背筋を真っ直ぐ


 ジェクトがブリッツボールのシーズンオフにならなければ、殆どザナルカンドに滞在している事もあって、平時のティーダはほぼ一人暮らしであった。
一人暮らしと言うのは気侭なものだが、存外と面倒な事も多い。
寝起きは自分の思う通りにすれば良いので、明日の朝に部活練習があっても、夜中まで起きてゲームをしていて怒られる事はない。
しかし、朝晩の食事は自分で作らなければならないし、後片付けを手伝ってくれる人もいない。
寮生ならば、食堂に行けば朝昼晩を賄って貰える───金銭的な負担はあるが───し、勿論、後片付けの必要もない。

 だが、ティーダが一人暮らしにあって最も幸いと思っている事は、課題を放置していても叱る人がいない事だ。
同時に最も辛いと思っている事は、放置しても叱る人がいない代わり、課題をするように促す人もいない為、溜りに溜めてしまう事がしょっちゅう起きてしまうと言う事。
いざとなれば隣家の幼馴染の兄弟に助けを請う事も出来るが、毎回のように頼るティーダに、呆れた視線を向けられる事も多い(主に幼馴染から)。
また、幼馴染も自分の課題があるし、兄は仕事で不在である事も多い為、毎日のようにティーダを気遣う余裕がある訳でもない。

 そんなティーダの下に、数ヶ月に一度、保護者代わり兼お目付け役がやって来る。
それは殆ど前置きもなく、抜き打ちチェックの如くタイミングで現れるのであった。





 自分の家から持ち込んだゲームを、幼馴染宅のリビングで楽しんでいるティーダを、スコールは眺めていた。
今日は日曜日で、時刻は昼間、全く平和でのんびりとした休日である。
テレビゲームの展開を眺めているだけのスコールが、ふぁ、と欠伸を漏らしたのも当然だろう。

 カチャカチャと忙しなくコントローラーを操作する音が続き、テレビからはぼーん、どーん、と爆発音が響いている。
ティーダが熱中しているのは、一週間前に発売された、新作の弾幕シューティングゲームだった。
画面を埋め尽くすビームや爆弾の嵐を、ティーダはミリ単位の操作で自機を操って回避し、撒き散らされるように飛来する敵機を打ち落としている。
カードゲーム以外は殆ど興味がないスコールには、見ているだけで目が痛くなる光景だ。
ティーダは目が疲れたりしないのだろうか、と思いつつ、金色の髪の後頭部を眺めていると、玄関のチャイムが鳴った。

 スコールは画面を眺めていた所為で、チカチカとする目を擦りながら、玄関に向かった。
チャイムが鳴ったと言う事は、仕事に行っていた兄が帰って来た訳ではないだろう。
ジェクトは強化合宿の真っ最中で、終わるのは来週の中頃だと聞いていたから、彼でもない。
スコールの家にやって来る客人は少ないので、後は暇を持て余した級友二名のどちらかか───と思っていたのだが、それも違った。

 玄関扉を開けたスコールが見たのは、赤いコートを着、黒いサングラスをかけた男。
ジェクトとは違う意味で強面に見える面立ちを、黒いサングラスと、目元の大きな傷が更に厳つく見せている。
スコールは幼い頃、この顔を見る度に泣いてしまったものだったが、今ではすっかり見慣れた顔だ。

 男の名は、アーロン。
ティーダの父親であるジェクトと旧知の友であり、滅多に息子の下に帰って来ないジェクトに代わり、ティーダの保護監督を任されている人物だった。


「邪魔をするぞ、スコール。ティーダはいるか」
「……ん」


 手短な挨拶の後、アーロンは目的の人物の所在を問う。
スコールも挨拶には頷くだけで返し、玄関扉を大きく開けて、リビングのソファ前でテレビゲームに熱中しているティーダを見せた。
ティーダは保護監督役の来訪に気付かず、シューティングゲームに夢中になっている。

