時の流れ、刻む記憶
スコール誕生日記念(2014)


 あー、あー、と意味の汲み取れない声がする。
けれども、その声には確かに意思があり、意味があり、感情があった。
その中身まで詳しく聞き取るには、まだまだ詳細が足りないが、今はその声が精一杯の主張の方法である。
これで自分の気持ちが悟られないと知ると、今度は精一杯に大きな声で、わんわんと泣きじゃくるのである。

 あーう、あーう、と段々とボリュームが上がって行く声に、ああ呼んでいたのかと遅蒔きに気付いて、レオンは繕っていたズボンをベッドに置き、腰を上げた。
周りに並ぶ沢山のベッドの中では、小さな子供達がすやすやと眠っている。

 今、孤児院の中は、常と違ってしんと静まり返っていた。
昼食を終えて一時間程が経った現在は、子供達の昼寝の時間なのだ。
エルオーネ、ローラ、ワッツ、ラウダの四人は、レオンに促されて直ぐにベッドに入ったが、眠くない遊びたいと駄々を捏ねたデッシュやアイラ、ゾーンとウェンブリーを寝かしつけるのには苦労する。
それでも、午前中にたっぷりと遊び、昼食でお腹を満たしたお陰か、一人また一人と眠りの妖精に誘われる。
そうして、最後にはいつもレオン一人が起きていて、この静寂が続く内に、細々とした家事を済ませるのがお決まりだった。

 この静寂の時間を、レオンは密かに気に入っていた。
子供達の相手をするのは決して嫌いではないが、やんちゃ者が多い事、他に子供の世話を引き受けられる年長者がいない為、レオンの負担は決して軽くはない。
誰に言われた訳でもなく、自分で始めた年下の子供達の世話であるが、やはりレオンとてまだ9歳の子供だ。
遊びたい盛りは年下の子供達と変わらないし、自我がはっきりと確立されている分、遊びを放棄して、自ら課した義務に終始する事には、内心で複雑な思いを感じる事も少なくない。
しかし、自分が年下の子供達の世話を放棄し、彼等と同じように遊ぶ事を第一に考えてしまったら、この孤児院を預かるシド先生とイデア先生の負担がどれ程になるか────と言う事を真っ先に考えてしまう時点で、レオンの思考は既に、同じ年頃の子供達とは一線を隔している。

 そんなレオンにとって、子供達の昼寝の時間は、日中に訪れる束の間の休息時間だ。
シド先生やイデア先生にとっても同様だ。
それぞれ、洗濯物や繕い物、夕飯の用意、タンスの中の衣替え等、やる事は色々とあるのだが、それを周りに振り回される事なく行える、その後はしばしのんびりと過ごせるだけで、彼等にとっては得難い時間であった。

 しかし、最近はそんな時間でも、レオンは気が抜けない。

 レオンは、自分とエルオーネのベッドの間に拵えられた、手作りのベビーベッドを見た。
其処には、レオンと同じダークブラウンの髪と、蒼灰色の瞳を持った小さな赤子がいる。
赤子は丸い瞳をぱっちりと開け、ちょこんと座った姿勢で、目の前に見えた兄に向かって、小さな手を伸ばしている。


「あーう、あう」
「よしよし。目が覚めちゃったんだな」


 小さな手に指を引っ掛けてやれば、きゅう、と握り締められる。
小さいのに案外としっかりとした力で捕まえられて、レオンは安堵と喜びで口元が緩む。

 赤子の名はスコールと言い、レオンとは正真正銘、血の繋がった弟だ。
昨年の夏、この孤児院で誕生したばかりで、まだ言葉は愚か、立ち上がる事も儘ならない。
早ければ生後10ヶ月で立つ練習をする赤子もいるようだが、スコールはのんびりしている上に甘えたがりのようで、自分で動くよりも、レオンやイデアに抱き上げて欲しいようだった。

 スコールが捕まえたレオンの手を引っ張り、ぱくりと口に入れた。
ちゅうちゅうと吸い付くのを感じて、レオンはくすぐったい、と笑う。


「お腹が空いたのか?」


 訊ねても、返事は返ってこない。
スコールはちゅうちゅうとレオンの指を夢中で吸っており、まるで母乳を求めているように見えた。
けれども、スコールは既に離乳食になっているし、単に甘えているだけなのかも知れない。
しかし、今日のスコールはまだ昼食を食べていないので、やはり空腹なのかも。

 レオンは他の子供達が目覚める様子がない事を確認して、スコールを抱き上げた。
兄に抱かれたスコールは、小さな手でしっかりとその肩を握り、きょろきょろと辺りを見回している。
その瞳に、ベッドですやすやと眠る姉が留まり、スコールは彼女に向かって片手を伸ばす。


