を埋め、ぶんぶんと首を横に振る。
一緒に連れてく、と呟くスコールは、梃子でもぬいぐるみを手放さないだろう。

 ぐす、とスコールが愚図るのが聞こえた。
怖くて怖くて仕方がない歯医者に、それでも行かなければならないのだ。
寂しい時、悲しい時に勇気を分けてくれるぬいぐるみを手放したがらないのも、無理はないか。

 レオンは一つ息を吐いて、ぽんぽんとスコールの頭を撫でた。


「判った、ライオンさんも連れて行こう」
「レオン、甘やかしちゃダメったら」
「そう言うな。この調子だと、手放しそうにないし、仕方がないだろう。……ただし、」


 スコールがレオンの顔を見上げる。
レオンは、スコールの腕に抱かれたぬいぐるみの鼻を指で軽く押してやった。


「この子は大き過ぎるから、ほら、もう一匹いただろう?その子を連れて行こう。こっちは、おうちでお留守番」
「…お留守番、一人ぼっち…」
「エルもお留守番するって。だから、この子にエルを守って貰おう。俺達が帰るまで、エルを一人ぼっちにしたら可哀想だろう?」


 スコールがエルオーネを見上げた。
じっと見つめる青灰色に、エルオーネは小さく笑って、


「お姉ちゃん、その子と一緒にお留守番したいな。ダメ?」


 ことん、と首を傾げるエルオーネに、スコールはぱちぱちと瞬きをして、抱き締めたライオンを見下ろす。
ボタンで作られた大きな瞳に見詰められて、スコールはむぅ…と頬を膨らませて頷いたのだった。




 歯医者って怖いところなんだよ。
キュイーンって口の中で怖い音がして、ぐわーって音がして、痛いところが凄く痛くなんねん。
スコールとゼルなんか絶対怖くておしっこ漏らすぞ。

 歯医者帰りのアーヴァイン、セルフィ、サイファーは、口々にそんな事をスコール達に言って聞かせた。
キスティスはそんな三人の言葉に呆れた風だったけれど、スコールとゼルはすっかり怯えてしまい、暫くは「歯医者」の単語を聞くだけで震えあがる程だった。
サイファーはそんな二人を見て「泣き虫、弱虫ー!」と笑っていたけれど、そんなサイファーが歯医者で一番大きな声で泣いていた事は、レオンとエルオーネとクレイマー夫妻の秘密だ。
子供達の中で、一番の兄貴分を自負する、彼の名誉の為にも。

 バラムの街はそれ程大きくはなく、病院の類も各科の診療所が一件ずつ、密集した位置に並んでいる。
設備はそれなりに整っているが、バラムの街から北にあるミッドガル社に備えられている医療設備に比べると、やはり“町医者”と言ったレベルであった。
それでも、一般家庭が利用する分には、十分なものだ。

 家から歯医者へ向かう道すがら、スコールはずっと目に涙を浮かべて歩いていた。
右手をレオンと繋いで、左手には30p大のライオンのぬいぐるみ。
度々立ち止まっては、嫌がるように俯く弟を、レオンは根気強く宥めながら、足を進めて行った。

 やがて到着した歯科病院は、窓に動物のシールがあしらわれた、子供にも優しい雰囲気の病院だった。
しかし、既に頭の中に“歯医者は怖い所”と刷り込まれているスコールには、あまり効果がなかったようで、病院の前でスコールは完全に硬直してしまった。
レオンが何度も促しても、足が竦んでしまって動かなくなってしまったらしく、ぬいぐるみが歪む位に力一杯抱き締めて、涙目で兄を見上げて来る。
止む無く、レオンはスコールを抱き上げて、病院のドアを開けた。

 病院の待合室では、スコールと同じように親に連れて来られた子供と、仕事合間なのかスーツ姿のサラリーマンの姿があった。
サラリーマンは落ち着いているが、子供は親の膝の上で暗い顔をしている。
それを見たスコールが、ぬいぐるみを抱き締めて、兄に強くしがみ付いた。

 レオンは、スコールを腕に抱いたままで受付を済ませ、サラリーマンの隣に一人分の隙間を空けてソファに腰を下ろした。
スコールは膝上に乗せて、不安に見上げて来る青灰色に、柔らかく微笑みかける。