 スコールはアーロンを招き入れた後、キッチンに入ってコーヒーを作り始めた。
リビングの方から、幼馴染と保護監督の会話が聞こえて来る。


「ティーダ」
「───うえっ!?」


 不意打ちを食らったティーダの引っ繰り返った声が響く。
直後、ぼぼーん、と爆発音が鳴って、「あああああ!」と嘆くティーダの声があった。


「一月振りだな」
「あ、う、うん。……新スコア行けたトコだったのに……」
「変わりはないか」
「うん」
「ジェクトとも変わりないようだな」
「……それは俺の所為じゃないっス」


 ティーダの声は、判り易く拗ねていた。
ジェクトに関する話題となると、ティーダのこの反応はいつもの事だ。
保護監督役であるアーロンも見慣れたものであるし、少年の反応の鈍さの理由が父親本人にある事も判っているので、咎めはしない。

 スコールはブラックコーヒーを二つ、ミルクと砂糖を一杯ずつ入れたコーヒーを一つ用意して、トレイに乗せてリビングに戻る。
アーロンは、ソファ前のカーペットに座っていたティーダの傍らで、立ったままティーダを見下ろしていた。
大柄なジェクト程ではないが、アーロンもそれなりに長身で肉付きが良いので、ああして見下ろされると中々威圧感がある。
傍から見ているスコールでも、アーロンの威圧感を感じるのだから、見下ろされているティーダは尚更だろう。
ティーダはそろそろと、小動物が肉食獣を警戒するような緩慢さで体を伸ばし、コンティニュー画面が続いているゲームの電源を落とした。

 スコールは三人分のコーヒーを、窓辺の食卓用テーブルに置いた。


「アーロン、コーヒー…」
「ああ」
「スコール、俺のは?」
「入れた」
「砂糖とミルクは?」
「入れた。これだ」


 一つだけ色の違うコーヒーのカップを指差してやれば、ティーダはいそいそとテーブルに向かう。
その後を追うように、アーロンもゆっくりとした歩調でテーブルへ赴きながら、来ていた赤のコートを脱ぐ。

 スコールとティーダが並んで座り、ティーダと向かい合う位置にアーロンが座る。
アーロンは黒のサングラスを外すと、窓辺に置かれた写真立ての横にそれを置き、コーヒーを一口飲んだ後、


「レオンは仕事か」
「……ん」
「スピラに行くって言ってたけど。アーロン、逢ってない?」
「今回はキーリカに行くって言ってたから、ベベルにいるアーロンとは逢わないだろ」
「キーリカって何処だっけ……」
「スピラ大陸南部にある島」
「それビサイドじゃなかった?」
「ビサイドは最南端。ビサイドとスピラ大陸の間にあるのが、キーリカ諸島」


 スコールの説明に、ティーダは答えを確認するようにアーロンを見た。
アーロンは何も言わない。
スコールの説明で合っている、と言う事だ。

 その様子を見ていたアーロンは、一つ溜息を吐き、


「その調子だと、お前の成績も変わらんようだな」
「んぐっ」


 ごふっ、とティーダがコーヒーを噴き出す。
それを見たスコールが眉間に皺を寄せ、ティッシュを取ってテーブルを拭いた。

 ティーダは手に持ったコーヒーカップをかちゃかちゃと震わせながら、引き攣った笑顔を浮かべる。


「そそそそそ、そんな事、ないっスよ。この間のテストだって、今回は赤点取らなかったし…」
「数学は赤点まで一点差だったけどな」
「スコール!」


 バラすなよ!と噛み付いて来るティーダを、スコールは明後日の方向を向いて無視した。

 ティーダがテスト結果を報告する相手として、一番恐れているのは、父でも、面倒を見てくれる兄代わりの青年でもなく、今目の前にいる男に他ならない。
いつも低空飛行を続けている成績について、父や兄から注意される事は儘ある事だが、ジェクトとは喧嘩になって有耶無耶になり、レオンは怒る事自体が余り得意ではないので、釘を刺して終わる事が多い。
レオンの場合、その後はティーダの苦手分野克服に付き合ってくれるので、ティーダにとっては救いの手とも言える。
が、保護監督役のこの男───アーロン相手では、そう簡単に赦しては貰えない。

