青天の霹靂


 レオンを1人家に残し、エルオーネ、スコール、ティーダの3人は、いつも通りにガーデンへ向かった。
いつもは2人それぞれに手を繋いで登校するのだが、レオンがいないので、今日はエルオーネが両手で2人と手を繋いだ。

 家からバス停までの道のりは、小さなスコールとティーダの歩調と合わせて歩くと、10分程度の時間がかかる。
通い慣れたその時間、スコールは何度も何度も後ろを振り返り、家に残して来た兄を心配していた。
レオンなら大丈夫、とエルオーネが何度も言い聞かせるのだが、スコールは中々落ち着かない。
そのままバス停に着き、ガーデン行のバスに乗ろうとしたところで、スコールは「お兄ちゃんが心配だから、帰って様子を見に行く」と言い出した。
エルオーネがなんとか宥めてバスに乗せたものの、スコールはずっと窓の外を見つめ、「お兄ちゃん大丈夫?」としきりにエルオーネに訊ねていた。
ティーダもいつも一緒にいるレオンがいない事が落ち着かないようで、スコール程ではないものの、レオンの姿を求めるように、きょろきょろと何度も辺りを見回していた。

 ガーデンに着くと、エルオーネは2人を初等部の教室まで連れて行った。
いつも4人一緒に登校してくる筈の兄弟が、兄の姿がない事に気付いた教員は、「レオン君は?」とエルオーネに訊ねた。
エルオーネはレオンが風邪を引いた事を話し、弟達がそれをずっと心配しているのだと説明した。
いつも元気なティーダが、スコールと一緒に静かにしているのは、その所為なのだと。

 弟達を教員に預けると、エルオーネは急ぎ足で教員室に向かい、レオンのクラス担任をしているヤマザキと言う教員に会った。
ヤマザキは既にレオンから連絡を受けており、お大事に、と言う言葉をくれた。
今日の授業に関するものは、放課後にクラスメイトに持って行って貰う事にして、エルオーネはきちんと頭を下げて教員室を出ると、ようやく自分の教室へと向かった。

 それからは、特に大きな変化もなく、いつも通りに授業時間を過ごす。
休憩時間にはクラスメイトの女子生徒達とお喋りもした。

 エルオーネとて、兄の事を心配していない訳ではない。
レオンは自分でも気付かない内に無理をしてしまうし、1人で家に残すと、水を注いだり昼食の用意をしたりと言う事を、自分でしなければならなくなる。
昼食はエルオーネが粥を作って来たので、温めれば直ぐに食べられるのだが、あれから体調が悪化していたら、その一手間さえも辛くなる。
やっぱり自分も休んだ方が良かっただろうか───と考えつつ、5時間目の準備をしていると、


「エル。エルー」


 自分を呼ぶ声に顔を上げると、藍色の髪の少女が立っていた。
5年前までクレイマー夫妻が経営する孤児院に住んでおり、エルオーネと仲の良かったレイラである。
彼女は現在、バラムの街の漁師の下へ引き取られ、エルオーネ達と同じようにバラムガーデンに通学している。
付き合いの長い友達だから、気心も知れているし、お互いの家庭事情にも通じている。


「なぁに?」
「スコール達が来てるよ」


 レイラの言葉に、エルオーネは直ぐに席を立った。
教室の入り口へと向かうエルオーネに、レイラもついて来る。

 教室の出入口前には、女子生徒が集まって、小さな子供達を囲んでいた。
スコールとティーダは、このクラスではアイドル的存在なのだ。
初等部の教室から姉に会いに来た2人を囲み、皆で持って来ていた飴やチョコレートなどのお菓子をあげている。

 今日も例にもれず、女子生徒達はお菓子を差し出して弟達の気を引き付けようとしていたが、今日は2人ともお菓子の方をちらとも見ようとしない。
大人しく人見知りの激しいスコールが静かなのはいつもの事だが、ティーダがお菓子に食い付かないのは珍しい。
「どうしたの?」と訊ねる女子生徒達だが、2人は答えなかった。