「怖いか?」


 小さな声で問うと、スコールは少しの間、答えを探すように視線を彷徨わせた後、……こくん、と正直に頷いた。


「大丈夫。俺が一緒にいる。な?」
「……うん」


 きゅ、とレオンにしがみついて頷くスコール。
レオンはぽんぽんとその背中を撫でて、宥めてやった。


「呼ばれるまでもう少しかかりそうだし、絵本でも読むか?」
「…うん」
「ライオンさんは…あるかな」


 レオンは、スコールをソファに下ろし、備え付けの本棚ラックに向かった。
漫画雑誌、週刊誌、新聞が並ぶ中、歯に関する物語を描いた絵本が二冊。
一冊を手に取ってみると、ライオンが大きな歯ブラシを持っている絵が表紙になっていた。
スコールが好きな格好良いライオンはいないだろうが、少しは気が紛れるだろう。

 レオンがソファに戻ると、直ぐにスコールが身を寄せて来た。
ページを開いて、小さな声で読み進めていく。
スコールはライオンのぬいぐるみをきゅっと抱き締めて、レオンの声に耳を傾けていた。

 ゆっくりと読んでいた絵本が半分まで進んだ所で、診察室から若者が出てきた。
続けて看護師が待合室を見回し、


「ニーダ君、中へどうぞ」


 呼ぶ声を受けて、子供と母親が手を繋いで診察室へ入って行った。
レオンが何気なくそれを目で追っていると、つんつん、と服袖を引っ張られる。


「お兄ちゃん、続き」
「ああ、悪い。えっと……」


 絵本に視線を戻して、何処まで読んだかな、と呟くと、スコールが直ぐに文章の始まりを指差した。
ありがとう、と頭を撫でてやると、スコールが嬉しそうに目を細める。

 ────が、


「うわああああああああああん!」


 診察室から聞こえて来た声に、スコールがびくっと固まった。


「わあああああああん!やぁあやだああああああ!」


 建造に使われる素材の関係で、それなりに壁の厚い病院であるが、やはりドア一枚向こうの声は覆い切れないようだ。
キュイーン、と言うドリルが高速回転するような音と、子供の鳴き声が響き渡る。


「ふ…ふえ……」


 ぎゅう、とスコールがぬいぐるみを抱き締めて、レオンに縋る。
レオンは絵本を閉じて、スコールの頭を撫でた。


「大丈夫だ、スコール。な?」
「だって、だって……え、ぅえ、うええええええええん…!」


 ドア向こうから聞こえて来る声に共鳴するように、スコールが声を上げて泣き始める。
レオンはスコールを抱いて背中を撫でながら、居合わせているサラリーマンに頭を下げた。
サラリーマンは苦笑を浮かべて、会釈を返してくれた。


「ふぇええええ、ひっく、ひっく、うえ、ええええん…!」
「スコール、落ち付け。痛い事とか、怖い事とか、そういうのはないから。すぐ終わる、な?」
「だって、だって、」
「うわああああああああああん!いた、いたいぃ、いたいよぉおおお!」
「ふえ……うえええええええええん!」


 タイミング悪く聞こえてきた子供の声に、スコールはぼろぼろと涙を零して声を上げる。

 診察室から機械音が聞こえなくなっても、スコールは泣き止まない。
静かになってから、程なく、子供が母に抱きかかえられて診察室から出て来た。
スコールがちらりとそれを見れば、泣きじゃくって母にしがみ付く子供の姿があって、益々スコールの不安を煽る。


「やだやだぁ!おにいちゃん、ぼく帰るぅうう…!」
「帰るって……虫歯、ずっと痛いままだぞ?」
「やだぁー!」


 怖い思いをするのは嫌。
虫歯がずっと痛いのも嫌。
どっちも嫌としがみついてくる弟に、レオンはどうしたものかと宙を仰いだ。

 サラリーマンの名が呼ばれて、此方は落ち着いた足取りで診察室へ入って行く。
看護師がちらりとスコールとレオンを見て、にこりと笑ったのが見えた。
それを見せてやれば、スコールも少しは安心したのかも知れないが、残念ながら、スコールはレオンにしがみ付いて胸に顔を埋めたままだ。


