空と海の境界線上 錯交編


 再び一人になったレオンは、握らされた小袋を見下ろして、眉根を寄せた。
布越しでも判る重みと感触は、たった二週間の従業員に払うには、前金としても額が大きすぎる。
早く船に乗る為に、まとまった金銭が要るのは確かだが、こんなにも大きな金は要らないし、何より、渡されたそれから漂う嫌な雰囲気が気に入らない。

 念の為、とレオンは小袋の紐を緩め、中を覗き込んでみた。
想像に違わないものが、想像以上の枚数で収められているのを見て、目を瞠る。


(こんなの、やっぱり可笑しいだろう!)


 途端、安心できていた筈の空間に、言い知れない恐怖を感じた。
人好きの顔をしているオーナーの表情が、薄ら寒い笑顔で塗り潰されて行く。


(……逃げた方が……でも、折角シドさんが見付けてくれたのに……)


 何に関しても不慣れなレオンの為にと、シドは出来るだけレオンに向きそうな職を探してくれた。
その後も毎日様子を見に現れ、嫌がらせのようなものはないか、辛い事はないかと気にかけてくれた。
エアリス、ティファ、ユフィも日替わりでやって来たし、クラウドは宿を移す時に荷物を運んでくれた。
ソラも今夜は来てくれて、仕事は順調だと安心させる事が出来た。
それなのに、此処に来て放り出してしまうのか。

 迷いで立ち尽くすレオンを現実に戻したのは、ドアの向こうに近付く足音だった。
固いブーツを鳴らす音は、従業員のものではない。
ぞっと背筋が凍るのを感じて、レオンは慌ててドアの鍵をかける。
金貨の入った小袋をテーブルに投げて、椅子の足下に置いていたトランクを掴んだ。


(ドアは駄目だ。窓から────)


 駆け寄って、施錠を外した窓を開けようとした瞬間、蝶番が音を立ててドアが開かれる。
施錠した筈のドアが何の抵抗もなく開いた事に、レオンは目を瞠った。


「やあ、新人さん。待ちくたびれたよ」
「は…い……?」


 現れた男を、レオンは顔だけは知っていた。
ほぼ毎日のように宿を訪れ、最上階の上質を使っている上客だ。
貴族か豪商か判らないが、貴金属をこれ見よがしに身に付けて、現れる度に違う女を連れており、その女は総じて暗い顔をしていて、レオンは余り良い印象がない。
だが、やって来る客の連れ合いについて口を出せる訳もなく、新人で上客を担当する事のない自分には関係ないと、見ない振りをしていた。

 その上客が、深夜の従業員の部屋に、何故。

 戸惑うレオンに構わず、男はずかずかと部屋に入り、窓辺に佇んでいるレオンに近付いてきた。
それなりに整っている筈の男の顔が、二ヶ月前に見た海のならず者の顔と重なって、レオンは息を飲む。
握っていたトランクが指から滑り落ちて、窓の下でゴトンと音を立てた。


「そんなに怖い顔をしないでくれ。別に酷い事をしようって訳じゃないんだから」
「……っ!?」


 いけしゃあしゃあとそんな事を言いながら、男はレオンの眼前に立つと、じろじろと値踏みする目で彼女を見た。
男は、長身のレオンよりも僅かに背が低く、目線の高さもズレている。
その目が、ブラウスを押し上げる乳房に向けられているのを感じて、レオンは咄嗟に腕で覆って身を庇う。


「ああ、意外と初心なんだな?そんな女も偶には良い」
「な…何を言って……」


 にんまりと嗤う男から、レオンはじりじりと後ずさって距離を取る。
そんな逃げ腰で得た距離は、直ぐに男の方から詰められて、レオンは部屋の角隅に追い込まれていた。

 宝石を埋め込んだ指輪を嵌めた手が、レオンの頬を撫でる。
ゆったりと皮膚の上を滑るものが、蛞蝓のように気色が悪くて、レオンは思わず打ち払った。
男は抵抗されると思っていなかったのか、一瞬呆けた顔をしていたが、直ぐにまた嫌な笑みを浮かべ、


「何をしてる?お前、金を受け取ったんだろう」
「金…って、さっきの……!?」
「ああ、やっぱり受け取ってるじゃないか。聞いていないのか?あれは契約料だって。俺からの契約を、お前は受け取ったんだ。その時点で、契約は成立してるんだよ」


 顎を捉えて、触れそうな程に顔を近付ける男の言葉に、レオンは先のオーナーの態度を思い出していた。


(つまり……あの金は、俺がこいつの玩具になる為のものだったって事か?)


