いつもとちがうひ


風邪を引いてしまった。

昨晩、眠る以前から、その兆候はあったのだ。
夕飯を作っている頃に少し頭が痛み初め、芯がぼんやりとしている感覚に襲われた。
最近の寒暖の差の激しさにやられたのかも知れない。
サバンナ地帯や砂漠に近い場所で仕事をしていた時には、そうした気温の極端な変化にも慣れていたので、季節の変わり目の気温の変化にも然して堪える事はなかったのだが、やはりそうした第一線を退いて過ごすと、体は鈍って行くものらしい。
年もあるのかなあ、と些か虚しい事を思いつつ、取り敢えずは早期に対処するべしと、常備している風邪薬を飲んで、布団に入った。
目を覚ました時にはすっかり回復していますように、と祈りつつ。

しかし祈りは虚しく成就されず、目覚めた時にはすっかり熱が上がってしまった。
体を起こしただけで、頭がくらくらとしてしまう。
これは駄目だ、と判断したラグナであったが、同居している幼い獣人達には、ラグナのそんな様子が判らない。
がう、がう、と甘えてはお腹が空いたとねだる二人に、ラグナはこれだけは準備しなければと、どうにか床を抜け出した。
茹った頭で彼等の食事を揃えた後、その食事風景を見守りつつ、ラグナは旧友達に連絡を取った。

旧友達───キロスとウォードは、正午になる前に駆け付けてくれた。
ラグナが獣人達と同居するようになって以来、彼の抜けた穴を埋めるべく、獣人保護機関で忙しくしている彼等にしては、早い到着である。
ラグナは二人をリビングに通し、足元をじゃれついて離れない獣人達───レオンとスコールを、それぞれの腕へと預けた。


「キロスもウォードも、ありがとうな。俺、どうも今日はダメっぽくてさあ」
「そのようだ。早くベッドに戻った方が良い」
「薬は飲んだのか?」
「一応、昨日の夜に。朝も飲もうかと思ったんだけど、飯食う気力がなくて…」


言いながら寝室へ向かうラグナに、それは宜しくないな、とキロスが言った。
しかし、空元気を振る舞う余力もない後姿に、無理もないとも判る。
それでも、面倒を見ているレオンとスコールの食事だけは準備したのだから、頑張ったものだ。

ウォードの腕の中で、ごそごそ、ごそごそと動いているのはスコールだ。
がう、がう、と離せ、と言いたげに声を上げているが、ウォードはそんなスコールの頭を撫でて宥めている。
レオンはと言うと、此方はキロスの腕に抱かれ、スコールに比べれば大人しくしているものの、鼻頭に中々険しい皺が寄っている。
尻尾がぷんっ、ぷんっ、と揺れ、気持ちが落ち着いていないのは明らかであった。

ラグナは寝室のドアを開けると、ちらりと友人達───その腕に抱かれている獣人達を見た。
目が合ったレオンが、子供にしては大きな手を伸ばし、にぎにぎと肉球の手を握り開きして見せる。


「がぁう。がうぅ」
「……うん、ごめんな。今日はダメなんだ」
「があううぅ!」
「スコールも、ごめんな。近くにいたら伝染っちゃうかも知れないから、今日はそっちで良い子しててくれな」


不安げな表情を浮かべるレオンと、じたばたと暴れるスコールに、ラグナは眉尻を下げて微笑みかけて宥める。
そうしている内に、ぞわっと寒気がラグナを襲った。
レオンとスコールの事は気になるが、このまま起き上がっていては、風邪が悪化してしまう。
早く寝なさい、とキロスに視線で促され、ラグナは後ろ髪を引かれながら、寝室へと入って行った。

その姿がドアの向こうに見えなくなる所で、スコールがウォードの腕を飛び出した。
四つ足で駆けていく小さな体が辿り着く前に、ドアはぱたんと閉じてしまう。
スコールは通れる隙間を探すように、ドアの前でうろうろと歩き回った後、ぐるぐると喉を鳴らし、扉を突破せんと物言わぬ板壁に飛びついた。


「がう。がうぅっ!ぐぅーっ!」
「こらこら。ドアを引っ掻いてはいけないぞ」


“ライオン”モデルに相応しく、幼いながらに確りとした爪を携えた手で、スコールはドアをがりがりと殴り引っ掻いた。
ウォードが直ぐに捕まえて抱き上げると、スコールは「ぎゃぅううう!」と全身で暴れ始める。
人に対して爪を立ててはいけない、と躾をされたお陰で、彼の爪がウォードを傷付ける事はなかった。
ウォードは体格で以てスコールを確りと抱え持ち、喉を擽って気持ちが逸れるようにとあやしてやる。