「うええぇえん…おねえちゃぁん……!」


 助けてくれる人が欲しくて、スコールはこの場にいない姉を呼ぶ。
しかし、どんなに呼んでもエルオーネは此処にはいないし、来てくれたとしても、彼女がどうこう出来る事でもない。


「やだぁ、いたいのやだぁ…!おうち帰るぅー…!」
「うーん……」
「えっ、ふえっ、ひっく、ふええええん…おにぃちゃ…おねえちゃぁん…!」


 帰る、帰る、と言ってスコールはレオンの服を引っ張る。
そう言われてもな、とレオンが困った顔をするものだから、スコールは尚更声を上げて泣き出し、「帰るぅうう!」と叫び出してしまった。

 レオンはふと、スコールが抱き締めているぬいぐるみの存在を思い出した。


「スコール、ちょっと待て。ライオンさん、苦しいって言ってるぞ」
「ひっ、ひっく……ふえ…?」


 レオンに全身でしがみついていたスコールは、すっかりライオンの事を忘れてしまっていたらしい。
ライオンのぬいぐるみは、スコールとレオンの体の間で、ぺしゃんこに潰れてしまっていた。

 ライオンの状態に気付いたスコールは、慌ててレオンから体を放し、ライオンを元に戻そうとぽんぽんと横から叩く。
潰れた綿が空気を含んで元に戻って行くのを見て、スコールはほっと息を吐いた。
スコールは「ごめんね」と言って、涙の残る顔でぎゅっとライオンを抱き締めた。
レオンはそんなスコールの頭を撫でて、


「スコール、ライオンさんがスコールに話したい事があるって」
「……?」


 レオンの言葉に、きょとん、とスコールは首を傾げる。
貸してご覧、と言えば、スコールは素直にライオンを差し出した。

 もこもことした手触りのライオンを受け取って、レオンはスコールの前でしゃがむと、ライオンの頭で自分の顔を隠した。


『こんにちは』


 ライオンの後ろから挨拶すると、スコールが真ん丸な目を更に大きく見開いて、まじまじとライオンを見詰める。


「…ライオンさん?」
『うん。こんにちは、スコール君』
「こ、こんにちは……?」


 戸惑いながら、それでもきちんと挨拶を返す弟に、レオンはぬいぐるみの向こうでこっそりと笑う。


『あれ?スコール君、どうして泣いてるの?』
「ふぇ……あ、う、」


 ライオンの言葉に、スコールは慌てて涙の滲んだ目を擦る。
レオンがポケットから取り出したハンカチを渡すと、ごしごしと目を擦り、顔を拭いた。

 涙は収まったものの、赤らんだ鼻を啜るスコールに、レオンはぬいぐるみの手を持って、スコールの膝にライオンを乗せた。


『悲しい事でもあったのかい?それとも、怖い事?』
「………」


 じわ、とスコールの瞳に再び涙が浮かび上がる。
ライオンの手がぴょこぴょこと動いて、ことん、と頭が傾げるように揺れた。


『あれあれ?どうしたの?』
「……うん……あのね、……虫歯、できちゃったの……」
『虫歯?痛いの?』
「うん……」
『大変だ。早く歯医者さんに見て貰って、治して貰わなくちゃ』
「………う………」


 堪え切れなくなった涙が、大粒になって溢れ出した。
慌ててハンカチで拭うスコールだが、涙はもう簡単には止まってくれなかった。

 ライオンがスコールの顔を覗き込む。


『どうしたの?怖いの?』


 問いかけに、スコールはこっくりと頷いた。


『大丈夫だよ、スコール君。歯医者さん、とっても優しいよ。怖い事なんてないよ』
「でもっ…さっき、泣いてた子、いたし……サイファー、も、歯医者さんって、怖いって、言ってたもん……」


 しゃっくりを繰り返しながら言うスコールに、レオンは、どうするかな、と考える。
このまま名前を呼ばれてしまったら、治療中にスコールが大人しく出来るか、難しい所だ。

 レオンは一つ息を吐いて、ライオンの手をぴょこぴょこと動かした。


『スコール君、きっと大丈夫だよ。だって、君は強い子だもの』
「……僕、強くないよ……」
『そんな事ないよ。だってスコール君、一人でお使いだって出来たじゃない』
「できた、けど……」


