待って、待って


かぷ、と首の後ろを噛んで持ち上げる。
そうやって、高い塀や、幅の広い溝や、パイプの上を運んで行く。
それが一番安全なのだけれど、いつまでもそうしている訳には行かない。

生まれて半年近くが立って、幼子はやっぱり小さな体をしているけれど、伸び伸びと成長してくれた。
最近は兄の真似をする事に一所懸命で、兄が毛繕いをしたり、昼寝したりすると、一緒になって毛繕いしたり、昼寝したり。
もう幼子と言う程幼くはないけれど、兄にとってはやはり、幼子は幼子であった。
何かあると直ぐにおにいちゃん、と呼ぶし、ちょっとした段差に足を取られてころんころんと転がってしまう。
なんとも、見ていて危なっかしい。

でも、だからと言って、いつまでも過保護にしている訳には行かない。
自分自身で生きて行く力を身に付ける事が出来なければ、この世界で生き残っていく事は難しい。
例え兄がどれだけ守り続けていようとも。


お兄ちゃん、お兄ちゃん。


呼ぶ声に振り返れば、とてとて、とてとて、駆け寄ってくる幼子がいる。
すりすりと身を寄せて来る幼子に、こつん、と鼻を押し付けた。
それだけで嬉しそうに目を細める幼子は、兄を無心に慕ってくれる。
だからこそ、少し心が痛いけれど、だからこそ、心を鬼にしなければならない。
そうしないと、この子はいつまで経っても、一人前になれないから。

お腹空いたな、と言うと、幼子はうん、と頷いた。
ママ先生の所にご飯を貰いに行こう、と言うと、幼子はうん、と嬉しそうに頷いた。
今日は近道して行こう、と言うと、幼子はうん、と頷いた。

いつも通る道を途中で曲がると、後ろをついて来ていた足音が止まる。
お兄ちゃん、と呼ぶ声がして、振り返ると、見慣れない道に戸惑う様子の幼子がいた。
大丈夫、と促すと、駆け足で追い駆けて来て、ぴったり兄の後ろをくっついて歩く。

行き止まりの壁を、ジャンプで登る。
壁の上から下を見下ろせば、幼子はぐるぐると辺りを歩き回る。


待って、待って、お兄ちゃん。


幼子はきょろきょろ辺りを見回した後、見付けた室外機の上にジャンプした。
それから、小さな棚、詰み上がったプロックと点々と飛び移って、兄の下へ。

ほんの少し前まで、壁の下で兄を呼ぶしか出来なかったのに、一人で登れるようになった。
毎日、兄の真似をして、飛び跳ねる練習をしたからだ。
よく出来ました、と耳の裏を撫でてやると、ぴくぴく、と嬉しそうに耳が跳ねる。


早く行こう、お兄ちゃん。


得意げに行って、壁から降りようとする幼子を呼び止めた。
今日はこっちだ、と言って壁の上を伝って行くと、幼子は疑う事なく着いて来る。

家と家の隙間を通っていた壁を伝って行くと、川に出た。
其処には水道管や排気管のパイプが沢山あって、川の端と端を繋いでいる。
その中で特に太い一本を選んで、ひらり、壁からパイプに足場を移した。

