握り締める、小さな手


 金曜日に出された宿題で、判らない所が沢山あるとスコールが言うので、土曜日の午後は三人揃って勉強をする事にした。
三人で窓辺のテーブルを囲み、それぞれ筆記用具やプリントを広げる。
スコールは算数ドリル、エルオーネは理科のプリント、レオンは魔法物理の問題集だ。

 スコールは、レオンの前に広げられた問題集を見て、ぱちぱちと瞬きを繰り返し、


「お兄ちゃん、こんなの勉強してるの?」
「ああ」
「すごーい」


 弟のきらきらとした眼差しに、レオンはくすぐったくなるのを感じていた。


「お前も高等部に入ったら、こう言う勉強するようになるよ」
「んぅ……こんなの判んない…」
「いきなりこんな問題にはならないさ。最初はちゃんと易しい所から教えてくれるから」


 難しくて判らない、と言うスコールに、レオンはくすくすと笑って言った。
レオンの言葉を聞いて、スコールはほっとしたように表情を緩める。
その隣で、エルオーネがきゅうと眉根を寄せていた。


「ねえ、レオン。魔法物理って、算数…じゃなくて、数学とか物理より難しい?」
「どうだろう。でも、物理とそれ程性質は変わらないんじゃないか。普通の物理や数学とは少し理屈が違うだけで、公式だのなんだのって言うのがあるのは数学と同じだしな。だから、計算が苦手だと少し難しいかも知れないな」
「うー……やだなぁ。理科だけでもよく判らないのに」
「理科は好きだって言ってなかったか?」
「動物や花の勉強が出来るのは好き。虫はあんまり好きじゃないけど」
「ああ、そう言う事か」


 理科の授業で習う事は、動植物の生態系だけ───所謂、生物学の分野だけではない。
後に科学や物理として分類して学ぶことになる分野など、様々な範囲を教わるのだ。

 エルオーネは動物や植物の生態を知る事が出来るので、理科の授業は好きだった。
しかし、独特の計算式や単位が入り交じるものは苦手なようで、宿題が出される度に頭を悩ませていた。

 今日も溜息を吐きながら理科のプリントを埋めていく妹の隣で、スコールがぐるぐると目を回していた。


「どうした、スコール」
「う、んと…あのね、ここ、わかんない」


 スコールが指差してレオンに見せたのは、長さに関する問題だった。
10×10マスの中に、縦或いは横の棒が書かれて番号が振ってあり、長い順に番号を書けと言うもの。
15歳のレオンには、一目見て直ぐに理解できるような問題だが、初等部一年生で算数が苦手なスコールには難問のようだ。

 レオンはどうやって教えようか、と少し考えた後、


「スコール。この塗ってあるマス、それぞれ幾つある?」
「う…んん…?」
「数えてごらん。数え難かったら、こうやって…」


 レオンはシャーペンで色が塗られているマスを区切って行く。
こうすれば、一本の棒が幾つのマスが繋がって出来ているのかが判る筈だ。


「ん、と…1、2、3…これ、3個?」
「そうだな。こっちも同じようにして」
「うん」


 レオンに教えて貰った事を真似て、スコールは棒をマスを区切った後、区切られたマスを一つ一つ数える。
数え終わったら、マスの外に番号と数を並べてメモして置く。
全て数え終わると、数が多かった順に答え欄に書き移して行った。
エルオーネは時折唸りつつ、自分で教科書やノートを見直して、黙々と問題を解いている。

 順調に進む妹弟の姿に、レオンはこっそりと満足しつつ、自分の課題に集中し直す事にした───が、玄関のチャイムが鳴って、持っていたシャーペンをテーブルに置く。


「お客さん?」
「ママ先生?」
「どうだろう。今日は特に何も聞いてないけど」


 土日の休日にイデアが家を訪ねてくる事は珍しくない。
何かと兄弟を気にかけてくれる彼女は、月に何度か家を訪れ、4人で茶菓子を囲む事もあった。
だが、その時は大抵、前日の内にレオンかエルオーネに「行っても良いかしら」と伝えてくれるのだが、昨日はそうした事はなかった筈だ。