 ────それは、一ヶ月前の事。
いつもレオンとエルオーネの後ろをついて歩いてばかりのスコールに、一人で買い物に行って貰おうとエルオーネが提案したのだ。
レオンは心配だったのだが、そろそろ一人で頑張れるようにならなくちゃ、とエルオーネに推され、家から最寄のケーキ屋へのお使いを頼む事となった。
最寄とは言え、そのケーキ屋は家から10分程歩いた所にある、バラムステーションの傍に建っている。
子供の足では15分程かかるので、往復する距離で言えば30分は歩き続ける事になる。
5歳のスコールには決して短い距離ではなく、初めての一人でのお使いと言う事もあり、スコールはがちがちに緊張して出発した。
スコールは、道中、犬に吼えられたり、道が判らなくなったりと言うトラブルはあったものの、無事にケーキを買って帰る事が出来た。
ちなみにその道中、心配に耐え兼ねた兄と姉がこっそりついて来て、様子を見ていた事は、本人の預かり知らぬ話である。

 一人でお使いが出来た事は、スコールにとっても、とても嬉しい出来事だった。
兄と姉が傍にいなくても、きちんと言われた事が出来た事、一人で出来たと言う事は、兄と姉の為に手伝える事が増えたと言う事。
兄と姉の後ろをついて行くのが常でも、スコール自身、二人の力になりたいと思う事も多いのだから、あの出来事は本当に嬉しかった。

 ────けれど、生来の自分への自信のなさが、そう上向きに変わる筈もなく。
ライオンの言葉に、スコールは「できたけど…」ともう一度呟いた。

 ライオンの手が、スコールの頬を包み込む。
きょとんとした蒼い瞳が、ライオンのつぶらな瞳を見詰め返した。


『スコール君は強い子だもの。だから絶対、大丈夫だって、僕は信じているよ』
「……ほんと?」
『うん』


 ライオンがこっくり首を縦に揺らす。
スコールが顔を上げて、レオンを見た。
レオンが頷くのを見て、スコールはごしごしと涙を拭く。

 診察室のドアを開けた看護師がスコールの名前を呼んだのは、その時だ。


「スコール君、スコール・レオンハート君。中へどうぞ」
「……!」


 ビクッ!とスコールの体がまた硬直する。
レオンがぬいぐるみを差し出すと、スコールはそれを受け取り、ぎゅう、と強く抱き締めた。
解れかけた緊張に再度襲われたスコールを、レオンが抱き上げて診察室に入る。

 診察室は、広い空間をパーテーションで4つに仕切った中に、それぞれ一台ずつ診察台が設置されている。
看護師に案内された番号の所へ行くと、レオンはスコールを診察台に下ろした。
そのまま体を放そうとすると、くん、と小さな抵抗。


「…ふぇ……」


 スコールの小さな手が、しっかりとレオンの服を掴んでいる。
幾らか落ち着きはしたものの、やはりまだ恐怖心は消えていないのだろう、頼れるものがいなくなる事が不安なのだ。

 レオンは、スコールの手にぬいぐるみを預けると、柔らかいダークブラウンの髪をそっと撫でる。


「大丈夫、怖くない。俺は此処にいる。ライオンさんもいるだろ?」
「……うん……」
「よし」


 ぬいぐるみを抱き締めて、スコールは背凭れに寄り掛かる。
看護師にエプロンをつけられて、緊張の面持ちで治療の開始を待つ。

 奥の部屋の扉が開いて、衛生マスクに手袋、帽子と言う完全装備の中肉中背の男が現れた。
真っ白な衣装に身を包み、黒い顎鬚を蓄えたその人は、クレイマー夫妻の下にいた子供達が皆世話になっていた歯科医だ。

 医師はレオンの顔を見ると、久しぶり、と言った。


「君が此処にくるのは、一年振りかな」
「はい。お久しぶりです」
「それで、今日は────」
「弟が虫歯になってしまったんです。歯磨きは毎日させていたんですが、ちょっと見ない間にサボってしまったようで……」