 ────レオンの推測は当たっていた。
この宿は、街からも遠方の客からも人気が高く、サービスが行き届いていると評判が良い。
設備の不備も少なく、細かな改装工事は年に何度も行われており、外観も内装も綺麗で清潔さが保たれている。
閑散期ですら閑古鳥の鳴かない人気の宿なのだから、それ位は出来るだろうと思われているが、実際には違う。
固定客の中にパトロンが存在し、そのお陰で宿は貴族が泊まっても劣らない程の充実さが保たれているのだ。
目の前の男は正にそのパトロンで、一部の従業員を生贄にする見返りに、多額の出資を宿に齎していた。

 元々は、気の優しいオーナー夫婦と、少数の従業員で成り立っていた、ごく普通の宿だった。
立地条件や、ささやかながら行き届いた気配りで知られ、利用していた行商人の口コミから人気が広がって行った。
しかし、オーナーの妻が病気で他界してから、何かの呪いのように悪い事が重なり、経営は一気に悪化する。
それに目を付けたのが、今レオンの目の前にいる男だった。
出資してやる代わりに、自分の為の部屋を一つ用意する事を条件とした。
男は毎日のように女を連れ込んでは卑猥な夜を過ごし、オーナーは苦い顔をしつつも、抱えていた従業員を路頭に迷わせる訳には行かないと、無念の思いで男を好きにさせていた。
その選択が、更に男を調子づかせる事になる。

 男の出資のお陰で、宿の経営は回復し、貴族にも贔屓にされるようになった。
客が増えたのは有難かったが、その影で男はどんどん横柄になって行き、影響力を増して行く。
権力を得た男は、住み込みで働いていた新人従業員を無理やり手籠めにし、薬まで使って廃人同然に追い込んだ。
男が伝手を使って、事件は表沙汰にはならなかったが、密事となったが故に、男はこれが表になれば再び宿が零落れるとオーナーと従業員を脅して来た。
宿は外向きの評判とは裏腹に、男の城として完成して行ったのである。

 以来、男は暴君の如く振る舞い、度々従業員に手を出すようになった。
溜まりかねた従業員は一人、また一人と止めて行くが、のっぴきならない事情で止められない者もいる。
そうした者が酷い目に遭わないように、オーナーが提案したのは、スケープゴートであった。
いなくなっても騒ぎになる訳でもない、天涯孤独の身や、旅の路銀を稼ぐ為に雇用を求めて来た女を、貢物として男に捧げるのだ。
人によっては、オーナーから説明される事もあるが、大抵は何も知らないまま、男に襲われて鎖に繋がれる事になる。
レオンが正にそれであった。
オーナーや従業員が、何に対しても手の遅いレオンに対し、優しく接していたのは、そんな裏側から来る罪悪感もあったのだろう。


(冗談じゃない!あんな金は要らないし、そんな事の為に此処に来たんじゃない!)


 レオンは眦を吊り上がらせて、目の前の男を睨んだ。
それまでの大人しい楚々とした印象とは一変した彼女の表情に、男が驚いて目を瞠り、


「なんだ、そんな顔も出来るのか。初心だが、存外と気が強いのか?」
「触るな!離せ!」
「そんなに邪険にするなよ。金が要るんだろう?俺の相手をすれば、こんな宿で働かなくても、十分懐が温まるぞ。良い子にしていれば、欲しいものも幾らでも買ってやる。悪い話じゃない───」


 顎を捉えて笑う男に、レオンは平手を打った。
パン、と高い音が響いて、男の頬に赤い色が浮かぶ。
その程度の事は慣れたものなのか、男は益々笑みを深め、頬を打ったレオンの腕を掴んでぎりぎりと潰さんばかりに握り締める。


「い……っ!」
「最近、媚びる女は飽きていてな。その顔を泣かせて許しを請わせるのも面白そうだ」
「ふざけるな!屑の相手なんて御免だ!人を呼ぶぞ!」
「ああ、呼んでみろ。誰も来ないがな。何の為にこの部屋に入れられたと思っている?建物の端、通じているのは裏庭だけ、裏庭の向こうにあるのは倉庫だけ。助けを呼ぶ声が誰かに聞こえると思うか?」
「……!」