 レオンが玄関の覗き窓を見ると、この一週間ですっかり見慣れた人物の顔が見えた。
意外に思いながら玄関を開けると、よく晴れた空の下で、弱り切ったように眉尻を下げて苦笑している不精髭の男───ジェクトが立っている。
ジェクトは、初めてレオンが彼とあった時と同じ、ボストンバッグを肩に提げている。
その傍らには、ジェクトの息子であるティーダもいた。
そして二人の後ろには、困ったような表情を浮かべたイデアとシドがいる。


「どうしたんですか、ジェクトさん。シド先生達まで」
「いや…その。ちょっとな、こいつが───」


 ジェクトの言葉が最後まで紡がれる前に、とす、と何かがレオンにぶつかった。
視線を落とせば、ティーダがぎゅうとしがみ付く様にレオンの腰に抱き着いている。


「ティーダ?」
「……」
「どうした?何かあったのか?」


 離れまいとするように抱き着くティーダから、ぐす、と鼻を啜っているのが聞こえて、レオンは首を傾げてジェクトを見上げる。
ジェクトはばつの悪い表情を浮かべて、がしがしと頭を掻いていた。


「ちょっとよ、そのー…時間、あるか?」
「俺は大丈夫ですが……外に出た方が良いですか?」
「……そうだな。頼む」


 レオンの視線は、ジェクトの肩に提げられたボストンバッグに向いていた。
ガーデンにいる時は見なかった鞄を持っていると言う事は、恐らく、これからジェクトはザナルカンド行の船に乗るつもりなのだろう。

 レオンはしがみついて離れようとしないティーダを宥め、ちょっとだけ待っていろ、と言って家に戻った。
リビングで宿題をしていたエルオーネとスコールが顔を上げる。


「どうしたの?」
「お客さん、誰?」
「ティーダとティーダのお父さんだ。シド先生達も来てる」
「ティーダ、来てるの?シド先生とまま先生も?」


 ぱあ、とスコールの表情が嬉しそうに綻ぶ。
新しい友達と、育て親達が遊びに来てくれたと思ったのだろう。
レオンはそんなに苦笑し、くしゃりとダークブラウンの髪を撫でてあやす。


「残念だけど、遊びに来た訳じゃないらしい」
「…そうなの?」
「俺に話があるって。外で話をするから、ちょっと出掛けて来る。エル、スコールを頼んだぞ」
「判った。気を付けて行ってらっしゃい」
「ああ。夕飯までには戻るから」


 レオンはハンガーにかけていた上着を取って羽織ると、拗ねた表情をしているスコールの頭をもう一度撫でて、玄関へ向かう。

 家から出てきたレオンを見て、ティーダもう一度抱き着いて来た。
何が何でも離れまいとする必死な様子が感じられて、レオンは眉尻を下げる。
弟にしていたように、くしゃくしゃと明るい色の髪を撫でてやれば、泣き出すのを堪えるような唸り声を漏らしながら、益々強い力で抱き着かれた。


「悪いな。港の方まで出られるか?」
「はい」
「腰落ち付けて話が出来りゃ一番良かったんだが、こっちがちょっと時間を押しちまっててよ。そろそろ手続きやっておかないと、船に乗り遅れちまうんだ」


 そう言ってジェクトは踵を返し、歩き出した。
レオンはティーダの背を押して、ジェクトを追う。

 シドとイデアが、申し訳ないと言う表情でレオンを迎えた。


「すみませんね、レオン。突然来たりして」
「いえ、俺は別に。スコールは少し残念がってましたけど」
「お茶はまた今度ね。クッキーも持って行くって、二人に伝えて置いてくれる?」
「はい」


 シドとイデアの言葉に、レオンは頷いた。
ありがとう、と微笑む二人の育て親に、レオンは小さく首を横に振った。

 港への道を歩く間、ティーダはずっとレオンに身を寄せていた。
腰にしがみ付いたままではレオンが歩き難いので、途中からは手を繋ぐようにしたが、ティーダの歩みは遅い。
レオンが小さな子供を見下ろせば、海の青が泣き出しそうに揺れながら、前を行く父の背中を見詰めている。

 港はいつもと同じように賑わっており、漁を終えて戻って来た船が水揚げしていた。
大きな網がクレーンで持ち上げられ、籠に大量の魚が流し込まれて行く。
その光景を眺めながらカメラのフラッシュを光らせているのは、他国から旅行に来た観光客だろう。
なんとなくそれを目で追っていたレオンだったが、足が桟橋へと近付いている事に気付き、前を歩いているジェクトへと追い付く。


