はじまりの夜、目覚めた世界


 レオンの夕食は、いつもの半分も減らなかった。
残った分はデッシュとワッツが食べたので、残り物になる事はなかったが、兄のいつにない様子に、エルオーネが首を傾げる。
昼の一件も手伝い、不安げな表情を見詰める妹に、レオンは力なく笑って見せるしか出来なかった。

 いつも確りしている年長であるレオンの様子が違う事、イデアとシドが時折難しい顔をしている事に気付いたのは、エルオーネだけではない。
孤児院で生活している他の子供達も、それぞれ「何か変」と違和感を覚え始め、その空気は瞬く間に広がって行く。
何があったの、と子供の無邪気さでさえ訊く事が憚られるような空気が合って、この日の孤児院の夜は、とても静かなものとなった。

 しんと静まり返った孤児院の中で、レオンは前触れもなく目を覚ました。
あまりにもはっきりとした覚醒で、レオンは一瞬、自分が目覚めている事に気付かなかった。

 レオンが寝返りを打つと、隣のベッドで眠る少女の姿があった。
すぅすぅと穏やかな寝息を立てるエルオーネを見て、レオンは小さく笑みを零す。
部屋の中の子供達も、皆ぐっすりと眠っており、夜泣きをする気配もないし、怖い夢に魘されている様子もない。
それを部屋の中を一望する事で確かめて、レオンは起こしていた上半身をもう一度ベッドに横たえた。


(…神経質になってるんだ。きっと)


 昼間の一件と、夕飯前にシドに聞かされた話。
それを思い出せば、ずっと辛さを一人で耐えていた母に、申し訳なさと、寂しさと、そんな母に気付けなかった自分自身に悔しさに包まれる。
そんな自分を隠せずに、妹や他の小さな子供達にまで心配をかけてしまった。
眠る間際、エルオーネに頭を撫でられた事を思い出して、レオンは小さく溜息を吐くと、こつん、と自分の額を小突いた。


(俺がしっかりしないと)


 孤児院の子供達は、レオンを除けば皆5歳にも満たない幼い子供ばかりだ。
彼ら彼女らは、年長者であるレオンを兄のように頼り、兄がしっかりとしている事で、安心する。
だからレオンの心が揺れると、他人が思うよりずっと人の心の機微に敏い子供達は、兄の不安定な心を感じ取って、伝染して行くように不安になってしまう。

 大丈夫、とレオンは音なく唇で呟いて、眼を閉じた。
そうすると、しんとした静寂がまるで木霊するように広がって────


(………?)


 音が聞こえた。
静寂とは程遠い、何か慌ただしげな音が。

 レオンは起き上がってベッドを下りると、子供達が蹴落としたシーツを拾ってかけ直してやりながら、部屋の出入口に向かった。
表で何か起きているのなら、それが子供達に危害を加えるものか否か、確かめておかなければ。
目の前に危険が迫ってから、慌てて逃げようとしても、その時には既に遅いのだから。

 そっと部屋のドアを開けると、ばたばたと言う足音が鳴った。
先程の音は気の所為ではなかったのだと知り、レオンはドアを大きく開かせる。
其処へ、額に汗を滲ませたシドが横切って行った。


「シド先生、」


 声を大きくしようとして、レオンは子供達が寝ていた事を思い出し、慌てて音量をセーブする。
その声はなんとかシドに届いてくれたようで、彼は振り返ってレオンを見付けると、


「ああ、すみません。起こしてしまいましたか」
「先生、何かあったのか?」
「ええ、あ、いえ……大丈夫です、君は構わず寝ていて下さい」
「でも」
「あなた、早く。手が足りないわ」


 詰め寄ろうとするレオンを制するシドを、イデアが呼んだ。
レオンがイデアを見ると、彼女は大人三人の寝室のドアを開けている。
その向こうから、低く呻くような、苦しげな声が聞こえた。


「────母さん!」


 レオンはシドを押し退けて走った。
イデアが止めようと手を伸ばすが、レオンはそれをかわして、寝室に入る。

 寝室の奥のベッドに、母は横たわっていた。
苦しげな声を上げながら、酷く顔を顰めて、ベッドシーツを握り締めている。
彼女の傍には、昼から孤児院に来ていた医者が付き添っており、ひっきりなしに何か声をかけている。
レインは医者のかける声に合わせて、唸るような苦しげな声を上げ、口を開いて大きく呼吸してを繰り返している。
その顔は充血したように真っ赤になっていて、レオンはそのまま母の頭が破裂してしまうのではないかと思った。


