君が見ている世界の中で


カシ、カシ、カシ、と。
小さな物が擦れるような、小さな小さなその音が、静寂の中ではっきりと聞こえた。
それを耳にした事を切っ掛けに、意識が眠りの淵から浮上すると、閉じた瞼の裏側に眩しい光が通って来る。
ああ、もう朝なのか、と思うと同時に、またカシ、カシ、カシ、と言う音がした。

まだ幾分か重い感触の瞼をゆっくりと持ち上げると、腕に抱いていた筈の恋人の姿が其処になかった。
どうりで何かが物足りない筈だ、と思いながら目だけを動かすと、恋人は直ぐに見つかった。
恋人である年下の少年は、ベッドに横になっているウォーリアの隣に膝を曲げて背中を丸めて座っている。
下肢をシーツに包まりながら、曲げた足と体の間にはスケッチブックが広げられ、鉛筆を持った手がその上を忙しなく動いていた。

恋人────スコールは、ウォーリアが目を覚ました事にも気付かない様子で、鉛筆を動かす作業に没頭している。
その真剣な横顔はウォーリアには見慣れたもので、邪魔をしてはいけない、と覚らせるものだった。


(何を描いているのだろうか)


ウォーリアは身動ぎ一つせず、視線だけを向けてスコールを見詰めていた。
彼が何を描いているのか見てみたい、と言う衝動を抑えるのは難しいものがあったが、あの横顔をしている間は、彼の気を逸らすような事は御法度だ。
スコール自身が作業に納得して顔を上げるまで、ウォーリアは物音を立ててはならないと己を律した。

スコールは若干17歳にして、アートの世界で名を馳せる芸術家であった。
彼は幼い頃から芸術の才能を発揮し、中学生の頃から業界内でその名は知らない者はいない程となり、年若い事もあって今後の成長も期待が高く、現在注目の若手芸術家と呼ばれていた。
最も、彼自身は未だ学生である事もあり、己を“芸術家”と名乗る事はなく、良く言っても“駆け出しの絵描き”であると言っている。
スコールとしては、まだ絵画の世界で生きていくか否かも決め兼ねており、幼い頃より続けてきた自分のアイデンティティとも言える“絵を描く”事について、自分自身の可能性を探る意味もあって、プロの世界に踏み込んだ、と言う心中があった。

決して広くはなかったスコールの世界を、本格的に絵画の世界へと向けたのは、ウォーリアである。
ウォーリアは美術商を仕事としており、自身の持つスペースを利用して、芸術家の作品の展示・販売を行うギャラリストだ。
ギャラリストは作品の売買を行うだけではなく、自前のスペースを作家のアトリエとして提供し、作家の育成・プロモーションを行う事もあり、ウォーリアはその為にスコールに声をかけ、その後契約を交わした。
───これによりスコールは学業が長期休暇の時期に入ると、ウォーリアの持つアトリエを借りて、作品の制作作業を行っている。
必然的に短くはない時間を共に過ごす事となった二人は、紆余曲折の末、互いを心から信じ預け合う関係へと発展したのである。

スコールは、幼い頃から絵を描く事が好きで、それだけがずっと続けていられた事だったと言う。
だから彼にとって、絵を描く事は何よりも重要なファクターとなっていた。
スコールは繊細な性格で、彼の筆にはその性格とその時の情緒が顕著に表れる為、作業に集中している時は外部からの余計な刺激を極端に嫌う。
日々を共に過ごす中で、ウォーリアはそれをよく知っているから、スコールが絵を描いている際には───意図的に休息を促す等の目的でなければ───彼の集中力を途絶させないように努めている。

だが、中断はさせないが、スコールが何を描いているのかは気になった。
特に今日のように、朝早くからスコールが描いている時は、その時の絵を彼が絶対に見せてくれない事もあって、一層気になって仕方がない。


(……一度、見せて欲しいものだが、やはり駄目だと言われるのだろうな)


横になったままのウォーリアからは、彼の体で陰になって見えないスケッチブック。
その中身を見せて欲しい、と何度か頼んだ事があるのだが、スコールは頑なに拒否していた。
きちんと描いた奴じゃない、ラフしかないから見せられるものじゃない、と言うので本人の気持ちを汲んでウォーリアも可惜と頼む事はしなくなったが、かと言って諦めるのも難しい。
何せウォーリアは、誰よりもスコールの描いた絵に惹かれてやまないのだから。

カシ、カシ、カシ、と止まない黒鉛が紙面を擦る音。
しばらく良いテンポで続いていた音が次第に緩やかになり、止まる。
終わったのだろうか、とウォーリアの視線はスケッチブックから恋人の横顔へと動く。
スコールは軽く寝癖のついた横髪を手櫛で梳きながら、じっとスケッチブックの絵を見詰めていた。
悩んでいるような、考えているような表情を浮かべていたが、その瞳がちらりと此方を向いた瞬間、蒼灰色と薄藍色が交わって、スコールがはっとした顔になる。


「あんた、起きて────」
「…ああ」


気付かれたのならと、ウォーリアは起き上がった。
目覚めてから動かないようにと努めていた所為か、下敷きにしていた左肩が少し軋んだが、血が流れれば直ぐに治まった。

起き上がったウォーリアを見て、スコールは膝に乗せていたスケッチブックをぱたりと閉じる。
描き終わったと言う訳ではないようだが、作業は終わりと言う事だ。
隠すようにウォーリアから遠ざけてスケッチブックをベッドに置くスコールに、そんなに見られたくないと示されるのも寂しいものだが、仕方がない。
気を取り直して、ウォーリアはスコールの細い腰を抱き寄せ、前髪の隙間から覗く額にキスをする。