「ジェクトさん、あの……俺に何か用事が?」
「ん……ああ。用事って言うか、その、頼み事がな」
「頼み?」


 ジェクトの言葉を鸚鵡返ししたレオンの傍らで、ぎゅ、と小さな手がレオンの手を強く握る。
その小さな手が微かに震えている事を、レオンは感じ取っていた。

 ジェクトは、俯いた息子を見下ろしていた。
それから、小さな手が握って離さない少年の手を見て、レオンの顔へと向き合う。


「これから俺はザナルカンドに帰るつもりだ」
「……ティーダは、連れて帰らないんですか」


 こんなに父を求めているのに────レオンは小さな手を握り締めて思う。
この手が本当に求めているのも、自分ではなくて、きっと目の前の父の手なのに、と。

 訴えるように見上げる蒼灰色を見下ろしながら、ジェクトは一つ溜息を吐く。


「それなんだけどよ。こいつが、お前と一緒にいたいって言うんだよ」
「────俺?」


 思いも寄らないジェクトの言葉に、レオンは目を丸くした。
背後でイデアとシドが当惑したように溜息を漏らすのが聞こえる。

 ジェクトは「いや、な」と一拍置いて、


「聞いたんだよ。俺と一緒にザナルカンドに帰るか、バラムにいるかって。バラムにいるなら、バラムガーデンで住む事にもなるってよ。そうしたら、お前の所が良いって言い出してな……」


 これには、流石にジェクトも頭を悩ませた。
レオンが幼い妹弟と三人だけでバラムの街で過ごしている事は知っている。
レオンはそれ程苦ではないと感じているが、楽な事ばかりではないのは確かだし、突然赤の他人である子供の面倒を見てくれと言われても、そう簡単に頷ける話ではあるまい。

 呆然と立ち尽くすレオンに、ジェクトはがしがしと頭を掻きながら溜息を吐く。
ティーダと繋いでいた手が離れたかと思うと、ぎゅ、とレオンの腰にしがみ付く温もり。


「イデアさんやシドのじいさんの所が嫌って言ってる訳じゃないんだが……多分、お前の事が気に入ったんだろうな。お前と一緒にいたいって聞かねえんだ」
「…ティーダ、」
「………」


 レオンが咎めるように子供の名を呼べば、ティーダはレオンの腰に顔を埋めてしがみ付く。
そんなティーダに、レオンは困惑した表情で、どうすれば良いのか判らずに二人の育て親を見る。


「ママ先生、シド先生…」


 イデアとシドも、レオン同様に困惑した表情を浮かべている。
レオンの事情を知っているからこそ、イデア達も、ティーダの希望に容易く頷く事は出来ない。

 しかし、小さな子供には周囲の事情など判る筈もなく、自分の心の向くままに、見知らぬ土地で優しく接してくれた人に心の拠り所を求めている。

 ぎゅう、と精一杯の力で縋り付く子供を見下ろして、レオンはゆっくりと息を吐いた。
溜息を混じらせたその音に、ティーダの肩が微かに震えて、いやいやをするようにレオンの腰に顔を押し付ける。
そっと小さな肩を押して体を離そうとすれば、ティーダは更に力を入れて、レオンにしがみ付く。


「……ティーダ、」
「………」
「ティーダ、お父さんと一緒にいたいんだろう?」


 普段はとても素直なのに、父を前にすると何故か天邪鬼が顔を出すらしいティーダの代わりに、レオンは言った。
ティーダはレオンの言葉に、ふるふると首を横に振ったが、レオンはティーダがどんな想いでバラムで過ごしていたのか知っている。
自分の手を握り締めながら、青の瞳が何処に向いていたのか、レオンは判っていた。


「ティーダ」
「………」
「…ちゃんと言わないと、後で後悔するぞ」


 促すように強い口調で言うレオンだが、ティーダは顔を上げようとしない。
きっとこんな調子で、イデアやシドが何を言っても応えようとしなかったのだろう。

 頑なな態度を見せるティーダに、ジェクトが弱り切った顔で言った。


「バラムガーデンにいりゃあ、レオンやダチとも逢えるし、どうしてもレオンの所にいなきゃいけない訳でもねえし。レオンにだって都合があるんだから、困らせんなって言ってんだけどよ……」


