水面の夢人


水の中の浮遊感が、ティーダは好きだ。
冷たくも暖かな水の中で、ふわふわと漂ったり、泳いだり。
体にかかる水圧で少し重くなった筋肉を、しっかりと動かして透明なカーテンを押し広げると、ふぅわりと前に進める。

そう言う体感が好きと言うのもあるが、多分それよりも前に、水の中から見た空が綺麗だったのが幼心に強く残った。
その世界をいつまでも見ていたくて、水中ゴーグル越しのゆらゆらと揺れる空をずっと見ていたら、存外と長く潜り続けていたようで、父親には溺れたと思われたらしい。
無理やりに水膜の向こうへと引き上げられた瞬間、いつも自分を泣かせてばかりの父親が、青い顔をしていたのが不思議だった。
次いで、空を堪能していた所を邪魔されたので怒ったら、心配してやったってのに、と愚痴が零れたのを覚えている。
今にして思えば、確かに溺れていたと考える方が自然な位に潜り続けていたので、父の焦りは真っ当なものであったと判るが、当時の自分はそんな事は考えもしなかった程、水と言うものの恐ろしさを知らなかったのだ。

そんな始まりで水に親しんだティーダは、小学校に上がる頃には、夏のプール授業が好きで好きで堪らなくなっていた。
どうしてプール授業は夏しかないのか、春だって秋だって冬だってすれば良いのに、と何度も思った。
成長するに連れ、いや他の季節はまだしも冬は駄目だ、凍え死ぬ、と理解するようになったが、他校のプールが屋内プールでいつだって使えると聞いた時には、心底羨ましかったものだ(そう言う所でも、プール授業は夏だけなのだが)。
だから中学校に進む時、屋内プールが整備されている所が良いと父に強請った。
其処なら年中通してプール授業がある────と言う訳ではないのだが、大抵、そう言う所は水泳に関する部活も盛んで、入部すれば水に触れ合う機会は増える。
候補にした私立の学校は、ティーダの成績では少し難度の高いもので、父からも無理だ無理だと散々言われたが、父への反発心と、成績優秀な幼馴染の助力のお陰で、ティーダは無事に志望校へと合格した。
入学したティーダは早速水泳部へと入り、めきめきと頭角を現し、中学三年生になる頃には、スポーツ特待生として推薦が貰える程になっていた。

推薦で入った高校でも、ティーダの水への執着は衰えない。
だから直ぐに水泳部に入ろうと思ったし、あちらもティーダの名前は聞き及んでいたから、それを期待していたようだった。
しかし、入部届を出そうとした矢先、プールで水球部が活動しているのを見て、急遽気持ちが変わった。

ティーダの父、ジェクトは水球のプロスポーツ選手だ。
幼い頃からティーダは、意識するしないに関わらず、その背中を見て来た。
試合があれば幼馴染一家と共に応援をしに行く習慣があって、両家共に母が逝去してしまった今でも、それは続いている。
家のリビングのDVDラックには、ジェクトが出た試合の記録が全て残されているし、公式に発売されているベストプレイ集なんて物もある。
試合が多いシーズンになれば家にいないし、シーズン前でも調整やら練習やらで海外にいる事も多く、幼い頃のティーダは余り父と接した記憶がない。
記憶はないが、その背中は確かにいつでもティーダの目の前にあって、壁のように聳え立っていた。