「えーう、あー」
「エルは今寝てるから、駄目だぞ」


 お姉ちゃんの所に行きたい、と訴えるスコールを窘めて、レオンは寝室を出た。
スコールは閉じる扉の向こうにいる姉を求めて、ふあ、ふあ、と手をばたつかせている。

 リビングに行くと、シド先生とイデア先生が揃って紅茶を飲んでいた。


「あら、レオン。スコールも」
「スコール、お昼寝はお終いですか?早いですねえ」


 くすくすと笑いながら言った二人だが、スコールが昼寝の時間が始まる前から眠っていた事は知っている。
レオンはスコールを抱き直して、イデアの方を向かせた。
養い親を見付けた蒼い瞳が嬉しそうに輝いて、抱っこをねだって両手を伸ばす。


「お腹が空いて目が覚めたみたいなんだ」
「ああ、そう言えば、お昼の時間にスコールは起きませんでしたね」
「用意して来るから、ママ先生、スコール見てて」
「ええ」


 細く白い手が伸ばされ、赤ん坊を受け取るイデア。
膝の上に乗せてやると、スコールは大人しく其処に収まって、自分の指をしゃぶっている。

 レオンはキッチンに入ると、昼食時に取り残して置いた米を蒸し温めた。
その間に小松菜を出し汁で湯で、細かく刻んでおく。
水分と熱を吸収して柔らかくなった米に小松菜を入れて混ぜ、潰さないように微妙な力加減で三角形に握る。
小さなスコールが持ち易く、食べ易いように、レオンの掌に納まる小さなサイズだ。

 皿に乗せた握り飯と、冷えた麦茶を入れたコップを持って、リビングに戻る。
スコールはイデアの膝の上で、彼女が飲んでいた紅茶のカップに興味津々になっていた。
カップは陶器で出来ており、花の模様があしらわれたもので、イデアのお気に入りなのだが、普段は専ら食器棚の一番上に仕舞われている。
小さな子供達ばかりの生活の中で、落として割ってしまう事がないように、子供達が休んでいる時にだけ使われるものだった。
見慣れないそのカップが、スコールは不思議なものに見えたのだろう、小さな手がそれを触ろうと伸ばされるが、イデアはさり気無くそれを遠ざけた。


「あーうー」
「ごめんね、スコール。これは駄目なのよ」


 不満げな声を漏らし、逃げるカップを捕まえようと手を伸ばすスコールだったが、イデアに抱き締められて捕まえられる。
シドはそんな二人を、いつものようににこにこと楽しそうに見詰めている。

 レオンは握り飯とコップをテーブルに置き、イデアの隣の席に座った。
兄が戻って来た事に気付いて、スコールがレオンに抱っこをねだる。
イデアの膝からレオンの膝へと移動したスコールは、テーブルに置かれた握り飯に気付いて、其方に向かって手を伸ばす。


「やっぱりお腹が空いてたんだな」
「良い事です。はい、スコール、ご飯ですよ」


 イデアが寄せた皿から、スコールが握り飯を掴んだ。
小さな口を精一杯大きく開けて、はくん、と握り飯を一齧りする。
もぐもぐと顎を動かすスコールの口端に米がくっついているのを見て、レオンは指先でそれを取ってやった。
すると、レオンの指に白い粒がついている事に気付いたスコールが、兄の手を掴んでぱくっと食いつく。
かじかじと前歯が指先を噛んでいるのを感じて、レオンは意外としっかりと掴まれている手を離させるべく、スコールの腹を抱いていた手で、弟の小さな鼻を摘まんでやる。


「はぅ?」
「っと……シド先生、ティッシュ取って」
「はいはい」


 チェストに置いていた箱ティッシュを取って貰って、レオンは唾液塗れの指を拭く。
指先にほんのりと赤い痕が残っているのを見て、この間までは痛くもなかったのにな、と弟の成長を実感した。

 五つ作った小さな握り飯は、常に比べると早いスピードで完食された。
いつものんびりと、時には寝落ちながらゆっくりと食べるスコールなので、今日のこの早さは、彼が相当空腹だったと言う証なのだろう。
寝ていた事で昼食の時間が遅れた所為だ。

 腹が膨れて満足したスコールだったが、しばらくあやしても眠る気配はなかった。
ぐっすりと眠った後だったので、眠る気にならないのだろう。


「ちょっと運動をさせてあげてはどうですか。今は皆寝ていますし、誰かにぶつかってしまう心配もありませんから」


 シド先生の言葉に促され、レオンは椅子を下りて、スコールをカーペットが敷かれたプレイスペースに下ろしてやる。
いつもは他の子供達が遊び場にしており、活発なデッシュやアイラなどは玩具を取り合ってケンカを始めてしまう事もしばしばある為、小さなスコールを此処でゆっくり遊ばせてやる事が出来ない。
しかし、他の子供達が昼寝をしている今なら、危険も少ないだろう。