 レオンの簡単な説明を聞いて、医師は診察台に座ったスコールの隣に立った。
スコールが顔を上げて、その顔を見て────ひく、とスコールの顔が引き攣る。


「ふえ……ふぇぇぇえええええええん!」
「おっとっと」


 泣き出したスコールに、医師が慌てて下がり、当てていたマスクを外すと、にっかりと人懐こい笑みを浮かべて見せる。


「ごめんよ、びっくりさせたね」
「うぇ…ひっく…ひっく……」
「うーん、やっぱりこの鬚が怖いのかな?」
「そう、ですね……」


 自慢なんだけどなぁ、と顎髭を摩りながら呟く医師に、レオンは苦笑いを浮かべる。
スコールはライオンのぬいぐるみを力一杯抱き締めて、診察台の背凭れに縋り付いていた。

 この医師は腕も良く、治療に時間がかからない為、バラムの人々からの信頼がとても厚い。
近所の会合にもよく顔を出すらしく、気風の良い性格で、子供の扱いも上手い……のだが、如何せん、顔が濃い。
強面と言う程ではないのだが、自慢の顎鬚の所為か、初対面では多少厳つく見えてしまう事も多かった。
レオンも初めてこの医師と出逢った時は、思わず硬直してしまったものである。

 そんな人物を前にして、人見知りの激しいスコールが怯えない訳もなく。


「おにいちゃあぁ〜ん!」


 スコールは診察台を飛び降りて、レオンに抱き着いた。


「スコール、落ち付け。大丈夫だ。優しい先生だから」
「やあぁ〜!」


 レオンがもう一度スコールを診察台に戻そうとするが、スコールはいやいやと頭を振って、レオンにしがみ付く。


「ふぇ、えっ、えっく、ひっく、」
「怖い先生じゃないから、大丈夫だ。上手だから痛くないし、すぐ終わる。俺も一緒にいるから、ちょっとだけ我慢しててくれ」
「ひっく、ひっく、えっ、うぇっ、ふえっ、」
「……すみません、先生。ちょっと落ち着かせます」


 泣きじゃくるスコールを抱き直して言ったレオンに、医師はお願いするよ、と言った。

 兄に再び抱き上げられたスコールは、目一杯の力でレオンに縋り付いた。
肩口に顔を埋めて、ぐすぐすと泣きじゃくるスコールの頭を撫でてやる。


「先生、ちょっと怖い顔だけど、凄く優しいぞ。俺もエルもお世話になったんだ」
「ひっく…おに、ちゃん、も…?」
「うん」
「…おねえちゃんも…?」
「ああ。エルも最初は怖がってたけど、終わったらケロッとしてたぞ。ちっとも痛くなかった!って」


 レオンとエルと、それぞれが世話になった事を聞いて、スコールの体から少しずつ力が抜けていく。
まだ緊張は解けていなかったが、医師に対する警戒心は僅かに緩和したようだ。

 スコールを診察台に戻し、ライオンのぬいぐるみを持ち直させる。
スコールは左手にぬいぐるみを抱いて、右手をレオンへと伸ばした。
レオンがそれに自分の手を重ねてやると、きゅ、と柔らかい力で握られた。


「いいかな?」
「はい」
「大丈夫かい、スコール君」
「……ぁい……」


 小さく返事をしたスコールに、じゃあ始めようね、と医師が言って、診察台がゆっくりと倒されていく。


「はい、お口あーんして」
「…ぁー……」


 言われた通りに口を開けると、ライトがスコールの口に当てられて、鏡つきのピンセットのような道具────ミラーが入れられる。
スコールの眼の前に、医師と看護師の顔が近付いて、まじまじと口の中を覗かれた。
その視線が無性に怖くて、スコールの目尻にじわりと涙が滲んだ。

 ぎゅ、と大きくて優しい手が、スコールの手を握った。
其処から伝わる温もりに縋るように、スコールはその手を握り返す。

 医師と看護師の顔が離れて、口に入れられた道具が出て行き、診察台が起こされる。


「はい、うがいしてー」
「う、うがい、えっと……」
「スコール、これだ」


 レオンに促されて診察台の左側を見ると、水の入った紙コップが置かれている。
水を口の中に含んで、くちゅくちゅと口の中を洗うと、紙コップの傍にあった窪みに吐き出し、水がなくなるまでそれを繰り返した。