 シドと一緒に仕事を求めに来た時から、彼女は目を付けられていた。
それを知って、レオンは頭を金槌で殴られた気分だった。
誰かに優しくされて、裏切られるのが怖いと思ったから、あの船を降りる事を決意したのに、そんな矢先に騙され、売られようとしている。

 レオンは暴れて男から逃げようとしたが、男の力は強かった。
蹲って身を守ろうとするレオンを、男は力任せに引き摺り、ベッドへ投げる。
制服のスカートが広がって、白魚のようなすらりとした足が露わになった。
ヒュウ、とわざとらしく口笛を吹く男に、レオンの殺意が募る。


(くそ、くそ、くそ!絶対に嫌だ。こんな奴に好きにされて溜まるか!)


 吐き捨てるように胸中で叫ぶが、伸し掛かる男を押し除ける事は叶わない。
男の頭を殴りつけていた両腕が掴まって、頭上でひとまとめに押さえ付けられる。
レオンの脳裏に、嘗ての船の上で、同じように男達に伸し掛かられた光景が蘇った。

 ビリビリと布の破れる音が響く。
胸元が外気に晒されたのが判って、レオンの喉が引き攣った。
悲鳴を上げようとして、頭上で卑しい笑みを浮かべている男の顔が見えて、歯を食い縛る。
女らしい悲鳴を上げてしまえば、この男を悦ばせるのが判ったからだ。
だが、そんな抵抗は意味のないもので、スカートを捲り上げられ、露わになった下着に男の手が這う。


(気持ち悪い……!!)


 ぞわぞわと背筋を走る悪寒に、レオンの目尻に雫が浮かぶ。
その透明な粒を、男の舌が舐め取ろうとした時だった。

 ゴガッ!!と固い音が響いて、腕を押さえ付けていた男の力が緩む。
何が、と目を瞠ったレオンの胸に、男の顔がどさっと落ちた。
そのまま動かない男を、レオンは目を丸くしたまま見詰める。


「レオン!大丈夫か!?」


 響いた声に顔を上げると、レオンのトランクを両手で抱えたソラが立っていた。
彼の後ろでは、男が来る直前に鍵を外した窓が開いている。


「ソラ……?船に戻ったんじゃ、」
「戻れる訳ないだろ、あんなので。ってか、戻んなくて良かったよ、ホント」


 呆然としているレオンの上から、気を失った男を引き摺り下ろしながら、ソラは言った。
全身に伸し掛かっていた重みがなくなって、レオンはのろのろと起き上がる。

 レオンはベッド上に座ったまま、床に転がり落とされた男を見た。
ソラによって後頭部に衝撃を受けた男は、ピクピクと指先を震わせていたが、気を失っているのは確かだった。
ソラはそんな男に目もくれず、跨いでベッドに上ると、座り込んだまま動かないレオンの手を握る。


「レオン、行こう。此処にいたら危ないよ」


 しっかりとした力と、柔らかな温もりが、レオンの手を包んでいた。
その熱を感じ取った瞬間、レオンの胸の奥で、頑なに閉じていたものが、綻ぶように緩む。
怖気と嫌悪で眦に浮かんでいた雫が、ぽろりと零れ落ちた。

 レオン、と急ぐようにソラが急かした直後、彼の手は逆に強い力に引っ張られた。
思いも寄らない事に抵抗を忘れたソラの体が、レオンの胸に抱かれる。
柔らかな匂いに包み込まれて、ソラは一瞬何が起きたのかとパニックを起こしかけたが、


「ソラ……!」


 ぎゅう、と抱き締める腕が微かに震えているのを知って、ソラは我に帰る。
震える体をどう扱って良いか判らず、迷ったソラだったが、そっと頭を撫でてみると、レオンはソラの肩口に顔を埋めて鼻を啜った。

 そのままレオンが落ち付くのを待とうかと思ったソラだったが、ベッド下で呻く音が聞こえて、そんな暇はないと悟る。
ソラは抱き締めるレオンの腕を解いて、もう一度彼女の手を掴んで引っ張った。