「母さん!」
「レオン、待って。落ち着いて」


 駆け寄ろうとしたレオンの肩を、イデアが掴んだ。


「ママ先生!母さんが……!」
「大丈夫。大丈夫だから。お母さんは今、赤ちゃんを産もうとしているの」


 赤ちゃん。
その言葉を聞いて、レオンは水を浴びせられたように、焦燥していた感情が落ち着いて行くのを感じた。


「……赤ちゃん」
「そう。これは、とても苦しくて、とても大変な事なの」
「……苦しい、の?」


 オウム返しに問うたレオンに、イデアは頷いた。


「ええ……でも、とても大切な事よ。だからお母さんは、苦しいのを一所懸命に我慢しているの」


 レオンが半ば呆然としてレインを見ると、母は何度も眉根を寄せて声を上げ、目尻に涙を浮かべながらも、その痛みを恐怖したり、拒絶しようと言う様子はなかった。
彼女は、息子が来ている事にも気付かない程に苦しみ、その痛みの向こうにあるものの為に、今自分を襲っている苦しさに耐えている。

 イデアが医者に呼ばれて駆け寄った。
それについて行こうとしたレオンを、今度はシドが押さえる。
縋るように見上げるレオンを、シドは眉尻を下げて、柔らかく微笑んで見返した。


「大丈夫。君のお母さんは、とても強い人です。お医者様とイデアに任せていれば────」
「あなた!」


 レオンを宥めていたシドの言葉を、イデアが遮った。
張り詰め彼女の声に、レオンの肩が跳ねる。


「あなた、タオルをもっと持って来て。水分も取らないといけないから、水差しもお願いします」
「判りました」


 シドがレオンの肩から手を放し、部屋を出て行こうとする。
が、其処にいる沢山の瞳に気付き、シドは眉尻を下げた。


「すみません。皆、起こしてしまったみたいですね」


 子供用の寝室で眠っていた筈の子供達が、皆起きて来ていたのだ。
誰かが不意に目覚めてレオンの不在に気付いたのか、部屋の外の慌ただしさに眠りを妨げられたのかは判らない。
子供達は、皆一様に、苦しげに呻き声をあげるレインの姿に目を丸くし、凍り付いたように固まってしまっている。
其処には、レオンの妹であり、レインにとっても娘のような存在であるエルオーネの姿もあった。

 レイラがシドのズボン裾を掴む。
見上げる遠い海を思わせる碧色の瞳が、不安げにシドを見上げていた。


「レイン、どうしたの?」
「腹痛ぇの?」
「何かあったんスか?」


 レイラを切っ掛けにしたように、子供達は不安げにシドに問い掛ける。

 レインは、レオンと共にバラムに来てから、息子と共に子供達の面倒を見てくれ、『ママ先生』と慕うイデアと同じように、子供達にとって母親的存在となっていた。
だから子供達は皆レインの事を好いていて、妊娠後期に入って余り遊ぶことが出来なくなったレインの為にと、外で見付けた花を贈ったりしていた。
────そんな大好きなレインの変調と、確り者の兄が呆然と立ち尽くす様子に、子供達の眠気などあっと言う間に何処かに飛んで行った。

 ぎゅ、と小さな何かに手を握られて、レオンは我に返る。
見下ろすと、エルオーネが泣きそうな顔で自分を見上げていた。


「エル、」
「レイン、どうなっちゃうの?」


 栗色の丸い瞳に、大粒の雫が浮かぶ。

 母はまだ苦しそうな呻き声を上げている。
頑張って、とイデアが声をかけていたが、彼女に返事はない。
医者が言う合図に従って呼吸を替えているが、それも度々乱れてしまっていた。

 レオンは何も言えずに、ただエルオーネの手を握り締めるしかなかった。
シドやイデアのように「大丈夫」と微笑みかけてやれる余裕は、8歳の少年には残っていない。
ただ只管、子供達と同じような不安と恐怖が胸の内を渦巻いて、思考も上手く働かず、呼吸の仕方も判らなくなって行く。


