鼓動は本物


夕飯を終えて片付けを済ませ、リビングに戻ると、兄がソファに座って厚めの本を読んでいた。
それは装丁などと言った小洒落たものは施されておらず、表紙は厚手の紙、中身はぺらぺらとしたコピー紙と言った味気のない代物。
しかし、その味気のない代物こそが、兄の大事な商売道具の一品であった。


「…随分、分厚いな」


遠目に見て判る分厚さのそれに、スコールは独り言気味に呟いた。
その声はしっかりと兄の耳に届いており、濃褐色が揺れて、柔らかな青灰色の瞳が此方へと振り返る。


「片付け、終わったのか?」
「ああ」
「悪いな、いつも任せて」
「…別に……」


眉尻を下げて頬を赤らめて素っ気ない呟きを返すスコールに、兄───レオンは柔らかな笑みを浮かべる。

スコールは兄の隣に腰を下ろすと、分厚い本をそっと覗き込んでみる。
其処には、びっしりと文字の羅列が敷き詰められていた。
しかし、其処に書いてあるのは人物の台詞らしきものばかりで、これが小説などの類でない事が判る。

スコールには、その本の正体が何であるのか、聞かなくても判っている。


「また随分と、長い台詞の多い役だな」
「この脚本家はそういう傾向があるんだ。お陰で覚えるのに苦労する」


弟の言葉に溜息交じりに応えたレオンは、今話題の超人気俳優であった。
彼は高校生の頃にメンズ雑誌のモデルとして芸能界入りし、あれよあれよと言う間に人気を博して、大学卒業前のドラマデビューを切っ掛けに、俳優業もこなすようになった。
最近は同世代の俳優達と共にバラエティ番組への出演も増え、多忙な日々を送っている。

今レオンが呼んでいる本は、来月から撮影に入る映画の台本だ。
二時間の長編映画で、人物同士の遣り取りが頻繁に行われる作品らしいので、台本も分厚くなろうと言うもの。
元来、レオンは記憶力が良い方ではあるが、この映画の撮影と並行して、次クールから放送が始まるテレビドラマの撮影も始まると言う。
レオンはその両方の主役級を任されている為、当然出番も台詞も多く、台詞の暗記は愚か、一連のストーリーをチェックする作業だけでもかなり大変な量になる。

レオンがぱらぱらとページを捲ると、赤い線が引かれた台詞文があった。
チェックを入れた、レオンの役の台詞である。


「スコール。悪いが、また練習に付き合ってくれるか?」


レオンは台本を差し出して、スコールに言った。

レオンの本読みや台詞のチェック等、ドラマの為の練習にスコールが付き合うのは、お決まりの事だった。
単に台詞を暗記するだけなら、レオンは読んでいるだけでそこそこ頭に入るのだが、感情を込めて演じろとなると、やはり相手がいた方がやり易い。

スコールは無言で台本を受け取った。
それが了承のポーズだ。


「……動き、つけるのか?読むだけ?」
「少し動いてみるか。お前はト書きの通りに頼む」
「ん」


レオンが俳優業をするようになってから、スコールはいつも練習相手をしているので、最初の頃は“ト書き”が何の事かも判らなかったが、今ではすっかり慣れたものだ。
スコールはぱらぱらと数ページを捲って、場面の流れと、レオンの相手役の登場人物の人となりを確認し、

「……これ……」


流れを読んだスコールが、眉間に皺を寄せる。
怒っているように見える表情だったが、そんな彼の白い頬は、ほんのりと赤らんでいた。


「駄目か?」


眉尻を下げ、柔らかに微笑んで問う兄に、スコールは赤い顔で唇を尖らせた。
うぅ、と唸るような声が聞こえて、レオンは無理なら良いんだが、と言った。

今から練習しようと言うその場面は、所謂、ラブシーンと言う類のものだった。
場所はリビング、登場人物は若い男女(レオンと相手役の女性)、時間は夕飯を終えた後で、明日の予定について語り合うと言う、何気ない日常のシーンなのだが、結婚間近の恋人同士と言う設定で、ト書きの中に“見詰め合いながら”“背中から抱き締めながら”等と言った恋人同士の触れ合いが多く記されている。
レオンの言った「ト書きの通りに」演技をするとなると、思春期真っ盛りでスキンシップや見詰め合うのが苦手な傾向のあるスコールには、非常に恥ずかしい台詞・行動が多く散りばめられている。