 駆け寄ってくる姉を見て、ようやく子供達の表情が綻ぶ。


「お姉ちゃん」
「エル姉ちゃん!」


 手を伸ばして駆け寄って来た2人を、エルオーネは受け止めた。
小柄な2人の頭を撫でてやる。


「どうしたの?2人とも」
「スコールがね。レオン、大丈夫かなって。ずっと言ってる」
「だって……」


 エルオーネに抱き着いたまま、心配なんだもん、とスコールは言った。
今朝の不安が拭い切れていないのだろう、じわ、と涙を浮かべるスコールに、エルオーネは柔らかく笑いかけて宥めてやる。


「レオンなら大丈夫よ。強いもの」
「……うん……」
「だからスコールは泣かないの。スコールが泣いたら、レオンが心配して、無理して飛んできちゃうでしょ」


 エルオーネの言葉に、スコールは慌ててごしごしと涙を拭う。
強くて優しくて、いつでも飛んで来てくれる兄の事は大好きだけれど、決して無理をさせたい訳ではないのだ。

 泣いてないもん、と言うように、涙を拭った目でスコールはエルオーネを見上げた。
一所懸命に不安を我慢しようとするスコールに、偉い偉い、とエルオーネは褒めてやる。
その隣で、ティーダも不安を感じていたのだろう、ごしごしと涙を拭っていた。
エルオーネはティーダの頭を撫で、スコールと同じように褒めてから、


「ね、今日はレオンはお休みだから、私が晩ご飯作るね。2人とも手伝ってくれる?」
「うん」
「晩ご飯、何?」
「お兄ちゃんのご飯は?」
「今日はイワシのハンバーグ。レオンの分も作るよ。レオンがお腹空いてなかったら、お粥さんになっちゃうけど」
「お兄ちゃん、晩ご飯食べれないの?」
「うーん……多分、食べられると思うけど。でも無理させちゃ駄目だからね。帰って様子を見てから決めようと思ってるの」
「一緒に食べれる?」
「一緒に…どうかなぁ……」


 ゆっくり休んで、悪化する事なく熱も下がっているのなら、一緒に食べても良いだろう。
しかし、それもやはり、帰ってみなければ判らない。

 曖昧な返事しか返せない姉に、スコールはやきもきしたように拗ねた顔になる。
その場にしゃがみ込んで丸くなったスコールに、エルオーネは眉尻を下げて嘆息する。
丸まった小さな背中は、再来した不安で泣かないように必死に堪えているのだろう、ぷるぷると震えているのが判った。
そんなスコールの顔をティーダが覗き込んで、此方もまた、不安そうな表情を浮かべる。

 普段、レオンが体調を崩す事は滅多にない。
あったとしても、彼は上手く誤魔化してしまう事が多く、多少の体調不良は無理を押してなかった事にしてしまう。
その後、空になった風邪薬の袋がゴミ箱に捨てられているのをエルオーネが発見して発覚、と言うパターンが多かった。
その為か、スコールとティーダは、レオンの体調不良と言う場面に対して、免疫がない。
レオンを殊更に心配しているのも、そうした背景の所為だろう。

 しゃがみこんで動かない2人に、どう宥めたものかと頭を悩ませるエルオーネに、レイラが声をかけて来た。


「レオン兄、調子悪いのかい?」
「うん、ちょっとね。熱があったから、今日は家で休んでるの」
「ふぅん。それでスコール達がこんなになっちゃってる訳だ」


 レイラは眉尻を下げ、ぽんぽんとティーダの頭を撫でた。
ティーダはちらりとレイラを見上げたが、それだけで、また直ぐに俯いてしまう。


「ねえ、エル。レオン兄にちょっと電話してみたらどうだい?」
「え?」


 突然のレイラの提案に、エルオーネは慌てた。


「そ、そんな事したら、何かあったのかってレオンに心配させちゃうよ」
「そうかも知れないけど。レオン兄の事だから、自分がいなくて皆大丈夫かって心配して、ゆっくり休めてないんじゃない?あたしの知ってるレオン兄って、そういう感じだったと思うんだけど。ちょっと電話して、あっちもこっちも大丈夫って判った方が、スコールとティーダも安心するし、レオン兄もゆっくり休む気になるんじゃないかな」