「大丈夫です。だから皆、お部屋に戻りましょう。今日は静かにしていなければいけませんよ」
「シド先生」
「レインは?レイン、どうなっちゃうの?」
「レオン兄、レインどうしたの?」
「レオン兄」


 何も教えてくれないまま、部屋に戻そうとするシドに、子供達は今度は兄へと問い掛けた。
しかし、レオンは部屋の真ん中で立ち尽くしたまま、じっと苦しみ耐える母を見詰めているしか出来ない。


「あなた、タオルを早く!足りないわ!」
「ああ、すみません。今直ぐに!さ、皆も戻って下さい。今日は私もイデアも、レインさんも大忙しですから」


 そう言って、シドは強引に子供達を寝室から連れ出した。
しかし、その輪から外れていたレオンとエルオーネは、取り残されたようにその場に佇んで動かない。

 立ち尽くしたレオンと、彼の手を握って縋るエルオーネを見て、イデアが言った。


「レオン、エル。あなた達もお部屋に戻りなさい」


 微かに言葉の語尾が強くなっていて、それは決して二人を叱っている訳ではなかったけれど、焦燥しているイデアにそれを取り繕う余裕はない。
エルオーネがびくっと肩を竦ませて、動かない兄を見上げて、繋いだ手を引く。
戻ろうよ、と言うように引かれたその手を、レオンは強く握り締めた。


「……嫌です」
「レオン。戻りなさい。エルも不安がってるから」
「嫌だ!」


 弾けたように叫んだレオンに、エルオーネがまた怯えたように肩を竦ませる。
そんな少女に気付いたのはイデアだけで、イデアはとにかくレオンを落ち着けようとするが、


「レオン、大きな声を出さないで。お母さんを心配する気持ちは判るけど、もう少し────」
「嫌だ。嫌だ!此処にいる!母さんの傍にいる!」


 悲鳴に近いレオンの言葉に、エルオーネが息を飲んだ。
俯いた兄の頬を、ぼろぼろと大きな粒が伝って行くのを、少女は見付ける。
繋いだ妹の手ごと痛い程に握り締められている拳が、彼の心をそのまま吐露するかのように、酷く震えていた。

 部屋のドアが開いて、両手に一杯のタオルを抱えたシドが戻ってくる。
医者に教えられながらレインの周りにタオルを敷き詰めて行く傍ら、イデアがそっとレインの枕元から離れた。
イデアは立ち尽くして震えるレオンの前で膝を折ると、涙の伝う少年の頬にそっと手を添える。


「レオン、落ち付きなさい。そんなに大きな声を出したら、お母さんも、赤ちゃんも、びっくりしてしまうでしょう」
「……って……だって……」


 常の聞き分けの良い少年は、其処にはいない。
ただ無心に不安に怯えて、安らげる筈の母の温もりを、存在を、一心に求めている小さな子供がいた。

 レインが一際苦しげな声を上げて、エルオーネがレオンの足にしがみ付く。
彼女は、母の苦しむ姿を見ていられないと言うように、レオンの足に目一杯頭を押し付けた。


「ほら、エルも不安がってるわ」
「……あ……」


 イデアに言われて、レオンはようやくエルオーネが自分に縋り付いている事を知る。
握り締めた彼女の小さな手に気付き、ぎこちない動きでなんとか硬くなった指を解いて、柔らかな手が潰れていない事を確かめて安堵する。


「…ごめん、エル……」


 震える声で小さく謝ったレオンに、エルオーネはふるふると首を横に振った。
また母の呻く声が聞こえて、エルオーネはレオンのズボンの裾を握り締め、小さな肩を震わせる。

 イデアは、レオンとエルオーネの肩を押して、向きを変えるように促した。


「先生、あなた。レインをお願いします。直ぐに戻りますから」
「ええ。レオン、お母さんは大丈夫ですから、安心して下さいね」


 レオンが肩越しに振り返ると、シドが柔らかな笑みを浮かべている。
いつだって崩れないその笑みは、孤児院の子供達を安らげてくれて、レオンも自分の父を彷彿とさせるようで好きだった。
無邪気で子供のようにからからと笑う父と、柔和に微笑むシドとでは、その面は重ならないけれど、子供達を安心させてくれる笑顔であった事は変わらない。

