はじめのいっぽ


我が家の小さなアイドルが、掴まり立ちが出来るようになった。

ずり這いを習得したタイミングも含め、先にその道を通った兄や姉に比べると、随分とゆっくりとしたペースだが、この頃の差は大した問題ではない。
比較的活発だった二人に対し、末息子のスコールは、甘えたがりでのんびり屋だ。
自分で動き回るよりも、誰かに抱き上げられているのが好きなようだし、何より、周りがすっかり甘やかしたがりになっている。
スコールが欲しいものは、父を筆頭に兄と姉が先を争って取りに行くし、抱っこをねだられれば直ぐに応えていた。
欲しいものが中々手に入らない時は、大きな声で泣けば、大抵は誰かが駆けつけてくれる。
そんな訳だから、興味のある物に対して積極的だった兄姉に比べると、自分で一所懸命になる事は少なかったかも知れない。

けれども、可愛い可愛い幼子に、早く歩けるようになって貰いたい、と周囲が思っているのも事実。
そうすれば、もっともっと色んな事が一緒に出来るようになる。
お散歩したい、縄跳びしたい、と口々に言う子供達に、そうだなあ、皆で一緒にやろうなあ、と父が言った。
近い将来を楽しみにしている保護者達に囲まれたスコールは、きょとんとした顔で首を傾げていたものである。

そんな家族の夢が、少しずつ現実味を帯びてきた。
初めてスコールの掴まり立ちの現場を見たのは、幼稚園から帰っていた姉、エルオーネだった。
リビングのローテーブルでお絵描きをしていたら、スコールがテーブルの足に捕まりながら立っていたと言う。
今まで、立とうとする仕草は何度か見られていたが、その度、力尽きてぽてっと尻もちを付いていたスコールが、ようやく立てたのだから、きっと驚いた事だろう。
お母さんお母さん、と呼ばれたレインが見た時には、スコールはいつものように尻もちをしていたのだが、「立ったよ!スコール、たっちしたんだよ!」と興奮してはしゃぐエルオーネに、レインも嬉しくなったものだ。
レオンやラグナに至っては、その瞬間を見れなかった事を酷く後悔していた位、一家にとって一大イベントとなった。

一度掴まり立ちが出来るようになれば、後は反復練習の要領で、同じ行動を繰り返す内、きちんと立てるようになった。
立って見せると家族が拍手で褒めるので、スコールもそれを覚えたらしい。
最近のスコールは、何はなくとも立って見せるようになり、拍手されると嬉しそうにきゃっきゃと笑っていた。



夏休みに入って、レオンとエルオーネは家にいる時間が増えた。
普段、日中は母と二人で過ごすスコールは、遊び相手がずっといてくれるのが嬉しいようだったが、流石に二人もいつまでも弟の相手ばかりはしていられない。
特に小学生のレオンは、夏休みの宿題と言うものがあり、一日に数時間は其方に時間を取られてしまう。
エルオーネも幼稚園から宿題に当たるものが出たようで、夏休み明けに提出する為の工作をやっている。
レインに言われ、時間を決めてそれを熟している二人だが、まだ一歳のスコールには、そう言う事は全く判らないもので、


「うー。あー、うー」
「レオン、ここテープはって」
「どこだ?」
「ここ」
「あうぅ。あー、あー」


リビングのカーペットに座って、宿題をしている兄妹と、色取り取りの積木で遊んでいる弟。
父ラグナは今日は午前中のみの仕事に行っており、母レインは庭で洗濯物を取り込んでいる。
一時、リビングには子供達だけが残されていた。

妹に頼まれて、レオンはセロハンテープを切って、エルオーネの指している場所に貼る。
エルオーネは、牛乳パックを使ったオモチャを製作していた。
先週、テレビの教育番組で見た工作オモチャを参考に、出来るだけ自分の力で作れるように頑張っている。
とは言えまだ5歳なので、要領の悪さは否めず、落ちるのを防ぐ為に押さえているとテープが貼れない、と言う場面ではレオンを頼っていた。

レオンの宿題は順調に減っている。
元々サボる性格ではないし、普段の宿題も忘れ物はほとんどしない。
エルオーネが生まれて以来、兄として見本になるように頑張っている彼は、弟が生まれて益々その気持ちが強くなったらしい。
妹弟の面倒を見つつ、彼は立派な長兄として、成長しつつあった。


「うーん……あと一ページやろうかな…」
「クレヨンもってくるー!」
「廊下、走ったら転ぶぞ」
「はーい」


ドリルの次ページを捲ろうか考えているレオンの脇を、エルオーネがぱたぱたと駆けて行く。
お転婆な妹は、返事ばかりであったが、まあ良いか、とレオンはドリルに向き直った。