 アーロンは、何故こんな人がジェクトと旧知の友人なのだろう、と息子達が首を傾げる程、厳格な男である。
声を荒げる事こそないものの、容姿からして威厳と風格を感じさせ、幼い日のスコールとティーダは彼の不興を買う事は絶対にするまいと恐れ慄いていた程だ。
ジェクト曰く、これでも現在は「丸くなった」らしいのだが、厳しい所は厳しく締める事は変わりないようで、シーズンオフになると堕落した生活を送るジェクトも、よく説教を貰っている。
スコールとティーダは、彼に叱られた後のジェクトが、驚くほどに萎れているのを見て───その時ジェクトは、自身でも追々感じていた息子への負い目等、色々と痛い所を突かれた為、常以上に凹んでいたと言う背景があるのだが───、アーロンと言う人物が如何に強い力を持っているかを目の当たりにした気分であった。

 アーロンは、自分にも他人にも厳しい人物だ。
それは友人の息子に対しても変わりなく、と言うよりも、だからこそ尚の事、彼はティーダに厳しく接している。


「ティーダ。テストの答案を見せてみろ」
「え」


 今?とティーダが顔を引き攣らせると、黒の中で鋭い光を持つ瞳がティーダに向けられた。
見ているだけなのに、睨まれているような気がするのは、少年達の気の所為ではあるまい。

 ティーダは溜息を吐きながら席を立ち、隣の自分の家へと向かった。
よろよろと覚束ない足取りになっているティーダは、この後、自分の身に降りかかる出来事を凡そ予測出来ているのだろう。

 隣家までは歩いて十秒、ティーダが戻って来るまで一分もかかるまい。
だが、その一分弱の時間が、この場に取り残されたスコールには中々苦痛であった。
スコールはコーヒーで口元を隠しながら、早く戻って来い、と胸中でティーダを急かす。


(どうも昔から苦手なんだ……アーロン(この人)は)


 幼い頃、初めてアーロンと出逢った日、スコールは傷の入った顔や険しい表情を浮かべた彼を見て、怖い人だと思って泣いた。
アーロンは泣きじゃくるスコールの前で立ち尽くし、じっと見下ろしていただけで、慰める事もしなかった。
後でジェクトから聞いた話では、子供の相手などまるでした事がなかった為、泣きじゃくる子供の扱いに困惑していたのだろうと言う事だが、そんな話を聞いた頃には、既にスコールからアーロンへの苦手意識は根強いものになっていた。

 幼い頃は、ただただ強面の顔付が怖かった。
ジェクトのように表情豊かではないし、不器用なスキンシップもなく、ただ見ているだけ。
人見知りが激しく、怖がりだった子供には、中々馴染めない人物であった。
今では彼の顔を見て怖がる事はないが、その代わり、彼の持つ厳格な雰囲気、それに見合った立ち居振る舞い、そして真っ直ぐに人を見る目が、スコールの苦手意識に繋がっている。

 スコールはコーヒーを飲み干すと、空になったカップを手に席を立った。


「コーヒー、お代わり入れるけど。あんたは……」


 要るか、と訊ねるスコールに対し、アーロンは無言で空になったコーヒーカップを差し出した。
要、と言う事だ。
スコールはトレイにカップを二つ乗せて、逃げるように早足でキッチンに入る。

 サーバーに残していたコーヒーを温め直していると、玄関のドアが開く音がした。
隣家からティーダが戻って来たのだ。


「い、一応、全部持って来たっス」
「ああ。座れ。見せてみろ」
「……はい」


 スコールが淹れ直したコーヒーを手にリビングに戻ると、アーロンはテーブルに並べられた答案用紙をじっと睨み、その正面でティーダが判決を待つ被告人のような顔で座っていた。
あの状態の二人に近付きたくない、とスコールは思ったが、幼馴染が横目で縋る瞳で見詰めるので、仕方なく同席する。