そんなスコールと対照的に、レオンはやはり大人しかった。
元々、弟に比べると、聞き分けの良い兄である。
しかし、いつも傍にいる筈のラグナから離れると、不安になる気持ちは誤魔化せないのだろう。
彼はキロスの腕に抱かれたまま、緊張したように体を強張らせており、ひくひくと鼻を鳴らしている。

二人は一先ず、獣人の子供達をソファへと移動させた。
クッションに下ろしてやると、共に寝室の方へ向かおうとするので、背中を撫で当たり、喉をくすぐったりとあやして引き留めておく。


「やはり、こう言う時は難儀なものだな。一人ではゆっくり休んでいる訳にも行かない」
「ああ。二人がもう少し成長していれば、感じ取ってくれたのかも知れないが……いや、人間で考えても、幼い内は無理か」
「たらればの話だからな、どう考えても仕方のない事だ。それよりも、時間を考えれば、そろそろ昼飯か。何か作った方が良いな」


キロスが時計を見ると、長針は12時を少し過ぎており、平時を考えれば昼飯の真っ最中か。
ラグナに呼ばれてやって来た二人も、そろそろ腹が減っている。
ラグナは朝食も採っていないと言うし、病気を治す為のエネルギーも足りていないだろうから、何か食べさせて、薬も飲ませてやらねば。

キロスは大人しいレオンの頭を撫でて、「良い子にしていてくれ」と言った。
レオンはことんと首を傾げるも、キロスの手が離れても、其処から移動しようとはしなかった。
蒼い瞳は寝室を見詰め、そのままレオンはクッションの上に丸くなった。


「ウォード、君の食事も作ろうと思うが、何が良い?」
「俺はなんでも良いぞ」
「私もどうとでもなるな。ラグナには粥を作るとして……二人の食べる物は、と」
「冷蔵庫に何かあるんじゃないか?」
「ふむ……昨晩の残り物がある。一応、ラグナに食べさせて大丈夫なものか確認しておくか」


キロスは冷蔵庫の中に入っていた料理を取り出した。
タッパーに入った煮物は作り置き、皿に並べられラップで綴じた卵焼きは残り物だろうか。
他にも、冷凍庫に下処理済みの魚、野菜室も半分ほど埋まっており、昔に比べて随分と生活感が増したな、とキロスは思う。

タッパーを片手に寝室に向かうと、ドアを開けた瞬間、「ああ、こら!」と言う声が後ろから聞こえた。
足元に気配を感じて視線を落とせば、二対の蒼がじいっと此方を見上げている。
其処に入るのならば自分達も入れろ、と無言の訴えに、キロスは眉尻を下げるしかない。


「気持ちは判るが、やはり駄目だよ」
「そう言う事だ。ほら、戻るぞ」
「ぎゃうっ」
「がううう!」


ウォードに両腕でそれぞれ抱え上げられ、レオンとスコールはじたばたと暴れる。
保護された頃に比べると、少しずつ成長している二人だが、やはり二メートル弱の体格を持つウォードにはまだまだ叶わない。
小さな体で一所懸命に抜け出そうとする二人を抱えて、ウォードはソファへと戻って行った。

ウォードが捕まえてくれている間に、とキロスは寝室へ入った。
いつもならば、二人の養い子が昼寝に使っていると言うベッドに、今はラグナが寝ている。
ずぴ、と鼻を啜る音が聞こえたので、キロスはデスクテーブル上にあったティッシュ箱を取って、ベッドに近付いた。


「大丈夫か、ラグナ」
「んん…?お、キロスか。何かあったか?」


赤らんだ鼻を啜りながらラグナが寝返りを打つ。
ティッシュを差し出すと、さんきゅ、と言ってラグナはそれを手に取り、鼻を噛んだ。


「あー、鼻詰まっちゃって……んで、何?」
「食事を作ろうと思ったのだが、彼等に何を食べさせれば良いかと思って。一応、冷蔵庫の中に煮物の残りを見付けたんだが」


これだ、と言ってキロスはタッパーを見せる。
ラグナは少し体を起こし、キロスの持っているタッパーの中身を確かめて、


「それ、うん。芋の煮物だな。大丈夫、それちょっと温めて食わせてやって」
「了解した。これだけでは足りないかな。ベーコンもあったが、添えても良いか」
「うん。あと、温めのミルク。マグカップあるから、それに入れてレンジで温めて。んー、それだけあれば大丈夫かな……」
「判った。君の食事も作ったら持って来るから、それまで寝ていると良い」
「悪ぃなあ。いつかちゃんと恩返しするよ」
「それ程大袈裟な事でもないさ。良いから、君はしっかり休んで、早く風邪を治すと良い。彼等の為にもね」