宿題は、前倒しにやればやる程、後が楽だ。
小学生の夏休みを既に二回経験しているレオンは、それをよく知っていた。
今の所は全くの予定通りなので、此処でちょっと進めようか、と思っていると、


「うー。うー。あーい」
「ん?」


たん、たん、と床を叩く音が聞こえて、振り返ると、スコールが此方を見ていた。
夢中になっていた積木は脇に退けられており、どうやら飽きてしまったらしい。
遊んで、構って、と手を伸ばして来る弟に、レオンの眦が下がる。

予定は予定通りなのだし、まあ良いか、とレオンはドリルを閉じた。
レオンが腕を伸ばすと、スコールの小さな手がぎゅっと兄の手を握る。


「う、うっ。うーぁ」


スコールはレオンの手をぎゅうっと強く握りながら、まだまだ重いのであろう体を持ち上げる。
レオンは、そんな弟を手助けしたい気持ちに駆られつつ、ぐっと堪えてスコールの力を信じて待った。

スコールの掴まり立ちは、慣れて来たのか、段々と上手くなっている。
今日は昨日よりも短い時間で、真っ直ぐ立つ事が出来た。


「スコールはたっちが上手だな」
「じょーう?」
「うんうん」


舌足らずに兄の言葉を真似るスコール。
レオンはすっかり緩んだ顔で、スコールを抱き上げて、膝の上に乗せてやった。
大好きな兄の膝に乗せられて、スコールはきゃっきゃと嬉しそうに笑う。

一頻り兄の膝を楽しむと、スコールはきょろきょろと辺りを見回した。


「ねーえ、ねーえ」
「ねえねはいないぞ」
「ねーえ。ねー」
「よしよし。すぐ戻って来るからな」


さっきまでエルオーネが此処にいた事を、スコールも覚えているのだろう。
いなくなった事については、積木に夢中になっていたので、気付いていなかったのだ。

姉の事が大好きなスコールは、エルオーネがいないのが不満だったらしく、ぷうっと丸い頬が膨らむ。
レオンは体を揺り籠のように揺らして、膨れ顔の弟をあやした。
その言葉の通り、ぱたぱたと廊下を駆け戻って来る音がして、


「ほら、エルが戻って来た」


レオンが言うと、スコールはぱっと明るい表情になって、きょろきょろと姉を探す。
エルオーネがドアを開けて入って来ると、スコールは早速手を伸ばした。


「ねーえ、ねーえ」
「あれ、スコール。積木は?」
「飽きちゃったみたいだ」
「んーえ、ねーえー」


だっこをせがんで手を伸ばすスコールを、レオンは膝から下ろしてやった。
小さな両脇に手を入れて、エルオーネの方を向けて、両足を立たせてやる。
スコールがきちんと足に力を入れて立ったのを確かめてから、レオンは手を離した。

きちんと自分の足で立ったスコールを見て、エルオーネがぱちぱちぱち、と手を叩く。


「スコール、上手上手!」
「……えは」


レオンに続いてエルオーネにも褒められて、スコールがにぱーっと笑う。
その笑顔が、家族には愛らしくて堪らない。

────と、二人が弟の笑顔にすっかり骨抜きになっていた時だった。


「う、う、」
「おっとと。危ないぞ、スコール」


重い頭をふらふらと揺らしているスコールに、転んだら大変、とレオンが小さな体に手を添える。
何せ直ぐ隣にはローテーブルの縁があるから、転べば頭を打つかも知れない。
母がいれば、「貴方もエルも、あちこちよくぶつけてたから、大丈夫よ」と笑っただろうが、レオンはどうしても妹弟に過保護になる。
こうした所は、子煩悩な父に似たのだろうと、母は言っていた。

スコールは背中に添えられたレオンの手には気付かず、力んだように声を上げている。
何をしているんだろう、とレオンとエルオーネが首を傾げていると、とん、とスコールの右脚が前に出た。


「んっん、んっ」
「……スコール、お前」


レオンが呼ぶ声と重なって、今度は左足が前に出る。
それからスコールは、ぺたんとその場に座り込んだ。


「ねーえ。ねーえ」


だっこして、と小さな手が姉に甘えている。
だが、兄姉は揃ってそれ所ではなくなっていた。

レオンとエルオーネは、丸くなった目を互いに見合わせた。
見間違いじゃない、とお互いの反応を見て確信すると、レオンはスコールを抱き上げた。
後ろから抱き攫われてきょとんとしているスコールに構わず、兄妹は走って玄関へ向かう。