正直、やるのは恥ずかしい。
恥ずかしいが、眉尻を下げて微笑む兄を前にして、スコールが今更拒否を口に出来る訳もなく。


「……やる。問題ない」
「そうか。無理はしなくて良いからな」
「……ん」


ぽんぽんと頭を撫でられて、スコールの尖っていた唇が微かに緩んだ。

レオンがソファを立って、スコールが座っている位置の背中へと周る。
スコールは台本に目を落しながら、レオンが演技を始めるのを待った。


『───明日、挨拶に行くよ。随分遅くなったし、今更かも知れないけど、やっぱりきちんと話をしないといけないと思うんだ』


いつもの兄とは違う口調で、すらすらと流れ出てくる台詞。
スコールは兄の声を台本の文字で追って、終わったのを確認し、次の自分の台詞を読んだ。


『本当に良いのに。気持ちは嬉しいけど、お父さんはもう、判ってくれてるんだから。明後日には、レナちゃんの運動会があるんだし、お父さんもそれを見に行くって言ってたから、どうしても話をしたいのなら、その時でも良いんじゃない?此処から、私の家に行くのって、凄く時間がかかるし』


所々で詰まりつつ、呼吸の位置が判らない、と胸中で愚痴りながら、スコールは読み進めた。
殆ど棒読みであるが、素人で演技の経験などないスコールに、レオンが其処まで臨む事はない。
付き合ってくれているだけでも十分なのだ。


『明後日逢うのなら、尚更、明日の内に話をしなきゃいけない。お義父さんが分かっていてくれると言っても、やっぱり、あの時の事はきちんと俺の方から説明しなくちゃ駄目だと思うんだ。だから明日は、レナのお迎えに俺は行けないんだけど────頼んでも良いかな。確か明日の仕事は、夕方には終わるんだろ?』


ぎ、とソファにレオンが寄り掛かる。
スコールの手の台本に影が映って、スコールが顔を上げると、見下ろす兄の顔が間近にある。
傷のある、それでも整った顔が、吐息がかかる程近くにあるのを見て、スコールの心臓が一つ大きく跳ねた。

フリーズしたように動かなくなった弟に、「うん?」とレオンが小さな笑みを浮かべて首を傾げる。
それを見て、スコールは慌てて台本に視線を戻した。


「え……と、『うん、一応予定ではね。時間通りになるかは判らないけど。レナちゃんのお迎えに行くまでには、手が空く筈よ』
『じゃあ、頼むよ』
『いいけど。レナちゃんは寂しがるんじゃないかなぁ』
『寂しがる?どうして?レナちゃん、お前に逢いたがってたから、寧ろ喜ぶと思うんだけど』


不思議そうに尋ねるレオンの台詞の後、スコールは後ろを振り返り、レオンの顔を見る。
台本のト書きにそう書いてあるのだ───“彼氏の顔を見詰める”と言う指示が。
しかし、スコールは頭こそレオンの方を向いてはいるが、視線は微妙に彷徨ってしまっている。

青灰色の瞳は、あちらこちらに迷子になった後で、ちらり、と兄を見た。
蒼と蒼が重なって、レオンが小さく笑みを漏らして首を傾げる。


『なんだ?』


問い掛けるその声が、演技なのか、素なのか、スコールには判らない。
柔らかな眼差しだとか、微かに笑みを滲ませた口元だとか、そっとスコールの頬に触れる指先だとか────台本にこんな仕草の事は書いていなかった筈だけれど────、いつものレオンのようにも見えるし、そうでないのかも知れないとも思う。

再びフリーズしてしまったスコールに、レオンがくくっと喉を鳴らして笑った。
その声にスコールは我に返り、赤い顔を慌てて反らして、台本に視線を戻す。


「な……『なんでもない』
『なんでもない事ないだろ。何か隠してるな?』
「!!」


スコールの後ろから腕が伸びて来て、ぎゅ、と抱き締められる。
ばさっと音を立てて、台本が床に落ちた。


「落ちたぞ」
「あ、う、……すまない」
「いや」


抱き締める腕の力が緩んで、解放される。
しかし、スコールが台本を拾って元の姿勢に戻ると、また先程と同じように抱き締められてしまった。
台本を見ると、ト書きに“抱き締めてじゃれあう”と書いてあったので、演技としてはこれが正しいのである。