 ジェクトの言葉に、問題は其処じゃない、とレオンは思った。
しかし、ティーダ自身がバラムに残りたいと父親に言ってしまった以上、ティーダが自分で自分の言葉を撤回しない限り、ジェクトはティーダをバラムに置いて行くだろう。

 レオンはジェクトに断りを入れて、ティーダの手を引いた。
父の前で素直になれない子供に、父の前で自分の気持ちに正直になれと言うのは難しいのだろう。
ザナルカンド行の船の出航には、まだ30分程度の時間があったので、レオンはその間にティーダを説得する事にした。

 桟橋にほど近い場所に設置されたベンチにティーダを座らせ、レオンはティーダの前で膝を折った。
目線を合わせてみれば、傍らの海を映し出したようなマリンブルーがレオンを見る。

 レオンは努めて静かな声で訊ねた。


「ティーダ、どうしてお父さんと一緒に行かないんだ?」
「……」
「お父さんと一緒にいたいんだろ?」
「……っ」


 ふるふる、とティーダは首を横に振った。
唇を噛んで否定する表情が、ティーダのその答えが嘘だと訴えている。


「ティーダ。自分の気持ちに嘘を吐いていたら、後できっと後悔するぞ。言いたい事は、ちゃんと声に出して言わないと、伝わらないんだ」
「………」
「ジェクトさんだって、本当はお前と一緒にいたいんだ。だから、どうしたいって聞いてくれたんだ。此処でちゃんと言わなかったら、ずっと淋しい思いをする事になるかも知れないぞ」


 レオンは、丸い膝小僧の上に置かれたティーダの手を握った。
いつも握っている弟の手と殆ど変らない大きさだ。
その小さな手に、寂しい思いをさせるのが嫌で、レオンは出来る限り妹弟の傍にいようと決めたのだ。
だから、ティーダにも寂しい思いをさせたくない、して欲しくないと思う。

 しかし、ティーダは頑なに首を横に振るばかりだった。
そんな子供に、どうして、とレオンが言葉なく問えば、ティーダは小さな拳を握り締めて言った。


「……だって……父さんは、おれのこと…いらないんだもん……」


 じわ、と丸い大きな瞳に、大粒の涙を浮かべながら、ティーダは言った。


「どうして、そんな事を思うんだ。ジェクトさんがお前を要らないなんて、そう言ったのか?」
「…言ってないけど。……わかるもん」
「そんな事はない。ジェクトさんは、お前の事が凄く大事だって言ってたよ。前にお前を置いてザナルカンドに戻るって言ったのも、お前の事が大切だったから、そうしようって思っただけで。お前の事が要らないなんて、そんな事、ある訳ない」
「わかるもん!」


 レオンの言葉を遮るように、ティーダが声を大きくして叫んだ。
途端、ぽろぽろと丸い頬を大粒の雫が溢れて落ちる。


「わかるもん。父さん、迎えに来てくれないし、いじわるするし、おれのことキライなんだ」
「ティーダ、それは───」
「ひっ、ひっく…えっ、うえっ、…うえぇえええん……!」


 ティーダが父に対して素直になれないように、ジェクトも息子に対して素直になれない。
乱暴な手付きで触れたり、意地の悪い事を言って息子を泣かせてしまうのも、優しく接してやれない不器用さの表れだ。
だがレオンがそれを理解できたのも、ティーダが傍にいいない時、息子を探して弱り切った顔をしたジェクトを見たからだ。
同じ顔を彼が息子に見せない限り、幼い子供が意地悪の裏側に隠れた父の愛情を感じ取るのは難しい。

 自分の事が嫌いな父親と一緒にいたくない、とティーダは言った。
それは誤解だとレオンが何度宥めても、ティーダは首を横に振る。
まだ幼いティーダにとって、自分の目で自分で感じたものだけが真実なのだから、レオンの言葉が信じられないのも無理はなかった。


「それ、にっ…あっち、帰って、も…っ……とうさ、いっしょ、いられ、ないっ……!」


 ジェクトはブリッツボールを続ける為にザナルカンドに帰る。
ブリッツボールの選手だからこそ、ジェクトが家に殆ど帰らずにいた事を、ティーダは知っている。
バラムに残っても、ザナルカンドに帰っても、ティーダは父と一緒にはいられない。