「ソ、ソラ、」
「急ごう。窓から行こう」


 ソラはレオンを窓辺に押して、窓枠を越えるように促した。
レオンは言われるままに窓を乗り越え、地面に降りる。
ソラも、男を殴ってから床に転がしていたレオンの鞄を掴んで、裏庭に出た。

 静かになった部屋で、転がされていた男は、二人が宿を抜け出してから程無く目を覚ました。
プライドと自己中心の塊の男は、獲物を逃した事に酷く腹を立てる。
何せ、男がレオンに目を付けたのは、此処数日の話ではない。
ディスティニーアイランド号が寄港し、彼女と船のクルー達が街を巡っていた時から、男は唾をつけていたのだ。
整った容姿の中、一際目立つ眉間の傷が気になったが、それの経緯に興味はないし、敢えて傷物を愛でるのも面白い。
仕事を探す彼女を上手く誘導し、蜘蛛の巣まで誘い込んで、三日三晩、男はまだかまだかと手ぐすねを引いていた。
あれ程の上玉は早々逢えるものではないし、何としても手に入れて、自分専用に躾けてやりたかった。
それを散々待ち惚けにされた上で逃げられたのでは、溜まったものではない。

 彼女が身を寄せていた船が、明日の朝まで港に留まっている事は聞いていた。
逃げるのならば其処だろう。
直ぐに網を張れば、程無く捕まえられる───男はそうほくそ笑んだ。




 手を引かれるまま、レオンは走った。
破られた所為で、心許なくなった胸元を片腕で庇いながら、ソラの後ろをついて行く。
道は歩き慣れた大路ではなく、灯りのない裏路地だ。
迷路のように入り組んだ道を、ソラは右へ左へと無造作に曲がりながら、港に向かって走り続けている。

 止まらずに走り続けている所為で、レオンは横腹が痛くなるのを感じていた。
休ませて欲しい、と思ったが、そんな言葉も声に出ない程、喉が引き攣って動かない。
その内、脚が縺れてふらふらとし始め、真っ直ぐに歩けなくなる。
手を引く力でどうにか進んでいたレオンだったが、石畳の凹凸に足先を引っ掛けて、ついにソラの手を握っていた手が解けて転んでしまう。


「レオン!」


 直ぐに駆け戻って来たソラに抱き起こされて、レオンはなんとか立ち上がった。


「ごめん、疲れてると思うけど、急がないとヤバそうだから」
「……っ」


 ソラの言葉に、レオンはなんとか頷いた。
走る程に足は動いてくれず、それでもなんとか歩き始めると、ソラも歩調を合わせて歩き出す。

 幸い、港までは目と鼻の先まで近付いていた。
久しぶりの潮の匂いを嗅ぎながら、レオンはソラに手を引かれ、波止場まで進む。
もう一度見るとは思っていなかった、見覚えのある船のシルエットが近付いて、レオンは俄かに安心感を感じている事を自覚していた。

 二人が船の下まで近付き、ソラが中にいる仲間を呼ぶ───直前、銃声が響いた。
ビクッと二人の体が反射的に硬直し、足元で鉛が跳弾する。
硝煙の痕を残す地面から、背後へと振り返ると、宿で昏倒している筈の男が、マスケット銃を構えて立っていた。


「やっぱり此処に来たな。思った通りだ」


 笑みを浮かべる男から、ソラはレオンを庇って前に立つ。
見るからに幼い少年がレオンを庇うのを見て、男はくつくつと面白がって笑う。


「そいつが君の王子様か?随分、可愛いものだな。あの厳つい親父が来るのかと思っていたんだが」
「シドの事?シドなら、船の中にいるよ」
「知ってるさ」


 睨むソラに、男はマスケット銃を向けた。
眉間を狙う銃口に、蒼くなったレオンがソラを庇おうとするが、ソラはその場から動こうとしない。


「平気だよ、レオン。こんな奴、恐くもなんともない」
「しかし……!」


 男の脅威はレオンにとってもどうでも良かったが、銃はそうではない。
例え小さな子供でも、引き金を引けば人を殺す事が出来るのだ。

 震えるレオンの手を、ソラの手が握る。
自分よりも一回り以上小さな手が、しっかりとした強さと意思を持っている事を感じて、レオンは安堵すると同時に、震えるばかりの自分が情けなくて堪らなかった。

