はじめての大ぼうけん


「いらっしゃいませ〜。あら」


 いつも兄妹弟で店に来ていたから、一年近く通う内、店員もすっかり彼らの事を覚えていた。
ふくよかな体格をした、エプロンをつけた女性店員に、スコールは小さな声で「こんにちは…」と挨拶した。


「こんにちは。今日は一人なの?お兄ちゃん達は?」
「ん…今日、お使いです」
「あらあら。そうなの」


 店の中には、他に客の姿はない。
しかし、ショーケースの中に並べられたケーキは大分数が減っていて、スコールが買おうと思っていた苺のショートケーキも、三つしか並んでいない。


「あ……」


 どうしよう、とスコールは数の足りないショートケーキを見詰めて、へにゃり、と眉をハの字にした。
困った表情でショーケースを見つめるスコールに、女性が声をかける。


「欲しいケーキがあったら、どれでも言ってね。此処にあるのは少なくなっちゃったけど、奥にまだ一杯あるからね」
「……ほんと?」


 目を輝かせたスコールに、うん、と店員がにこやかな笑みを浮かべて頷く。


「んっと…じゃあ、えっと……苺のケーキ、4個下さい」


 並んだ色々なケーキに目移りしたけれど、レオンとエルオーネから頼まれたのは、苺のショートケーキだ。
きちんとお使いを成功させる為にも、間違えないようにとスコールは定番のショートケーキを注文する。

 女性店員は、ショーケースの中に入れられていた苺のショートケーキを取り出した後、店の奥に入って行った。
それから数秒で、もう一つの苺のショートケーキを手に戻って来ると、他の三つと一緒にケーキボックスの中に入れる。

 店員はショーケース裏から表に出て来ると、スコールの前にケーキボックスを開けて中を確かめさせる。


「苺のケーキが四個。これでいい?」
「はい」
「じゃあ、お会計しようね」


 店員がレジカウンターに戻るのを見て、スコールはリュックを下ろして、財布を取り出す。
猫のアップリケのついたフェルトの財布は、エルオーネが家庭科の授業で作ってプレゼントしてくれたものだ。


「苺のケーキ1個で320ギル。4つで、1280ギルになります」
「んっと……これ、と…」


 スコールは1000ギルのお札を出して、店員に渡した。
それからレジカウンターのテーブルに財布の中身を逆さまにして出すと、100ギルと10ギルコインがそれぞれ5枚ずつ入っていた。


「んっと……えっと」
「280ギルだから、100ギルが2枚で、10ギルが8枚かな?」
「100ギルが、1、2枚で、10ギルが、1、2、3、4、5……あれっ…ん…あれ…?」


 8枚必要な筈の10ギルコインが足りない。
あれ、あれ、と何度も財布を引っ繰り返すスコールに、店員はくすくすと小さく笑みを浮かべ、


「10ギルが足りないなら、100ギル3枚でも良いよ」
「ほんと?」
「うん。じゃあ、全部で1300ギルになるから、20ギルのおつりね」


 100ギルコインを3枚渡して、帰って来た10ギルコインが2枚。
スコールはお釣りの20ギルをきちんと財布に入れて、リュックの中に仕舞った。

 リュックを背負って、スコールははいどうぞ、と差し出されたケーキボックスに手を伸ばそうとして、片腕に抱えたままだったライオンのぬいぐるみを思い出した。


「ちょっと待って下さい」


 店員にきちんとお願いをしてから、スコールはリュックをもう一度下ろした。
ジッパーを開けてライオンのぬいぐるみを入れて、ぬいぐるみが痛がらないように、そっとジッパーを閉じて、ぬいぐるみが落ちないように固定する。
よいしょ、とリュックを背負い直したスコールは、改めてケーキボックスに手を伸ばした。