 レオンが責任感が強過ぎるきらいがある事も、年下の子供達に対して過保護になり勝ちな事も、孤児院で彼と一緒に日々を過ごした者はよく知っている。
一番年上の兄貴分で、確り者で優しくて、けれど時々、妹弟達を優先するあまりに、自分の事を疎かにしてしまう事があるのも、レイラは知っていた。

 自分が傍にいなくて大丈夫だろうか。
ガーデンの登下校の時、バス停を間違えたり、怪しい人に声をかけられたりしていないだろうか。
そんな想いに駆られた彼が、ベッドを抜け出す所を想像して、エルオーネは苦笑した。
余りにも簡単に、鮮明に想像できてしまって、仕様がないなと独り言ちる。

 エルオーネは携帯電話を取り出して、ちょっとだけ、とレイラに言った。
レイラが小さく頷いて、蹲っている弟達を呼ぶ。


「ほら、スコール、それから───ティーダだっけ。レオン兄に電話するよ」
「お兄ちゃんに?」
「電話?いいの?」
「少しだけね」


 曲りなりにも病人なのだから、無理をさせては行けない。
ほんの少し、弟達を安心させる為にと、エルオーネは暗記している兄の携帯電話の番号をプッシュする。

 プルルル、と呼び出し音が聞こえる傍らで、スコールとティーダがじっとエルオーネの手にある携帯電話を見詰めている。


「レオン、出る?」
「お兄ちゃん、お話し出来る?」
「出来るくらい元気なら、出てくれる筈だよ。でも、寝てるかも知れないから。出なかったら、ゆっくりお休みしてるって事だから───」


 その時はお休みさせてあげようね、と言うエルオーネの言葉は、通話音が途切れるのと同時に区切られた。




 昼日中に家で寝ていると言う状況が、どうにも慣れない。
せめて夕飯の仕込みでも、と思うのだが、そんな事をしたら、きっと帰って来た妹に叱られるに違いない。
無理しちゃ駄目って言ったのに、と怒る妹の顔が想像できて、レオンは苦笑した。
怒らせたい訳でも、殊更に不安にさせたい訳でもないのだから、やはり今日は大人しくしているしかあるまい。

 自分の体調に関して、レオンは楽観していた。
病院に行くか行くまいかと考えている間に、熱は下がってくれたようで、体温計で計っても36.8度と平熱並。
どうやら、今朝の食事中が一番熱が上昇していた所だったようだ。
とは言え、ぶり返してしまうと厄介なのは確かなので、あまり動き回らないように努めている。

 それでも時折、ベッドを抜け出す事はある。
暇潰しの本を取りに行く時や、エルオーネが用意してくれたピッチャーの水を注ぎ足す為にキッチンに行く時だ。
頭痛はないので、その際にふらつくような事はなかった。

 只管、読書で時間を潰す。
リビングならばテレビがあるので、適当にチャンネルを遊ばせても良いのだが、レオンはテレビに余り興味がない。
と言うか、暇があったらテレビを見る、と言う習慣がないのだ。
8年前まで住んでいた生まれ故郷の小さな村には、最低限の電気しか供給されていなかったからか、ラジオはあったがテレビはなかった。
バラムに引っ越してからも、いつも小さな子供達の世話をしていたので、ゆっくりテレビ鑑賞に浸る暇はなかった。
その所為か、レオンは時間潰しの手段に疎い所がある。


(……飽きたな)


 手許の眺めていた本を閉じて、レオンは胸中で呟いた。
ベッド傍の窓から差し込む光は、煌々と明るいもので、ガラスの向こうには青空と海原が広がっている。

 昼間にこうして窓の外をぼんやりと眺めると言うのは、随分と久しぶりだ。
普段、平日ならばこの時間はバラムガーデンで授業を受けている頃だし、休日なら昼食の後片付けをしている時間帯。
とてもではないが、のんびりと窓越しの風景に浸るような余裕はない。


(悪くはないんだが……)