 男が銃を構えたまま、ゆっくりと近付いて来る。
二人の内、どちらかが少しでも動けば、男は躊躇いなく撃つだろう。
どうしたら、と混乱した頭を必死で巡らせるレオンに、男は言った。


「今直ぐ、俺の所に戻って来るのなら、悪いようにはしない。そのガキも助けてやろう。船に乗ってる奴等もな」
「シドさん達に何を…!?」
「先回りが出来たからな、ちょっと大人しくして貰ってるだけさ」


 土地勘のない二人が路地裏を走っている間に、男は子飼いにしていたゴロツキ達を集め、港に網を張っていた。
レオン達が船に乗り込んでも動けないように、先に船に忍び込み、乗組員を縛り上げてしまうように指示した。
目を付けていた時からの観察で、レオンが世話になった人々を無碍に出来ない性格である事は判っている。
自分の所為で恩人達が傷付くかも知れないと判れば、彼女は大人しく自分のものになる───そう言う算段だった。

 しかし、男は知らなかった。
彼女を取り巻いていた人々が、普通の船乗りではない事に。

 ドサッ、と船の傍で何かが落ちる音がした。
ビクッと肩を跳ねさせたレオンの反応に、おやおや、と男が勝ち誇った顔を浮かべ、


「誰か暴れたのかな?全く、大人しくしていれば、死ぬ事もない────の、に……!?」


 暗がりに目が慣れ、浮かび上がった影を見て、男は目を丸くした。
レオンがそんな男の様子に眉根を寄せていると、頭上から場違いな程に明るい声が響く。


「ソーラぁー!ほんっと、今度は何処で何やって来たのさ!」


 状況が判らなくなる程の爛々とした声に、レオンはぱちりと瞬きを一つ。
恐る恐る船の上へと振り返ってみると、舷縁に仁王立ちしている少女のシルエットが、月を背中にして浮かび上がっていた。
ソラと並んだ元気印の、ユフィである。

 縛り上げている、と言った男の言葉とは裏腹に、五体満足で年下の仲間に文句を言うユフィに、レオンはぽかんと口を開けた。
想像していた状況と違う、と混乱するのはレオンだけではない。
銃を構えた男は、舷縁に立つユフィと、船下で泡を吹いて失神しているゴロツキを交互に見て、呆然としていた。


「な…なん、…!?」
「ありゃ?レオン?」


 呆けた男を視界にいれる事もなく、ユフィはソラと並んでいるレオンに気付いた。


「レオンー、そんなトコで何してんのー?」
「え?レオンがいるの?」
「オイオイ。何やってんだ、お前」


 ユフィの声を聞いて、ティファとシドも舷縁から顔を出した。
レオンの不安を露知らず、いつもと変わらない顔を見せるクルー達に、レオンの体から脱力同然に力が抜けて行った。
ソラはそんなレオンが座り込まないように支えながら、船の上の仲間達に梯子を下ろして貰うように催促する。


「後で説明するからさ、取り敢えず梯子下ろしてー」
「だってさ、シド」
「ちょっと待て。クラウド、掃除まだ終わんねえか?」
「直ぐ終わる」


 クラウドの声の後、どさどさどさと連続して大きなものが船から落ちてきた。
それはどれも人の屍───死んではいないが───で、死屍累々とした絵図が夜の波止場に広がった。

 カラン、と音を立てて縄梯子が下ろされると、ソラはレオンの手を引いて船に向かう。
ソラは梯子のロープをレオンに握らせ、


「はい。先に上って」
「あ……で、でも、ソラは……」
「良いから、ほら。後から直ぐ行くよ」


 背を押されて、レオンは梯子を登り始める。
初めて上る縄梯子は、しっかりとしたロープで作られているので、千切れてしまうのではないかと言う不安には襲われなかった。
慣れない代物なので、昇り切るまで少し時間がかかったが、上まで行くとティファが腕を掴んで引っ張り上げてくれた。


「すみません、ありがとうございます」
「良いよ───って、どうしたの、その格好!」
「え……あ、」


 目を丸くしたティファに言われ、胸元があられもない事になっていたのを思い出す。
レオンは慌てて胸元を隠し、ティファはユフィに羽織り物を持って来るように頼んだ。
ユフィは直ぐに船室に向かい、程無く、エアリスと共に戻って来て、レオンに上着を渡す。