「ありがとうございました」
「はい、此方こそありがとうね。帰り道、転ばないように気を付けてね」
「はい」


 もう一度、ありがとうございました、とぺこりと丁寧に頭を下げて、スコールは店を出る。

 スコールは両手に持ったケーキボックスを見て、きらきらと目を輝かせた。
甘くて美味しい、皆が大好きな苺のショートケーキが、このボックスの中に入っている。
これを無事に家まで持って帰れば、スコールのお使いは終わる。
そうしたら、お兄ちゃんと、お姉ちゃんに良く出来ましたと褒めて貰って、ママ先生と一緒に、このケーキを食べるのだ。

 よし、頑張ろう。
スコールはうん、と頷いて、帰り道に一歩足を踏み出した。

 此処から家に帰るのは、家から此処に来る時よりも、ずっと簡単だ。
一度通った道を逆に進んで行けば良いだけの話だから。
今までは兄姉について行っていた道を、朧気な記憶だけを頼りに歩かなければならなかったが、自分で選んで自分で歩いた道なら、今までよりもはっきり記憶に焼き付いている。
だから、何も不安になる事はない。

 帰り道で気を付けるべき事は、転ばないようにと言う事。
ケーキは転んで潰してしまうと台無しになってしまうから、それだけは避けなければ。
ケーキボックスには小さな窓がついているので、これで中身の無事を確認しながら進めば良いだろう。

 スコールはケーキの入ったボックスを片手に下げて、駅に背中を向けて、坂道を昇り始めた。
その緩やかな坂道さえ、ボックスの中身が傾いてしまわないかと不安になって、スコールは早速ボックスの窓から中を覗き込む。


(大丈夫)


 4つ並んだケーキは、綺麗な形を保っている。
お互いに密接し合って隙間を失くし、きちんと形を守り合っていた。
これなら、ちょっとした振動なら大丈夫だろう。

 スコールは改めて歩き出した。
小さな段差やブロックに足を取られて転ばないように気を付けながら、スコールは通ったばかりの道の風景を思い出しつつ進む。


(ママ先生、喜んでくれるかな)


 店まで辿り着けるかな、と言う不安な気持ちが消えた代わりに、スコールは、家に帰った時の兄と姉がどんな風に褒めてくれるのか、もう直ぐやって来る筈のママ先生がどんなに驚いてくれるか、そんな気持ちで一杯になっていた。
生まれて初めてのお使いを、もう少しで果たす事が出来るのだ。
なんだか一つ大きくなれたような気がして、スコールの気持ちもすっかり大きくなっていた。
今なら、あの大きな犬だって怖くない。
そんな気さえしている。

 坂道を上ってしばらく行くと、三叉路に辿り着いた。
行く時に通った道順を確かめながら、スコールは右の平坦な道へ曲がる。


「かんたん!」


 だって、一回通った道だ。
うきうきとした足取りで横断歩道を渡りながら、スコールは橋へと差し掛かった。
この橋を渡ったら、あの大きな犬がいる道を通り過ぎて、三又に別れている道で、下り坂を下って行けば良い。

 ─────筈、だったのだが。

 橋を渡ってしばらく歩いたスコールだったが、行けども行けども、あの大きな犬も、家まで続いている筈の三叉路も見当たらない。
可笑しいなあ、と思いながら、スコールはきょろきょろと辺りを見回しながら歩き続ける。
ひょっとして、大きな犬は家の中で眠ってしまって、スコールは気付かずに通り過ぎてしまったのだろうか。


(んっと…じゃあ、道…3つの分かれ道)


 これは見落としたりしない筈だと、スコールは歩く速度を落として、きょろきょろと辺りを見回しながら歩いた。

 道が判らなくなったら人に聞きなさい、と言われていた事を思い出す。
でも、店までの道は、店の名前を聞いて教えて貰う事が出来るけれど、自分の家までの道はどうやって聞けば良いだろう。
其処まで考えて、スコールは兄に貰ったメモの事を思い出した。
あれには、家から店までの地図の他に、家と店の場所が書いてあった。

