波音、響く


 今直ぐにでも眠ろう、眠ろうとする体を叱咤しながら、すやすやと寝息を立てる弟をそれぞれ背に乗せて、兄妹は家路を歩いた。
あと少し、もう少し、あと数メートル────そんな事を考えながら、一歩一歩、進んだ。

 無人だった家の玄関を開けて、真っ暗だった部屋に電気を点けて、背に乗せていた子供達をソファに下ろした。
その振動で目を覚ました2人を、エルオーネがバスルームへと連れて行き、レオンは残り物と冷凍を温めて夕飯を作った。
子供達はシャワーだけで済ませて戻って来、その頃には幾らか目が覚めたらしく、用意された夕飯を見て嬉しそうに笑った。
引き続き、レオンは弟達の世話をエルオーネに任せ、汗と沁みついた海水を洗い流して、バスルームを出る。

 食事の後の食器の片付けは、する気にならなかった。
水を張ったラックにまとめて浸け置きして、明日の朝、朝食を作っている間に洗う事にする。
しかし、米の用意だけは今晩の内にセットしなければならないと、レオンは欠伸を殺しながら米を研いでいた。

 白く濁った水を流し捨てて、蛇口を捻ってもう一度水を入れる。
透明な液体が流れて行くのを見ながら、レオンはふと、水の中で感じた“音”を思い出した。


(……あれは……)


 スコール達を乗せたボートが引っ繰り返って、スコールとティーダとエルオーネと、揃って海へと落ちてしまった、あの時。
ティーダは直ぐ近くにいたので直ぐに助ける事が出来たが、スコールとエルオーネは深く沈み行こうとしていた。
それを、レオンは直ぐに見付けてやる事が出来なかった。

 “音”を聞いたのは、その時だ。

 まるで指し示すかのように聞こえた“音”。
水の中でも気泡の弾ける音や水の動きの揺らめきを音として感じる事はあるが、あの“音”はそうしたものとは全く違ったように思う。
もっと明確な、……人の言葉にも似たような───かと言って言葉が聞こえたのかと言われると、それも違うのだが────シグナルが聞こえた気がした。


(妙な話だ。水の中なのに)


 テレビでシュノーケリングをしているレポーターが、水中でも喋っているのを見るが、あれは装備を着用しているからだし、編集用の録音マイクだって仕込んでいるだろう。
実際に潜っている最中のダイバーの遣り取りは、ジェスチャーを使って行われる。
素潜り状態だったレオンが、声だの言葉だのと言うものを、あの状況で聞く事はない筈だ。

 けれども、確かに聞こえたのだ。
ノイズのような違和感が一瞬頭を過ぎった直後、まるで導くかのようにレオンを動かした“音”。


(最初は……泡が弾けるような音だった)


 こぽん────と、そんな音だった、ような気がする。
スコールとエルオーネが吐き出した酸素が、水の中に弾けて解けた時の音なのだろうか。
そんな小さな音が、あの大海の中で果たして聞こえるのだろうか。

 水中に棲む生き物達の中には、音波を使って会話しているものもいる。
水を介して振動して伝わって行く音を聞き分けて、仲間達と連絡を取り合ったり、反射してくる音を聞いて、天敵の接近を早期に感じ取る事が出来る。
けれど、そうした能力が備わっているのは、海に適合した進化を遂げた生き物達だ。
地上での生活を主とし、海で生きる為の機能を太古の昔に手放した人間には、備えられていない能力である。

 では、レオンが普通の人間と違うのかと言われると、それは違う。
レオンはごく普通の人間で、海では息も出来ないし、長く水の中に浸っていれば血や体温が下がって来る為、長時間の活動は出来ない。
生まれてから今日まで、何度か海に潜る機会はあったけれど、其処で特別な“音”を聞いた事もなかった。


(……気の所為、だったんだろうか)


 空耳、聞き違い。
弟と妹の危機に、極限状態に陥った精神が、第六感的な働きをした。
そう考えるのが、普通だろう。

 それだけ。
それだけの話。
─────そう、判っている筈なのに。


(……なんだ?)


