まってる 1


普段、レオンは殆ど飲みの類に参加しない。
女性社員からは勿論、仲の良い同僚が多い彼は、いつでも引く手数多なのだが、彼はそれらの誘いをいつも丁重に断っている。
理由は、まだ6歳になったばかりの幼い弟が、家で一人、彼の帰りを待っているからだ。

大都市の真ん中で、小さな子供を一人で留守番させていると言うのは、なんとも危ない話である。
昨今は、セキュリティ対策を施されたマンションでも、何が起こるか判らないと言うのが実際の所。
託児所などに預ければ良いのではないか、と言う声もあるだろうが、就学年齢に達した子供を預かってくれる場所は少ない為、家で一人留守番をしなければならない、と言うのが現状なのだとレオンは言った。
ならば致し方がない、と多くの同僚は理解を示しているのだが、


「レオン、今日の二次会、お前も絶対に来いよ!」


と言う者は、必ずいるもので。
それが親しい同僚の、冗談めかした言葉であれば、レオンも笑って「考えておくよ」と返すだけで良いのだが、世の中そんな風に話を簡単に済ませてくれる人ばかりではない。
特に厄介なのが上司で、この人の直接の誘いとなれば、流石にレオンも適当に流す事は出来ない。

今日の仕事を終えた後、レオンを強引に飲みに連れて来たのも、この上司であった。
レオンは傍目には眉尻を下げて笑顔を浮かべていたものの、彼の頭の中が愛する弟一色であった事は、同僚達にとって用意に想像できた。
しかし、どうにも空気を読むと言う術に芳しくない上司は、レオンの心情を知る事なく、常に彼を自分の隣に座らせて、酒を進めていた。


「なんだ、レオン。ちっとも減ってないじゃないか。飲んでないのか?」
「飲んでますよ。これ、三杯目なんです」


座敷席の上座に座り、隣席のレオンに絡んでいる上司は、すっかり出来上がっている。
対してレオンは平静とした表情で、のんびりとビールを飲んでいた。


「三杯目ぇ?本当か?」
「本当です」
「じゃあこれも飲め!ほら!」


どん、とレオンの前に焼酎瓶が置かれる。
ああ始まった、と誰かが呟いたのがレオンの耳に届いた。

上司の絡み酒は、社内では有名だ。
仕事では部下思いの良い人なので、慕う者も多いのだが、酒の席だけは隣になりたくないと皆が口を揃えて言う。
飲みの席での彼の隣は、一種の罰ゲームだと嘯く者もおり、これも強ち外れではなかった。

レオンは焼酎の瓶を持つと、空になっていた上司のグラスを見て、


「私も頂きますが、その前に、どうぞ一杯」
「おお、すまんな。おーっとっと」


こぽこぽと注がれていく透明な聖水。
半ばまで注がれたそれを、上司はぐっと一気に飲み干した。


「ぷはー!美味い!ほら、お前も飲め」
「ありがとうございます」
「────…なんだ、それだけしか飲まないのか?もっと景気良く行け、景気良く!」


上司から注がれた酒を、レオンは一口飲んだだけでテーブルに置いた。
それが不満だった上司は、飲め飲めと然して減ってもいないグラスに、更に酒を注ぐ。

さあ飲め!と言わんばかりに隣から注がれる熱烈な視線に、レオンは困ったように苦笑いを浮かべた。
あまり酒に強い体質ではないレオンを心配するように、無理しなくて良いんだぞ、と誰かが言ったが、かと言って上司の酒は非常に断り辛いものである。
特に相手が酔っ払い、絡み酒を全力で発揮しているとなれば、此処で断れば「俺の酒が飲めんのか!」と言う、酔っ払いにありがちな台詞も飛び出し兼ねず、更に面倒な絡まれ方をされるのも想像に難くない。
レオンは頂きます、と言って、グラスを持ち上げた。

流石に一気に飲み干す事は出来ないので、半分で留めて置く。
それでも、アルコール濃度の高い酒は、レオンに軽い眩暈を覚えさせる。
そんなレオンに気付かず、レオンが自分の目の前で、自分の注いだ酒を飲んだのが余程嬉しかったのか、上司はにこにことご機嫌になっていた。


「なんだ、そこそこ飲めるじゃないか」
「いえ、それ程でもありません。それより、貴方もどうぞ」


レオンはテーブルに置かれていた瓶を取って、上司の前のグラスに注ぐ。
上司が機嫌よくグラスを傾け、底を空けると、またレオンが酒を注いだ。


「美味しそうに飲まれますね」
「ん?そうか?」
「そう見えます。見てると、私も飲みたくなって来ますよ」
「そうかそうか。じゃあ、ほら。お前もどんどん飲め。俺もどんどん飲むからな」
「はい。ああ、摘まみがなくなってますね」


こっちに枝豆がありますよ、と言う声を聞いて、レオンはそれを貰う事にした。
上司の前に枝豆を置いて、焼酎瓶は自分の脇に置いておく。


「そう言えば、お前、飯もあまり食ってないんじゃないか?」
「食べてますよ」
「見てない気がするんだがなぁ…」
「偶然でしょう。チーズ揚げ、美味しかったですよ。どうですか?」
「んじゃ、それも食うかな」


レオンは大皿に乗っているチーズ揚げを小皿に取って、枝豆の隣に置いた。

上司は枝豆を食みながら、レオンに寄り掛かってからからと笑う。


「今日は良い気分だ。仕事も景気の良い話が続いたし、飯も美味いし、酒も美味い。何より、お前がいるからな!」


ばしばしと背中を叩かれて、レオンは飲んでいた酒を噴き出しかける。
寸での所で留めたが、咽返って咳き込むレオンに、上司は「なんだもう酔ったか?」等と笑った。


「レオン。俺はなぁ、お前と飲んでみたかったんだよ。お前以外の奴らとは、皆一度は飲み交わしたって言うのに、お前と来たら、仕事が終わるといつもさっさと帰るだろう。捕まえるのも一苦労だ」
「それは、すみません。早く家に帰らないとと思っているので…」
「ああ、聞いてる聞いてる。歳の離れた弟がいるんだってな。そりゃあ心配だろうな。でもな、今日はそういう事は忘れろ!忘れてたまにはパーッと弾けろ!な!」


それが出来ないから、レオンはいつも直ぐに帰宅しているのだが、アルコールの回った上司は、その辺りの細かい事情は綺麗に抜け落ちているらしい。
レオンは曖昧に笑みを浮かべた後、空になっていた上司のグラスに酒を注いだ。


「焼酎、そろそろなくなりますね」
「なんだ、随分早いな」
「また頼みますか?」
「いや、別の奴を注文しよう。お前も飲むよな。俺と同じもので良いか」
「はい。お任せします」


メニュー表を眺めて、あれにするか、こっちにするかと悩む上司の隣で、レオンはこっそりと嘆息を吐く。
その嘆息の意味を、その場にいる社員の殆どが気付いているのだが、一番気付かなければならないであろう当人は、まだまだレオンを解放する気はないようだ。

レオンが腕に嵌めている時計を見ると、時刻は午後8時を過ぎた所。
仕事を終え、飲みが始まったのは午後7時だったから、まだまだ宴は終わりそうにない。
何処かで抜け出すタイミングがあれば良いんだが、とレオンは寄り掛かったまま離れようとしない上司を一瞥した。




2012/01/19

サラリーマンだもの。お付き合いで行かなきゃいけない時もありますよ。