 アーロンはしばらくの間、答案用紙を睨み続けていた。
時間にすれば三分もないような、短い時間だったが、スコールの体感時間はずっと長かった。
隣にいるティーダが、脂汗を滲ませながら、保護者からの反応を戦々恐々と待っていたので、余計に長く感じられる。


「……確かに、いつも程酷い点数ではないな」
「っスよね!俺、今回は頑張ったんスよ!」


 ようやくのアーロンの反応を聞いて、ティーダが弾んだ声を上げる。


「今回のテストは、レオンにもスコールにも頼らないで、俺一人で頑張ったんスよ!な、スコール!」
「あ、ああ……まあ、確かに、俺は面倒見てなかったな……レオンも仕事でいなかったし」


 先日のテストの時、レオンは長期任務でテスト開けまで帰る事が出来ず、弟達の勉強の面倒を見る事が出来なかった。
スコールも、広いテスト範囲を復習し直すのに手一杯で、いつものようにティーダやヴァンの勉強に付き合う事もないまま、テスト当日を迎えていた。

 正直な所、ティーダは何度もスコールに泣き付きたかったが、今回はスコールも必死だった。
多くの教科で苦手分野が範囲内に入ってしまった事で、スコールも余裕を失くしていたのだ。
自分の面倒を見た事で、スコールまで悪い結果を及ぼさせるのが嫌で、ティーダは一念発起で頑張ったのである。
その末に、───赤点ギリギリではあるが───それなりの結果が出た事を、ティーダは喜んでいた。

 アーロンは並べていた答案用紙をまとめると、ティーダに返す。
受け取るティーダの表情は、先程までの重苦しかったものと違い、一転して嬉しそうだ。
テスト結果は決して捗々しいものではないが、一先ず叱られなかった事に安堵しているのだ。


「次のテストで平均点以上を取れば、特に言う事もないんだがな」
「ど、努力するっス」
「その言葉、忘れるなよ」
「………あは、は……」


 釘を刺すように低い声で言われ、ティーダは顔を引き攣らせた。
その隣で、無理だろうな、とスコールも溜息を漏らす。

 そんな少年達の胸中を読んだかのように、アーロンは言った。


「一人で勉強をして、この結果が出せたんだ。同じ事を二度やって出来ないと言う話にはならない」
「うー……」
「お前はやれば出来る。言い訳をしないで集中すれば、な」
「……うん……」


 期待とプレッシャーと、アーロンの言葉には両方が含まれている。
ティーダの返事はなんとも曖昧な意思が滲んでいるが、アーロンはそれ以上ティーダを発奮しようとはしなかった。

 ただし、その代わり。


「今回に関しては、よくやった、と言うべきだな」
「マジっスか。良かったー……」
「それで、土日を挟んでいるんだ、ガーデンから課題くらいは出ているだろう。それは終わっているのか?」


 嘘を許さない眼が少年を睨む。
ぎく、としたようにティーダが固まれば、黒の瞳は隣に座っているスコールへと向けられる。
スコールがなんとも気まずい表情で、逃げるように目を逸らした事で、アーロンはやれやれと言わんばかりの溜息を吐くのであった。




 いつもは根を上げるのが早いティーダだが、アーロンが監督している時だけは、何も言わずに勉強に集中している。
何も言えない、と言った方が正しいのかも知れない。
何せ、アーロンは勉強中のティーダの前に座り、正しく見張る姿勢で、問題集に齧り付くティーダを見ているのだ。
無言の圧力を放つあの眼の前では、ティーダも黙って勉強に集中するしかない。

 スコールはと言えば、苦手意識を持っている相手といつまでも向き合っていられる訳もなく、夕飯の準備を口実に、キッチンに逃げ込んでいた。
席を外す時、ティーダが無言で「助けて」と訴えていた事には気付いていたが、スコールは見ない振りをした。


(……ティーダには悪いけど、やっぱりあの人は苦手なんだ)