 船の上でそんな遣り取りが交わされている間に、ソラも梯子を上ろうと手をかけた。
その頃になって、放置されていた男もようやく状況を理解し、獲物が完全に手を離れた事に気付く。


「っっこのクソガキ!!」


 八つ当たりも同然に、マスケットがソラへと向けられた。
しかし、引き金に指がかかるよりも先に、銃声が響いて男の手からマスケットが弾かれる。
じんじんと痺れに見舞われる手を呆然と見詰める男を、剣と銃を肩に担いだ二人の男が、船上から冷たい眼で見下ろしていた。

 ソラが縄梯子の半分を上った所で、船がゆっくりと動き始める。
ティファの舵取りで動き出した船は、波止場を離れ、港の外へと向かって進んで行く。
港から沖へと向かって風が吹き、畳まれていたメインセイルが開く。
月に向かって走る船の、夜闇に浮かんだ髑髏の眼が、港に残された男をじっと睨んでいた。




 離れた港の明かりも、碌な形が捉えられなくなった頃、ディスティニーアイランド号は進む脚を止めた。
夜の海を漂う船の中で、ソラが仲間達に事のあらましを説明する。
その間に、レオンはエアリスの部屋で着替えさせて貰っていた。

 一通りの出来事を話し終えたソラの顔は、完全に怒り心頭になっていた。
宿で見た状況をそのまま話している内、レオンの安全を優先する為に押し込んでいた怒りが甦ったのだ。
途中から多分に感情を交えて話すソラを、シドもクラウドも咎める事はなく、ユフィに至っては「最っ悪!!」とソラと一緒に怒り出した程。
初めはそんなユフィを宥めていたティファも、段々と伝染したように怒りを覚え、港に放置した男の顔を一発も殴らずに捨てた事を後悔していた。

 ティファが淹れたホットミルクを、ソラは剥れた顔のまま飲んでいる。
シドはそんなソラの頭をくしゃくしゃと撫でた。


「お疲れさん」
「……俺よりレオンだよ」
「そうだな。ティファ、後で何か作って持って行ってやれ。喉も乾いてるだろうし」


 シドの言葉に、ティファは頷いて、直ぐにキッチンに向かう。
彼女の食欲があるかは判らないが、スープのような体の温まるものを用意すれば、少しは彼女の気持ちも解れるだろう。

 それにしても、と呟いたのはクラウドだ。


「真っ当な宿だとばかり思っていたんだがな」
「俺もだ。完全に騙されたぜ……」


 ソラの話は彼の主観で見たものだけなので、宿の事情は勿論知らない。
故に、シド達もどうして宿の主が男の蛮行を許しているのか、理由を知る事はなかった。
だが、知った所で、見ず知らずの人間をスケープゴートにすると言う行為に同調できる筈もなく、結局は怒りの火に油を注ぐだけだっただろう。

 環境を見極める為に設けた時間すら騙し抜かれた事は勿論、そんな場所に彼女を置いて行こうとしていた事を、男達は悔いていた。
そんな男達の隣で、ユフィがイライラとした顔のまま呟く。


「あたし達がいなくなるの、待ってたのかな?」
「多分な。そうすりゃ、レオンは完全に一人、頼る当てもなくなる。だから、手を出されたのが明日だったら、もっと最悪な事になってた」


 怒った事件には誰もが業腹だが、あの男に堪え性が無かった事が、結果的には幸運だった。
ソラも最後の夜になるからと彼女の下に行っていたので、惨事はギリギリの所で回避され、船も彼女を乗せての出港。
もしも男があと一晩待っていたら、レオンはあの男に捕まっていただろう。

 最悪になるかも知れなかった未来を想像して、ソラの眉間に深い皺が寄せられる。
そして、偶然とは言え、逢って来なよ、と促してくれたエアリスに、心の底から感謝した。
あの一言がなかったら、レオンがどうなっていた事か、考えるだけで腸が煮える。

 ズズー…と苛立ちを隠さない音を立てながら、ソラはミルクを空にした。
丁度そのタイミングで、船室のドアが開かれ、エアリスと着替え終えたレオンが入って来た。
あられもない形に破られた給仕服ではなく、シンプルなシャツとジーンズ───ソラ達が見慣れたレオンの私服だ。