「おはよう、スコール」
「……おはよう」
「朝食は食べられるか?」
「……腹は減ってる」


スコールの返事に、良い事だ、とウォーリアの頬が緩む。

ウォーリアは裸身のスコールの体をシーツで包んで抱き上げた。
寝室を抜け、広いリビングダイニングに移動したウォーリアは、スコールをダイニングテーブルの一脚に降ろした。
体を重ねるようになって間もない頃、ウォーリアのこうした甲斐甲斐しい行動をスコールは随分と嫌がっていたが、次第に慣れてくれた────スコールにしてみると諦めた、と言うのが正しいが。

スコールは朝のじんわりとした冷えが滲む室内から隠れるように、緩んだシーツを手繰り寄せて、椅子の上に膝を乗せて丸くなる。
ウォーリアはそんなスコールの頬を撫でてから、ダイニング横のキッチンに移動した。

パンを入れたトースターにスイッチを入れ、昨晩スコールが作ったコーンスープの残りを鍋で温める。
急沸騰しないように弱火でとろとろと温めながら、冷蔵庫からラップで綴じたサラダボウルを取り出した。
これもスコールが昨晩の夕飯に作ったもので、ウォーリアが朝食を作る時は、必ずこれから朝食のサラダを用意する。
はっきりと家事が得意ではないウォーリアが、スコールと共に暮らす時間を得てから持つようになった習慣であった。

食事の用意を整えてウォーリアがダイニングに移動すると、スコールが椅子に座って舟を漕いでいる。
ことん、ことん、と首を揺らすスコールに、いつから起きていたのだろう、とスケッチブックに向かっていた横顔を思い出して、ウォーリアは目尻を下げた。


「…スコール」
「………あ……」


声をかけると、スコールは緩慢な仕草で顔を上げた。
ウォーリアが食事をテーブルに並べると、目を擦りながらスプーンを握った。

ゆっくりと食事を始めるスコールに続いて、ウォーリアも向かい合って椅子に座り、朝食を採る。
食事を進めている内に、腹が膨れるに従って、スコールの睡魔は少しずつ抜けていった。
それでも余り朝は強くない事、昨夜の熱で疲れも抜けきっていないスコールは、気怠い様子で朝を過ごす。

ウォーリアが朝食の片づけをしている間に、スコールはシーツを引き摺りながら寝室へと戻っていった。
着替えて出てくるだろうかと思ったが、結局、ウォーリアのその姿を見る前にウォーリアの食器洗いが終わる。
また眠っているかも知れないな、と思いつつウォーリアが寝室へ入ると、其処にはベッドの上に座り、スケッチブックを開いているスコールの姿があった。


(描いて───いる訳では、ないようだな)


邪魔をしないかと一瞬考えて、スコールの手に鉛筆が握られていないのを確認する。
どうやら、自分が描いていたものをじっと観察しているだけらしい。

寝室に入って扉を閉めると、キイ、と言う蝶番の音がした。
それがスコールの鼓膜に届き、はっとした顔が此方へと向けられる。
ウォーリアが来たと判ると、スコールは見ていたページを隠すように、スケッチブックを腹に抱える。
判り易い隠し方に、ウォーリアはゆっくりと近付きながら言った。


「そのスケッチブックの中身は、やはり見せては貰えないのだな」
「見せれるようなものじゃない。ラフばかりだし」


ラフでもスコールの絵は素晴らしいものだとウォーリアは思っている。
しかし、本人が見せるに堪えられないと言うのなら、無理強いは良くないだろう。
ただ、彼の絵に誰よりも魅せられて止まない身としては、やはり気にならないと言うのも難しく、


「何を描いているのか、それだけでも教えては貰えないか?」
「………嫌だ」


ウォーリアの言葉に、スコールはスケッチブックを腹と足の間に隠して言った。
梃子でも見せない、言わない、と判る反応だ。

警戒する猫のように睨むスコールに構わず、ウォーリアはその隣に腰を下ろした。
未だ着替えもせずに過ごしているスコールの肩に腕を回すと、発展途上の体が一瞬緊張したように強張る。
そっと身を寄せて、柔らかな濃茶色の髪を指で梳くと、固かった彼の体から力が抜けるのが判った。

とす、とウォーリアの肩にスコールの頭が乗る。


「……あんた、今日の仕事は?」
「コスモスが休暇をくれた。君がいるのだから、偶にはゆっくりと傍について過ごすべきだと言われた」
「……」


変な入れ知恵を、とスコールは呟くが、その顔は微かに赤い。
肩に乗せた頭が逃げる様子もなく、スコールはウォーリアの体に体重を預けていた。

青灰色の瞳が、近い距離からウォーリアを映す。
目を合わせるのが極端に苦手なスコールであるが、時折、こうしてじっとウォーリアの目を見て話さない時もあった。
何かを捉えようと、捕まえようとしている時のその眼差しは、絵を描いている時のものと同じだ。
────その貌が、描く絵以上に、ウォーリアの心を捉えて止まない事を、スコールは知らない。



吸い込まれるように、薄藍色と蒼灰色が近付いていく。
それに気付いてスコールが目を瞠るが、その時には既に、二人の唇は重なり合っていた。




2018/06/30

ギャラリストWoL×駆け出しの画家スコールと言う設定。
スケッチブックに描いているのは、ウォーリアの寝顔だったり、いつも見ている顔だったり。見られたらスコールは恥ずか死ぬ。

オフ本で書いたパラレル本の設定を引き摺りつつ、その後の二人がこう言う風になれたら良いなと言う妄想。
過程を大分すっ飛ばしていますが、書いたらまた長くなりそう。