 挽肉にパン粉と卵を入れて混ぜながら、スコールは溜息を吐く。

 あの深い黒々とした瞳が苦手だ。
アーロンは真っ直ぐに目を見るから、スコールはあの目に自分の全てが暴かれてしまうような気がする。
スコールが他人の視線に対し、そうした意識を持つのは、アーロン相手に限った事ではなかったが、アーロンに対しては尚更その感覚が強かった。

 ついでにスコールは、アーロンに対して、なんだか説教臭そうに見える、と言う印象を持っている。
これは恐らく、幼い頃からジェクトの代わりにティーダの保護者を勤める者として、ティーダを厳しく躾ける姿を見ていたからだろう。
暴力染みた躾や、悪戯に声を荒げる叱り方を彼がした事はなかったが、優しく諭すレオンや、叱った後に宥めてくれるエルオーネと違い、アーロンは厳しい時は只管厳しかった。
そうした相手を余り見ていなかっただけに、スコールにとってのアーロンと言う人物は、尚の事“怖い人”と言う印象で残ってしまったのだ。

 ────でも、と、スコールは挽肉を混ぜる手を留める。
耳をすませば、リビングからティーダとアーロンの声が聞こえて来る。


「なー、アーロン。親父、俺の事何か言ってた?だから来た?」
「何故そう思う」
「最近のアーロン、あんまり月一で来ないじゃん。先月も来たのに、今月も来たって事は、親父が余計な事言ったからじゃないかって思って」
「……連絡は、あった。お前の様子を見に行け、とな」
「やっぱり。何してくれてんだ、あの親父」
「俺が来るのが不満か?」
「いやいや、滅相もないっス!」
「……ふん」


 大袈裟なティーダの声に、アーロンの反応は鈍いものだった。
気を悪くしたとも、していないとも言えない、そんな反応だ。


「なんか親父の奴、しょっちゅうアーロンに電話してるみだいだけど。アーロン、あの親父と何の話してるんスか?」
「大した話はしていない」
「そうだろうけどー。どうせ俺の悪口でも言ってんだろうな…」
「……お前の話をしている事は、確かだな」
「何て言ってんの?」
「本人から聞け」
「言う訳ないだろ。ま、いいや。どうせ泣き虫とかガキとか、そんな事ばっかり言ってんだろうし」
「………」
「なんだよ、その露骨な溜息」
「呆れただけだ」
「何に?」
「………」
「ダンマリかよ」
「早く課題をやれ」
「はーい」


 ちぇっ、と言うティーダの拗ねた声を最後に、リビングから二人の会話は聞こえなくなった。
時折、課題に頭を抱えるティーダの唸る声が聞こえて来る程度で、後は静かなものだ。

 スコールは、中断していた調理の手を再開させた。
パン粉と卵を練り込んだ挽肉を摘んで丸め、掌サイズになるよう、空気を抜きながら形を整える。
今日の夕飯のメニューは、ティーダのリクエストでハンバーグだ。
形を整え終えたハンバーグは、大中小がそれぞれ一つずつとなり、大きいものから順に、ティーダ、アーロン、スコールのものになる。

 ハンバーグは後は焼くだけなので、その前にサラダを作って置こうと、スコールは水道で手を洗う。
冷蔵庫から半玉のキャベツを取り出し、簡単に千切りにしようと包丁を持った所で、


「邪魔をするぞ」
「!」


 後ろから聞こえた低い声に、思わずスコールの肩が跳ねた。
平静を装って振り返れば、アーロンが空になったコーヒーカップを持って立っていた。


「あ……コーヒーなら、其処に」
「ああ」
「温め直し…」
「いや、このままで良い」


 アイスコーヒーにもなっていない、温くなったコーヒーを、アーロンはサーバーからカップへ注いで行く。
その横顔を遠目に見詰めながら、なんだかコーヒーの似合わない男だ、とスコールは思う。
かと言って紅茶のイメージでもない気がする。
アーロンには、もっと渋めのものが合うのではないだろうか。