半ば興味本位であったとは言え、水泳から水球に鞍替えする意味を、判っていなかった訳ではない。
父が歩んだ道を、その背中を、真っ直ぐに追い駆ける事になるのだ。
それは、なんとなく其処に壁がある、と思いながらも、その脇道を選んで歩いていた時とは話が違う。
なんとなくと言う意識の中で見ていた背中を、真っ直ぐに見据える度に、その大きさと高さが判るようになってくる。
余りに大き過ぎるその背中は、それを追い駆けなければならない息子にとって、目標になると同時に、自分を踏み潰す重石にもなり得るものだ。
その上、父は世界的に名の知れたプレイヤーであるから、『ならば息子もきっと』と色眼鏡で見て来る輩は絶対にいる。
思春期故の反発心も勿論、父ではなく自分を見て評価して欲しい、と思うティーダにとって、こうした世間の目は非常に息苦しくなるものであった。
それを判っていたから、ジェクトはきっと、息子を水と親しませることはしても、水球と言う自分のフィールドに引っ張り込もうとはしなかったのだろう。
だが、ティーダが自らその道を選ぶと言うのであれば、話は別だ。
若くしてキングの名を欲しいままにした父親は、出ようと必死に藻掻く杭を、ぐいぐいと押さえ付けて来る。
そうする事で、ティーダが益々成長している事を願って。

────当面の所、父親の想いは凡そ反映される形になっている。
そして最近、ティーダにはもう一つ、充実している事がある。



基礎体力がやや低く、スタミナが最後まで持たない事が、ティーダの課題となっていた。
これは水泳をしていた頃からの課題で、瞬発力はあっても、それが長く持たないのと言う評価が常について回っている。
克服するべく毎日のように走り込みをしたり、プールを泳いだりと繰り返しているが、中々思うようにはステータスが伸びない。
このままは良くない、と言う焦りもあったが、さりとて焦っただけではどうにもならないのも事実。
今はとにかく、真面目にコツコツと、体を作り上げていくしかないのだ。

プールを端から端まで泳いで、三往復した所で、ティーダは水から顔を上げた。
はー、はー、と息を切らして、壁に寄り掛かる。
今日の部活の予定になっていた、部員同士の練習試合をした後なので、疲れているのは確かだ。
それでも、もう少し息が切れない位には余裕を作りたい、と思う。

息を整えていると、つんつん、とキャップ越しに頭を突かれる感覚があった。
見上げると、一年生の時に一緒にレギュラーを獲得した友人────ゼルが飛び込み台の上から此方を見下ろしていた。


「ゼル」
「もうそろそろ終わりだってよ。上がって着替えた方が良いぜ」
「判った」
「それから、あっち」


頷いたティーダがプールサイドの梯子に向かおうとすると、ゼルがそれとは反対方向を指差した。
首を巡らせて示された方を見てみると、プールサイドの隅の隅、壁に近い所に所在なさげに立ち尽くしている少年がいる。
ティーダの幼馴染で恋人の、スコールだった。


「スコール!」


喜色満面で恋人の名を呼んで、ティーダは思い切り手を振った。
するとスコールは、ティーダを見付けて一瞬口元を綻ばせたが、はっとした顔になると目を逸らしてしまった。
スコールの反応としてはいつもの事だ。

ティーダは気にせず、急いで水を掻き分けて梯子に辿り着き上ると、速足でスコールの下へ向かう。
ぺたぺたと裸足の足音を立てながら、走ってはいないが駆け寄るティーダの尻に、ぶんぶんと振れる尻尾を見たのは、一人二人の話ではあるまい。


「スコール」
「……煩い。聞こえてる」
「嬉しくてつい」
「……」


キャップ帽を取りながら近付いて来るティーダの言葉に、スコールは胡乱な目で睨む。
が、その頬はほんのりと赤く、怒っていると言うよりは、恥ずかしがっているのだと言う事が見て取れた。

スコールが立っている直ぐ傍らには、プラスチック製のプール用ベンチが並んでいる。
其処は部活をしている生徒が、タオルや水筒や、マネージャーの記録用シートを置く場所になっていた。
ティーダのタオルも其処に放ってあり、スコールはティーダの髪からぽたぽたと滴り落ちる水を見て、おもむろにティーダのそれを掴んで差し出す。
ありがと、と受け取って頭に乗せたティーダは、がしがしと髪を拭き終えると、タオルを肩へと引っ掻けた。