 スコールは道の端に座って、ケーキボックスとリュックを地面に下ろすと、リュックの中からメモを取り出した。
家の番地が書いてあるのを確かめると、スコールはきょろきょろと辺りを見回し、大人の姿を探す。
しかし、


「んっと、えっと……あれ…?」


 大人の姿が何処にも見当たらない。
大人どころか、歩いている人が何処にもいない。

 スコールはリュックを背負い、ケーキボックスとメモを手に立ち上がった。
大人の姿を探して、きょろきょろと歩きながら辺りを見渡す。
ついでに、三叉路も探してみるが、これもまた中々見付からない。

 何処かで道を間違えたのだろうか。
でも、きちんと三叉路を元来た道に戻って、真っ直ぐ歩いてきた筈。
ひょっとして、大きな犬がいる家も、曲がって来た道も、知らない間に通り過ぎてしまったのだろうか。


(戻ったら良いかな?)


 若しも通り過ぎてしまったのだら、来た道を戻れば、目印になるものがまた見えて来る筈。
スコールはくるん、と方向転換した。

 その途端、


「わ、」


 足下の小さな段差が命取りだった。
どてっ、と転んだスコールの手から、ケーキボックスが投げ出されて、ことん、ことん、と転がる。


「いた……」


 スコールは、擦り剥いた膝や手のじんじんとした痛みを我慢しながら起き上がる。
痛みでじわじわと浮かんで来る涙を拭って、スコールはその手に握っていた筈のケーキボックスがない事に気付く。
あれ、と思って辺りを見回すと、道の端に引っ繰り返ったケーキボックスがある。
それを見た途端、スコールの顔が一気に蒼くなった。


「け、けーき、ケーキ!ママ先生の、」


 スコールは慌ててケーキボックスに駆け寄ると、逆さまに鳴っていたケーキボックスを抱え起こした。
小さな覗き窓から、怖々と中を覗き込んで、益々スコールは青くなる。


「ケーキ……」


 覗き窓から見えたケーキは、すっかり形を崩してしまっている。
どうしよう、とスコールはその場に立ち尽くした。
擦り剥いた膝や掌の痛みよりも、潰れてしまったケーキの事がスコールの頭の中を埋める。
その場に座って、きちんと閉じられていたケーキボックスの蓋を開けて、ちゃんと中身を確認してみる。
しかし、そんな事をした所で、崩れてしまったケーキが下に戻っている訳もなく。

 お兄ちゃんとお姉ちゃんと約束したのに。
転ばないように気を付けてって。
ママ先生と一緒に、皆で美味しいケーキ食べようねって言ってたのに。


「どうしよ…けーき…」


 ケーキ屋さんで、ちゃんと買って来れたのに。
後は帰るだけだったのに。
転ばないようにって気を付けていた筈なのに。


「ふえ……」


 大粒の雫が、スコールの大きな瞳に浮かんで、丸い頬をぽろりと落ちた。
はっとなってごしごしと目元を拭くけれど、涙は次から次へと溢れて来る。

 頑張ったのに。
頑張るって言ったのに。
ボックスの中の、大切なケーキは、すっかりぐしゃぐしゃ。


「うぇえええぇえん……!」


 家に帰る道も見付からない。
こんな時、手を引いてくれる兄と姉は、今はいない。


「えっ、ふぇっ……うえぇええん…ふぇええええ……!」


 スコールは道の真ん中に座り込んで、声を上げて泣き出した。
帰り道を聞ける大人も周りにはいないし、引っ繰り返ってしまったケーキも元に戻らない。
どうすれば良いのか判らなくて、スコールはパニックになっていた。

 わんわんと声を上げて泣きじゃくるスコールの傍に、影が落ちる。


「ふえっ、えっ、ふえええええん…」
「おい」
「ひっく…ふぇっ、うぇえええん…!えっ、えっく…うぇえ…」
「おーい、おいって」
「んぇっ……」


 ぽんぽん、と頭を何かに撫でられて、スコールは顔を上げた。
泣き腫らした目で見上げた其処には、銀髪の少年がスコールを見下ろしている。
逆立った髪と、猫のように吊り上がった眦に、スコールはびくっと身を縮こまらせる。