 スコールが誤飲してしまわないように、パーツの小さな玩具は片付けて、レオンはスコールの前に座った。
腹這いになったスコールは、手が届きそうで届かない距離にいる兄を見上げている。
じぃと待っているように見詰める蒼い瞳に、抱き上げたくなる衝動を堪えて、レオンもじっと、スコールが動き出すのを待った。


「あーう」
「ん?」
「だーあ」
「んー?」


 手を伸ばしているスコールが、“だっこ”とねだっている事を、レオンは読み取っている。
ぺたぺたと小さな手がカーペットを叩くのは、催促しているからだろう。


「うーう、だーぅ。あっぷ。あっぷ」
「うん」
「あーうー」


 いつまで経っても、兄がいつものように抱き上げてくれない事に焦れたか、スコールは駄々を捏ねるようにばたばたと手足を動かし始めた。
心なしか、顔が泣きそうに歪んでいる事に気付いて、レオンは濃茶色の髪をくしゃくしゃと撫でてやれる。
ふわふわとした柔らかい猫っ毛が気持ち良い。

 頭を撫でるレオンの腕を、小さな手が捕まえた。
皮膚を摘むように捕まえて、ようやく落ち着いたのか、ぴたりとスコールの動きが止まる。
それを離させてレオンが手を引っ込めると、またスコールはばたばたと手足を暴れさせた。


「ぷぁ、ふあ、あー、あーっ」
「スコール、ほら」


 手を届くか届かないかの位置で振ってやると、スコールはそれを目指すように小さな手を伸ばす。
が、あと少しと言う所で届かない。
スコールはじたばたと手足を動かして、足元がカーペットを蹴り、もぞもぞと体を捩り始めた。

 その場でもがいているように見えて、スコールは少しずつ移動していた。
ミリ単位で縮む距離に、レオンはそわそわとしながら、スコールの手が自分のそれに触れるのを待つ。

 そして、ぺち、とスコールの手がレオンの手を叩いた。


「よーし、頑張った頑張った。スコールは良い子だな」


 届いた手をぺちぺちと叩くスコールの頭を撫でて、膝の上に乗せてやる。
ようやく願いが叶ったスコールは、嬉しそうにレオンの旨に顔を寄せ、きゃっきゃと笑っていた。

 レオンは玩具箱の中から、太鼓の玩具を取り出した。
スコールを膝に乗せたまま、床に置いたそれをバチで叩くと、ぽこん、と軽い音がする。
ぴくっとスコールが反応して、音の出所を探してきょろきょろと辺りを見回した。
もう一度ぽこんと叩いて、発信源を見付けたスコールが、じぃっと太鼓を見詰める。


「叩いてみるか?」


 胸にくっついていたスコールの向きを変えさせて、手にバチを持たせてやる。
何に使うのか判っていないスコールは、不思議そうにバチを見詰めるだけだ。
その手を優しく握って、レオンはぽこん、と太鼓を叩く。


「こうやって鳴らすんだ。トントン、トントンって」


 ぽこぽこ、ぽこぽこと音を鳴らす太鼓。
繰り返している内に、スコールの手が上下に動いて、バチが鼓を叩き出す。
リズムなどある筈もなく、時折目標を外れては空回りした音を鳴らす太鼓に、レオンはくすくすと笑う。

 ぽこぽこ、ぽこん、ぱこん、としばらく太鼓遊びをしていたスコールだったが、次第にその音が小さくなって行く。
飽きたかな、とレオンはスコールの貌を覗き込んでみると、蒼の瞳が半分瞼の裏に隠れていた。


「眠いか?」
「んぅー……」


 スコールからの反応は鈍い。
休ませようかな、とバチを取り上げようとすると、小さな手がしっかりとそれを掴んでいて抵抗した。
「あーやぁー」
「まだ遊ぶ?」
「うーぅ……」


 ぽこん、とバチが太鼓を叩く。
遊びたい気持ちと、眠たい気持ちと半々と言った所だろうか。

 ぱこん、ぱこん…と小さく鳴る太鼓の音。
レオンがスコールの手を持って動かしてやろうとすると、バチを取られると思ったのか、スコールはいやいやと首を横に振った。
取らないよ、と言ってもスコールは聞こえていないようで、ぎゅうっとバチを強く握り締めている。


「判った、判った。好きにしていいよ」


 スコールの手を自由にさせると、眠気を振り払うように、ぽこんぽこんと太鼓を打つ。
しかしスコールの表情はと言うと、唇を尖らせて顰め面になっており、かなり無理をして起きているのが判る。

 レオンは、太鼓遊びをするスコールを膝に乗せたまま、のんびりと過ごしていた。
時計を見ると、そろそろ昼寝の時間が終わる頃合いだ。
子供達とは入れ替わりになるだろうと予想して、繕い物が途中だった事を思い出したが、今は気にしない事にした。

