ホッとみるく


休憩する暇が勿体ない────とは言え、人間は全くの不眠不休で活動できるようには創られていない。
消費した体力やエネルギーを再度確保する為には、食事等の栄養補給は必要であるし、集中力や情報処理能力の精度を維持する為には、睡眠は不可欠だ。

しかし、そうは言っても、やはり寝る間も惜しくなる事もある。

色々なミスが重なり重なって、予定よりも大分送れてレオンの下に到着した書類は、明後日の午前中には先方に届いていなければならない。
だと言うのに、書類の中身はまだ半分も出来上がっていない。
今晩中にせめて三分の二は書き上げておかなければ、先方への到着は更に遅れ、信用を失う事にもなり兼ねない。
今日が踏ん張り所なのだと、自分自身に言い聞かせ、レオンはパソコンと向き合い続けていた。

疲労の所為だろう、じんじんとした偏頭痛を感じながら、レオンは席を立つ時間も惜しいと、ひたすら液晶画面を睨み、キーボードを叩き続けていた。
常の倍以上の集中力で作業に没頭するレオンは、時刻がいつの間にか夜の十一時を越えていた事にすら気付かない。
きぃ、と寝室とリビングを隔てるドアが、小さな音を鳴らした事にも気付かなかった。
だから、とてとてと小さな足音を立てて、小さな子供が眠たげに目を擦りながら寝室から出てきた事にも、レオンは気付いていなかった。


「おにいちゃ……」


自分を呼ぶ声に、レオンはよくやくパソコン画面から目を放した。
振り返ってみると、小さな弟────スコールが、こしこしと小さな手で目元を擦りながら、テーブルの端からひょっこりと顔を出して、此方を見ている。

レオンはピントが合い難くなっていた目を擦り、小さく笑みを浮かべた。


「目が覚めたのか?スコール」
「うん……のどかわいたの」
「そうか。じゃあ、ミルクでも作って────」
「んーん」


椅子から腰を上げようとしたレオンに、スコールは小さく首を横に振った。
おや、とレオンが首を傾げていると、


「お兄ちゃん、忙しいもん。ぼく、自分でできるよ」


そう言ったスコールの目には、兄を気遣う色がありありと伺えた。

スコールはテーブルから離れると、小走りでキッチンへと向かう。
大丈夫だろうか、と小さな影を目で追っていると、スコールは足場用の小さな木イスを運び出して、よいしょ、と上る。
背の高い冷蔵庫の蓋をぱかりと開けると、スコールは小さな足場の上で背伸びをして、牛乳パックを取り出した。
牛乳パックを調理台に置くと、足場を食器棚の下へと運んで、もう一度よいしょと上り、食器棚の上に置いていたマグカップを手に取った。

調理台に立って、ゆっくりとマグカップに牛乳を傾けていくスコールに、レオンは大丈夫そうだな、と浮かせかけていた腰を椅子へと下ろす。
さて、と仕事の続きを再開させようと液晶画面に向き直ったレオンだったが、其処に映り混んだモニターは、ぼんやりとしていて明瞭としない。
目疲れか、とレオンは目頭を抑え、軽くマッサージして、血行の流れの改善を試みる。


(目薬を買っておけば良かったな。効率も落ちてるし、少し休憩を挟んだ方が良いか?しかし……)


眉間に深い皺を刻み、作業を続行するか、効率の回復を図る為に休憩を挟むか思案する。
ミスを起こさない為にも、一度休憩を挟むのが無難かとは思うのだが、今は三十分程度の空き時間さえも惜しい。
早く終わらせてしまえば、それだけ後に余裕が出来るのだから。

キッチンから、ピーッ、ピーッ、と言う電子レンジの音が聞こえた。
スコールが自分でホットミルクを作っているのだろう。
いつもなら、それもレオンが作ってやって、甘いミルクにふにゃりと頬を綻ばせる弟の姿に和んでいるのだが、今日はそんな余裕もない。
小さな弟が、自分で出来るよ、と気遣うように言ってくれた事は、幼い彼の成長を感じることもあって嬉しかったが、甘えん坊の彼が我慢しなくちゃと思う程、自分が忙殺されている事には辟易としてしまう。