 そんな日常を送っているのだから、体調不良が原因とは言え、こんな時くらいはのんびり過ごしても許される筈───なのだが、如何せん、落ち付かない。
課題でもやろうか、と思ったのだが、生来の生真面目のお陰で、残っている課題もない。
眠れば良いじゃないか、と言われても、体調不良も回復傾向となり、睡魔も何もない今、すんなりとは眠れない。

 家の中は、とても静かだった。
ティーダを預かるようになってから、俄かに賑やかになった家だが、それ以前でも、エルオーネとスコールの話し声が聞こえたりと、人の気配の温もりがこの家にはあった。
しかし、スコールもエルオーネもティーダもいない今、レオン以外に物音を建てる者さえもいないので、必然的に静寂が家屋を支配する事になる。

 家の中の静寂を聞きながら、スコール達は今頃どうしているだろう、と考える。
授業時間の長さの違いから、放課後は三人が先に帰るようになったが、朝はいつも四人一緒だった。
一年以上も通っているのだから、バスを乗り違える事はないだろうが、知らない大人に声をかけられたりしていないだろうか。


(もし、エルオーネ達に何かあって、ガーデンに行っていないなんて事になったら、多分俺の方に連絡があるとは思うが……)


 昼を過ぎたこの時間になっても何も連絡がないと言う事は、きっと三人とも無事にガーデンに着いているのだろう。
とは思うのだが、最近バラムの街では、ストーカー事件だの誘拐事件だのと物騒な話を耳にする。
レオンもガーデンで教員から注意を促されており、大人がいないと言う家庭環境もあって、友人達からも心配された。

 今からでもガーデンに行こうか。
熱も下がっているし、薬も飲んだから、これ以上体調が悪化することはない筈。
しかし、本当にそんな事をしようものなら、エルオーネは真っ赤になって怒るだろうし、過去に無理をした末に倒れた兄を見た為に、トラウマ同然にその出来事を覚えているスコールは、きっと泣き出すにに違いない。
きっとティーダも不安にさせてしまうだろうし、やはり今日は此処で大人しくしているのが一番なのだろう。

 何度もそんな思考を繰り返し、何度も同じ答えに行き付く。
堂々巡りを繰り返している自分に、レオンは気付いていた。

 ────寂しい、のかも知れない。
潮騒が聞こえる静寂の中で、レオンは思う。
思えば今まで、レオンの周りには、今まで常に弟や妹達と言った、誰かの気配があったから。


(…昔は、俺が寝込んだりしたら、父さんがずっと傍にいたしな)


 スコールもエルオーネもいなかった頃、生まれ故郷の村で両親と一緒に過ごしていた頃。
季節の変わり目に体調を崩し、熱で朦朧とする意識の中、息子の名前を呼びながら、大丈夫、大丈夫と繰り返し慰めてくれていた父の声を思い出す。
ずっと繋いでくれていた手の大きさも、レオンははっきりと思い出せる。

 けれど今は、誰もいない。
父も、母も、妹も弟達も、誰も。


(子供みたいだな)


 一人取り残された家の中で、家族が帰って来るのを待つしかない。
結構辛いかも知れない、とレオンは思った。


(早く治そう)


 病気になると、弱気になると言う。
この寂しさや、静寂への違和感も、きっと弱気になった心が生んだものなのだろう。
ならば、治ってしまえば、兄らしからぬ弱気な思考も追い出せる筈。

 ガーデンに向かう前、じっと心配そうに見つめていた家族の顔を思い出す。
あんな顔をさせたくなかったから、日々の体調管理には気を付けていたと言うのに。


(十中八九、昨日リビングで寝たのが良くなかったな)


 遡って行けば他にも色々と理由はありそうだが、レオンは深くは考えなかった。

 ともかく、日々の疲労から来る体調不良である事は予想に堅い。
それならば、エルオーネに言われた通り、今日一日をゆっくり休めばきっと回復する筈だ。

 眠る気にはなれないが、横になって置こうと決めて、レオンは本をサイドボードに置いた。
そのタイミングで、枕横に置いていた携帯電話が音を鳴らす。
手に取って液晶を見てみると、エルオーネからだった。