「ひっ、ひっく、ひっく…え、う…ふぇっ、えっ、」
「ティーダ、」
「あぅ、あっ、うわぁああああん!」


 目の前の少年に、ティーダは抱き着いた。
目一杯の力でしがみ付き、わんわんと泣きじゃくるティーダを、レオンは抱き締め返す。
背中をやんわりと包んでくれる温もりに、ティーダの涙腺が益々緩んだ。


「レオ、レオンっ…レオンん……!」
「……うん」
「おれっ、レオンっ…レオンがいい…っ!レオンといっしょにいたいぃ……!」


 その言葉が、“一緒にいて”と訴えているのだと言う事に、レオンは気付いていた。

 ティーダは、父の代わりに傍にいてくれる人を求めている。
嘗て母親がそうしてくれていたように、自分を守り慈しんでくれる人を欲しがっていた。
本来なら、その役目は父親にある。
けれど、自分の事を嫌っていると思っている父親が、自分が欲しがるものをくれるとは思えない。

 どうして、同じ言葉が父親に言えないのだろう。
全身全霊で縋り、訴える、小さな体を抱き締め返して、レオンは思う。
“嫌われている”と思い込んでいるからだろうか。
父親に“嫌われた”と思った記憶がないレオンには、ティーダの気持ちはよく判らなかった。

 ボォーッ……と客船の汽笛の音が鳴る。
レオンが顔を上げれば、港は到着した時よりも僅かに空いていて、旅行客は皆船に乗り込んだようだった。

 レオンはティーダを抱き上げて、ジェクト達の下へと戻る。
少年に抱き上げられ、泣きじゃくるティーダを見て、ジェクトは頭を撫でようとして、触れる前に手を止める。
彷徨った手は息子に届く事はなく、自分の髪を乱暴に掻き回しただけで、重力に従って下ろされた。
赤い瞳は息子から逸らされて、少年へと向けられる。


「最後まで手間ぁかけさせて悪いな」
「……いえ」
「こいつはお前と一緒にいたいって言ってるけど、無理にお前が面倒見る事はねえよ。シドさん達ともその辺の事は話したから」


 レオンがシドとイデアを見ると、二人は小さく頷いた。
無理をしなくて良い、と言う声が聞こえて、レオンも頷く。

 ぐす、とティーダが鼻を啜って、そろそろと顔を上げる。


「ティーダ。ジェクトさん、もう行っちゃうぞ」
「……」
「本当にバラムに残るのか?今ならまだ、一緒に行けるぞ」


 出航手続が出来る時間は、もう幾らもない。
だが、此処から走って手続き所まで行けば、まだ間に合う筈だ。
ティーダが自分の居場所を選ぶには、今を置いて他にはない。

 しかし、ティーダは首を横に振った。
レオンの首に齧り付くように縋り、れおんがいい、と小さな声。

 レオンに縋るティーダの頭を、イデアの白い手が撫でた。
泣き腫らして真っ赤になったティーダの目元を、イデアはハンカチで優しく拭いてやる。
父にされている時と違い、ティーダはイデアの手を振り払う事なく、じっと大人しくイデアの手を甘受している。
それを、ジェクトが何処か淋しげな瞳で見詰めた後、成り行きをじっと見守っているシドに向き直った。


「じゃ、こいつの事、頼みます」
「判りました。でも、ジェクトさんもたまにはティーダ君に顔を見せてあげて下さい。電話もいつでも取り次ぎしますから」
「ああ、そうするよ。───お前も、駄々捏ねて迷惑かけるんじゃねえぞ」


 そう言って、ジェクトは肩に提げていた鞄を持ち直し、背を向けた。
桟橋へと向かって歩く父の背中を、青の瞳が追い駆ける。

 レオンはティーダを地面に下ろした。
ティーダがレオンを見上げれば、柔らかい青灰色の瞳が自分を見詰めていて、ティーダの目にじわりと涙が滲む。


「言いたい事、ないのか?あるのなら、早く行かないと間に合わなくなるぞ」


 一緒にいる事が出来なくても、伝えたい言葉はあるんじゃないのか。
そう言うレオンに、ティーダはきゅうと唇を噛んで俯いた後、ぱっと踵を返して走り出した。

 人ごみの中に紛れようとした父に、ティーダは追い付くと、地面を蹴って大きな背中に飛び付いた。
突進するような勢いで飛び付いて来た小さな塊に、ジェクトが僅かに蹈鞴を踏む。
何が、と思って体を捻れば、小さな生き物が────息子がぎゅうと縋り付いていて。