 膝に乗せた温もりは、スコールが生まれたばかりの頃と変わらない。
けれども、其処から感じる重みは、初めて感じたそれよりも明らかに増していて、小さな弟が確かに成長している事が判る。
言葉はまだ覚束ないけれど、自分が呼ばれている事は判るし、好きな人がいれば笑うし、苦手な人がいれば泣くと言う区別が出来ている。
服やオムツのサイズも大きくなり、食べ物も大人と変わらないものが食べられるようになって来た。
間違いなく、スコールは日々成長を重ねているのだ。

 そんなレオンの胸中が伝染したように、シド先生が呟く。


「スコールが生まれて、もうすぐ一年。あんなに小さかったのに、随分、大きくなりましたねえ」
「ええ、そうね」


 イデア先生が頷いて、シド先生が本当にね、と言って笑う。
大きくなってくれて良かった、と。
それを聞いて、ああそうか、とレオンは思い出した。


(もう直ぐ、一年経つんだ)


 スコールが生まれた、あの日から。
そしてそれから少し経ったら、母が逝ってしまった日も。
どちらも、レオンには忘れられない一日だ。

 太鼓を叩く音は、いつの間にか途絶えている。
膝の上ですやすやと眠っている幼子を抱き締めて、レオンは小さく唇を噛んだ。




 8月23日────カレンダーのその日付に、赤い花丸が書かれていた。
誰が書いたのかレオンは知らないが、こっそりと嬉しくなったのは確かだ。
その日はレオンにとって、何物にも替え難い、大切な日なのだから。

 その日が近付くに連れて、孤児院の子供達は何やらこそこそし始めるようになり、外遊びが好きなデッシュ達が家の中で過ごす事が増えた。
アイラが苦手だと言っていた折り紙に精を出すようになり、ウェンブリーが様々な色の折り紙を色々な形に切っては、空になっていたお菓子箱の中に入れて行く。
何してるんだ、とレオンは何度か尋ねたが、彼等は「なんにも!」と言って教えてくれなかった。
ゾーンもワッツもウェンブリーも、ラルダもローラもそんな調子だ。
エルオーネも少し様子が違っており、何やらそわそわとした様子で、時々他の子供達のヒソヒソ話の輪に混じっている。

 夕飯の準備中、何かあったのかな、とレオンが呟くと、イデア先生は「そうね。何かあると言えば、何かあるわね」と曖昧に言った。
その時は、養い親の言葉の意味を理解できなかったレオンだが、カレンダーの花丸がその全てを語っていた。
ああ、成程、と納得したと同時に、どうやら自分は知らない振りをしていた方が良い事にも気付いた。

 スコールはと言うと、まだまだそうした出来事に気付く筈もないので、いつものように過ごしている。
お腹が空いた、おしめが濡れたと泣いて主張し、言葉足らずに抱っこして、とねだって甘える日々だ。

 そして、8月23日の当日、レオンはシド先生からとある誘いを受けた。


「今日はスコールの誕生日でしょう。スコールをお父さんとお母さんに見せに行ってあげませんか?」


 昨年の今日、スコールを生んだ後、二ヶ月と待たずにこの世を去った母。
まだ10歳にもならない長男と、手許に戻って来て間もない娘、そして乳飲み子を遺して行く事が、どんなに悲しい事なのか、レオンにはまだ判らない。
それでも、最後に綺麗に、そして寂しそうに笑い、眠る弟を優しく抱いていた母の貌は覚えていたから、やはり見守っていたかっただろうとレオンは思った。

 写真一つ残っていない父は、戦争に行ったまま帰って来ていない。
故郷で過ごしていた頃、突然浚われたエルオーネを助け出すと言って、彼は妻と息子をバラムに残して発った。
その後、エルオーネだけがレオン達の下へと戻って来て、彼女がいたと言うエスタにいる筈の父は、エスタの鎖国と共に消息不明になった。
一年以上も手紙一つ寄越されない理由が判らないほど、レオンは幼くはない。
彼は、最後に別れた時、妻が身重であった事を知らなかった。
彼が帰って来た時、生まれた息子を見せて驚かせるのだと言っていた母の小さなイタズラは、もう叶えられる事はない。

 二人の墓は、バラムの島の岬に作られた。
其処に眠っているのは母だけで、父は名前を掘った以外、何も残されていない。
それでも、其処に両親が眠っていると思う事が、幼い子供達にとって、せめてもの慰めであった。

 レオンとエルオーネは、葬式の日以来、その墓に訪れた事がなかった。
街外れの岬で、魔物と遭遇する危険もあり、子供の足だけで行くには些か危なかったのもあるが、大好きな両親がいない事を再確認するのが辛くて意図的に行かなかったと言うのも確かだ。
だが、あれから一年が経った今、行くべきかも知れない、とレオンは思った。