「中まで入って来るなんて珍しいな。いつも上にいるのに」
「ゼルが、どうせだからこっちで待てと。……部外者は入れるもんじゃないだろ」
「まあ良いじゃん。初めてじゃないんだし、皆スコールの事は知ってるし」


ティーダの言葉に、だから嫌なんだ、とスコールは口の中で呟いた。
他人に聞こえる事のないそれに、ティーダが気付く筈もなく、どうかしたかと首を傾げる幼馴染に、別に、と返すのみであった。

スコールはこの学校の生徒であるが、水球部でもないし、水泳部でもない。
プールに来る用事と言えば、精々ティーダの部活終わりを待っている時位で、それだってプールサイドではなく、二階の観客席にいるのが常であった。
今日もスコールはそうしていたのだが、クラスメイトのゼルに見付かり、下に降りて待てば良い、その方がティーダも早く終わると思うから、と促された。
泳いでいる時のティーダの集中力は群を抜いており、時には周りの様子も見ずに、時間の経過を忘れて熱中してしまう。
そうなると誰かに指摘をされない限り、部活の時間一杯まで使ってしまう。
秋口になって落日が早くなりつつあるので、出来れば冷たい風が吹かない内に撤収しろ、と言われているのだが、どうしても忘れてしまうのだ。
しかし、恋人が迎えに来ていると気付けば、余り待たせるのも忍びないと適当な所で切り上げる事も考える。
結局、今日のティーダは、プールサイドに降りたスコールの存在に気付かず、ずっと水の中の住人だった訳だが。


「待たせちゃった?ごめんな」
「……別に。いつもの事だ」
「直ぐ着替えるから」
「……ん」


小さく頷くスコールに、ティーダは笑いかけて、踵を返した。

急ぎ足でプールを後にし、体を拭いて、水球部の部室兼ロッカーへと走る。
途中で先にプールを上がっていた仲間達を何人か追い越して、逸るティーダの様子に背景を察したか、急げ急げと囃し立てる声があった。
部室に着くとこれまたティーダは大急ぎで着換えを済ませ、お疲れ様の挨拶もそこそこに出て行く。
普段はもっとゆっくりと着替えたり、部室で仲間達と雑談をしたりもするのだが、今日はそう言う訳には行かない。
何せ大事な大事な恋人を待たせているのだから。

プール棟の外に出ると、入り口の横の柱にスコールが寄りかかって待っていた。
肩に担いだ鞄を揺らしながら駆け寄ると、音に気付いたスコールが顔を上げる。


「お待たせ」
「待った」
「ごめんって」


詫びるティーダを尻目に、良いさ別に、と言って、スコールは柱から背中を離す。
歩き出したスコールの隣にティーダも並んだ。


「…本当に、水の中にいる時だけは、集中力が高いな」
「やっぱり水の中って気持ち良くてさ。つい夢中になっちゃって」
「そんなに良いものか」
「凄く。スコールも、ちょっとだけ、入ってみる?」
「……嫌だ」


ティーダの言葉に、スコールは判り易く顔を顰めた。
けんもほろろのその態度には、幼い頃のトラウマが滲んでいる。

物心がついて間もない頃、スコールは家族旅行に行った海で溺れた事があると言う。
幼児だったので浮き輪は持っていた筈だが、何かの拍子に零れ落ちてしまい、パニックになっている間に沈んで行った。
その時、深く暗くて冷たい水の底から、光を湛えた空が遠くなって行くのを見ていた。
息が出来なくて苦しくなり、遠くなる空が段々と黒く塗り潰される感覚は、幼い心に深い傷となって残っている。

その時分にはまだティーダとは家族包みの付き合いまではしていなかったので、ティーダは話でしか聞いていない。
けれど水泳に親しんでいる内に、溺れた事も全くない訳ではなかったから、スコールが感じたのであろう恐怖の断片は想像する事が出来た。
一番最初の水との出会いが、そんなに怖い体験だったら、トラウマになるのも無理はない。
それから十何年と経ち、文武両道で知られるスコールが、水泳だけはどうしても出来なくて、夏のプール授業を全て見学にするのも、仕方のない事だろう。