「───もしもし?エル?」
『もしもし。うん、エルオーネです』


 機械の向こうから聞こえてきた妹の声に、レオンは横たえていた体を起こした。


「どうした?何かあったか?」
『ううん。そう言う訳じゃないんだけど、ちょっと』


 くすくすと笑いながら言うエルオーネに、レオンは首を傾げた。
何もないのに電話をかけてくると言うのも、エルオーネにしては珍しい事だ。

 レオンが部屋の置時計を見ると、針は12時を過ぎており、昼休憩の時間になっていた。
妹弟達が帰って来るまで、あと三時間ないし四時間程度か、とレオンがぼんやりと考えていると、


『ねえ、レオン。ちょっとだけでいいから、話、出来る?気分が悪いとかはない?』
「ああ。問題ない。熱も下がったしな」
『そっか。じゃあ、スコールとティーダに代わるね。2人ともレオンの事が心配で仕方ないみたいなの』


 そう言ったエルオーネの声の向こうで、変わって、変わって、と姉を急かす弟達の声がする。
僕が先、オレが先、と先を争う声がして、レオンはこっそりと口元を緩める。


『ほら、ケンカしないの。ジャンケンで決める!』
『じゃんけん、ぽいっ』
『じゃあ、スコールからね』
『うん!』


 嬉しそうなスコールの声の後ろで、ティーダの拗ねる声がする。
後できちんとお話させてあげるから、と宥めるエルの声が聞こえた。


『もしもし、お兄ちゃん。大丈夫?』
「ああ、大丈夫だよ、スコール」


 心配そうな弟の声に、レオンは努めて明るい声で言った。
顔が見えない電話越しだから、聞こえる声のトーンの変化は大事だ。


『お熱、大丈夫?痛いとこない?』
「熱は下がったよ。痛いところもない。ありがとうな、スコール」
『ね、あのね。お兄ちゃん、今、一人ぼっちでしょ。寂しくない?怖くない?』


 スコールの言葉に、レオンは思わず漏れかけた笑いを堪える。

 スコールは、幼い頃から1人になるのが嫌いだった。
いつでもレオンやエルオーネの後ろを付いて来て、誰かの手を握っていないと不安になってしまう。
時折、病気にかかってしまうと尚更で、一人ぼっちになる事をいつも以上に怖がり、誰かが傍にいてくれないと眠れなくなってしまう。
だからスコールは、レオンも病気になって家に1人残されて、不安になっているのではないかと思ったのだろう。

 心から心配している様子のスコールに、レオンは大丈夫だよ、と言った。
本当はほんの少し、家の中の静けさに寂しさを感じていた事など、兄として言える訳もない。
だから代わりに、不安がっている弟達が安心できるように、いつものように優しい声で「大丈夫」と伝える。


『お兄ちゃん、怖い夢見なかった?』
「ああ。怖い夢は見ていないよ。スコールやティーダと一緒に遊ぶ夢は見たかな」
『ほんと?』
『スコール、長い!もう交代!』
『あっ!』


 焦れたティーダの声が聞こえ、電話の向こうでジジ、ジ、とノイズが響く。
揉めているのだろう声や音が聞こえた後、エルオーネが電話を取り上げる声が聞こえた。


『エル姉、電話ー!』
『お姉ちゃん、お兄ちゃんの電話ぁ』
『ケンカするんならダメ!』
『してないもん!』
『してない!』
『じゃあスコールは終わり。次はティーダね』
『やった!』


 はしゃぐティーダの声の後ろで、今度はスコールの残念そうな声が聞こえる。
きっと拗ねた顔でエルオーネに甘えているのだろうな、と思いつつ、レオンは聞こえてきたもう一人の弟の声に耳を傾けた。


『レオン、レオン!熱へーき?大丈夫?』
「ああ、大丈夫だよ。ありがとう、ティーダ」
『あのねっ、今日ね、エル姉と一緒に晩ご飯作るよ!レオン、晩ご飯食べれる?お腹空いてる?』
「うん、空いてるよ。楽しみにしてる。皿を落としたりしないように気を付けろよ、怪我をするからな」
『大丈夫!』