 シド先生が借りて来たレンタカーで、レオンはスコールとエルオーネと共に出発した。
買い物など、日常で必要となる事を除けば、随分と久しぶりの外出だったと気付いたのは、車の中で楽しそうに外の風景を見る妹に気付いた時だ。


(たまには、公園とかに連れて行ってやるべきかな…)


 孤児院の子供達の世界は、ごくごく狭いものに限定される。
隣近所との付き合いはあるものの、遠出と言う遠出は滅多にしないし、遊び場は専ら孤児院の庭である。
レオンは買い物で出掛けるが、行くのは決まった場所なので、其処で逢う人々は今やすっかり顔見知りだ。
新しい刺激と言うものは、あまり経験していないかも知れない。

 確か、孤児院から10分程歩いた所に、運動公園があった筈だ。
バラムに一年間住んでいるレオンだが、日々を専ら孤児院での生活で過ごしている為、其処に行った事はない。
買い物の時に一度立ち寄って、良さそうな場所なら、シド先生とイデア先生にも相談して、子供達を連れて行っても良いかも知れない。
赤ん坊のスコールに、新しい世界を見せてやるのも良いだろう。

 そう考えながら窓の外をぼんやりと見ているレオンの隣で、チャイルドシートに乗ったスコールがもぞもぞと身動ぎする。
眠っている間に連れて来たのだが、車の振動で眠りが浅くなったようだ。


「んぅえ……うぇえええ」
「あっ。スコール、起きちゃった」
「デコボコ道ですからねえ。すみませんね、落ち着かせてあげて下さい」


 車のスピードを落としながら言ったシド先生に、レオンは頷いて、スコールの頭を撫でてやる。
よしよしと声をかけてやりながら、スコールから自分の貌が見えるように、前から覗き込む。


「えっ、えっ、えあぁあ〜」
「知らない場所でびっくりしたのかな。大丈夫、大丈夫。ほら、エルもいるぞ」
「スコール、スコール。大丈夫だよ〜」


 呼び掛ける姉の声に気付いて、スコールが涙の滲んだ目でエルオーネを見る。


「あーう〜っ」


 助けを求めて両手を伸ばすスコール。
レオンは、そんなスコールにチャイルドシートのベルトを外し、エルオーネの膝に乗せてやった。


「ふぇっ、えっ、ふあああぁあ」
「よしよし。泣かない、泣かない」
「えぐっ、えっ、えっ、えっ」


 ぐすぐすと愚図るスコールに、エルオーネはむぅと眉尻を下げる。
なんで泣き止まないんだろう、と言う表情を浮かべる妹に、レオンは苦笑して艶のある黒髪を撫でる。


「ちょっと興奮してるんだ。しばらくすれば、きっと落ち着く」
「うん。はい、よしよし、いー子いー子」


 エルオーネがスコールを抱き締めると、スコールはしがみ付くようにエルオーネを捉まえた。
レオンはティッシュを取り出して、涙でぐしょぐしょになってしまったスコールの貌を拭く。

 スコールが落ち付いたのは、目的の岬が見えた頃だった。
シド先生から、魔物用の魔石を渡され、レオンとエルオーネは紐を通したそれを首にかける。
ようやく泣き止んだスコールを抱き上げて車を降りると、岬から香る潮と、足元に咲いた花の香りがレオン達の頬を撫でて行く。

 行きましょう、と促すシド先生の手には、小さな花束がある。
彼の後をついて歩きながら、レオンは隣を歩いていたエルオーネがきゅっと左手を握った事に気付いて、握り返した。
心臓の音が逸って行くのが判って、一年前に通り過ぎた悲しみが甦って来るような気がする。
喉奥から競り上がってくるものをぐっと堪え、腕に抱いた赤子の存在を確かめながら、レオンはじっと前を見据えて進んだ。

 ぽつぽつと点在する小さな花畑の群れを抜けて、小高い岬の上に辿り着く。
其処からは何処までも続く海と空があり、振り返ればバラムの街を見下ろす事も出来た。
其処に、小さな墓が一つ───レオン達の両親の眠る墓がある。

 墓の前まで来ると、シド先生が言った。


「こんにちは、レインさん、ラグナさん。今日は、子供達が来てくれましたよ」


 其処に眠っている人に、彼は優しく語り掛ける。
海の向こうから風が吹いて、子供達の傍らを通り過ぎて行った。

 シド先生の手が、ぽん、とレオンとエルオーネの背を押した。
レオンが一歩踏み出すと、エルオーネも続く。
ほぼ一年振りに訪れた両親の墓は、シド先生とイデア先生のお陰で、綺麗に保たれている。
墓の足下には小さなビンが置かれており、頭を下げた小さな花が活けてあった。
恐らく、シド先生とイデア先生が前に来た時に活けて行ったものだろう。