 それでも今のレオンは、不安で堪らなかった。
泣きそうな顔で「母さん」と呟くレオンだったが、イデアに背を押されて、部屋の外へと連れ出される。
そのまま寝室に連れて行かれるのかと思ったが、イデアはレオンとエルオーネをリビングへと誘った。

 暗くなっていたリビングの電気を点けて、イデアは二人を食卓の椅子へと座らせた。
イデアは床に膝をついて、二人を見詰める。


「レオン、エルオーネ。あなた達は今、とても不安なのでしょうね。お母さんの事も心配でしょう。だから、お母さんと一緒にいたいのですね」


 4歳のエルオーネは勿論、いつもしっかり者だと評判のレオンも、まだ8歳の子供だ。
不安な時、怖い時、誰かに────自分を守ってくれる親に傍にいて欲しいと願うのは、ごく自然な事だろう。

 しかし、二人の子供に安らぎを与えてくれる母は、今は生みの苦しみに耐えている最中だ。
イデアに出産の経験はなかったが、どれだけ痛くて苦しい事なのかはよく見聞きしていたし、それでも耐えて命を生もうとする母の想いも理解できる。
内臓を抉られるよりも遥かに苦しいこの行為は、それと同時に、何よりも尊く、何よりも喜ばしいもの。
だから今は全てを新しい命の為に注がせる事が出来るように、周囲の人間が環境を守ってやらなければならない。

 今のレインに、息子と娘を気遣ってやれる余裕はない。
不安に思って母の傍にいたがる子供達には可哀想だが、今の彼女の傍に二人がいても、何もしてやれる事はない。
そして、子供達も母の為に出来る事も幾らもなく。


「ごめんなさいね。レオン、エルオーネ。もうしばらく我慢して頂戴。お母さんはきっと、いいえ、絶対に大丈夫だから」


 イデアは、レオンとエルオーネの頬にそっと手を添えて、二人の瞳を見詰めながら言った。
レオンはぎゅう、と唇を噛み、エルオーネはそんな兄とイデアの顔を交互に見て、レオンのシャツの裾を握る。


「……いつ、終わるの?」


 いつになったら、母は苦しみから解放されるのだろう。
今のレオンには、新しい命が生まれると言う喜びよりも、母が無事でいてくれるだろうかと言う不安の方が大きかった。

 レオンの問いに、イデアは緩く首を横に振る。


「判らないわ。赤ちゃんが生まれてくるには、とても長い時間が必要なの。お医者様のお話では、レインも時間がかかりそうだって」
「…母さん、ずっと苦しいの……?」


 赤ん坊が生まれるまで、母はずっとあんなにも苦しんでいなければならないのだろうか。
そんなの嫌だ、とレオンは呟いた。
母が痛いのも苦しいのも、レオンは耐えられない。

 一端は止まり、堪えられていた涙の雫が、また溢れ出す。
そんなレオンの不安が伝染したように、エルオーネもぼろぼろと泣き出した。


「えっ、ふえ…レイン、れいんん……」
「う……ふ……ぅう……」


 肩を震わせるレオンと、泣きじゃくるエルオーネを、イデアは二人一緒に抱き締めた。
柔らかな匂いが二人の鼻をくすぐる。
母が愛していた花の匂いとは違うけれど、それでも、これがとても優しい匂いである事を、二人はよく知っている。


「大丈夫。お母さんを信じてあげて。そして、赤ちゃんを応援してあげて。そうしたら、お母さんも赤ちゃんも、絶対に大丈夫だから」


 そう言って、イデアは二人の髪を優しく撫でて、そっと体を離した。
イデアはキッチンに入って、冷蔵庫の牛乳を鍋にかけて温めると、ハチミツと一緒にマグカップに注ぐ。
温かなそれを持ってリビングに戻ると、俯くレオンの前にそれを差し出した。


「………」
「私は、レインの所に戻るけど。あなた達は、それを飲んだら、きちんとお部屋に戻って眠りなさい。ね?」


 温かなホットミルクをレオンに預け、イデアは踵を返すと、足早に廊下の向こうへと消えていく。
奥の寝室の扉が開いた時、叫ぶような声が聞こえた気がして、レオンは両手で持っていたマグカップを強く握った。