 どうにも違和感が拭えずに、レオンは顔を顰めた。
右手が傷の走る額に触れる。


(聞こえた。『向こう』だと。振り返れと。確かに聞こえた)


 振り返れ。
振り返れ。
其処に探す者が在る。
お前の守りたい者が在る。

 その“音”は、“声”は、水の中だと言うのに、酷くクリアにも思えたし、ノイズのような雑音が混じっているようにも思えた。
一瞬の事だったし、振り返った先にいた弟達を助けるのに夢中で、その時は深く考える事はなかったが、今思うと、実に不思議な出来事だった。

 眉間を指先で押しながら目を閉じると、水流の音だけが暗闇の世界を満たした。
やがて水流の音は大きくなり、世界を埋め尽くし、そしてまた小さくなって行き、


『─────』


 遠くなって行く水流の音の隙間を縫うように、“音”が聞こえた。
細く長く、太く低く、まるで何かを呼んでいるかのように響く“音”。


(なんだ?……何かいる?)


 ざあん、と足下に冷たいものが寄せた。
それは寄せては引き、ひいてはまた寄せ、レオンの足首を洗いながら、攫おうとしているかのようだった。

 まるで、寄せては返す波のよう。


(波?)


 ある訳がない。
此処は、バラムの自分の家だ。
高波の日に浸水した訳でもあるまいし、足下に水がある訳がない。

 レオンは目を開けた。
直後、広く果てのない暗闇の中、目の前に佇む巨大な蛇に、息を飲んだ。


「………な、…ん、……」


 なんだ、これは────そんな言葉すら、上手く形に出来なかった。
宝石のような翡翠色の眼が、じっとレオンを見詰めている。


(蛇。蛇?違う。蛇じゃない)


 長い胴をとぐろのように巻いていたので、一見して蛇のように見えたが、よくよく見れば爬虫類にしては奇妙な特徴がある。
頭部と思しき、割れた口の両頬には、エラのような窪みがあった。
蛇にエラはないし、その後ろに伸びている、ヒレのような膜もない。

 長い胴は淡いコバルトブルーとシアンが腹と背をグラデーションに繋いで、胴の前部で羽根のように広げられたヒレは、コバルトブルーから紫紺色に変わっている。
胴全体が、きらきらと小さな光を反射させていた。
打ち寄せて跳ねる水飛沫を受けた鱗が、空にちりばめた星のように煌めいているのだ。

 蛇のように見えるけれど、魚のような特徴を持ったその生き物は、ゆっくりと、大きな頭部をレオンの下へと下ろした。
食われるのか、と息を飲んだレオンの眼前で、蛇は動きを止める。


「………?」


 そのまま、じっと動かなくなった蛇に、レオンは目を丸くした。
まるで差し出された彼のような頭に、どうして良いのか判らずに混乱する。

 立ち尽くしているレオンに焦れたように、蛇の頭が動いた。
僅かに近付くように寄せられて、鼻先がレオンの顔に触れそうな程の距離。
此処で蛇が口を開けて迫って来たら、きっと一飲みにされてしまうに違いない。
けれども、蛇は、それ以上は近付いて来ようとせず、口を開こうともしなかった。


(………触ればいいのか?)


 人懐こい犬や猫が、「触って」「撫でて」と頭を差し出して擦り寄ってくる姿と、少し似ている。
規模は犬猫の比ではなかったが。

 レオンは、重力に従い下ろしていた右手を浮かせた。
ゆっくりと、その手を蛇の鼻先へと伸ばし、


「────レオン?どうしたの?」


 鈴のように愛らしい声に、意識が急激に引き戻されていくのを感じた。
目を開けると、其処には額に添えたままの自分の手があって、水流の音が止め処なく続いている。

 あっ!と高い声が聞こえた直後、細い腕がレオンの横から伸びて、水道のハンドルバルブを捻って水流を止めた。


「出しっ放しにしちゃ駄目じゃない!」
「あ……ああ、すまない」


 眉尻を吊り上げた妹───エルオーネの顔に迫られて、レオンは慌てて謝った。
何処か呆けた、気持ちの入っていない兄の反応に、エルオーネは険しくしていた表情を曇らせる。