 少年はスコールの前にしゃがむと、まじまじとスコールの顔を覗き込んでくる。
スコールはぐす、ひっく、としゃっくりを漏らしながら、只管小さくなって、少年の気が済むのを待った。


「…お前、レオンの所のチビだよな?」
「……?」


 レオン、と言う名を聞いて、スコールはぱちりと瞬きを一つ。
少年はじっと自分を見付けるスコールに、


「判んねえか?ガーデンで何回か面合わせてると思うんだけど」
「……」


 ふるふると首を横に振るスコール。
それを見た少年は、がりがりと頭を掻いた後、まあ仕方ないか、と呟いた。


「いいや、俺の事は。それよりお前、兄ちゃんと姉ちゃんはどうした。いつも一緒だろ」
「……おつかい……」
「ん?お使い?」


 鸚鵡返しをした少年に、スコールはうん、と頷いた。


「一人でか?」
「うん」
「姉ちゃんもいないのか?」
「…うん」


 頷くスコールを見て、珍しいな、と少年が呟いた。


「あいつ、一人で弟送り出したり出来るのか……」


 驚いた様子で呟く少年に、スコールはきょとんと首を傾げた。

 この人は、スコールの事も、レオンの事も知っているらしい。
けれどスコールは、目の前の銀髪の少年の事が判らなかった。
ガーデンで逢った事があると言われても、スコールはちっとも思い出す事が出来ない。


「あー……それで、なんでこんなトコで座り込んでるんだ?」


 少年の言葉に、スコールは目の前に転がっているケーキボックスに視線を落とした。
少年の視線がそれを倣って落ちて、蓋の開いたボックスの中身を覗き込み、ああ成る程、と納得した。


「転んだのか」


 こくん、とスコールは頷いた。


「お前、怪我は?」


 ふるふる、と今度は首を横に振る。
膝や掌を擦り剥いたけれど、もう痛くはなかった。

 そっか、と言って少年はくしゃくしゃとスコールの頭を撫でる。
兄や姉のものとは違う、少し乱暴な撫で方だったけれど、怖いものではない。


「怪我してねえなら、良かったな。しっかし、こっちはなぁ…」
「……う……」


 ぐすん、と鼻を啜ったスコールに、うぉ、と少年が慌てふためく。


「ちょ、泣くな、泣くな」
「んぅ……」


 ごしごしと目を擦るスコールを見て、少年がほっと胸を撫で下ろす。
それからもう一度、形の崩れてしまったケーキを見詰め、少年は買い直しに行けば、と言う言葉を寸での所で飲み込んだ。
そういう問題じゃないんだろうな、と泣きそうな顔で精一杯に涙を堪えるスコールを見て、少年はどうしたものかと頭を掻いて、


「まあ、あれだ。形がちょっと崩れちまっただけだし、食えなくなった訳じゃないし。だろ?」
「…でも…」
「ん?」
「ママせんせ…おれいなの…いっつも、クッキー…だから、お礼、だから、きれーなの、きれー、な、おいしいの、ひっく、ひっ…」
「ああ、泣くなって。大丈夫だって。形崩れたのくらい、正直にごめんなさいって言ったら、お前の兄ちゃんも許してくれるだろ」
「ふえっ、えっ…ひっく…おにいちゃ…」


 兄の名を聞いて、スコールはごしごしと涙を拭う。
それを見た少年は、自分のポケットをごそごそと探るが、目当てのものが見つからない。


「シャツ…は汚ぇか。お前、ハンカチ持ってるか」
「ん…リュック……」
「開けるぞ?」
「うん……」


 少年はリュックのジッパーを開けると、ライオンのぬいぐるみの下からハンカチを取り出して、スコールの顔をごしごしと拭いてやる。
ぐいぐいと少し力任せに拭うその手付きは、スコールには少し痛かったが、嫌がる事はなかった。