 レオンはスコールを抱き直して、墓の方を向かせた。
スコールは見知らぬ世界が物珍しいようで、きょろきょろと辺りを見回して落ち着かない。


「……父さん、母さん、久しぶり」


 レオンが言うと、エルオーネが兄を見上げ、真似るように墓に向かって「ひさしぶり」と言った。


「あんまり来なくて、ごめん。色々、忙しかったりするものだから…」


 それが単なる言い訳で、半ば意識的に墓参りをしていなかった事を、レオンは自覚している。
だが、それをはっきりと告白するのは憚られて、最もらしい口実を零した。

 レオンは一つ呼吸して、気を取り直すように明るい声で言った。


「だけどやっぱり、今日は来なくちゃいけないかなって思ったんだ。今日は、スコールの誕生日だから」


 レオンは膝を折って、見下ろしていた墓と目線の高さを合わせた。
抱いていたスコールを墓の前に差し出すと、さわさわと風が吹いて、スコールの濃茶色の髪が揺れる。
墓を前にしたスコールは、きょとんと首を傾げていた。


「ほら。判るかな、スコールだ。大きくなっただろ?……父さんは、初めて逢うんだよな」
「スコール、一歳になったんだよ。もう自分でご飯が食べれるの」


 レオンに触発されたように、エルオーネも墓に向かって語り掛けた。
それでね、とエルオーネが続ける。


「ハイハイも出来るようになったの。お喋りも一杯するようになってね、私、いつも呼ばれるの。抱っこしてあげたら、凄く嬉しそうなんだよ」


 お喋りと言っても、スコールの発音はまだまだ形になっていない。
ぶーぶー、と言う車を指すであろう音が出てきた位だから、スコールと毎日接している人間でなければ、意味を聞き取る事は難しいだろう。
エルオーネは、そんなスコールに早く「お姉ちゃん」と呼んで欲しいらしく、毎日のようにスコールに語り掛けては、「お姉ちゃんだよ」と聞かせていた。

 この一年間でスコールが出来るようになった事を、エルオーネはあれも、これも、と挙げて行く。
呼ぶと返事をした時の事、寝返りが出来るようになった日の事、嫌がっていた哺乳瓶からのミルクを飲んでくれるようになった時の事。
自分がスコールのおむつを替えた時の事や、一緒に風呂に入った時の事も、エルオーネは話して聞かせていた。
それを傍らで聞きながら、レオンは此処に来てから微かに締め付けられているように傷んでいた胸の奥が、ぽかぽかと暖かくなって行くのを感じていた。


(父さん、母さん。スコールも、エルも、こんなに大きくなったよ)


 故郷にいた頃、父によく可愛いイタズラをしていた妹が、今ではすっかりお姉さんだ。
まだまだ甘えたがりやイタズラしたがる事はあるが、スコールの前ではそれも形を潜めてしまう。
レオンと大人達の手が空けられない時、進んで弟を見ていてくれるのも、姉としての自覚があるからだろう。

 スコールの成長記録を話して聞かせていたエルオーネが、それから、えぇっと、と考え始める。
もっと沢山、話して聞かせたい事があるのだろう。
けれども、今直ぐ全てを話さなくても、これから時々此処に来て話せば良い事だ。

 頃合いを見計らったように、シド先生がエルオーネを呼んだ。


「エルオーネ。お花をあげて下さい」
「はーい」


 エルオーネは小走りにシド先生の元へ駆け寄り、彼の手から花束と水筒を受け取った。
墓の足下に置かれていた小さなビンから萎れた花を取り、古い水を棄てる。
花束の包装を丁寧に解いて、ビンに挿し、ビンと茎の隙間からとくとくと綺麗な水を注いだ。

 ビンが潮風で倒れてしまわないように、エルオーネは墓の足下の土を少しだけ掘って、ビンを埋める。
白と黄色、水色がちりばめられた小さな花の名前を、レオンとエルオーネは知らない。
けれど、きっと両親は喜んでくれるだろうと思った。


(母さん、花が好きだったし。父さんも、そんな母さんが育てた花を気に入ってた)


 生まれ故郷の小さな村で、母が世話をしていた花壇の事を思い出す。
レオンもよく手伝いをして、幼いエルオーネも一緒になって世話をしたものだった。
父が肥料を乗せた一輪車を引っ繰り返したり、毛虫を見付けたエルオーネが「ぶちゅぶちゅいやー!」と泣き出した事まで、レオンは全て思い出す事が出来る。