 扉が締まれば、また静寂。
随分と久しい静けさのような気がして、レオンはマグカップの中で湯気を揺らしている乳白を見詰めて、これも久しぶりに、ゆっくりと息を吐いた。


(……母さん)


 傍にいたい。
違う、傍にいて欲しい。
傍にいて、いつものように笑いかけて欲しい。
それだけで、きっと不安なんてものは吹き飛んでしまうだろう。

 けれど、今の母に、息子と娘を気遣ってやる事は出来ない。
だから笑いかけてくれる事もないだろう。


(……俺達があそこにいたって、ママ先生達の邪魔になるだけだ…)


 実際、レオンはあの場にいて何も出来なかった。
苦しげに喘ぐ母を見て、イデアのように母を励ます事も、シドのように駆け回る事も出来ず、ただ立ち尽くしていただけ。
部屋を出るように言われた時も、聞き分けなく嫌だと喚くしか出来なかった。

 くいくい、と服の裾を引っ張られて、レオンは顔を上げる。
じっと見つめる妹が其処にいる事を思い出して、レオンは慌てて雫の滲んだ目元を拭った。


「どうした?エル」


 どうしたも何もない、と自分でも判っているが、会話の切っ掛けがそれ以上思い付かない。
エルオーネは、大きな瞳を赤らめて、不安そうに眉をハの字にして言った。


「レイン、どうなっちゃうの?」


 妹の言葉に、レオンは何か言おうとして、何を言えば良いのか判らなかった。
喉の奥が乾いたようにヒリついて、音の出し方が思い出せない。

 答えないレオンに、エルオーネは益々泣きそうな顔をして、言った。


「お腹の赤ちゃん、どうなるの?」


 きゅう、と服の裾を握る小さな手に力が籠められる。
レオンはその手を自分の手で包んで、緩い力で握り締めた。


「レオン」


 なんで何も言わないの、と泣き出しそうな顔で問うエルオーネに、レオンは何か言わなければと胸中で繰り返すが、まるで声が出なかった。
まるで絵本に出てきた人魚のように、言葉を丸ごと奪われてしまったような感覚。

 乳白をじっと見詰めたままで動かないレオンに、エルオーネは震える声で言った。


「……レインと、赤ちゃん、死んじゃうの?」


 死んじゃうの。
その言葉で、レオンは一気に躯が冷えて行くのを感じて、


「─────違う」


 さっきまで音が出なかった喉から、するりと、零れ落ちるように言葉が漏れた。
エルオーネが顔を上げて、俯く兄の横顔を見詰める。


「…違う。死なない。母さんも、赤ちゃんも」
「本当?」
「……大丈夫。大丈夫だ」


 同じ言葉を繰り返して、ようやく、レオンは妹の顔を見た。
青灰色が自分を捉えたのを見付けて、エルオーネは心の奥でずっとぐるぐると広い場所を占領していた気持ちが、ゆっくりと溶けて消えていくのを感じる。

 本当?とエルオーネがもう一度訊くと、レオンは大きく首を縦に振った。
そうしてエルオーネの顔から微かに笑顔が零れたのを見て、レオンも口元に笑みを形作る。
上手く笑えたのかは判らないが、エルオーネは赤らんだ頬をぐいぐいと腕で拭って、「……えへ」とレオンにもう一度笑って見せた。

 レオンは、ずっと手に持っていたホットミルクをエルオーネに差し出した。
エルオーネはマグカップを両手で持って、口元に近付け、こくこくと喉を鳴らす。


「それ飲んだら、エルは部屋に戻って寝るんだぞ」
「……レオンは?」


 マグカップから口を離したエルオーネは、白ヒゲを作っていた。
レオンはくすりと笑って、テーブルの上のティッシュを取り、優しく彼女の口元を拭ってやる。


「俺はもう少し起きてる。待ちたいんだ」
「じゃあ、私も起きてる」
「駄目だ。ママ先生にきちんとお部屋に戻りなさいって言われただろ?」
「レオンもだよ」
「俺は……いいんだよ。まだ眠くないから」
「私も眠くないもん」


