小波の世界にて


海は危ないものだから、穏やかに見えても、決して油断してはならない。
それは幼い頃から、親や学校の先生の口から、何度も繰り返し言い聞かされて来た事だった。
幼い頃のスコールには、それは一種の脅し文句にも似て、元々の気弱さも手伝い、“海は怖いもの”“海は危ないもの”と言う認識が成り立っていた。
だから幼い時分のスコールは、海に行こうと盛り上がる家族の横で、怖いから行きたくないと泣いたり、海に着いたら着いたで白波の傍にすら近付こうとはしなかった。

スコールの海嫌いが克服されたのは、小学校のプールで泳げるようになってからだ。
海への恐怖心は、水への恐怖心にも共通するものがあったのだが、教師や兄、姉が根気良く練習に付き合ってくれたお陰で、十歳になる頃には浮輪がなくても泳げるようになった。
その頃から、夏になると市営プールへ通うようになり、海辺でも少しずつ遊ぶようになって、“海は怖いもの”と言う先入観は抜けて行った。
とは言え、海難事故と言うのは何年経っても無くならないもので、夏のニュースが騒がれる度、気を付けなければ、と慎重になる事は忘れない。

それでも、何処かで油断があったのだろう。

近所ぐるみの付き合いで、スコールの家とクラウドの家、他にも数家族と一緒に海に行くことになった。
親同士は勿論、子供達もよく知った仲であるから、気兼ねはいらない。
とは言え、それでも集団行動を苦手とし、出来れば一人静かに過ごしたいタイプであるスコールは、海でも少し皆の輪から外れた場所にいた。
初めこそティーダやヴァンに引っ張られるようにして海で泳いだりもしたのだが、テンションの高い友人達と同じペースで遊べる性格ではないのだ。
適当な所で切り上げたスコールは、皆の輪からこっそりと外れて、足のつく深さの場所で水の冷たさに親しんでいた。


(クラウドは……あそこか)


まだ爪先が海底に届く場所で、スコールは浮遊感に半分身を委ねつつ、浜辺を見遣る。
視線の先では、ティーダ、ヴァン、ザックスと共にビーチバレーをしている恋人の姿がある。
親友同士と呼び合うだけあって、チームを組むザックスとの息はぴったりと合っていた。

その様子に、案外と幼いスコールの意識は、じわじわとした嫉妬の感情を滲ませる。
自覚すると、自分のちっぽけさを感じさせる感覚に、スコールは息を吸って思い切り深く潜った。
冷たい水の中で、バカバカしい焼餅も解けて消えてくれるように。

────そうしてしばらく潜り続けて、息苦しさを感じて、そろそろ浮き上がろうかと思った時。


「……っ!!」


右足に急激な強い痛みを感じて、スコールの体全体が緊張に引き攣った。
ごぽっ、と口の中に残っていた微かな空気が逃げて行く。

本能が生存の方法を求めて、手足がもがく。
掻きわけてようやく頭が水上に出ても、スコールはその事に気付いていなかった。
未だ酸素のない暗闇の中で、縋るものを求めるスコールの手が、何も掴むもののない空中を何度も引っ掻く。
酸素を求めて開いた口に、取り込んだ酸素すらも圧し潰すように、求めていない水が出ては入ってを繰り返し、見えない目が暗闇に圧し潰されるかと言う瞬間、


「スコール!」


呼ぶ聲が誰のものなのか、スコールは本能だけで悟っていた。
声の下方へと手を伸ばして、捕まえる力に助けを求め、全身でしがみつく。

─────スコールが辛うじて覚えているのは、其処までだ。



クラウドがスコールが溺れているのを見付けた時は、心臓が止まりそうな程に驚いた。
しかし、驚愕に囚われるよりも先に、愛しい人を助ける為に体が動いたのは幸いであった。

浜と沖合の狭間で溺れていたスコールに気付いたのは、クラウド一人。
監視員すら見逃していた彼の有様に気付いて、クラウドは一目散に走り出した。
そして水と宙をもがいて暴れるスコールを捕まえ、助かりたい一心で全身でしがみついてくるスコールを宥めさせる事、しばし。
落ち着いたと思ったら気を失って、ぴくりとも動かなくなったスコールに一瞬肝が冷えたが、生きている事を確認して安堵した。

だが、クラウドの試練は其処からである。

溺れたスコールを捕まえ、自分自身も溺れまいと奮闘している間に、二人の躯は早い潮の流れで流されてしまった。
スコールが気を失ってから、視界に捕えた浜に向かって泳いだが、其処は元の海水浴場の浜辺ではなく、何処とも知れない無人島であった。