 レオンの隣に立ったエルオーネが、レオンの手を握る。
見下ろすと、栗色の瞳が眩しそうに笑っているのが見えて、レオンの口元も自然と緩む。

 もぞ、とレオンの腕の中で、スコールが身動ぎした。
レオンにじっと抱かれていたスコールが、小さな手を墓に向かって伸ばしている。


「なあに、スコール。どうしたの?」
「あう。あー、あーう」


 小さな両手が、何かを求めるように伸ばされている。
それは、彼が“抱っこ”とねだっている時の仕草とよく似ていた。

 そんな弟を見て、レオンは小さく笑い、


「……いるんじゃないかな。其処に」
「そうなの?スコール」
「だぁう。たーぁ、…あぷ?」


 問う姉に、小さな弟は指を咥えて首を傾げる。
そんなスコールをレオンは抱き直し、よしよし、と体を揺すってあやしてやった。

 レオンとエルオーネには、スコールが何を見ていたのか、よく判らなかった。
けれど、若しも“そう”なのだとしたら、大好きな両親は間違いなく、此処にいるのだ。
そう思うと、レオンは胸のつかえが取れたように、楽に呼吸が出来るような気がした。

 二人が墓に背を向けると、じっと待っていたシド先生が、いつもの笑みで迎えてくれた。
皺のある大きな手が二人の頭を撫でて、最後にスコールの頭を撫でる。
戻りましょうか、と言うシド先生に頷いて、車へと向かう子供達を、花の香りを孕んだ風が包む。
スコールは兄に抱かれて、遠ざかる墓に向かって、何度も小さな手を伸ばしていた。




 岬から街へと戻る間に、スコールは眠ってしまった。
凹凸の激しい道を過ぎ、整備された車道へと入ると、車体の振動が心地良くなったのかも知れない。
レオンの膝の上で、スコールはすやすやと眠っていた。
エルオーネも、いつも中々経験しない車での移動に疲れたのか、あと半分と言う距離で、チャイルドシートに寄り掛かって眠ってしまった。
レオンは欠伸を噛み殺しながら、街への到着を待つ。

 レンタカー降り場に着いて、レオンはエルオーネを起こし、スコールを抱いて車を降りた。
エルオーネはシド先生と手を繋いで、寝惚け眼を擦りながら家路を歩く。
海の向こうが橙色に染まっているのを見て、そろそろ夕飯かな、とレオンは気付き、ママ先生一人で大丈夫だったかな……といつもの家事の大変さを思い出しながら歩を運ぶ。

 数時間振りに着いた孤児院のドアをシド先生が開け、レオン達に入るように促す。
シド先生と並んでいたエルオーネを先に入れようとすると、エルオーネは「レオンが先に入って」と言った。
少し首を傾げたレオンだったが、彼女が精一杯いつもの表情を装いつつ、栗色の瞳がわくわくと弾んでいるのを見て、ああ、と思い当たる節に気付いた。
が、それに気付いた事は言ってはいけない。
レオンは緩みそうになる口元を堪えて、努めていつも通りの歩調で、玄関を潜る────と、


「スコール、おたんじょーびおめでとーっ!」


 子供達の元気な声が幾つも重なるのを聞いて、レオンは堪らずに笑った。
腕に抱いていた赤子は、大きな声に驚いたのか、ぱちっと目を覚ます。


「……ふあ」
「スコール、おめでとう!」
「一歳だな。でっかくなったなー」
「ケーキあるよ、ケーキ!」
「今日はごちそうっス!」


 駆け寄って来た子供達が、先を争うようにスコールに声をかける。
この孤児院で生まれた赤子を、彼等は皆愛してくれていた。
人見知りが激しく、中々懐いてくれないスコールに拗ねた顔をしつつも、頃合いを見てはエルオーネと一緒に構ってくれている。
そんな子供達の愛情の集大成のように、リビングの中は子供達が作っていた色紙の飾りで彩られている。

 ────が、まだ赤ん坊のスコールには、そうした子供達の頑張りは、まだまだ伝わらないようだ。
沢山の目が自分を見ている事に気付いたスコールの貌が見る見る歪み、円らな瞳に大粒の雫が浮かび上がる。


「ふわぁぁぁあああああん!」
「あっ」
「あっ」
「あわわ」
「ご、ごめんね、スコール」


 皆で押しかけると、スコールが泣いてしまうのはお決まりだった。
慌てて謝る子供達に、レオンは眉尻を下げて笑い、スコールを抱き直す。


「ごめんな、皆。それと、ありがとう。皆で用意してくれたんだな」
「うん!」
「ごちそう作るのも、手伝ったんだ」
「プレゼントも作ったの」


 あれも、これもと報告する年下の子供達に、レオンはありがとう、と一つ一つに礼を言った。
いつも面倒を見て貰っている兄代わりに感謝され、子供達はくすぐったそうに顔を赤らめている。

