始まりは未だ遠く


喋る狐と仲良くなった。
子供の頃、そう言ったら、変な子だ、と周りから笑われた。

嘘なんて吐いていないのに、息子に甘い父以外は、誰も信じてくれなかった。
その父も、疑ってる訳じゃないけど、他の皆には言ったら駄目だぞ、と言った。
狐は皆と一緒に遊んでみたいと言っていたのに、どうして、と問うと、父は困った顔で笑って、そう言うものなんだよ、と言った。

どうして喋る狐の事を皆に話してはいけないのか、皆が喋る狐がいる事を信じてくれないのか、子供の頃は全く判らなかった。
けれど成長するにつれて、その狐がどうして喋るのか、それがどんな意味を持っているのか知るに連れ、皆が信じてくれない理由が理解できるようになった。

俗に言われる話として、猫又と言う妖怪がいる。
長く生きた猫は、妖力を持ち、尾が二つに分かれて、“獣”の領域を逸脱するのだ。
幼い頃に仲良くなった“狐”は正にそれで、その時点で既に、狐の尾は七又に分かれていた。
だが、スコールがそれをそうと知るまでは、随分と長い時間を要する事となる。
気付いた時には、狐の尾は八又に分かれており、スコールにとって狐は自分の全てを知る者となっていた。




学校帰りに、スコールは必ず立ち寄る場所がある。
それはビルとビルの隙間に取り残された、小さなお堂のような神社だった。
狐を祀ったその神社は、宮司も神主も随分昔から途絶えており、地域の自治体が最低限の管理をしているだけのものだ。
古くからこの地域に存在していた社だけに、壊す事は勿論、移す事も気が引けたらしく、こう言った状態が続いている。

朱塗りすら褪せた鳥居を潜ると、澄んだ空気がスコールを包み込む。
広くはない敷地を囲む木々が、騒がしいものからこの静かな空間を守ってくれているようだった。
その静けさが好きで、幼い日のスコールは、心無いクラスメイト達にいじめられる度、この神社を訪れていた。
今では、特に何か出来事があって此処に来る訳ではないが、何年も通い詰めていれば、習慣にもなって来る。
何よりスコールは、この神社にいる“もの”に逢うと言う目的があった。

長らく使われていないであろう、壊れた賽銭箱の裏に回って、拝殿の前に座る。
帰り道のコンビニで買った稲荷寿司を取り出して、スコールは拝殿扉の前に置いた。
それから取り出したおにぎりの包装を破って、ペットボトルの水を傾けながら食んでいると、きしり、と木板の軋む音が鳴る。


『お帰り、スコール』
「……ただいま、レオン」


肉声ではない声が、スコールの耳に届いた。
振り返れば、黒い毛色の獣がいつの間にかスコールの背後に座っていた。

大きな三角の耳、長いマズル、切れ長の目、そしてふさふさとした八又の尾。
尾の数と、頭の天辺から足先まで真っ黒だと言う珍しい点さえ見逃せば、其処にいるのは紛れもなく狐であった。
レオンと言う名は、幼い頃のスコールが勝手に名付けたものだ。

スコールは口の中のものを飲み込んで、ん、と小さく返事をした。
レオンはそんなスコールに満足そうに笑って、足元に置かれた稲荷寿司を食べ始める。
スコールは体の向きを元に戻して、レオンに背を向けたまま、おにぎりを最後まで食べ切った。

ペットボトルを傾けるスコールに背に、とん、と暖かいものが柔らかくぶつかった。
スコールは濡れた唇を拭いて、空になっていた稲荷寿司のプラスチックパックに水を注ぐ。


『学校はどうだ?』
「……別に」


今更聞くまでもないだろう、とスコールは言った。
レオンはしばらく沈黙した後、水を飲み始めた。

風が吹いて、鎮守の森がさわさわと音を立てる。
ビルの隙間にあるのに、何処から風は来るのだろう。
噴き下ろしてくる風にしては、随分と優しい。

スコールにとって、学校は煩わしいものでしかなかった。
行かなければいけない、と言う意識は一応はあるものの、義務教育である中学は二年前に終わっている。
将来にやりたい事がある訳でもないし、職を探す程に生活が困窮している訳でもないから、取り敢えず高校に進学したに過ぎない。
高校は中学校と違い、区外の進む学校を選んだけれど、それも将来に希望があったからではなく、小学生の頃から延々と続く、自分に対するいじめや好奇の目線が嫌になっただけの事。
自分の事を誰も知らない場所に行きたくて、今の高校を選んだのだ。