 そんな事を考えていたスコールだったが、手に持ったままのキャベツと包丁を思い出して、キッチン台に向き直る。
ざく、ざく、ざく、とキャベツを切っていると、


「エルオーネは元気か」


 思いも寄らぬ名が聞こえて、スコールの思考が一瞬止まる。
数拍の間を置いてから、スコールはざくり、とキャベツに包丁を落として、


「元気にしている……と、思う」


 トラビアガーデンに留学している儀姉とは、メールや電話で頻繁に遣り取りをしている。
レオンは生活費諸々の仕送り等、連絡する事柄も多いようなので、ひょっとしたらスコールよりもエルオーネと話をする機会が多いかも知れない。
ともかく、スコールが話をしている時も変わりはないようだし、レオンがエルオーネの事で焦燥している気配もないので、きっと彼女も元気にしているのだろう。

 スコールの言葉に、そうか、とアーロンは言った。
声にあまり抑揚を持たせないアーロンの返事は、問うておいて興味があるのか無いのか判らない。
だが、全く興味がないのであれば、きっとアーロンは話題にも出さない筈だ。
訊ねると言う事は、傍目にはどうあれ、友人の息子や、その周囲の人物を気にかけている証左なのだ。

 スコールは千切りにしたサラダを深皿に盛ると、トマトの蔕を切って、八等分の半月状に切って並べる。
胡瓜も切ろう、ともう一度冷蔵庫の蓋を開けようとした所で、アーロンが言った。


「スコール。ミルクはあるか」
「……?ある、けど」
「一つ貰おう」
「え、あ……ああ」


 スコールは慌てて冷蔵庫の中に入れていたポーションミルクを取り出す。

 スコールはアーロンにミルクを渡した後、冷蔵庫の野菜室から胡瓜を取り出しながら、アーロンの様子を伺った。
アーロンは調味料ストッカーに置いていたシュガースティックを入れて、軽く掻き混ぜた後、ミルクを入れる。


(……甘いの、飲むのか?)


 スコールが記憶している限り、アーロンが甘いものを口にしているのは、見た事がない。
まだスコール達が幼い頃、アーロンがティーダの様子を見に来た時には、レオンかエルオーネがコーヒーを淹れていたが、その時も彼は専らブラックだった筈だ。
コーヒーのアテに甘い菓子が用意された事もあったが、そう言うものは、大抵子供達のおやつになっていた。

 胡瓜を水で洗うスコールの傍らで、アーロンは砂糖とミルクの入ったコーヒーをティースプーンで攪拌させている。
ミルクの白がくるくると円を描いて、少しずつ溶けて行く。
黒と白のコントラストが消えて、小麦色になった所で、アーロンはカップを持ってキッチンを後にした。

 スコールは水気を拭いた胡瓜に包丁を入れた。
トントンと小気味の良い包丁の音が鳴って、薄切りの胡瓜がまな板の上に重なって行く。
一本分使ってしまっても良いか、と明日以降のサラダの消費率を計算するスコールの耳に、リビングから声が聞こえて来る。


「……進んでいないな」
「うぐっ。い、今考え中……あれ。なんスか、これ」
「……」
「貰って良いんスか?」
「ああ」
「……でもアーロン、ブラックだろ?」
「砂糖とミルクは入っている」
「……えーっと。じゃ、貰う」


 アーロンの行動に対し、何処か不自然さを感じさせるティーダの反応は、困惑と照れの所為だろう。
あのミルク入りのコーヒーは、厳格を絵に描いたような保護監督の、比較的判り易い気遣いだ。
ティーダもそれが判らない程鈍くはなく、しかし素直にその気遣いを喜べる程子供ではないから、どぎまぎとした反応になるのだろう。

 ───スコールにとって、アーロンは“厳しい人”か“怖い人”だ。
ティーダにとっても、彼は決して“優しい人”ではないだろう。
それでもこんな時、スコールもティーダも、言葉に出さないまま思うのだ。


(アーロンは……冷たい人間じゃない)


 旧友の頼みだからと、わざわざスピラのベベルから、遠く離れたバラムの地まで通っている事。
自分を見て「怖い」と泣きじゃくる子供を前にして、一度も怒らなかった事や、素直に言う事を聞かない我儘な子供にも決して手を上げなかった事。
無茶をし勝ちな少年達に対し、手取り足取りに物事を教える事はなかったが、何かを無理やり押し付ける事もなかったと言う事。
それらを一つ一つ思い出せば、彼がただ“厳しい”“怖い”だけの人ではない事は、明らかだった。

