砕けた破片、零れた音


物心がついた時から、人付き合いと言うものが苦手だった。
沢山の人の輪の中に入って行く勇気などないし、頑張って踏み込んでも、其処に自分の居場所があると思えない。
あるのは自分の発言によって何が起こるのか、それが良い事か悪い事か、それによって自分の初めからない居場所が更に失われるかどうかと言う事。
傍にいて安心する事が出来るのは、家族と言う極限られた人のみで、後は全て他人。
保育園の先生も、同じ年頃の男の子も女の子も、全て“他の人”で、スコールにとって心を預ける人間には成り得ない。
どうしてそう感じるのかと言われても、理由が判るものであるなら、スコールの方が教えて欲しい位だ。
ただ、本能的に、スコールはそう考えるように出来ていて、そう言う風に感じる人間なのだとしか言いようがなかった。

だから幼い頃から、家族以外の人と向き合うのが苦手で堪らなかった。
周りにいる者がいつ自分を攻撃してくるか、そんな妄想に囚われていた事も否めない。
それは誰に責任がある訳でもなく、勿論、スコール自身が悪い訳でもない。
そう言う風に感じ、考え、掴み処のない不安に捕まってしまう、強迫観念が頭の芯に根付いていただけだ。

スコールにとって幸いだったのは、家族がそんなスコールを受け入れ、理解してくれていた事だろう。
幼い時分から続く酷い人見知りを、確りしなさいと叱られた事は一度もない。
無理しなくて良いよ、と手を繋ぎ、毎日のように保育園や小学校の送り迎えをしてくれた兄や、怖い思いをすると直ぐに駆け付けてくれる父のお陰で、スコールは必要以上に委縮した成長をせずに済んだ。
社会生活に置いて、否応なく迎えなければならない独りの時間と言うものも、兄と父が時間をかけて慣らしてくれた。
だからスコールは、中学生になる頃には、一人で学校生活を送れるようになり、会話は相変わらず少ない性質であるが、友人と呼べる者を持つ事も出来た。

それでも、相変わらずスコールの世界は狭い。
幾らか克服したとは言え、幼年の頃から続く、外の世界への恐怖意識は、簡単に拭い去れるものではなかったから、無理もないだろう。
だが、スコールはそれで自分の生活に不自由を感じた事はなかった。
生まれてこの方、その場所から動く事なく成長して死んでいく人間などごまんといるのだから、スコールだけが自分の世界に閉じこもってはいけない理由はない。
父も兄も、若しもスコールが自分の意志で何処かへ行きたいと思うなら、その時は遠慮しなくて良いと言う。
だからその日が来るまでは、スコールが過ごしやすい場所で、楽な気持ちでいられる場所にいれば良い、とも。

だから、なんとなく、このままの世界が続いて行くのだろうと、スコールは思っていた。
少なくとも、自分が真っ当な独り立ちが出来るようになるまでは。

けれども、色が変わる瞬間と言うものは、前触れもなく訪れる。

“彼”が兄と特別な間柄である事は知っていた。
いつ頃からか、詳しい事をスコールは知らないが、ある一時から、兄が家族の前では見せない顔を、彼と一緒にいる時だけ見せていた。
それを初めて見た時は、少なからずショックを受けたように思う。
自分の世界で一番頼りにしていた兄が、知らない何処かで、知らない何かに変わっていくような気がしたからだ。
だから初めは、“彼”を酷く警戒したし、ひょっとしたら嫌ってすらいたのかも知れない。
誰よりも頼りにしていた兄を作り替えていく異物として、彼と言う存在を排そうとしていた────そんな気がする。

けれど、“彼”がとても優しい人だと知った。
兄の変化を喜ぶ父の傍ら、その変化を受け入れられない自分が、苛立ちを募らせていた時の事だ。
大事な兄貴なんだろう、すまないな、と弱り切った顔で詫びを告げられて、酷く戸惑ったのを覚えている。
何も言わずに兄を浚って行くような人なら、自分の世界を壊した犯罪者として、一方的に憎んでいられたのに、“彼”はそうしなかった。
スコールの世界の形を変えた事を理解しており、それを齎したのが自分である事も判っていて、それを恨むスコールを咎めようとはしない。
悪いな、と言って頭を撫でる“彼”に、スコールは自分の矮小さを思い知った。
同時に、こんなに優しい人なら、兄が心を預けるようになるのも無理はないのだと知って、そんな人に逢えた兄が、羨ましくなった。

スコールに、唯一無二と呼べる人はいない。
敢えて言うなら、父や兄がそうだったのだろう。
けれど、父にとっては母が、兄にとっては“彼”が唯一無二だ。
それを言えば、彼等は口を揃えてスコールの事も唯一無二の家族だと言うのだろうけれど、違うんだ、とスコールは思う。
“家族”ではなく、“スコール”として、一個人として、自分を唯一無二に見てくれる人が欲しい。
スコールは、そう渇望するようになっていた。