 空になった紙コップを元あった位置に戻すと、紙コップの上に設置されていた管から水が注がれる。
勝手に出てきた、と不思議そうに管を見詰めるスコールに、レオンがくすりと笑った。


「スコール君。奥歯、やっぱり虫歯みたいだねぇ」
「……う……」


 医師の言葉に、スコールはぬいぐるみを抱き締めて、気まずそうに俯いた。


「でも、あんまり大きくないからね。早く気付けたから、ちょっと削るだけで済みそうだよ」
「けずる……お、お口の中、穴、開けるの?」
「いやいや、お口に穴は開けないよ。穴を開けるのは、虫に意地悪されてる歯だけ。ちょっとこれ持って見てごらん」


 そう言って差し出されたのは、小さな手持ちの鏡。
スコールが口を開けて鏡を傾けると、医師は口の中にミラーを入れ、スコールの奥歯を映して見せる。


「此処、黒くなってるでしょ。これが虫歯。削るのは、此処ね」


 他の所に穴は開けないよ、と言う医師だったが、スコールはやはり不安そうな顔をしている。
そんなスコールに、レオンが抱き締めているライオンの手を取って、ぽんぽん、とスコールの胸を小突く。


『大丈夫。僕もいるよ』
「……うん」


 ぎゅ、とスコールがライオンを抱き締めて、診察台に寄り掛かる。
ゆっくりと診察台が倒されていく途中、スコールが頭を持ち上げて下方を見ると、レオンの蒼とぶつかった。
大丈夫、と柔らかく笑いかける兄の顔に、スコールは少しだけ、安堵する。

 診察台が完全に横になって、また光と覗き込む医師と看護師で視界が一杯になる。
見慣れない人で埋まった世界に、また恐怖が甦ったけれど、それを感じ取ったように、優しく手を握る感覚があった。


「今回は浅いから、麻酔なしでも大丈夫かな。直ぐ終わるから、頑張って口開けててね〜」


 そう言って医師が取り出した機械にスイッチが入り、あの歯医者独特の、キュイーンと言う音が鳴って、スコールの顔が引き攣った。




 ひっく、ひっく、と泣きじゃくるスコールを腕に抱いて、レオンは受付を済ませ、レオンは病院を後にした。

 治療の間、スコールはずっと泣いていた。
スコールの前に治療を受けていた子供の声に負けず劣らず、大きな声で。
お陰でスコールの喉はガラガラに枯れてしまい、散々擦った所為で目元は腫れ、持って行ったハンカチもすっかり濡れてしまった。
それでもなんとか治療を終えたスコールは、診察台から解放されてから、ずっとレオンに抱き着いている。

 慣れたバラムの道を歩きながら、レオンはしがみつくスコールの頭を撫でる。


「よく頑張ったな、スコール」
「ひっく…ふ、ふぇっく……」
「歯、まだ痛いか?」


 レオンの問いに、スコールはふるふると首を横に振る。
しかし、まだまだ泣き止まない所を見ると、治療にかかる痛み云々とは別に、歯医者に対する恐怖心は余計に高まってしまったようだ。


「も、はいしゃさん、やだ……」
「そうか」


 ぬいぐるみを腕に抱えて呟いたスコールに、レオンは良い事だ、と笑う。


「もう歯医者さんに行かなくても良いように、ご飯とおやつの後は、きちんと歯磨きしような」


 兄の言葉に、スコールからの返事はない。
おや、と思って肩に乗った弟の顔を覗いて見れば、泣き腫らした目は閉じられて、すぅすぅと寝息を立てている。
泣き疲れてしまったのだろう。

 潮風の香る道を、穏やかな寝息を聞きながら歩く。
さて、今日の夕飯は何にしよう、と今朝覗いた冷蔵庫の中身を思い出しながら、レオンは妹の待つ家へと急いだ。





先月、自分が歯医者に行ったので、子スコにも歯医者に行って貰いましたw
そしてライオンぐるみをぎゅーって抱っこする子スコのネタを頂いたので、そのまんま精製。

あと、お兄ちゃんが腹話術する所想像したら頭がパーンしまして。
[絆]のレオンがこういう行動に抵抗感がないのは、間違いなく父親の影響です。