途方に暮れた気持ちで、クラウドは流れ着いた浜辺で、スコールが目覚めるのを待った。
そしてスコールが目覚めた後、元の浜辺に戻る道か、或いは手立てはないかと島を巡ってみたが、結果は芳しくなく。


「……参ったな」


そう呟いたクラウドの表情に、弱りはあっても、焦りがなかった事は、スコールにとって幸いだったと言える。
溺れた時のパニックから続き、見知らに場所で目覚めた時から、スコールは漠然とした不安を抱いていた。
此処でクラウドが焦っていたら、スコールは益々焦り、混乱していたに違いない。

生い茂った森を反対側に抜ければ、ひょっとしたら陸地があるか、端でも伸びているかも知れない───と期待したのだが、駄目だった。
島は半周に一時間もかからない程度の広さしかなく、所々に打ち捨てられた東屋がある以外は、何もない。
恐らく、昔は生活していた人がいたのだろうと言う痕跡があるだけの、今は無人島なのだろう。
その結論が出る頃には、空は夕暮れ色に染まっていた。
島全体の海抜、或いは標高が高ければ、高場に登って周囲を見回す手が使えたのだが、どうやら島全体は平地となっているようだ。
森の木は背は高いが、幹皮は滑り易く、都会育ちのクラウドやスコールでは木登りは難しい。
それでも諦め悪く、元の陸地に戻れる手がかりを求めて森をしばらく歩き回ったクラウドだったが、結果は空振り。
せめてこれ位はと、食べられそうな果実を手に、海岸へと戻って来た。
きょろきょろと辺りを見回すと、此処で待っているようにと指示した恋人は、引き上げたボートの傍で膝を抱えて蹲っている。


「少し冷えて来たな。スコール、大丈夫か?」


クラウドが声をかけると、スコールは動かなかった。
顔を上げないスコールに、何処か気分が悪いのかも知れない、と急ぎ足で近付く。


「スコール」
「……クラウド」


もう一度声をかけると、スコールはゆるゆると顔を上げた。
夕日のオレンジを映した蒼の瞳に、微かに雫が滲んでいるのを見付けて、クラウドは目を丸くする。


「どうした。気分が悪いか?」
「……違う」


そうじゃない、とスコールは小さく首を横に振った。
しかし、平静にも見えない恋人の様子に、クラウドの表情も曇る。

蒼の瞳が海へと向けられた。
じっと水平線を見詰めるスコールの眦に、浮かんだ雫が粒を大きくしていく。
その事に気付いて、ああ、不安なのか、とクラウドは悟った。


「…スコール」
「……」


慰め撫でようと手を伸ばすクラウドだったが、スコールの手がそれを払った。
意地を張っているのか、そうする事で自分の不安と戦っているのか。
払われた手は少し寂しかったが、クラウドはスコールの気持ちを汲み取ったつもりで、落ち着くのを待とうと隣に腰を下ろした。


「食えそうなものを採って来た。一応、毒見は済ませてある。食べて置け」


不安に空腹が重なると、思考は暗い方向へと転がっていくものだ。
クラウドが森の中で取って来た果実を差し出すと、スコールはちらとそれを見て、少しの間の後、受け取った。

スコールは果実の匂いを嗅いでから、薄皮を指で剥いて行く。
果実は小さなもので、直径三センチ程度の楕円形で、匂いは甘い。
口の中に入れると、金柑に似た味がした。


「もう一つ食べるか?」
「……ん」


この島に流れ着いてから、既に数時間が経過している。
携帯電話も腕時計も持たずに来てしまった為、正確な時間は判らないが、太陽の傾き具合からして、夕食時には届いている筈だ。
腹が減るのも無理はない。

同時に、この時間になっても帰っていないと言う事は、友人達にも知られているだろうとクラウドは考える。
彼等に黙ってこっそりボートで出て来たクラウド達だが、気の良い友人達は、皆察しが良かった。
姿が見えないなら二人きりでいるのだろうと、そっとして置いてくれる彼等の事、逆に二人がいつまでも帰って来ないと言う違和感にも気付いてくれるだろう。
此処まで考えてやはり悔しいのは、二人とも携帯電話をホテルに置いて来たと言う事だ。
流石に電波が届かない程、元の陸地が離れているとは思えない───希望的な考えだが───ので、連絡をつける事が出来れば、無事である事、見知らぬ島にいる事位は伝えられただろうに。

夏とは言え、夕暮れはやはり落ちていくのが早い。
二人で身を分けって少しずつ食べている間に、太陽は水平線の向こうへと隠れてしまった。
打ち捨てられた無人島には、当然電気も通っておらず、その恩恵を受ける施設もない為、鬱蒼とした森の向こうは何も見えなくなっている。
幸い、天気は良く、月と満点の星が海岸を照らしており、以外と視界は明るかった。