「なんだ。やっぱ淋しくなったか?」
「……っ!」


 ぎゅう、とジェクトのズボンの端を握る小さな手。
ジェクトはそれを見下ろして、ぐしゃり、と縋る息子の頭を撫でた。


「……、」
「ん?」


 縋りついた息子から、微かに声が漏れたのが聞こえた。
けれど、それは明確な言の葉として聞き取るには小さ過ぎて、ジェクトは腰を曲げて息子の顔を覗き込む。


「なんだって?」
「……」
「ンな小せえ声じゃ聞こえねえよ」


 大きな手が息子の頭に乗せられた。
ティーダはぎゅうと口を真一文字に引き結んで、ジェクトのズボンを握る手に力を込める。
硬いジーンズ生地にくっきりと皺が寄る程、ティーダは強い力で握り締めていた。


「……い」
「あん?」
「……らい」
「聞こえねえな」


 ぐいぐいと、大きな手がティーダの頭を揺らす。
ティーダはズボンを握っていた手を放し、丸太のように太い父の腕を掴まえて、顔を上げた。


「ジェクトなんか、だいっきらい!!」


 弾けるように叫んで、ティーダは父の手を振り払った。
踵を返して走ったティーダは、見守っていたレオンに駆け寄り、抱き着いて隠れるように背中へと逃げる。


「ティーダ、お前」
「いいよ。慣れてっからな」


 咎めようとしたレオンを、ジェクトが諌める。
でも、とレオンがジェクトを見れば、彼は眉尻を下げ、寂しげな色をした瞳で笑っていた。

 ジェクトはレオン達に歩み寄ると、レオンの影に隠れているティーダを見下ろした。
ティーダはその視線から逃げるように、身を縮こまらせてレオンにしがみ付く。

 くしゃ、とジェクトの手がティーダの頭を撫でた。


「じゃあな」
「……」
「一生の別れって訳でもねえけどな」
「……」
「まあ、お前は俺の面なんか見たくもねえのかも知れんが」


 ジェクトの言葉を、ティーダは肯定も否定もしない。
彼の声が聞こえているのかいないのか、ティーダはレオンにしがみついたまま、じっと俯いたまま動かない。

 良いのか、とレオンはティーダに言った。
もっと別の、伝えたい言葉や想いがあるんじゃないのか、と。
しかし、ティーダは頑なに口を噤んだまま、それ以上何も言おうとしなかった。

 ジェクトの手がティーダから離れると、レオンはしがみついた子供の肩が泣くのを堪えるように震えているのを感じ取った。
やっぱり言いたい事があるんじゃないのか、とレオンは思うけれど、ティーダはもう父を見ようともしない。


「じゃあな。こいつの事、頼むわ」
「……ジェクトさん、」
「お前にも色々世話になった。あんまり気持ち汲んでやれなくて、悪かったな」


 ぐしゃり、とレオンのダークブラウンの髪を大きな手が撫でる。
その大きな手は、レオンが知っている父のものよりも遥かに大きいものだったけれど、其処から伝わる温もりは、記憶の中にある温もりと変わらない。
父親の手だ、と感じたレオンは、胸の奥で忘れかけていた空虚が一瞬だけ疼いたのを感じた。

 ジェクトは、イデアとシドに頭を下げると、もう一度レオン達に背を向けた。
ティーダが顔を上げて父の背中を見るけれど、足はもう動かない。
遠ざかって行く父を見詰めながら、ティーダはひっく、ひっく、と小さくしゃっくりを漏らして、レオンに縋る。

 人気が少なくなった港の向こう、桟橋からザナルカンド行の船が動き始める。
もう追い駆けても、ティーダがジェクトに追い付く事はない。


「ティーダ……」
「…えっ…ひっく…ふ、ぅ……っ」


 ぼろぼろと大粒の涙を流すティーダ。
レオンがその金色の髪を撫でようとすると、ティーダは嫌がるように頭を振って、レオンに強い力でしがみついた。
レオンはティーダの頭を撫でる事を諦めて、震える背中をぽんぽんと撫でて宥めてやる。