「どうしたの?レオン。何か変」
「……そう、か?」


 良く判らない、と言う反応を返したレオンに、エルオーネは「絶対に変」と頷いた。
レオンは額の傷に手を当てて、今自分が何をしていたのか思い出そうと試みたが、上手く行かなかった。
どうにも、頭の芯がぼやけているような気がする。

 額を抑えるレオンの仕草が、エルオーネには頭痛や痛みを堪えているように映った。
今日は海に行って、楽しさもトラブルもあったから、気丈な兄もきっと疲れているに違いない。


「お米の用意、私がしておくよ。レオンはもう休んで?」
「…いいのか?スコールとティーダは……」
「もうとっくに寝ちゃったよ。ご飯食べたら、直ぐに眠い眠いって。今は二階でぐっすり」


 エルオーネもそのまま一緒に眠ろうかと思ったのだが、なんとなく、兄の様子が気になって降りて来たのだ。
直に兄も二階の自室に上がってくるだろうとは思ったが、もしかしたら、小休止に椅子に座っている間に寝落ちているかも知れない。
冬ではないのだから、リビングで一晩寝てしまった所で風邪を引く事はないだろうが、今日一日の疲労は残ってしまう。
いつも無理を圧してまで年下達の世話を焼くレオンに、これ以上無理はさせられないと、若しも寝落ちているなら部屋に連れ戻さなければと、エルオーネは思ったのである。

 そんな気持ちで降りて来てみたら、キッチンから水の流れる音が延々と聞こえて来る。
水を出しっ放しにするなんてレオンらしくない、ひょっとしてキッチンで倒れたのでは───と思って、慌ててキッチンに入った。
そうしたら、兄は倒れていた訳ではなかったのだけれど、


「立ったままで寝ちゃう位なら、お部屋に戻ってベッドで寝て下さい!」


 道を示すように、キッチンとリビングの続きの出入口を指差して、エルオーネは言った。
眉を吊り上げて、怒ったように言うその言葉が、レオンの記憶に残った母の姿と重なる。


「……く、ふふっ」
「なんで笑うの?私は怒ってるのに」


 口元を抑えて小さく笑ったレオンに、エルオーネは両手を腰に当て、兄を睨んだ。

 怒っている筈の妹の表情が、拗ねているように見えるのは、まだまだエルオーネが幼いからだろうか。
そんな事を考えながら、レオンは笑みを堪えて、シンクから離れた。


「すまない。じゃあ、後は頼むよ」
「うん。私も、ご飯の用意が出来たら直ぐに寝るよ」
「ああ。おやすみ、エルオーネ」
「おやすみ、レオン」


 ひらりと手を振り合って挨拶を交わし、レオンはキッチンを出た。
リビングの隅には、海に行った名残のように、弁当やタオルを摘めた鞄に浮き輪等々が放置されている。
あれも明日は一通り洗わなければならないのだが、そうした手間の事は、今は考えない事にした。

 階段を上る足が重く感じるのは、気の所為ではないだろう。
明日、いつもの通りに起きれるかどうか、今のレオンには自信がなかった。
でもいつまでも眠っていると、腹を空かせたティーダがスコールを巻き込んで襲撃して来る。
それまでに起きれると良いな、と思いながら、レオンは自分の部屋のドアを開けた。

 ばたり、とベッドの上に倒れ込む。
体を起こして動かすのが面倒で、もぞもぞと身動ぎして、全身をマットレスの上に乗せた。


(疲れた……)


 布団を被る気力もないまま、レオンは目を閉じる。
そうすれば、ぼんやりと物の輪郭を見えていた世界すら、暗闇に閉ざされて、


(……そう言えば、さっきの)


 あの蛇は、何だったのだろう。
触れようとしたら、エルオーネの声がして、その時にはもう蛇は消えていた。
蛇だけではない、足下に寄せていた白波も、聞こえていた水音も、何も残っていなかった。

 目を閉じても、もう蛇は現れなかった。
代わりに、波打ち際で笑う妹と、二人の弟の声が、聞こえたような気がした。





オフ本をご存じない方には訳の分からない話ですみません……
ご存じの方にも、果たして意図が伝わるのだろうか。

レオンは幼年期・少年期・青年期で色々設定があります。ちゃんと消化して行けたらいいな。