「レオン!大丈夫だった?何もされてない?」


 直ぐに駆け寄ったユフィの言葉に、レオンは力なく笑って頷いた。


「大丈夫です。すみません、またご迷惑を……」
「謝るなよ。あんな場所だと見抜けなかったこっちの落ち度だ」
「いえ。シドさんも皆さんも、私の為に色々助けて下さいました。仕事をしている時は、本当に良い場所だと思いましたし」


 レオンの言葉に、シドとクラウドは目線を合わせ、こっそりと溜息を吐く。
職場環境が悪くなかったと言う事は、彼女は当面、あの仕事を続けるつもりだったと言う事だ。
時間が経つほど、きっと彼女は逃げ道を失っただろうから、今回の事は結果オーライにしよう、と目線だけで会話する。

 しかし、再びディスティニーアイランド号に乗る形となった事に、レオンは気まずさを感じていた。


「結局、またこうしてお世話になる事になってしまって……すみません。次の港に着いたら、もう…」
「え?降りちゃうの?なんで?」


 次の港で降りる事を示唆するレオンの言葉に、ユフィがきょとんと首を傾げた。
そんな彼女の反応に、レオンもぱちくりと目を丸くする。


「なんでって……」
「こうやって乗っちゃったんだし、もう良いじゃん。あたし達、今でもレオンをバラムに送るつもりでいるよ?」


 ね、と仲間達に呼びかけるユフィ。
クルー達からの返事はなく、否定の言葉が誰からも出て来ない事が答えだった。
レオンもそれを感じ取り、おろおろと船室に集まった面々を見回す。


「で、でも、今までにも色々お世話になって…」
「そう言うのも気にしなくて良いって」
「ですが私は、あの…皆さんのお手伝いも碌に出来ませんし」
「洗濯のやり方は覚えたんでしょ?宿でちょっとだけど仕事もした訳だし。だいじょーぶだいじょーぶ」
「い、色々と…厄介事も……ありますし……」
「あたし達、海賊だよ〜。厄介事なんて、放っといてもあっちから来るんだから。いつもと大して変わる事ないよ」
「………」


 何を言っても、暖簾に腕押しのユフィの反応に、レオンも言葉を失くしたようだった。

 晴れない表情で佇むレオンを、エアリスが背を押して、椅子へ座らせる。
肩を縮こまらせるレオンに、全員の視線が集まっていた。
その中で、一番彼女を真っ直ぐに見ていた丸い瞳が、俯くレオンの顔をそっと覗き込む。


「……レオンは、俺達と一緒にいるの、嫌なの?」


 聞き方が卑怯である事は、ソラも判っていた。
けれど、遠回しな事を言っても、きっとレオンははっきりと答えてくれない。
それは彼女が自分に課している戒めなのかも知れず、可惜と他人が踏み込んで良い事ではないだろう。
けれど、ソラはもう我慢したくなかったし、彼女の本当の気持ちが聞きたかったから、誤魔化さずに真っ直ぐに問う。

 レオンは、膝の上で握った拳を見詰めていた。
迷惑をかけたくなくて、この優しい空間から離れようと決意した。
しかし、成り行きとは言え、また戻って来ている。
こうなる事になるのは、夜の街をソラに連れられて走っていた時から、予想できていた。
此処に戻る事を拒否するのなら、あの時、なんとしてでもソラの手を振り払うべきだったのだ。
けれど、手を引く少年の手は、自分よりも一回りも小さいのに、とても強くて温かかった。
男に襲われた時、助けに来てくれた彼を見て、堪えていた涙腺が一気に緩んだのを覚えている。
あの時、そっと頭を撫でてくれた彼から、離れたくないと思った。

 レオンは目を伏せて、胸の奥から浮かんでくる不安を飲み込んだ。
不安から来る言い訳を取り除いてしまえば、見えてくるのは本音だけになる。


「……また、しばらく…お世話になっても、良いですか…?」
「しばらくなんて言わずにさ。バラムまで一緒に行くよ」


 レオンの問いに、間を置かずに答えたのは、ソラだ。
レオンがゆっくりと目を開け、顔を上げると、笑みを浮かべたクルー達の貌がある。

 コトン、とレオンの前にスープが置かれた。
どうぞ、と微笑みかけるティファに、レオンは小さく頷く。
ありがとう、と言う言葉は、涙で滲んで上手く音にならなかった。




【空と海の境界線上 憧憬編】