とは言え、問題は海風である。


「……少し冷えて来たな。スコール、向こうに行こう」
「……」


海辺は見通しが良く、星空の景色も情緒としては悪くないが、潮風が直接当たる。
夜になって冷えた風に当たり続けるのは、体に負担をかけるものだ。
森の端で適当な木を風除けにしてやり過ごすのが良いだろう。

しかし、スコールはクラウドの言葉に反応せず、じっと其処に蹲っていた。


「スコール。こっちに来い。冷えると良くない」
「……ん…」


ようやく、と言った風に、スコールがのろのろと抱えていた膝を伸ばす。
俯き加減で砂浜の足元を見つめ、クラウドの方へと歩く出す少年は、細身のシルエットも相俟って、酷く頼りない。

森の入り口にある木の傍にクラウドが腰を下ろすと、スコールもその隣に座った。
浜辺にいた時と同じ、膝を抱える格好で蹲るスコールに、クラウドは寄り添うように身を寄せた。
と、腕が触れ合うと、緩くスコールの体が傾いて、ことんとクラウドの肩に頭を乗せる。

いつにないスコールの様子に、クラウドはその肩を引き寄せて、くしゃくしゃと濃茶色の髪を撫でる。


「不安か?」
「……別に」
「そうか」
「……ただ……」
「ん?」


ぽつりと零れる声に、クラウドは反応だけを返して、後はスコール自身の言葉を待つ。
ひゅう、と風が一つ吹いた後、スコールは消え入りそうなか細い声で呟く。


「……俺の所為で、あんたまで……」
「………」
「……悪い……」


溺れてしまった自分を助けたが故に、自分だけでなく、クラウドまで遭難させた事が、スコールには心苦しくてならない。
しかしクラウドは、スコールを責める気など毛頭なかった。
が、それを口にしてもスコールの滲む影は消えないから、クラウドはそれ以上は何も言わず、もう一度スコールの頭を撫でてやる。

ふとクラウドは、若しもこのまま、助けが来なかったら、と考える。
真面目に考えれば、食糧の問題や、水の確保、病気になった時の対策等、とても穏やかではいられないのだが、そうした現実的な考えを、敢えて排除した場合。
本人の性格に反して、妙に賑やかな友人達に囲まれているスコールは、中々クラウドと二人きりの時間を作るのが難しい。
クラウドも今年は夏季合宿の為にアルバイトを休みにして来たが、普段は平日から休日まで、びっしりとアルバイトで埋まっている。
けれど、この小さな世界にいれば、二人の間を引き裂くものは何もない。


(……なんてな)


そんな事を考えた所で、捨てきれないものはお互いに多いのだ。
スコールには過保護な父や兄、姉がいるし、クラウドも女手一つで育ててくれた母がいる。
それらを放り出すような形で、二人きりの世界に閉じこもっても、其処は楽園には成り得ないだろう。

────それでも、寄り掛かり、縋るように服の端を握る恋人の姿を見ると、それも悪くないような気がしてくるから、自分は大概現金だ。

クラウドは一つ息を吐いて、スコールの顎を指先で捉えた。
逆らわずに持ち上げられたスコールの顔を見詰めれば、蒼の眦が微かに濡れている事に気付く。
其処に触れるだけのキスをして、クラウドは努めて柔らかく微笑んだ。


「大丈夫だ、スコール」
「……ん」


少ないクラウドの言葉であったが、今のスコールにはそれが何より救いになる。

頬を撫でる手に甘えるように、スコールは目を閉じた。
柔らかな唇が重なり合い、スコールはクラウドの首に腕を回す。
ゆっくりと重なる影を見てるのは、星明りだけだった。



────引き潮によって、海の中に道が出来、元の陸地へ戻れると知った時、スコールが酷く顔を赤くしていた事には気付かないふりを決めた。




2017/08/08

『クラスコで、海に来て二人きりで無人島に来てしまい、帰れないのではないかと不安になるスコールと慰めるクラウド』のリクエストを頂きました。
ツイッターにで萌えた話を書かせてくれてありがとう。

クラウドは、仲間達が気付いてくれるだろうと思って、取り敢えずは楽観。焦ってもスコールが不安になるので、気持ち余裕を持つように意識。
スコールも最初は平気だろうとかティーダ達が気付いてくれるだろうと思ってたけど、時間が経つにつれて段々不安になって来た。自分の所為でクラウドも巻き込んでしまったので、益々落ち込む。
結局は問題なく帰れる訳ですが、そうとは知らずに不安になって泣きそうになってたりして、クラウドに慰められたのが凄く恥ずかしいスコールでした。