 頬を膨らませたエルオーネに、参ったな、とレオンは頭を掻いた。
兄のそんな反応に、エルオーネは唇まで尖らせて、


「レインも赤ちゃんも、大丈夫なんだから。待つんだもん」


 真っ直ぐに見詰めて言った妹は「大丈夫」と信じている。
母も、まだ見ぬ新しい命も、「絶対に大丈夫」だと。
それを見たレオンは、眩しそうに双眸を細めて頷いた。




 一時間、二時間、三時間────もっとずっと時間が経って。
ちっ、ちっ、ちっ、と時計の針の音だけが聞こえるリビングで、レオンとエルオーネはじっと時が過ぎるのを待っていた。
そうしている内に、夏の早い朝の兆候を知らせるように、東空がぼんやりと白んで行く。

 時折、シドがタオルの追加や手水を洗いにリビングへやって来た。
その度、シドは二人に部屋に戻って眠るように促したが、レオンもエルオーネも、頑としてその場を動かなかった。

 レオンは、不思議と一切の睡魔を感じなかった。
一度眠った後とは言え、それ程長い時間を眠った訳ではない筈だから、子供の体に睡眠時間が足りていたと言う訳でもない。
それが、拭いきれない不安と緊張感から来るものだと、レオンは幼いながらに薄ぼんやりと理解していた。

 大丈夫、大丈夫。
何度もそんな言葉を自分自身に言い聞かせ、「まだかな?」「まだ痛いのかな?」「赤ちゃん、出て来たくないのかな」と不安そうに訊いて来るエルオーネを宥めながら、レオン自身の不安は一向に拭い去れなかった。
エルオーネに、そして自分自身に言い聞かせるように“大丈夫”と唱え続ける事で、恐怖と不安で潰れてしまいそうな心を必死に守り続けている。
しかし、息苦しさは一向になくならず、寧ろ時間が経つ毎に、何か大変な事が起きているのではないかと心配になってしまう。
その都度、まだ大丈夫だとレオンは自分自身に言い聞かせた。
母に何か大変な事が起これば、きっと息子であるレオンも呼ばれるだろうから、そうならない限りは、大きな問題は起きていない筈だと。

 まだだろうか。
もう少しで終わるだろうか。
それとも、もっと。
誰も応えてくれない問いかけを、レオンは心の中で繰り返し続ける。

 そうして、早い太陽が水平線からその体を離し、窓から差し込む光が眩しくなって来た頃、


「……、……、…」
「……エル?」
「……」


 こくん、こくん、と舟を漕ぐ妹に、レオンが名を呼ぶと、エルオーネはぱっと顔を上げて、眠い目をごしごしと擦った。


「もう寝てもいいんだぞ」
「……」


 ふるふる、とエルオーネは首を横に振る。
起きてる、待ってる。
言葉なくそう告げる妹の決意は固く、レオンは無理するなよ、とだけ言って、廊下向こうの扉をじっと見つめて────落ちかけた瞼を擦る。

 レオンに眠気はない。
眠気はないが、体力と気力の方が限界に近かった。
待つと決めたから、眠らずに待ち続けるつもりで起きていたが、緊張で張り詰めた精神が、気持ちとは裏腹に根を上げようとしている。
それをレオンは「後少し」「もう少し」と騙し騙しで言い聞かせ続けて意識を保つ。

 そんな遣り取りが、二度、三度と続いたが、遂には二人でぼんやりと瞼を落としかけていると、


「────…、─────……」


 もやがかかったような意識の中で、レオンとエルオーネは声を聞いた。

 目を開けて、二人できょろきょろと辺りを見回す。
聞き違いだろうか、と2人で顔を見合わせて首を傾げていると、同じような声がもう一度聞こえた。
それは言葉らしい形にはなっておらず、ただ心を突き上げたかのように一方的で、精一杯の大きさで響き渡る。

 レオンが椅子を蹴倒さんばかりの勢いで立って走り出すと、エルオーネも椅子を飛び降りて直ぐに後を追い駆けた。
真っ直ぐに向かった部屋のドアを、急く心のままに開け放てば、