 スコールは完成したサラダを横に退けて、フライパンを取り出した。
油を引いて表面を熱し、丸めて置いたハンバーグを焼いて行く。
じゅうじゅうと言う音が鳴り、肉の焼ける芳ばしい匂いが、リビングまで漂う。
それを嗅ぎ付けたティーダが、「ハンバーグ!」と嬉しそうな声を上げたのが聞こえた。




 三人での夕飯を終えた後、アーロンは「邪魔をしたな」と言って食卓の席を立った。
食後のコーヒーを淹れようとしていたスコールと、テレビを眺めていたティーダは、揃って「えっ」と声を上げる。


「アーロン、もう帰るんスか?」
「今からスピラ行きの船に乗っても、ベベルまでは戻れないんじゃ…」


 バラム島とスピラ大陸を繋ぐのは、バラムの港とスピラ大陸南部に点在する港のみ。
アーロンが住むベベルと言う都市には港がない為、スピラ大陸南部のルカと言う港街を経由しなければならないのだが、そのルカからベベルまでの距離もかなりのものだ。
その上、スピラ大陸は、大陸全土で信仰されている宗教により、機械が全面的に禁止されている為、鉄道などの大型交通網がない。
時刻が8時過ぎとなった今から戻っても、ルカに到着するのが精々だろう。

 無理に急いで帰らなくても、と言う少年達に、アーロンも頷き、


「バラムを出るのは明日だ。今日は其処に泊まらせて貰う」


 其処、と言ってアーロンが示したのは、隣宅────ティーダとジェクトの家。
それを聞いたティーダが、俄かに引き攣った顔をした。


「えっ、あっ、マ、マジっスか?」
「何か不味い事でもあるか?」
「い、いや、それはないっスけど……」


 挙動不審になるティーダを、アーロンがじろりと睨む(実際には見ているだけなのだが、如何せん、眼力がそうは思わせてくれない)。
ティーダはアーロンの言葉に慌てて首を横に振ったが、保護監督が家に泊まると言う事態を歓迎していないのは明らかだ。

 ティーダはアーロンの事を嫌ってはいない。
父であるジェクトの代理として、時に厳しく見守って来てくれた彼には、委縮する事こも少なくないが、感謝している事も多い。
しかし、それとこれとは別なのだ。
普段は一人暮らし同然で、夜遅くまでゲームなり読書なりと気侭に過ごしているのだが、アーロンが一緒となるとそうは行かない。
明日にはアーロンは帰るので、所詮一晩だけの我慢とは言え、遊びたい盛りのティーダには些か窮屈だったのだ。

 が、そんな事は単なる自分の我儘だと言う事は、ティーダも重々判っている。
だから、「明日、俺、朝練で早くて」「バタバタして煩いし」と多い口数で言い訳をする。
そんなティーダに、アーロンが喉の奥で小さく笑った事に気付いたのは、スコールだった。


「朝練の時って、俺、朝飯とか作らないで、テキトーにパンとかで済ませててさ。だから冷蔵庫の中は空っぽだし、アーロンもゆっくり出来ないだろうし、だから、えーっと」
「……ティーダ」
「だ、だから……へっ?」


 遮って呼ぶ声に、ティーダがぱちりと瞬きを一つ。
きょとんとした海の瞳が、保護者の目を捉える。


「お前はこっちで寝れば良い。監視はない方が楽だろう」
「え……あ、いや……………」


 アーロンの言葉に、ティーダが赤いような蒼いような貌で俯いて沈黙する。
図星です、と言う判り易いティーダの反応に、スコールは肩を竦め、アーロンは何も言わずに玄関へと向かう。


「鍵はいつもの所だな」
「……うん」
「朝練があるのなら、夜更かしはそこそこにする事だ」
「…うっス…」
「それと、たまにはお前の方からジェクトに連絡してやれ」
「………気が向いたら」