 キッチンからエプロンを着けたイデア先生が現れ、「お帰りなさい」と言った。
イデア先生は泣きじゃくるスコールを見付けると、あらあら、と眉尻を下げて微笑み、濡れた手をエプロンで拭いて、スコールを抱き上げる。
手を洗っていらっしゃいと促され、レオンはエルオーネと一緒に洗面所に向かう。

 リビングから聞こえる元気な泣き声を背に、レオンはエルオーネに訊ねた。


「エルオーネも、今日の準備に何か作ったりしたのか?」
「うん。折り紙でお花作ったの、私なんだよ。あとね、今日の朝、ケーキも一緒に作ったんだよ」
「エルがケーキを作ったのか?」
「んーとね。作ったのはママ先生だけどね、飾り付けは私がしたの。あと、チョコレートに字を描いたのも、私だよ」


 楽しそうに話すエルオーネの話を聞きながら、レオンは最近の彼女がそわそわと忙しなくしていた事を思い出す。


「それからね、ね。レオン、レオン」


 手を洗ってタオルで拭いていると、くいくい、とエルオーネがレオンの服を摘んだ。
「ん?」と振り返ると、エルオーネはわくわくとした表情でレオンに顔を近付け、


「スコールにもだけどね、レオンもびっくりさせてあげようって、皆で決めたの。ねえ、レオン、どうだった?びっくりした?」


 きらきらとした栗色の瞳に問われ、レオンはくすぐったさを感じながら、頷いた。
それを見た妹が、やった、と手放しで喜んでいる。

 子供達が計画していた事については、かなり早い段階で気付いていたと行って良い。
しかし、敢えてはっきりと口にはしなかったイデア先生や、「内緒!」と言って固く口を閉ざす子供達、そしてカレンダーに記された花丸で、全てのピースは整った。
それからは、いそいそと準備に励む子供達を見守り、今日と言う日を楽しみにしていたのだが、リビングの壁一面を彩る飾り付けを見て、こんなに頑張ってくれたのかと驚いたものだ。


「スコールもびっくりしたかな」
「ああ。さっきは、皆が覗き込んで来た事に驚いてたけど」


 くすくすと笑いながら言うと、そっちじゃなくて、とエルオーネが拗ねた顔をする。
そんな彼女の頭を撫でて、レオンはリビングへと戻った。

 泣きじゃくっていた弟の声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
リビングに戻って来たレオンとエルオーネを見て、イデア先生がスコールをレオンに返す。
スコールは、周りがいつもの風景と違う事に気付いたのか、きょろきょろと不思議そうに辺りを見回していた。
きっとスコールにとって、今日は不思議な事ばかりが起こる日に思えただろう。


「スコール」
「ぷぁ?」


 呼ぶと、指を咥えたスコールがレオンを見た。
泣いた痕はイデア先生が綺麗に拭ってくれたようで、目元も赤くはない。

 レオンは、母とよく似たスコールの濃茶色の髪を撫でて、柔らかな声で言った。


「今日は、お前の初めての誕生日だ」
「あう?」
「一歳になったんだ。お前が生まれてから、一年が経ったんだよ」


 語り掛けても、スコールにその言葉の意味は判るまい。
それでも、レオンは伝えたかった。
短いようで長かった一年の歳月の中で、小さな小さな弟と共に過ごした日々は、レオンにとってかけがえのないものであった事を。

 母を失い、父を失い、幼い妹と二人残されたレオンにとって、生まれたばかりの弟は、絶対に失ってはならない存在だった。
触れれば簡単に潰れてしまいそうな柔らかな手に、ぎゅっと指先を握り締められる度、守らなければと思った。
その手が少しずつ大きくなって行くのを見守りながら、そんな弟の姿を、母と父に見せられたどんなに嬉しいだろうと、何度も詮無い事を考えた。
その願いはもう叶わないから、父と母の分まで、妹と共に、この幼い弟を愛して行こうと誓った。
その誓いが、弟の存在があったから、レオンは今まで生きて来られたのだ。


「お前が生まれて来てくれて、良かった」


 そう言って笑いかけた兄を見て、スコールはきょとんと首を傾げる。
愛らしい仕草の弟を、レオンは堪らず抱き締めた。
とくとくと心臓の音と、温もりが伝わって来るのが判って、レオンは胸の奥が満たされて行くのを感じる。


「一歳の誕生日、おめでとう。これからも、ずっと宜しくな」


 くしゃり、と柔らかい髪を撫でる。
ふあ、と耳元で赤子が笑うのが聞こえた。




スコール誕生日おめでとう!と言う事で、一歳になりました。
兄姉からは勿論ですが、孤児院のお兄ちゃんお姉ちゃんからも愛されてます。気難しい子だから、中々懐かないけど。そんな所も含めて愛されてるといいな。