「ふやぁああ、ああぁ…ぁああぁん、あぁああ……」


 レオンとエルオーネを包み込んだのは、大きな声で泣きじゃくる赤ん坊の声だった。
ほんの少しの距離を走っただけで、酷く肩で息を切らせて立ち尽くす二人は、その声を聞いた途端に全ての意識を浚われた。

 三つ並んだ、一番奥にある窓辺のベッドを、イデアとシドと医者の三人が囲んでいる。
シドは疲れ果てたように隣のベッドに腰を下ろしていたが、その表情は、玉の汗を滲ませながらも柔和なものだった。
イデアは瞳に潤んだ雫を堪えながら、口元に手当てているけれど、それは決して悲しみや苦しみから来るものではなく。
医者はほっとしたように胸を撫で下ろし、手の甲で額の汗を拭う。
そしてベッドの上には、とても優しい笑顔を浮かべている母と、その腕に抱かれている小さな小さな命があって。

 レインが顔を上げて、ドアの前に立ち尽くしている息子と娘に気付いて、ふわりと笑った。
その顔に、レオンの瞼に焼き付いていた苦しげな母の顔が、溶けるように消えて行く。


「レオン、エル。いらっしゃい」


 そう言って、母は二人の子供に手を伸ばした。
ふらり、と子供達の足が誘われるように動き出す。

 覚束ない足取りの二人に、シドとイデアが寄り添って、支えながら母の下へと押して行く。
そして辿り着いた二人がベッドの縁に昇ると、レインは腕に抱いていた小さな存在を二人に見せた。


(小さい)


 赤ん坊がとても小さい事を、レオンは知っている。
エルオーネを赤ん坊の頃から見ていたからだ。
けれど、それは自分が4歳の時の事で、8歳になった今、改めて向き合った赤ん坊は、4年前よりもずっとずっと小さく感じられた。
それはレオンがあの頃よりも成長したと言う証と言える。

 そしてエルオーネも、同じように、初めて見る自分より小さな小さな生き物に目を奪われていた。
生まれ故郷にいた頃、エルオーネよりも小さな子供はいなくて、孤児院に来てからは皆同じ位の年の子ばかり。
そんなエルオーネにとって、自分より小さく、か弱い存在と言うものは、この赤ん坊が生まれて初めてだった。


(ちっちゃい)
(小さいのに)
(こえ)
(声が)


 小さな小さな体で、精一杯に響く泣き声。
丸い顔をくしゃくしゃに歪めて、小さな体で、力一杯に響く声。

 泣きじゃくって閉じられていた瞼が、微かに隙間を覗かせた。
其処には母と兄と同じ、青灰色の宝石がある。
おんなじいろ、とエルオーネが呟くと、その声に誘われたように、きれいな宝石がレオンとエルオーネへと向けられた。

 えっ、えっ、と小さく体を震わせる赤ん坊。
それを見詰めるレオンとエルオーネに、レインは言った。


「男の子。弟なのよ」
「…おとうと」
「そう。ほら、お兄ちゃんと、お姉ちゃんよ」
「……おねえちゃ……」


 レオンの呟きと、エルオーネの呟きと。
それぞれが零れて、レインは、そう、ともう一度頷き、赤ん坊へと笑いかけた。
すると、赤ん坊は「うぁ…?」と首を傾げるように揺らして、母を見る。


「ふふ。ほら、レオン。抱っこしてみる?」
「……う、ん」


 母の言葉に、レオンは頷いて、おずおずと腕を伸ばした。
赤ちゃんってどうやって抱っこするんだっけ、と4年前の妹の誕生の時を思い出しながら、レオンは母の腕から赤ん坊を受け取った。
落とさないようにきちんと支えながら、自分の胸へと寄せてやる。

 ぱちり、と大きな瞳が瞬き一つ。
エルオーネがレオンの隣から赤ん坊を覗き込んだ。
くりくりとした丸い大きな瞳に、兄と姉の顔が映り込み、


「ふあ」


 柔らかい毛布に包まれていた手が、ひょこりと出て来て、伸ばされる。
小さな小さな手がレオンの服の襟を握った。
レオンは片腕で落とさないように気を付けながら、空いた手を赤ん坊の小さなそれに触れさせる。
すると、小さな手は襟から離れ、ふらふらと彷徨い、レオンの指を捉まえて、きゅう、と閉じる。