その渇望の矛先は、いつの間にか“彼”へと向けられた。
“彼”は、恋人である兄に対しては勿論、その弟であるスコールにも、優しい。
露骨な子供扱いには辟易する所もあったが、柔らかな眼差しで見詰められると、心の奥底まで除かれてしまいそうで、怖いと思う反面、全てに気付いて欲しいと思った。



一日の就学時間を終え、夕飯の買い物を済ませて家に帰ったスコールを出迎えたのは、一足の靴。
スコールの靴よりも一回り大きなそれが誰のものであるのか、スコールは直ぐに悟った。

“彼”がいる。
それを知ったスコールは、逸りそうになる足を抑え、いつもの歩調を意識して短い廊下を進む。
そして突き当りにあるリビングへのドアを、一呼吸して心臓の鼓動を宥めてから、押し開けた。


「……ただいま」


いつもよりも少しだけ、声が大きくなった。
明らかに浮ついている自分に呆れつつ、目当ての人を探してリビングを見回す。

“彼”はソファに座っていた。
後姿を見付けて、心臓が跳ねている間に、“彼”がゆっくりと振り返る。
二対の瞳が交じり合うと、“彼”は静かに笑って、口元に人差し指を立てた。
静かに、と促す“彼”に、スコールは首を傾げて、ソファまで近付いてみる。

ソファの前に回り込んで、スコールは“彼”が静寂を誘った理由に気付いた。
ソファに座る“彼”の傍らに、兄───レオンが横になっている。
決して小さくはない体を丸め、世界から隠れるように縮こまり、“彼”の膝に頭を乗せて、眠っているのだ。


「……レオン」
「仕事で少しトラブルが起きてな。対応に追われたから、疲れているんだ」


眠るレオンを見遣れば、疲労した事の証のように、眉間に深い皺が刻まれている。
寝かせてやってくれ、と言う“彼”に、スコールは小さく頷いた。

スコールは買い物袋をキッチンへ運び、夕飯に使うものを残して、それ以外を冷蔵庫へと詰める。
料理の準備を進めながら、スコールはちらりとリビングを見た。

仕事でレオンに何が起こったのか、スコールが知る由はない。
だが、スーパーマンとは言わずとも、何事も効率よく捌く事が出来る兄があんなにも疲れているのだから、相当な事があったのだろう。
“彼”はレオンの同僚でもあるから、何があったのかもよく判っている筈。
だからこそ、“彼”はレオンと共にこの家へと帰宅して、疲れているレオンを休ませているのだろう。


(……あんなレオン、初めて見た)


これまでの生活の中でも、レオンが疲労して帰って来る事は少なくなかった筈。
それでもレオンがリビングのソファで寝落ちる事は愚か、弱った所すら彼は見せる事はなかった。
父はそんな長男を心配していたが、それも判った上で、レオンは「大丈夫」と笑っている事が多かったように思う。

そんなレオンが、“彼”の前でだけは、違う顔を見せる。

鍋に入れた水を沸騰させていると、微かに話声が聞こえて来た。
潜めるような小さな声は、ソファの方から聞こえて来る。
確かめるまでもない、レオンと“彼”のものだ。


「……悪い、寝ていた…」
「構わない。寝ろと言ったのは俺だ」
「………」
「まだ痛むか?」
「……少し」
「なら、まだ寝ていろ」
「………」
「会社からの連絡もない。滞りなく回っていると言う事だろう」
「……だと、良いが……」


不安か、と問う“彼”に、レオンの返事はなかった。
否とも応とも言った様子はなかったが、肯定なのだろう。
“彼”もそう受け取ったようで、“彼”は身を屈めて、何かをレオンに囁いた。

スコールがちらりとソファを見ると、ソファの膝枕をされているレオンの頭を、“彼”が撫でているのが見えた。
それを見た瞬間、ずきりとスコールの胸が軋む。

“彼”の手は、節が長く綺麗な形をしていて、頭を撫でる時は少しぎこちなく動く。
よくスコールの頭を撫でていたレオンや父ラグナと違い、人との触れ合いには慣れていないのだろう。
それでも、触れ合う相手を安心させるようにと、思い遣っている事は確かだった。
……スコールも、あの手に何度も頭を撫でられた事があるから、よく判る。


(………)


じわじわと滲んでくる感情の正体を、スコールは気付いている。
しかし、それを認めてしまったら、大事な物を壊してしまう事も判っていた。

時折交わされる声を、意識の外へ追い出して、スコールは夕飯の準備を始めた。
リズム良く野菜を刻む包丁の音は、ソファに座っている二人にも聞こえているだろう。
弟が帰って来ている事を、レオンも気付いている筈だ。

時計を見ながらいつも通りの手順を進めて行けば、毎日と変わりなく、食事の用意が整って行く。
作り終えた料理を食卓へと揃えるべく、スコールは食器棚の戸を開けた。
目線の高さよりも一つ上の位置にある皿を取り出そうと、腕を伸ばす。
家族分の三枚の皿を取り出した所で、もう一枚いるだろうか、と予定になかった“彼”を見遣り、