 元気なティーダの声が、逆に空回りを呼びそうで、レオンはくつくつと笑った。
本当かなあ、と呟くエルオーネの声も、きっと同じ事を考えてのものだろう。

 電話越しに聞こえる弟達の声が、とても耳に心地良くて、ずっと聞いていたいとレオンは思う。
2人の弟達の向こうから聞こえる妹の声も、ずっと聞いていたい。
毎日一緒に過ごしていて、沢山聞いている筈なのに、電話越しに聞こえて来る妹弟達の声がとても特別なもののように思えた。

 けれど、いつまでも“特別”に浸っている事は出来ない。
ガーデンを休んでいるレオンには有り余る時間があるけれど、いつも通りにガーデンに言っているエルオーネ達は、まだ授業があるのだ。
時間から見ても、初等部はそろそろ休憩時間が終わるから、教室に戻らなければならない。


『スコール、ティーダ。そろそろお話はお終いね』
『えーっ。もっとレオンと話したい!』
『僕も……』
『レオンは風邪でお休みしてるんだよ。無理させたらいけません。それに、ほら。もう直ぐ五時間目が始まるよ』
『うー……』


 判り易く渋るティーダの声が聞こえた後、携帯電話がエルオーネに渡されたのだろう、彼女の声が近くなる。


『ごめんね、レオン。休んでるのに』
「いや、構わない。皆の声が聞けたから、俺も少し安心した」


 無事にガーデンに行けただろうか、何か不測の事態にでも巻き込まれていないだろうか。
そんな不安は、電話越しに聞こえて来た妹弟達の声が吹き飛ばしてくれた。
心配してくれる小さな弟達と、兄の分まで弟達の面倒を見てくれる妹の為にも、早く体を治さなければ───そんな気持ちを新たにして、レオンはベッドに横になる。


『今日の晩ご飯、食べられそう?』
「ああ」
『良かった。今日は私とスコールとティーダで作るから、レオンはちゃんと休んでてね。判った?』
「判ってる。怪我をしないように気を付けろよ」
『うん。あ……ごめんね、もう直ぐ授業が始まっちゃうから切るね』
「ああ。頑張れよ。スコールとティーダにも」
『うん、伝えとく。じゃあね』


 エルオーネの言葉の後、電話が切れるのを待っていると、スコールとティーダの「ばいばーい!」と言う声が聞こえて来た。
それから通信の切れる音がして、液晶画面から妹の名前が消える。

 レオンは携帯電話を枕元に置いて、窓から差し込む陽光の温もりを感じながら、目を閉じる。
ついさっきまで感じていた寂しさの代わりに、今は胸の奥がぽかぽかと温かさに包まれているのを感じた。




 一日の授業が終わると、エルオーネは急いで荷物をまとめ、クラスメイト達への挨拶もそこそこに、初等部の教室へと急いだ。
初等部の教室では、姉の授業が終わるのを待っていたスコール達が、エルオーネの姿を見つけるなり飛びついて来た。
いつもエルオーネに甘えたがる弟達だが、今日は少し違う。
1人で家で過ごしている兄の為、早く帰りたくて、姉が迎えに来てくれるのを今か今かと待ち侘びていたのだ。

 エルオーネはスコールとティーダの手を握って、ガーデンのカードリーダーへと向かう。
いつもはエルオーネの手を引きながら、ちょこまかと賑やかに動き回るティーダも、今日は真っ直ぐに道を歩く。
スコールも少し急ぎ足で、エルオーネ達に遅れないように、一所懸命に足を動かした。


「帰るバス、直ぐ乗れる?」
「次のバスまで、あと10分……ちょっと待ってたらすぐ来るよ」
「お姉ちゃん、お買い物は?」
「今日はなし。ご飯の材料は昨日買ったから。だから、おやつもなしね」
「ぶー」


 判り易く剥れるティーダに、エルオーネは眉尻を下げて苦笑する。


「今日の給食のプリン、食べたんでしょ?」
「食べてなーい!カバンの中!」
「お兄ちゃんにあげるの」


 ガーデンの幼年クラスと初等部の給食には、月に一度、デザートが追加される。
今日がその日だったので、スコールとティーダは昨日から楽しみにしていたのだ。
しかし、体調を崩して1人で家にいる兄の為に、先生にお願いして、持って帰らせて貰っている。