 スコールが泣き止むと、少年は濡れたハンカチを返し、座り込んだままのスコールを見下ろして、


「で、えーっと……どうする。俺、お前の兄ちゃんに連絡できるけど。迎えに来て貰うか?」


 ジャケットに入れていた携帯電話を取り出して言う少年に、スコールはむぅ、と唇を尖らせる。
俯いてしまった子供を見て、少年は、この反応はどう受け取れば良いのだろう、と首を捻った。
取り敢えず電話してみようか、と携帯の電話帳を開いていると、もぞもそとスコールが動き出す。

 スコールはじっとボックスの中の崩れたケーキを見詰めた後、蓋をきちんと閉じて、立ち上がった。
お、と少年が携帯電話に落としていた視線を上げると、スコールはごしごしと赤らんだめを擦っている。


「お使い、なの」
「おお」
「ちゃんと、おうち、持って帰る、の」
「ほお」
「お兄ちゃんと、お姉ちゃんと、頑張るって、約束、した、の」


 泣き腫らした目で、それでもしっかりとした意志を持った幼い子供の表情に、少年は手に持っていた携帯電話をポケットに戻した。


「そーか、そーか。じゃ、もうちょっと頑張れるな?」
「うん……でも……」


 リュックを背負い直して、またしゅんと俯いてしまったスコールに、どうした、と少年が問いかける。


「おうち……」
「……道、判らなくなったのか?」


 こくん、とスコールは頷いた。
それを見た少年は、弱ったな、と頭を掻く。


「俺もレオンの家は知らねえんだよなぁ……」


 少年の呟きを聞いて、スコールの目にじわりと涙が浮かぶ。
やっぱり聞いてみるか、ともう一度携帯電話を取り出そうとした少年に、スコールはずっと手の中に握り締めていたものを思い出して、少年の前で手を開く。

 スコールの手には、くしゃくしゃになったメモが握られていた。
少年がそれを手に取って開くと、子供に読みやすい文字と共に綴られた地図と、走り書きされたのだろう住所が記されている。
それが自分の見慣れた文字だと気付いて、用意周到な事で、と少年は苦笑を浮かべた。


「判った、判った。お前の家の場所。此処から近いぜ」
「…ほんと?」
「ああ。其処の道あるだろ。あそこ真っ直ぐ行って、したら花屋があるから。そんで、多分其処から坂道になってるから、下って行ったら……」


 道を指差して説明する少年だったが、スコールが俯いて行くのを見て、口を噤む。


「……送ってってやろうか?」


 少年はなんとなく、自分の友人が弟を過剰に心配する理由が判ったような気がした。
不安そうな表情で口を真一文字にして、リュックのショルダーベルトを強く握っている幼子を見ると、このまま放って置くのは気が引ける。
罪悪感のようなものが沸き上がってくるのを感じて、やっぱりもう少し助けてやった方が良いだろうか、と思った。

 しかし、スコールはふるふると首を横に振った。
ごしごしと目を擦ったスコールは、リュックを背負い直して、少年が指差した道へと向きを変える。


「おい、大丈夫か?俺、送ってってやってもいいぞ」
「大丈夫」
「ホントか?」
「うん。それに、知らない人についてっちゃ駄目って、お兄ちゃんとお姉ちゃんが言ってたの。お兄ちゃんとお姉ちゃんのこと、知ってるって言われも、ついて行っちゃ駄目って言ってたの」


 スコールの言葉に、少年はがくっと肩を落とす。
知らない人じゃないんだけどな、と少年は呟いたが、スコールが覚えていないのでは仕様がない。


「そーか……じゃあ、ほら、メモちゃんと持って。其処の道真っ直ぐ行って、花屋に行ったら、其処にいる人にもう一回聞きな」
「うん。ありがとうございました」


 ぺこ、と頭を下げるスコールに、少年はおう、と頷いた。
くしゃくしゃと頭を撫でる手が離れると、スコールはもう転ばないようにと気を付けながら方向転換して、教えて貰った道を真っ直ぐに進んで行く。