 船の旋回を知らせる汽笛が鳴り響き、消えて行く。
友や家族との離別を惜しむ人々の声が、港のあちこちから聞こえていた。





 遠く離れた船影が、水平線の向こうへと見えなくなった後、レオンはティーダをベンチへ連れて行った。
ぐす、ぐす、と泣きじゃくるティーダの顔を、イデアが優しく拭いてやる。
その傍らで、シドがレオンに問い掛けた。


「レオン。ティーダ君は、貴方と一緒にいたいと言っているのですが……どうしますか」


 レオンと一緒にいたいと言うティーダの気持ちも、ティーダを放って置けないと言うレオンの気持ちも、シドは判っている。
しかし、レオンが今直ぐにティーダを引き取る訳にも行かない。

 迷うように沈黙するレオンの手を、くい、と小さな手が引いた。
イデアの隣に座っているティーダが、じっとレオンを見上げている。
繋いだ手が、見上げる海の青が、何を求めているのかレオンには直ぐに判ったし、それを振り解ける程、レオンは冷たくはなれない。


「…今晩は、うちで預かろうと思います。明日からの事は、まだちょっと判らないけど。スコールとエルにも話をしないといけないし」


 スコールとエルオーネは育ち盛りだし、そしてレオン自身もまだまだ成長過渡期の最中である。
レオンがアルバイトをして、イデアとシドからも時折援助を貰っていても、生活は決して裕福なものではない。
其処に、まだ7歳の子供とは言え、家族が一人増えるとなると、妹弟達に何も言わずにレオン一人で決める事は出来なかった。

 レオンの言葉に、そうですね、とシドは眉尻を下げて頷いた。
今のティーダからレオンを取り上げるのは、きっととても酷な事だ。


「では、今日はティーダ君はレオンの所にお泊りですね」
「……いいの?」
「ああ。エルとスコールも一緒だぞ」


 シドとレオンの言葉に、青い瞳がきらきらと輝いた。
ティーダは真っ赤に晴れた目許をごしごしと擦って、もう一度レオンに抱き着く。

 じゃれつくティーダを抱き締め返すレオンに、イデアが言った。


「レオン、無理はしないでね。ティーダ君の事は、私達もジェクトさんから頼まれているから」
「はい」
「ティーダ君。明日でも、明後日でも良いわ。バラムガーデンに来た時に、レオンと一緒に私達の所にいらっしゃい。美味しいクッキーとジュースを用意して待ってるわ」
「うん!」


 泣いたカラスがもう笑った、と言うのだろうか。
しかし、イデアの言葉に無邪気に笑うティーダの眦は、涙の痕を残して赤く腫れている。

 ティーダはレオンの手を引いて走り出そうとした。
おい、と慌てるレオンに、ティーダはぐいぐいと繋いだ手を引っ張り、


「早く行こう。オレ、スコールと遊びたい」


 そう言って手を引くティーダに、判ったよ、とレオンは苦笑する。
レオンの家までの道など判らないだろうに、まるで待ち遠しそうに、ティーダはレオンの前を歩く。
曲がり道を真っ直ぐ行こうとするティーダを制して、こっちだ、とレオンはティーダの手を引いた。

 バス停へと続く道の手前で、レオンはイデアとシドと別れた。
ティーダは二人に「ばいばい」と元気の良い声で手を振って、イデアとシドも笑顔で手を振り返す。
そうしている所を見ると、とても素直な子供に見えるのに、ティーダは父に対しては最後まで言いたい事を言わないままだった。

 家のある通りまで来ると、エルオーネとスコールが庭先に立っていた。
中々帰って来ない兄の事が気になって、迎えに出ていたのだろう。
二人は兄の姿を見付けると、その傍らに小さな子供がいる事に気付いて、ことんと首を傾げる。
レオンの手を捉まえていた小さな手が離れ、弟に無邪気に飛び付いて行くティーダを見ながら、さて何処からどう話そう────とレオンは考えるのだった。





お互いに傍にいたい、一緒にいて欲しいと思っている筈なのに、擦れ違い。
何か一言でも素直に気持ちが伝えられたら、何かが変わっていたかも知れないのに。

これから、ティーダがレオン達と一緒に暮らすようになります。