 スコールとティーダが今日のプリンを楽しみにしていた事は、レオンも知っている。
そんな弟達が、自分の為にプリンを我慢して持って帰って来たのを見て、彼はどんな顔をするだろう。
少しだけ楽しみに思いながら、カードリーダー前を通り抜けようとすると、


「おーい!そこの、レオンとこの!」
「ちょっと待ってくれ!」


 聞き慣れない、けれども覚えのある声に、3人は立ち止まった。
なんだろう、と思って振り返ると、バラムガーデンの制服を着た2人の男子生徒が此方へ向かって走って来る。

 生徒の1人は銀髪、もう一人は頭にバンダナを巻いていた。
エルオーネはしばし考えた後、彼らが休憩時間にレオンと一緒に過ごしていた所を見ていた事を思い出す。

 二人の男子生徒は、エルオーネ達の前に来ると、はあはあと暫く呼吸を整える事に終始する。
見慣れない男子生徒に、スコールが怯えるようにエルオーネの陰に隠れる。
ティーダも釣られたようにエルオーネの陰になって、こそこそと少年達を覗き見た。


「間に合った、間に合った。丁度良かったぜ」
「えっと……レオンの、お友達の…」
「そうそう。俺、ロック。こっちはエッジ」
「お、お世話になってます」


 ぺこりと頭を下げたエルオーネに、いやいやこっちこそ、と銀髪の男子生徒───エッジが笑う。


「それで、何か……」
「いや、何って程でもないんだけど。これ、君に預けた方が早いんじゃないかと思ってさ」


 これ、と言ってロックが差し出したのは、B5サイズの封筒だった。
反射的に受け取った後で、なんだろう、と封筒の口から中を覗くと、数枚の紙と一冊のノートが入っている。


「今日のHRと授業で渡されたプリントと、昨日俺達が借りてたノートなんだ。持って行こうと思ってたんだけど、良く考えたら、俺達、レオンの家の場所って知らなくて」
「バイト先なら知ってるんだけどなあ。で、どうしようかって話してたとこで、お嬢ちゃんが教室から出て行くのが見えたから、急いで追って来たんだよ」
「って訳で、頼んで良いかな?」
「はい。わざわざありがとうございます」


 ぺこ、ともう一度頭を下げるエルオーネを見て、真似るようにスコールとティーダもぺこりと頭を下げる。
その光景に、エッジとロックは顔を見合わせ、可愛いもんだなと胸中で囁き合う。

 エッジとロックは「お大事にって言っといてくれ」と言って踵を返し、寮のある方角へと向かう。
ティーダがその背中にひらひらと手を振っていた。

 エルオーネは鞄の中で折れないように封筒を入れ、カードリーダーを通り抜ける。
スコールとティーダもIDカードをリーダーに当てて通り抜けると、それぞれ姉の手を握って、校門向こうのバス停へと急いだ。




 バラムの街のバス停から、レオンが待つ我が家へは、歩いて10分と少し。
歩き慣れたその道程を、エルオーネとスコールとティーダは走った。

 一番足の速いティーダが、早く早くと遅れるエルオーネとスコールを急かす。
エルオーネは、足を縺れさせながら走るスコールの手を引きながら、後ろ向きに走るティーダに危ないから前を見て、と何度も叫んだ。
その内待ち切れなくなったティーダは、2人に駆け寄って来ると、遅れるスコールの手を引っ張って全力で走り出した。
スコールと手を繋いでいるエルオーネも引っ張られて、3人できゃあきゃあと賑やかな声を上げながら、家路を急ぐ。

 夕暮れのオレンジ色に照らされた海沿いが見えた。
角の横断歩道を渡って、やっと帰宅。


「ただいまー!レオン、レオンー!」
「お兄ちゃん、ただいま!」


 エルオーネが玄関のドアを開けると、スコールとティーダは先を争うように飛び込んで、元気な声で兄を呼んだ。
きっと2階の自室にいるだろうとばかり思っていて、より一層大きな声を上げた2人だったが、