「─────っ」


見付けてしまった光景に、躯が震えた。

重なり合う為に近付いた、“彼”とレオンの影。
“彼”の前髪で隠された、二人のその瞬間を見て、スコールの胸の奥が締め付けられた。
それは以前にも感じた、兄を取られたと思った瞬間の恨めしさでもあったし、“彼”に心と共に触れられる事が出来る兄への妬みでもあった。

劈くように尖った音が連続で響いて、“彼”が思わずと言ったように顔を上げる。
レオンも意識が現実に戻ったようで、体を起こそうとするが、


「待て、俺が行く。お前はもう少し休んでいろ」
「…しかし、」
「頭が痛むんだろう。無理をするな」


弟を心配する兄を宥めて、“彼”は一人ソファを立った。

スコールは、破片の散らばった食器棚の前で、立ち尽くしていた。
皿を落とした事すら気付いていないかのように呆然としているスコールに、“彼”が声をかける。


「スコール、大丈夫か?」
「……あ、……」
「待て、動くな。箒か何かあるか」
「ベランダ用のなら、あっちに」
「取って来る」


急ぎ足でベランダへと向かう“彼”を見送って、スコールはようやく足元を見た。
数枚の皿を一挙に落としてしまった為、大小の破片が無数に飛び散っている。
それを見ていると、スコールは自分の心の有様を見たようで、無性に息苦しくなった。

その場に膝を折って、スコールは一番近くにあった陶器の破片に手を伸ばす。
ちゃり、と金属の音が鳴って、欠片に入っていた罅が震え、ぱきりと割れた。
破片の爪が柔らかなスコールの指先を切り、つ、と赤い糸が零れる。

フローリングを歩く音がして、スコールが顔を上げれば、自分と同じ蒼灰色の瞳とぶつかる。
頭が痛むと“彼”が言ったように、体調が思わしくないのだろう、レオンは少し顔色が悪かった。


「スコール、大丈夫か…?」
「………」


それでも弟を心配せずにはいられなかったのだろう。
痛む頭を手で押さえて宥めながら、レオンは立ち尽くすスコールに声をかけた。
それをベランダから戻った“彼”が見付け、


「レオン、お前は休んでいろ」
「だが、スコールが、」
「無理をするな。スコール、ベランダのものだがスリッパを持ってきたから、これでこっちに」


“彼”の声を、スコールは最後まで聞いていなかった。
その場にうずくまったまま、抱えた膝に顔を押し付ける。
スコール、と呼ぶ聲から隠れて、スコールはその場から消えてしまいたくなった。

動かないスコールに焦れたのだろう、じゃり、と破片を踏む音が聞こえた。
スコールの視界の隅で、ベランダ用のスリッパを履いた足元が見える。


「スコール、何処か怪我をしたか?」


降って聞こえた声は“彼”のものだ。
動かずにいると、スコールの体がふわりと持ち上げられて、惨状の外へと運び出される。

“彼”はスコールを抱えたまま、ソファへと向かった。
レオンもその後を追い、ソファに下ろされたスコールの隣へと座る。


「掃除は俺がしておくから、二人とも其処にいろよ。良いな」
「…ああ。すまない、面倒をかけて」
「構わない」


詫びるレオンを宥めるように、“彼”の手がレオンの頬を撫でた。
その手はスコールの頭へと移動して、濃茶色の髪をくしゃりと撫でる。

大丈夫か、と問う兄の声に、スコールは答えない。
口を開いてしまったら、何を言い出すか、何が飛び出して来るのか、自分でも判らなかった。
何もかもをぶちまけてしまいたい気持ちと、幼い頃から続く平穏と、どうにも出来ない自分の感情とが混ざり合って、目尻に熱いものが滲む。

弟の泣き顔に、レオンは昔から弱かった。
幼い頃からいつも弟を撫でて来た手が、労わるようにスコールの目尻を拭う。
スコールが沸きあがる感情を堪えてソファの端を握り締めていると、レオンはそんな弟の肩を抱き寄せた。
小さな子供を宥めるように、ぽん、ぽん、と背中を叩く手は、昔と変わらず温かい。


(それなのに)
(なんで)


恨めしくて、妬ましくて、苦しい。
それでも愛しいと思う気持ちも、何一つ捨てられない。
何処かで一つでも捨てる事が出来たなら、きっと楽になれるのに。



何処かで何かが、音を立てずに壊れて行く。
それが誰かの心である事を、聞く者はいない。




2017/08/08

『同じ男に依存するように恋をして、泥沼気味なレオスコ兄弟』のリクエストを頂きました。
火スぺにありそうな感じとあったのですが、火スぺとなるとサスペンス=事件としか浮かばない貧困な発想から迷走した感がひしひしと…

レオンはスコールの事はやっぱり一番に大事。
ただ自分が弱った所を見せられる相手が出来たと言うのは、気持ちとして大きい。
自分がレオンの一番だった筈なのに、そんなレオンをとられたようで悔しいスコール。
でも初めて自分を個人としてちゃんと見てくれたのがレオンの恋人で、もっと見て欲しいと思うようになった。
今の所一番泥沼にいるのはスコールですが、スコールの気持ちに気付いたらレオンも泥沼化する。

“彼”は好きな相手でどうぞ。