学校が煩わしい理由の大部分は、スコールの人間関係への消極さだ。
子供の頃から、他人には見えないものが見えてしまい、それが可笑しい事だと理解するまで、随分と時間がかかった。
その間に続いた陰惨ないじめは、スコールの心に暗い影を落とし、今でも深く根付いている。


(………何処かに行きたい)


背に触れる温もりに寄り掛かって、スコールは思った。

ふわりと柔らかなものがスコールの身体に巻き付く。
狐の真っ黒な尻尾だった。
この尻尾に包まるのが好きで、幼い日のスコールは、度々この神社に足を運んでいた。
今でも、ふわふわとした感触や、柔らかな温もりは離れ難く、スコールを此処へ誘う理由となっている。

背を乗せた狐は、案外と大きな体躯をしていた。
これはスコールが子供の頃からで、昔は小柄なスコールが背に乗れる程であった。
今ではスコールも背が伸び、レオンを───大分苦労するが───抱えられる大きさになったが、それでもレオンは、スコールを昔と変わらず子供扱いする。
生きて来た時間が違うのだから、無理もないだろう。
尾が八つに分かれる程に生き永らえて来たレオンにとって、十七歳の人間の子供など、赤子同然に違いない。

スコールは胴に回された尻尾を一つ摘まんで、柔らかく握った。
ペットボトルを傾けながら、手遊びするように握って離してを繰り返すスコール。
ぼんやりと見上げた先には、ビル山の向こうに沈もうとしている赤い太陽がある。


「……明日から、林間学校なんだ」
『なんだ、それは』


スコール以外の話し相手がいない所為か、レオンは現代の物を良く知らない。
詳細の説明を求めるレオンに、詳しく言うのは面倒だな、とスコールは思い、


「…授業の体で、山に入って遊ぶんだ」
『お前が嫌いそうな授業だな』
「……行きたくない」
『休めないのか?』
「体調が悪ければ休めるだろうけど。そうしたら、ラグナが煩い」


過保護で知られている父の名を出せば、確かにな、とレオンが笑いを交えて言った。

ラグナは、幼い日のスコールが、何度かレオンの事を話し、俺も喋る狐さんに逢ってみたいな、と言うので、神社まで連れて来た事がある。
結局ラグナはレオンの存在が見えず、レオンと喋る事も出来なかったのだが、彼はレオンの存在を訴えるスコールを疑ってはいなかった。
そんな父親を見て、息子に大分甘いが良い大人だ、とレオンは思った。

明日、スコールが体調不良を訴え始めたら、ラグナは大いに心配するに違いない。
病院まで連れて行かれるかも知れない。
其処まで大袈裟にされると、反って面倒臭い、とスコールは言った。

ふさっ、と尻尾が揺れて、スコールの身体を包み込む。
さわさわと森が揺れる音すら、遠くなるのが判った。


『林間学校とやらは、いつまでなんだ?』
「……三日。憂鬱だ」
『だが、滅多にない経験をする為のものなんだろう』
「それはそうだけど。面倒臭いし。帰るまであんたに逢えない」


それが嫌だ、とスコールは言った。
ふさっ、と尻尾が揺れる。

スコールは尻尾の端を摘まんで、毛先を指で遊ばせながら思う。


(……あんたが此処を出られたら良いのに)


レオンは、永らくこの神社から外に出た事がないと言う。
縛られているのか、単にレオンが外に出る気がないのかは、聞いた事がないので判らない。

子供の頃は、レオンが外に出ない事は、寂しいけれど嬉しかった。
誰もレオンの存在を信じてくれないから、スコールは嘘つき、変な子と言われて苛められるようになったけれど、自分だけの秘密の友達が出来たような気がしたのだ。
若しもレオンが外に出たら、自分以外の友達を作って、そうなったら泣き虫で弱虫な自分は呆れられて嫌われるに違いないと思った。
それは嫌だと思ったし、何より、自分がレオンに逢いに行ける事が楽しかった。
小さな足を精一杯動かして、神社に飛び込み、其処にレオンが待ってくれている事が、幼い日のスコールにとって、かけがえのない喜びだったから。