 レオンの指を精一杯握る、小さな手。
離すまいとするその強い力は、まるで、頼られているようで、求められているようで。

 エルオーネが恐る恐る、手を浮かせた。
丸い頬を指先でつん、とつつくと、頭が動いて、蒼い瞳がエルオーネを見る。
それはいつも自分を優しく見つめる母と兄と同じ色をしているけれど、それでも違う所がある。
それは、其処に灯った光は優しさや強さではなく、甘えるような、頼るような、ほんの少しの寂しさを抱いた光。

 ─────湧き上がるこの感情を、愛しさと言わずして、なんと言おう。


「ねえ、レオン。私も赤ちゃん、抱っこしたい」


 レオンばっかりずるい。
そう言って両手を伸ばしてお願いするエルオーネに、レオンは苦笑して、赤ん坊を差し出した。
エルオーネは直ぐに赤ん坊を受け取って、レオンとレインにそれぞれ支えられながら、きちんとした抱き方に直して行く。

 青灰色と栗色が、とてもとても近い距離で重なり合った。
丸い瞳がそれぞれ向かい合うのを、母と兄がじっと見詰めている。


「だぁ」


 ふんわりと、赤ん坊が笑う。
それを見たエルオーネは、胸の奥から一気に柔らかい気持ちが溢れ出すのを感じて、小さな小さな弟を抱き締めた。


「かわいい」
「うん」
「かわいいね」
「うん」


 繰り返すエルオーネに、レオンが頷いて、妹の髪を撫でる。
それから、抱き締められてにこにこと笑う弟の頬にそっと触れた。

 小さくて、温かくて、可愛くて。
丸い瞳を細めて、笑う弟を見ている内に、レオンもエルオーネも、一晩ずっと不安だった事や、苦しそうな母を見て死んでしまうのではないかと思った恐怖感は、綺麗に消えてなくなっていた。
二人の胸の内を満たしているのは、新しく加わった家族への、無心の愛。

 レオンが母を見ると、彼女は嬉しそうに笑っていた。
一番辛くて、苦しくて、大変な思いをしたのは彼女の筈なのに、そんな出来事はまるでなかった事のように、母はとても優しい笑顔を浮かべている。


「母さん」
「うん?」


 息子に呼ばれて、レインは「なぁに?」と柔らかく目を細めて訊ねた。
レオンは何も言わずに、母の手を握る。
大きく膨らんでいたお腹はすっかり引っ込んでいて、本当にあの小さな弟が其処にいたのだと、レオンは思った。
ずっとずっと、母に抱かれて、今日と言う日を待ち続けていたのだと。
母の愛情を受けながら。

 レオンは、母の肩に頭を埋めた。
無性に目頭が熱い。
悲しい訳でもないのに、怖い事など何もないのに、寧ろ嬉しいばかりなのに。

 小さく震える息子の背を、レインはそっと撫でた。
そして、弟を抱いた娘と目を合わせると、娘は弟を腕に抱いたまま、レインに寄り添う。
レインは、三人の子供を細くて白い、温かな腕で抱き締めた。


「ごめんね、一杯不安にさせて」


 母の言葉に、二人の子供は小さく首を横に振る。


「そう。ありがとう」


 くしゃり、とレオンとエルオーネの髪が撫でられた。
その温もりを感じながら、レオンとエルオーネは思う。


(違う、母さん)
(違うよ、レイン)
(ありがとうって、言いたいのは、俺達で)
(それはレインにだけじゃなくって)


 母の腕に戻った弟が、見下ろす母と、兄と、姉を見上げる。

 ─────生まれて来てくれてありがとう。
言葉の代わりに笑いかければ、もっと眩しい笑顔が返って来た。





スコール生誕の日でした。

不安になったら、安心できる人と一緒にいたい。
でもそれが出来なかったから、レオンもエルも一所懸命我慢して、じっと待ってました。
子供達が不安になってる事はレインもなんとなく判ってて、でも何もしてあげられなかったから、待っててくれた二人に「ごめんね。ありがとう」。

この日から、お兄ちゃんがまた一回り成長して、エルもお姉ちゃんとして頑張ります。