 歩くスコールの足下は、ふらふらと覚束ないものになっている。
今までずっと一人で歩き続けて、体力も気力もとっくに限界を越しているのだ。
頑張って買ったケーキも引っ繰り返ってしまって、道も判らなくなって、さっきまで泣きじゃくっていたのだ。
疲れていない訳がない。
それでも、形が崩れたケーキでも、これを持ってきちんと家に帰るまでが、スコールの初めてのお使いなのだ。

 道の先に花屋を見付けて、スコールは少し足を速めた。
ふらふらとしている所為で、真っ直ぐに歩けなかったが、水捌けの溝や道路に食み出る事はなかった。
ぶぅん、と車のエンジン音が聞こえる度、スコールは慌てて歩道の内側によって、車が通り過ぎて行くのを待って、もう一度歩き出す。

 信号機のない横断歩道を、車が通っていない事を確認して、手を上げて渡る。
花屋の前に到着したスコールは、沢山の花に囲まれた店の中をそっと覗き込んだ。
すると、うぃーん、と音が鳴って、自動ドアの扉が開かれる。


「あれ?」
「……!」


 店の奥から顔を出した少女と目が合って、スコールはびくっと肩を竦ませた。
茶色の長い髪をツイストに巻いて、リボンを結んだ少女は、カラコロとサンダルの音を鳴らしながら、出入口で固まっているスコールに駆け寄った。


「こんにちは」
「………」
「お花、買いに来てくれたの?」


 膝を曲げて目線を合わせ、笑いかけてくれた少女の言葉に、スコールはふるふると首を横に振った。
少女は、うん?と首を傾げてスコールの顔を覗き込んだ。
まじまじと見つめられる事に慣れていないスコールは、もじもじと俯いて、口を噤んでしまう。


「どうしたの?」
「ん……お、おうち…」
「おうち?キミのおうち?」
「う、ん……」
「迷子さんなのかな。おうちの場所、判るもの、ある?」


 少女の言葉に、スコールは手に持っていたメモを差し出した。
皺だらけになったそれを広げて、少女はふむふむ、と記された住所を眺め、


「あ、このおうちね。うん、近いよ。此処の坂道、降りて行って。そしたら、海沿いに出るから、左に曲がってね。そのまま真っ直ぐ行ったら、おうちに着けるよ」


 店の軒先前を横切る坂道を、下る方へと指差して、少女は言った。
スコールがそれに倣って坂道の下を見てみると、確かに海が見える。
スコールの家は海沿いの道に並んでいるから、其処まで行けば、後はもう少し。


「ありがとうございました」
「は〜い。気を付けてね。頑張ってねー」


 ぺこりと頭を下げたスコールに、少女はにこにこと笑顔を浮かべ、ひらひらと手を振って見送った。

 下る道を下りながら、スコールは来る時に花屋さんの前って通ったかな、と首を傾げた。
いつも兄と姉と一緒に歩く道を思い出しても、花屋の風景は浮かばない。
やはり、何処かで道を間違えていたようだ。

 自分が迷子になっていたと知っても、スコールはもうパニックにはならなかった。
目の前に見えている海沿いの道まで行って、花屋の少女に教えて貰った通り、左に曲れば、あとは真っ直ぐ行けば良い。
あと少し、あとちょっと、と心の中で繰り返しながら、スコールは海へ向かって歩く。

 坂道が終わって、海の代わりに防波堤がスコールの視界を塞いだ。
まだ幼いスコールには、防波堤の方が高いので、その向こうにある海は見えない。
けれども、先程よりもはっきりと聞こえてくる潮騒の音と、きょろきょろと辺りを見渡して、見覚えのある景色に気付いて、スコールの表情が明るくなる。