 最早、保護者の顔を見る事も出来ないのだろう。
ティーダは俯いたまま、アーロンの言葉に声だけで返事をしていた。

 玄関扉を開け、「じゃあな」と敷居を跨ごうとするアーロンを、スコールが呼び止める。


「アーロン。明日の朝飯、あんたの分も作るから」
「良いのか」
「……ん」
「なら、頼む」


 言葉の少ないアーロンに、スコールも頷くだけで返す。

 視線を合わせようとせず、俯いているスコールを、アーロンは僅かに高い目線から見下ろした後、徐に右手を持ち上げる。
くしゃり、と大きな手が濃茶色の髪を撫でて、スコールは目を瞠った。


「……手のかかる友人を持つと言うのは、面倒も多いが、長い目で見てやれ。お前にも悪い事にはならない筈だ」


 そう言って、アーロンは踵を返し、今度こそその場を後にした。

 扉の締まる音がして、スコールは顔を上げる。
むず痒い感覚だけが残った髪を手櫛で梳きながら向きを変えると、食卓のテーブルで頬杖を突いているティーダがいた。
彼の視線は、窓越しに見える自分の家へと向けられている。
その視線を追うように、スコールも窓の向こうへ目を向けていると、リビングの電気が灯るのが見えた。


「……別にさ」


 ぽつり、とティーダが呟いたのが聞こえて、スコールは視線を戻す。
ティーダは拗ねたように唇を尖らせていたが、その頬は僅かに赤くなっている。


「嫌な訳じゃないんスよ。アーロンが俺ん家に泊まるの」
「……ああ」
「ゲームは明日だって出来るし。朝練があるんだから、夜更かしはしない方が良いし。でもさ、ほら。なんか構えちゃうんだよな」
「……お前は昔、アーロンによく叱られていたからな」


 ティーダが態度やぎこちなさに反して、アーロンに意外とよく懐いている事を、スコールはよく知っている。
ジェクトの代わりに頻繁にバラムに訪れるアーロンに、ティーダはまるで父親の代わりに気持ちをぶつけるように、沢山の我儘を言った。
幼い頃のティーダは、自分が“預けられている”と言う立場を理解していて、レオンに遠慮のない我儘をぶつける事はなかったから、ティーダの“我儘”がどんなに特別な意味を持っていたのか、目の前で見ていたスコールには判る。
アーロンはそんなティーダの願いを叶える事もあれば、叱る事もあり、その所為で泣いてしまったティーダを不器用に宥める事もあった。
だから、ティーダがアーロンの事を本気で厭う事はないだろう。

 ただ、やはり彼と一緒にいる事で、些か緊張するのは否めない。
“良い子”を演じようと思っている訳ではない。
それは条件反射に等しいもので、彼と一緒にいる時位は、自分を律しなければならないと思うからだ。


「あ〜……緊張した……」
「……そうだな」


 ティーダはぐったりとテーブルに伏せた。
緊張の糸が完全に緩んだティーダの前に座って、スコールも長い息を吐く。


「……でも、珍しく褒められたっス」


 突っ伏したまま呟いたティーダに、スコールが目を向けると、金糸の隙間から覗く耳が薄らと赤らんでいるのが見えた。
表情と言い、雰囲気と言い、厳しい雰囲気を醸し出すアーロンは、滅多に他人を褒めない。
そんな父親代わりに褒められた事は、むず痒くも、ティーダの胸を俄かに暖かくさせていた。

 スコールの指が、自身の濃茶色の髪を絡めて遊ぶ。
ただ押し当てるように撫でられた場所に残る、むずむずとしたくすぐったい感覚に、スコールの口元が微かに綻んだ。




連絡なしで突然やって来る(昔はレオンに一応連絡があった)、質実剛健な保護者代わり。厳しさが優しさの人。
苦手だったり、少し窮屈だったりするけど、嫌いじゃないんです。一緒にいるとなんとなく背筋が伸びる。そんな感じ。