「お帰り、スコール、ティーダ、エルオーネ」


 直ぐ傍から聞こえて来た声に、3人が首を巡らせると、リビングのソファに座っているレオンの姿。
シャツと緩めのジャージズボンと言う、夜着の楽な格好をしているレオンだが、顔色は今朝見たものよりもずっと良くなっている。


「ただいま、レオン。起きてて平気なの?」
「問題ない。熱も下がってるし。部屋でじっとしているのも飽きてしまったからな」
「もう」


 仕様がないなあ、と言うように嘆息するエルオーネだったが、その表情は柔らかい。
スコールとティーダは、早速ソファに座る兄の膝に縋り付いている。


「お兄ちゃん、風邪、へいき?」
「ああ。もう治ったよ」
「晩ご飯、一緒に食べれる?」
「うん。ティーダも作ってくれるんだろう?楽しみにしてるからな」
「僕も、僕もお手伝いする」
「スコールも頑張ってくれるんだな。きっと美味しいだろうな」


 ぽんぽんとレオンの手がスコールとティーダの頭を撫でる。
半日振りの兄の優しい声と手に、弟達は今日一番の嬉しそうな笑顔を見せた。

 あっ、とスコールが声を上げて、肩から下げている鞄をごそごそと探る。
それを見たティーダも、あっと同じように声を上げて、背中に背負っていたリュックサックを下ろし、ジッパーを開ける。
どうしたのだろうと見つめるレオンの前で、スコールとティーダは目当てのものを見つけ出すと、「はいっ!」と言ってそれをレオンに差し出した。


「……プリン?」
「給食のやつ!」
「お兄ちゃんにあげる」


 スコールとティーダの言葉に、レオンは目を丸くする。


「あげるって……これはお前達のプリンだろう。昨日も楽しみにしてたじゃないか」
「うん。でも、あげる。レオンにあげる」
「お兄ちゃん、一人ぼっちでお留守番してたから」


 戸惑う兄の両手に、スコールとティーダはそれぞれ自分のプリンを渡す。
良いのかな、と言う表情を浮かべるレオンを見て、エルオーネがくすくすと笑いながら言った。


「1人でお留守番できたご褒美だって」


 小さな子供を相手にするような───実際に似たような言葉をスコールやティーダに言った事がある───エルオーネの言葉に、レオンはぱちりと瞬き一つした後、くすりと笑って、弟達の頭を撫でる。


「ありがとう。晩ご飯の後、皆で一緒に食べようか」


 皆で一緒に、と言うレオンの言葉に、スコールとティーダは顔を見合わせて嬉しそうに笑った。
エルオーネはそんな2人をレオンから離し、


「さ、晩ご飯作らなきゃ。レオンのハンバーグも作るよ。2人とも、鞄お部屋に置いて来て」
「はーい!」


 一緒に階段を上って行くスコールとティーダを見送って、エルオーネも自分の鞄を下ろし、ソファの上に置いた。
チャックを開けて茶封筒を取出し、レオンの前に置く。


「これ、レオンの友達から。今日のプリントと、借りてたノートだって」
「ありがとう」
「お大事にって言ってたよ」
「ああ」


 誰から、と明確な名前をレオンは聞かなかった。
ノートを貸していたと言う時点で、きっと彼には誰から頼まれたのか判ったのだろう。

 エルオーネはキッチンに入ると、エプロンを結んで、冷蔵庫を開けた。
2階から弟達が駆け足で下りてくる音がして、危ないぞ、と窘める兄の声が聞こえる。
いつもと違う朝から始まった今日は、どうやらいつも通りの夜を迎える事になりそうだ。
半日振りに兄に甘えたがる弟達をキッチンに呼んで、エルオーネは夕飯の準備に取り掛かった。




お兄ちゃんの体調不良。ちびっ子たちは免疫がないので大騒ぎ。
こういう事にならない為にも、体調管理はきちんとしているレオンだけど、たまにはこうなっちゃう日もある。