けれど、成長した今は全く逆の事を考えている。
背が伸びて行く毎に、勉強時間は増え、レオンと一緒に過ごす時間が減って行く。
学校行事は、担任教師の方針で、余程の体調不良か家庭事情がなければ休ませて貰えず、ほぼ強制参加になってしまう。
スコールは、そんなものに参加するより、レオンの所に行きたい、と何度思ったか知れない。


(…あんたと一緒にいたいのに)


背中の温もりに体重を預けて、ずるずると背中が落ちて行く。
拝殿に寝転んだスコールを、咎める者はいなかった。

ぺろ、と頬がくすぐられる。
レオンの舌だ。


『寝ると帰りが遅くなるぞ』
「……いい。今日はラグナは帰らない」
『風邪を引く』
「…そうしたら、明日休めるな」


腕で顔を隠して丸くなるスコールに、やれやれ、と狐は溜息を吐いた。

頭の傍で、きしきしと古い木板が音を立てている。
しばらくして音が止まると、暖かいものが頭を囲むのが判った。
ふわふわと暖かいそれが、レオンの体温だと知るまで、時間はかからない。


『風邪を引いたら、明日の林間学校とやらは休めても、此処にも来れなくなるぞ』
「……あんたは、明後日も此処にいるだろ」
『三日後も此処にいる』
「だから林間学校に行けって?」
『いや。俺も、三日もお前と逢えないのは、寂しい』


スコールの首下に、しっとりと濡れた鼻と、細いヒゲが当たる。
くすぐったいな、と思いながら、スコールは目を閉じた。


(俺も、あんたに逢えないのは、寂しい)


レオンは、スコールの心の拠り所だ。
幼い頃から、レオンはスコールの唯一の友達で、自分の全てを知っている者だった。

────だから、思う。


(あんたと、ずっと一緒にいられたらいいのに)


こんな風に、夕暮れのほんの一時ではなく、ずっと。
明日逢える逢えないではなく、傍にいる事が出来れば良いのに。

スコールは身動ぎをして、自分を包んでいる狐の尻尾に腕を回した。
潰さないように力加減をしながら抱き着けば、ふわふわとした毛並が心地良い。


「……レオン……」


小さく小さく名を呼んで、それきり、スコールは静かになった。
勉強で根を詰める事が多いスコールは、昨夜も遅くまで勉強机に齧り付いていた。
レオンはそれを見てはいないが、スコールの目の下に薄らと残ったクマを見れば、彼が睡眠不足に陥っていた事は容易に想像できる。

すぅ、すぅ、と寝息を立てるスコールの寝顔は、昔からレオンがよく見ていたものと変わらない。
レオンはそんなスコールの頬に顔を寄せ、ぺろ、ぺろ、とまろい頬を舐める。

きゅ、とスコールが抱いている尻尾が強く抱き締められる。
スコールはいつも遠慮がちに抱くので、引っ張られたり、痛みを感じた事は一度もない。
もっと強く抱き着いても良いのにと思うが、スコールはあまり他者の体温が得意ではなかった。
それを思えば、こうして抱き着いたり、身を寄せたりしてくるだけで、スコールと言う人間にとって大きな意味を持つのだろう。

カア、カア、カア、と森の向こうで鴉が鳴いている。
よく通る鴉の声に、スコールが僅かに身動ぎしたのが判った。
八尾の中の一本でスコールの頭を覆い、まだ響く鳴き声から隠してやる。


『………』


遊ぶ尻尾がふわふわと揺れる。
レオンはそれの全てで以て、スコールを世界から包み隠して呟いた。


『……あと、少し……』


あと少しで、お前の願いを叶えてやれる。

その呟きを聞いている者は誰もいない。
スコールはすぅ、すぅ、と穏やかな寝息を立てている。
夕の空が完全に見えなくなる頃には起こそうと決めて、レオンも束の間、目を閉じた。



──────狐の尾がもう一つ分かれる、ほんの少し前の話である。




2014/08/08

『獣レオン×と人間スコール』のリクを頂きました。
ライオンと狼と狐で迷って、狐です。完全獣型ですが、多分後に人型にもなれるようになる。
なんか色々設定作ってましたが、使う余裕なかった。

このスコールは昔から霊感やら何やらが強かった感じ。その所為で色々卑屈になってます。