ふう、と溜め息を一つ吐き出して、レオンはもう一度パソコンと向き合った。
休憩するのはもう少し後にして、今書いている部分だけでも片付けてしまおう。
カタカタとキーボードを叩く音が再開され、静かなリビングの中に響く。

没頭するように文章に集中しようとしていたレオンだったが、ことり、と小さな音と共に、テーブルの端に白いものが置かれた事に気付いて、顔をあげる。
すると、白いマグカップが置かれたテーブルの端から、ひょっこりと小さな弟が顔を出していて、


「これ、お兄ちゃんの分ね」


スコールはそう言った後、キッチンでピーッピーッと鳴る電子レンジの音に気付いて、ぱたぱたとそちらへ駆けて行った。

リビングに残されたレオンは、少しの間、呆然としたように、キッチンに入っていったスコールの背中を見つめていた。
その姿がキッチンの影に完全に見えなくなって、ようやくテーブル端に置かれているものに目を移す。
ちょこんと置かれたマグカップは、まだ六歳になったばかりのスコールが使うには、少々大きい。
つまり、このマグカップはレオンが普段使っているもので、スコールもレオンが使うものだと認識しているものだった。

ほこほこと暖かな湯気を上らせるマグカップを手に取る。
其処へ、両手に小さなマグカップを持ったスコールが、溢さないようにそろそろとした足取りで戻ってきた。
マグカップをテーブルに置くと、スコールは椅子に上ってちょこんと座り、落とさないように両手で持ったマグカップを傾ける。


「……んぅ」


一口ミルクを飲んだスコールは、困ったように眉毛をハの字にして首を傾げる。
変だなあ、と首を傾げるスコールに、レオンもまた首を傾げ、


「どうした?」
「んぅ……なんか違うの」
「違う?」
「これ。いつもと違うの」


これ、と言ってスコールが差し出して見せたのは、マグカップに入ったミルク。
レオンは少しの間考えた後で、スコールが言わんとしている事を察して苦笑した。

スコールがいつも飲んでいるホットミルクは、レオンが鍋を使って温め、蜂蜜を入れて、手作りしているものだった。
今日はスコールが自分で作ったので、火を使う鍋は使えず、電子レンジで牛乳を温めていた。
その所為で、いつも自分が飲んでいるホットミルクとは、舌触りや味が違って感じられたのだろう。

むぅ、と唇を尖らせてホットミルクを睨むスコールに、レオンは苦笑を漏らして、自分のミルクに口をつけた。
ほんのりと蜂蜜の味と甘い匂いが感じられ、その温かさと共に、疲労し切ったレオンの体にゆっくりと染み渡っていく。
その様子を、スコールが固唾を飲むように真剣な表情で見つめている。
レオンはそんな弟に小さく微笑んで、


「美味しいよ、スコール」


兄の言葉に、ぱああ、とスコールの表情が明るくなる。
まろい頬をほんのりと桜色にして、スコールはにこにこと嬉しそうにミルクを飲み、もう先程のようにいつもと違うミルクの味に首を傾げる事もしない。

レオンはもう一口、ミルクに口をつけた。
確かにいつも自分が作っているホットミルクとは、味も舌触りも僅かに違うが、レオンにはこのホットミルクがとても甘く美味しいものに思える。
スコールが自分の為に淹れてくれたものだと思うと、尚更。



急がなければと思っていた仕事の事は、ほんの少しの間、忘れてしまおう。

レオンは、くすぐったそうに笑いながらミルクを飲むスコールを見つめ、一時の癒しの時間に浸る事にした。




2013/06/13

徹夜が続いて、甘いものと癒しが欲しかったので、子スコにお願いしてみました。
休息って大事。