けれどティーダは、それもまた勿体ないとも思ってしまう。


「綺麗なんだけどなぁ。水の中から見た空って」


幼いティーダを魅了した、澄んだ青空と、ゆらゆらと揺れる水面を見上げたあの光景を思い出しながら呟く。
きらきらと乱反射する光の粒が眩しくて、けれどティーダは目が離せなかった。

でも、ともティーダは理解していた。


「仕方ないよな。俺も溺れた事あるけど、あれってむちゃくちゃ怖いし」
「……」


校門へと歩きながら、スコールが俯く。
長い前髪に目元を隠されつつも、尖った口元が悔しそうに見えて、ティーダは濃茶色の髪をくしゃくしゃと撫でた。

────泳ぐことに恐怖を抱いているスコールだが、水の世界に全く興味がない訳ではなかった。
幼馴染が水の世界で活き活きとしている姿を見ているから、其処にあるのは冷たくて怖い物だけではないと言うのも、多少、判ってはいる。
自分が知らない世界で、恋人がどんな世界を見ているのか、共有してみたいと言う気持ちもあった。
けれど、大きくて広くて深い水の中に入ろうとすると、幼い恐怖が蘇って動けなくなる。
中学生の時、課外授業のボートにだって乗れなかったのだから、スコールの水への恐怖は根深いものだった。

頭を撫でていたティーダの手が離れると、スコールは手櫛で乱れた髪を直しながら言った。


「……別に良いんだ。泳げなくても、生きていけない訳じゃないし」
「ま、そっスね」
「…俺は、あんたが泳いでるのを見れれば、それで良い」


スコールの言葉に、ティーダは喜びと少しの寂しさが同居するのを自覚する。
恋人と一緒の世界を見たいと思うのは、ティーダも同じだった。
けれど水が怖いと言う恋人に、その恐怖を強引に切り開けと言うのも酷な事だ。

話題を変えよう、とティーダは頭を切り替えた。
今日は嬉しいニュースが一つあるのだから、それで後は楽しい話をしよう、と。


「スコール、スコール。俺、次の大会、レギュラーだって」
「良かったじゃないか」
「うん。スコール、応援しに来てくれるよな?」


確かめるティーダに、スコールは直ぐに頷いた。
やった、と抱き着いて来るティーダに、スコールの体がよろよろと傾く。

中学校の水泳部にいた頃から、スコールはティーダが出場する大会には必ず応援に駆け付ける。
区域や地方の予選大会は勿論、都心で行われる事になる全国大会にも、スコールは可能な限り見に来てくれた。
余り声を上げるタイプではないので、ティーダの名を呼んで大々的に応援コールをしてくれる訳ではないのだが、スコールが見に来てくれている、と言う事が大事なのだ。
今年は恋人同士になって初めての大会であるし、ティーダも益々気合が乗っている。
スコールが応援に来てくれるのなら、是非とも勝って報告したい、と言う気持ちもあった。



絶対勝つから、絶対見に来てくれよ、と言うティーダに、スコールは判っていると頷く。
そんな事を言わなくたって、スコールは必ずティーダの応援に行くつもりだ。
水の中にいるティーダは活き活きとしていて、スコールはそれを見るのが好きなのだから。

きらきら輝くマリンブルーが、自分を見付けて手を振る瞬間。
ああ、この水にだけは溺れていたいと、スコールが密かに願っている事を、ティーダは知らない。




2019/10/08

10月8日と言う事でティスコ!

違う世界で生きてるティーダがきらきらしてるのを見てるのが好きなスコール。
ティーダは、スコールとも同じ世界を共有したいなあと思っているけど、無理強いはしたくない。いつか一緒に見れたら良いし、その時自分が大好きな世界を案内できたら良いなって思ってる。