パイプは太くてしっかりとしているけれど、平になっていないから、滑らないように気を付けながら歩く。
すると、


待って、待って。
お兄ちゃん、待って。


呼ぶ声が聞こえて、振り返ると、壁の上で佇んでいる幼子の姿。
おろおろ、きょろきょろ、辺りを見回しているけれど、追い駆けて来る様子はない。


待って、待って。
お兄ちゃん。


ミィ、ミィ、と兄を呼ぶ声。
兄を追い駆けようと、パイプに足を乗せてみる幼子だけれど、出しかけた前足が直ぐ引っ込んだ。

大丈夫、怖くないよ。
ゆっくり、ゆっくり、バランスを取って。
真ん中を通れば大丈夫。
ゆっくり、こっちに渡っておいで。

促してみるけれど、幼子は固まったように動かない。
ちゃぷん、と川面で何かが跳ねる音がした。


まって、まって。
おにいちゃん。


ミィ、ミィ、と兄を呼ぶ。
そうすれば、いつだって兄は戻って来てくれて、咥えて運んでくれたから。
それが一番、安全で、怖くないから。

けれど、兄は戻らなかった。
パイプの真ん中で止まっていた兄は、ふい、と背中を向けて歩き出した。


まって、まって。
おにいちゃん、まって。
まって、おいていかないで。


一際大きな声で兄を呼ぶ。
その声に、振り向いて戻りたくなるのを耐えながら、兄は反対岸に辿り着いた。
其処でようやく振り返り、ほら、おいで、と幼子を呼ぶ。

兄が戻って来てくれない事を感じ取ったか、幼子は泣きそうな顔でじっと兄を見つめていた。
どうして戻って来てくれないの、と見つめるキトゥン・ブルーに、兄はぐっと歯を食いしばる。
此処で戻るのは簡単だ、いつものように運んでやるのも簡単だ。
でもそれでは、あの子はいつまで経っても幼子もままで、生きて行く術が身に付かない。
甘やかすだけでは駄目なのだと、自分自身に言い聞かせて、兄はじっと幼子を待った。

やがて、兄を呼ぶ幼子の声は止んだ。
ぺたり、とその場に伏せて、耳が寝て、しょんぼり顔で、対岸で待つ兄を見る。

それから更に時間が経って、幼子はそろそろと起き上り、恐る恐る、パイプへ足を踏み出した。
きちんと足が乗る場所を探して、ぺた、ぺた、ぺた、とパイプを触る。


まって、まってね。
まっててね。


ミィ、ミィ、と兄を見て、幼子は言った。
そうして、そっと、そっと、パイプの上に体を乗せる。

一歩、一歩、また一歩。
戻りたい、と言いたげに、幼子は後ろを振り返る。
そんな幼子に、おいで、と声をかければ、泣きそうな顔で兄を見た。
ぷるぷる、小さく震えながら、幼子は兄だけを見て、真っ直ぐ歩く。


お兄ちゃん。
待ってね、待っててね。


ちゃんと行くから、待っててね、と言う幼子に、うん、待ってるよ、と頷いた。

慣れてしまえば、渡り切るまで20秒だってかからない。
けれど、初めて渡る幼子にとって、この道はとても怖くて、とても険しいものだから、ゆっくりゆっくり、落ちないように、慎重に。
足下で、ぽちゃん、と川面の跳ねる音がして、びくっと幼子の体が固まった。

こわい、こわい。
おにいちゃん、たすけて。
そんな声が聞こえそうなくらい、キトゥン・ブルーが見つめるけれど、兄は決して動かない。
じっと耐えるように、石になってしまったかのように、じっとその場で待っている。

一分、二分、ひょっとしたらもっと。
それくらい、幼子と兄にとって、長い長い時間が経って、


お兄ちゃん。


パイプを渡り切った幼子が、一目散に兄に駆け寄った。
ミィミィ鳴いて、すりすり体を寄せて来る幼子に、兄もほっと息を吐く。

よく出来ました。
額を撫でて、耳の裏をくすぐって、涙の滲んだ目元を拭ってやれば、お兄ちゃん、と甘えてくる声。
ぐるぐる兄の周りを周って、すりすり体を摺り寄せて、精一杯頑張った分を取り戻すように、沢山甘える。
兄もそんな幼子を、目一杯甘えさせてから、さあ行こう、と促した。

幼子は、ぴったり兄に寄り添ってついて来る。
けれど、歩幅の違いで、いつの間にか幼子は後ろをついて来る形になって、


待って、待って。
お兄ちゃん、待って。


一つ試練を乗り越えて、少しずつ大きくなって行く幼子。
けれど、どうやら、兄離れはまだまだずっと先らしい。

立ち止まって振り返れば、一所懸命に駆けてくる。
もう転んだりはしないかな、と思っていたら、ころんころんと転がった。
きょとんとした顔で逆さまになっている幼子に近付けば、お兄ちゃん、と嬉しそうに呼ぶ声が聞こえた。




2013/02/05

ちょっと大きくなった仔猫スコ。
でもまだまだ甘えん坊。