玄関には、丁度洗濯物を片付け終えて家に戻って来た母と、仕事を終えて帰ったばかりの父の姿があった。


「母さん!あっ、父さんも!」
「おう、ただいまー」
「お帰りなさい!」
「どうしたの、二人とも。そんなに大きい声出して」


血相を変えて飛び出してきた息子と娘を見て、レインが目を丸くする。
二人がこんなにも取り乱す事となったら、溺愛しているスコールに関する事だけだ。
幼い末息子に何かあったのかと両親が見遣れば、スコールは兄に抱かれてきょろきょろと首を巡らせている。
やがて母譲りの蒼灰色が両親の姿を捉えると、ぱあ、と嬉しそうな表情を浮かべた。

エルオーネと、スコールを抱いたレオンが、両親の下へ駆け寄った。
興奮し切った二人の様子に、父が「どした?」と訊ねると、


「スコール、あるいた!」
「え?」
「スコールが歩いたんだ!」


声を大きくした二人の言葉に、ラグナとレインは顔を見合わせた。
突然の事に、一瞬理解が出来なかった二人だが、それが数秒して追い付くと、


「本当か!?」
「ほんと!」
「いつ?」
「さっき!」


飛び付く勢いの父に、息子と娘ははっきりと答えて頷いた。
それを聞いたラグナが、ぐあーっと頭を抱えてしゃがみこむ。


「マジかぁー!初めて立った所は見れなかったから、歩く所は見ようと思ってたのに!」
「私も見たかったなあ。掴まり歩きしたの?」
「違う。俺、ちょっと支えてたけど、でも自分で」
「自分でね、あるいたの!こうやって」


再現して見せるエルオーネを見て、見たかったあ!とラグナが叫ぶ。
仕事なんかに行ってなければ見れたのに、と心の底から悔やむ夫に、こればっかりはね、とレインは苦笑するしかない。

レインに促されて、親子はリビングへと戻る。
兄に抱かれていたスコールが、カーペットに下ろされて、自分を囲む四人をきょとんとした顔で見回した。


「ね、スコール。さっきの、もう一回やって」
「スコール、歩くとこ見せてくれよ〜」


エルオーネとラグナにねだられるスコールだが、彼はきょとんと首を傾げている。
レオンがスコールの脇に手を入れて、立つように促した。
しかし、周りの賑々しさに委縮したか、スコールはレオンの手をぎゅうっと握って捕まえてしまう。


「スコール、」
「うーう。うあぅ」
「手を離したいんだけど…」
「あーあ。やぁうぅー」


小さな手はしっかりと兄を捕まえて、離そうとしない。
何やら仰々しい雰囲気になっているのを感じ取ったのかも知れない。
レオンが手を離そうとすると、守ってくれるものを求めて、いやいやと頭を振る。

頑張って、頑張れ、と応援するエルオーネとラグナだが、スコールは困惑するばかり。
終いにはすっかり縮こまって泣き出してしまい、レオンも含めてあわあわとする家族に、レインは眉尻を下げて、長兄の腕から末息子を引き取る。


「えああぁ、あぁー、わぁぁあ」
「びっくりしちゃったわね。よしよし」
「スコール、ごめんな。恐がらせたな」


母にしがみついて泣くスコールに、ラグナがすっかり弱った顔で謝る。
その傍らで、レオンとエルオーネも心配そうに弟を見上げていた。

レインは息子のチョコレート色の髪を撫で、ソファに座って、膝にスコールを下ろした。
離れたくないと言わんばかりにしがみつくスコールに、あんよの練習はまた今度かしらね、と言う。
ラグナが残念そうに肩を落としたが、こればかりはスコールの気持ちが働かなければどうにもならない事だ。
幸い、明日から三日間、ラグナは仕事が休みになるので、その間にまた見れるかも知れない。
そう言う妻に、そうだな、のんびり待つよ、とラグナは言った。

すんすんと鼻を啜る弟を、レオンとエルオーネが撫でて慰める。
びっくりさせたな、ごめんね、と謝る二人に、スコールは涙を滲ませた瞳で、ことんと首を傾げたのだった。




2016/08/08

お父さん、お母さん、事件です。
弟が立って歩きました。
そんな感じで、一々大騒ぎになる末っ子溺愛一家は書いてて幸せ。

ちなみに、レオンが赤ん坊の時にはラグナが、エルが赤ん坊の時はレオンが大騒ぎでした。
レインもびっくりしてるけど、自分以上に家族が大わらわになってるので、一周回って落ち着く。
後で思い出したりして、びっくりしたなあ、って思ってる。