背中越しの体温と、耳にかかる微かな吐息。
スコールは顔が熱くなるのを感じながら、それを背後の存在にバレていないよな、と何度も胸中で繰り返した。
後ろにいるのだから見えない、見えていない、だから判らない筈だと。
……実際には、真っ赤になった耳と首のお陰で、モロバレ状態なのだが。

煩い心臓を必死に誤魔化しながら、スコールは続きを読んだ。


『隠してないよ』
『おい、隠し事はしないって約束だろ。ちゃんと言えよ』
『なんでもないったら』


恐らく、此処では二人とも笑い合っているのだろう。
じゃれ合う、と書いているのだから、レオンの方も本気で問い詰めようと言う雰囲気ではないし、きっと相手役の女性も場面を楽しんでいるに違いない。

しかし、スコールは完全に固まっていた。
演技云々、練習云々以前に、抱き締める腕の温もりや、耳にかかる吐息や髪の毛先の事で、頭の中が一杯になっている。

でも、続けないと。
シーンはまだ続いている。
スコールは台本の次のページを捲り、次の台詞を─────と思ったが、頬に添えられた手に促されて振り返って、


「………!?」


呼吸が出来ない。
息が、口が、塞がれている。
そして目の前には、柔らかく、熱の篭った色で見つめる蒼があって。


「ん、ん……っ」


ちゅ、と咥内で鳴る音に、スコールの顔が火が出る程に熱くなる。
違う、可笑しい、と抗議の声を上げようとしても、それはまともな音や言葉にはならず、滑り込んで来た舌に絡め取られて溶けて行く。

ぱさり、と台本が床に落ちても、レオンはスコールを離さなかった。
もがくように腕を掴んだり、長い髪を引っ張ったりと暴れていたスコールの体から、次第に力が抜けて行く。
逃げるように退いてばかりだった舌が、恐る恐る、応えるように差し出されてきた頃には、スコールはすっかり口付けの虜になっていた。


「ん……」
「ふぁ……」


ゆっくりと唇が離れると、何処か物足りなさそうな、甘えたような音がスコールの喉から漏れた。
レオンはそんなスコールに、もう一度キスをしようと顔を寄せ、────ぐっと掌で口元を押さえられる。


「んぐ」
「台本と違うっ…!」


真っ赤になって、蒼の瞳を薄らと潤ませて、スコールは抗議した。
台本では、じゃれ合う内に見詰め合った二人がキスをしようとした所で、玄関のチャイムが鳴ると言う流れだった。
記憶力の良いレオンがそれを忘れた訳もないだろうに、現実のこの流れは、一体。

レオンの手がスコールの腕を掴んで、口を離させる。
しかしレオンはそのままスコールの腕を解放しようとはせず、掴んだ手首を引き寄せると、ちゅ、と軽く口付けた。


「れお、れおん!違う!台本と…」
「ああ、知ってる」


平然と返って来た声に、やっぱり、とスコールは思った。

レオンはひょいっとソファを跨ぐと、スコールの隣に落ち付いた。
かと思うと、ぐっとスコールの腰を抱き寄せて、形の良い顎を捉えて上向かせた。
二人の体はぴったりと密着し、スコールの視界には熱を孕んだような蒼の瞳が一杯になって、スコールは胸の中の煩い音が目の前の人物に聞こえてしまうのではないかと思った。

ちゅ、と頬に口付けが落ちる。
スコールの体は緊張したように固くなり、それを訴えるかのように、彼の手は兄のシャツをぎゅっと掴んで離そうとしない。


「レ、オン……練習……っ」
「うん」


うんって。
何に対して、どういう意味の“うん”なのだろう。

そんなスコールの疑問は音にはさせて貰えず、レオンも答える気はなかったし、そもそも彼自身、既に練習の事など頭の中から抜け落ちていた。



重なる熱や、伝わる温もりや、鼓動の音は、演技などではなく、間違いなく本物。
それを知っているのが自分だけなのだと思うと、どうしようもなく、嬉しくなる自分がいた。




2012/10/25

モデル俳優レオンさんと、一般人な弟スコール。兄弟だけどらぶらぶですよ。

このレオンさんは超がつくブラコンとして芸能界で有名ですw
弟に手出してるとかは隠してるけど、ブラコンは全く隠してない。