 こっち、と教えて貰った方向に曲がる。
知らず、スコールの歩く足は速くなっていた。

 ────そして、家の玄関前に佇む人を見付けて、スコールは遂に駆け出した。


「スコール!」
「お姉ちゃん!」


 駆け寄ったスコールを、エルオーネは抱き締めて受け止める。
ぎゅう、と力一杯抱き締めてくれる温もりに、スコールは嬉しくなって、同じように力一杯抱き着いた。

 ガチャ、とドアの開く音。
見ると、レオンが飛び出してきて、スコールを抱き締めるエルオーネごと、ようやく帰って来た弟を抱き締めた。


「スコール、お帰り。よく頑張ったな」
「ただいま、お兄ちゃん、お姉ちゃん」
「うん。お帰り、スコール。もう、遅いから凄く心配しちゃった」


 ぎゅう、と抱き締めてくれる温もりに、スコールもほっとして、体の力が抜ける。
ずっとずっと、この腕に抱き締めて欲しくて、スコールは頑張ったのだ。

 レオンの胸に身を委ねたスコールの手には、ケーキボックスがある。
それを見たスコールは、はっと大事な事を思い出して、


「あの、あのね、お兄ちゃん、お姉ちゃん」
「ん?」
「なあに、スコール」


 ようやく帰って来て、兄と姉に抱き締められ、安心していた筈のスコールの表情が、悲しげなものになる。
不思議そうに覗き込んでくる兄姉に、スコールは怖々と口を開いた。


「あの、ね。僕ね、ケーキ、買えたよ」
「うん。頑張ったね」
「でも、でもね……僕、転んじゃった…」
「そうなの?怪我しなかった?」
「うん……でも、ケーキ……」


 潰れちゃった、と、スコールは眉尻を下げ、しょんぼりとした声で言った。

 レオンはスコールを抱き上げると、エルオーネにケーキボックスを預け、玄関のドアを開けた。
疲れたであろうスコールを柔らかなソファの上に乗せ、リュックサックを下ろしてソファの端に置く。
エルオーネもスコールの隣に腰を下ろして、ケーキボックスの蓋をゆっくりと開けた。
そして、ぐちゃ…と横倒しになったり、押し合ったりして形が崩れてしまった苺のショートケーキを見て、あらら、と苦笑する。


「ごめんなさい……」


 じわ、と大粒の瞳に涙を浮かべるスコールに、レオンとエルオーネは顔を見合わせ、小さく笑みを浮かべる。

 レオンの手が持ち上がって、スコールはびくっ、と身を縮めた。
怒られる、と思ったスコールだったが、くしゃり、と優しく頭を撫でる手に、恐る恐る目を開ける。


「大丈夫だよ、スコール。ちょっと形が崩れただけだし、これはお前が頑張って買って来てくれたものなんだから。きっと美味しいよ」
「……お兄ちゃん、怒ってない……?」
「ああ。エルも、怒ってなんかいない。な?」
「うん。ありがとうね、スコール。よく頑張りました」


 ぎゅ、と姉に抱き締められて、スコールはぱちぱちと瞬きを繰り返す。
きょとんとした表情を浮かべるスコールだったが、耳元をくすぐる姉の吐息と、優しい笑みを浮かべる兄の顔を見て、ようやく頬を赤らめてはにかんだ。



 その後、形の崩れた苺のショートケーキは、レオンが綺麗に形を直してくれた。
店で買った物とは形は違うけれど、味は変わらず美味しいままだ。
ママ先生にケーキを差し出したスコールは、お使いに行ったんだよ、と報告した。
頑張ったわね、と頭を撫でる優しい手に、スコールはまたお使いに行きたいな、と思った。

 ────その時も、今回も。
じっと見守る影がある事を、小さな子供が知るのは、ずっとずっと後の事。




スコールのはじめてのおつかい。
いっぱいいっぱい頑張りました。

陰からこっそり見てた人は、言わずもがな。道を間違えたりする度、凄くもだもだしてた。