彼等───勿論、ラグナが溺愛するレオンとスコールの事だ。
なんとかしてラグナのいる寝室に入ろうとしている二人の姿を思い出し、健気なものだ、とキロスの唇に笑みが零れる。


「どうやら二人とも、君の姿が見れない事が不安で堪らないらしい」
「そうなのか?」
「何度も此処に入って来ようとしているからな。だから、風邪を長引かせる訳には行かないぞ」
「そうだなぁ……いつまでも寝込んで、二人を不安にさせるのも良くないし、伝染したら嫌だし。しっかり食って、しっかり寝て治すよ」
「そうしたまえ。では、これで失礼するよ」
「んー」


ベッドに寝転んだまま、ラグナはひらひらと手を振って見せた。
布団を手繰り寄せて丸くなるラグナは、完全に寝る態勢に入っている。
出来るだけエネルギーを消耗しないように、回復に回せるように努める気なのだろう。

キロスが寝室を出ようとすると、開けた扉がごつん、と何かにぶつかった。
重い影が扉の向こうにある事を見付け、隙間から覗き込んでみると、ウォードの背中が其処にある。
その足元で、うろうろと落ち着きなく動き回っている尻尾を見付け、キロスはくすりと笑う。


「ウォード、終わったよ。退いてくれ」
「ああ、すまない」


キロスの声に、ウォードが少し体の位置をずらす。
ドアの隙間を僅かに広げて、キロスは其処を潜ってリビングに出た。
その隙に寝室へと突入しようとするスコールを捕まえてやる。


「やれやれ、中々にしぶとい子達だ」
「がう、がうぅ!ぎゃうぅっ!」


抱き上げたスコールを、レオンを抱えたウォードに預けつつ、キロスは呟く。
スコールはぎゃうぎゃうと吼えて抗議していたが、やはりウォードは気にしなかった。

兄弟揃って太い腕に抱かれると、レオンが不満げな顔をする弟の顔を舐めて宥める。
スコールは鼻先に皺を寄せつつ、剥れた顔でレオンに頬を寄せた。
そんな二人をソファに下ろすと、スコールが丸くなり、その隣でレオンも身を寄せて縮こまる。
ウォードは二人の濃茶色の鬣を撫で梳きながら、初めて彼等と相対した頃の事を思い出していた。


「あんなに俺達の事を警戒していた二人が、今はラグナの事をこんなにも信頼している。本当に凄い男だな、ラグナは」
「ああ。他人なら、きっとこうはいかないだろう」


旧知の友人の人柄が成せる業に、キロスもウォードも感心するしかない。

さて、とキロスは気持ちを切り替え、キッチンに立った。
ラグナと離した通り、タッパーの芋の煮物を温めて、ベーコンを少し焼いて一緒に添える。
温めのミルクも作れば、レオンとスコールの食事は揃った。
それらをトレイに置いて、二人が丸くなっているソファの前にあるローテーブルへと運ぶ。


「さあ、腹が減っているだろう」
「……ぐぅ…?」
「煮物はラグナの作ったものだからな。君達の好きな味ではないか?」


食べられない事はないだろう、と言う気持ちで、キロスは二人に食事を促す。
しかし、レオンは顔を上げたものの、丸くなった姿勢から動かず、スコールに至っては反応すらしなかった。
ラグナ以外が用意した食事は食べる気にならないのかも知れない。
彼等が保護された時から、少なからずその様子を見ている立場としては些か寂しいが、レオンとスコールにとっては最も信じるに値する人間は未だラグナ一人なのだろうから仕方がないだろう。

それでも、腹が減っていれば、気が向けば食べるかも知れない。
お腹が空いたらいつでも食べな、とウォードが頭を撫でると、レオンが少しだけ興味のある顔で皿を見詰めていた。

彼等がきちんと食事を採るのかは気になるが、キロスにはまだやる事がある。
不安そうな表情が消えない獣人の子供達の為にも、保護者には早く元気になって貰わなければと、粥作りへと取り掛かった。




[このにおいのそばがいい]
2018/02/23