甘い時間を待っています


今から一ヶ月前のバレンタインデー────その日、スコールはレオンからチョコレートを贈られた。
が、その時、スコールも彼に対して贈るチョコレートを用意していたのだ。

スコールは一日の学業を終えた後、普段なら先ず近付かないであろう、女子生徒が屯する洋菓子店に赴き、きゃいきゃいと花を飛び散らす少女達の中に一人混じって、彼に渡すチョコレートを選んだ。
そうした非常に高いハードルを越えた後で、スコールは更に高いハードルにぶつかる事となる。
スコールが学校で沢山の女子生徒(名前を知らない者も多い)からチョコレートを贈られたように、レオンも勤め先の同僚達から、大量のチョコレートを贈られていた。
レオンが貰ったものは、流石社会人とでも言うのか、どこそこの高級ブランドチョコレートが並べられ、手作りのものも、中身は勿論包装紙まで非常に凝られていて、女性達の執念のようなものが感じられた。
そんな沢山のチョコレートを見た後で、スコールは自分が用意したチョコレートが酷く貧相なものに見えたのだ。
学生達が寄り道して行くような洋菓子店で買ったもので、ワイン入りのビター味と言う大人向けの仕様とは言え、やはり高級菓子の類には、遥かに見劣りする。
スコールは完全に気後れし、チョコレートを直接渡す事を躊躇ってしまった。

スコールがどうやってチョコレートを渡すかを考えあぐねている間に、レオンの方からスコールへ、チョコレートが贈られた。
予告もなく口の中にチョコレートを入れられて、何事、と狼狽していると、キスをされ、彼はスコールとチョコレートの味を堪能した後、「来月は、お前の方から貰えると、嬉しいな」と言って笑った。

彼にそう言われたから───と言う訳ではないが、3月14日のホワイトデー当日、今度こそは、とスコールは思っていた。
あの日スコールが用意したチョコレートは、結果的にはレオンに贈る事は出来たものの、直接渡せた訳ではなく、レオンの部屋のデスクに置いて、彼に気付いて貰うと言う手法が取られた。
今回はバレンタインデーのお返しの日とされているのだから、渡す事への大義名分は十分ある。
一ヶ月前のように、あれこれと考え込んだり、チョコレートを用意する為に高いハードルを越えたりする必要はない。
この前のお返し、と言って差し出せば良い、簡単な事だ。

……簡単な事だ。


(………そう、思ってたのに)


3月14日の夜、スコールは無表情の裏側で、胸中で頭を抱えていた。

レオンと二人で暮らす家の中、リビングのソファに座って、スコールはテレビを眺めていた。
が、目線が其方に向いているだけで、放送されている番組の内容は、まるで頭に入って来ない。
彼の意識は、ただ只管、背中の気配に向けられている。

スコールが座っているソファの後ろには、食卓に使っているテーブルがあった。
レオンはその席に着いて、仕事用に使っているパソコンを開き、何かのデータを打ち込んでいる。


(……忙しそうだ)


何でも、年度末の総決算が近いとかで、やる事が山積みになっているらしい。
春休みと言うものは学生の内の特権であり、社会人には全く関係の無い事なのである。

絶えず聞こえる、キーボードを叩く音と、カーテンを開けた夜の窓越しに映る彼の表情は、真剣そのもの。
スコールは、ただの一時であっても、それを邪魔する事に気が引けていた。

スコールがバレンタインデーのお返しにと用意したのは、一ヶ月前と同じ店で買ったチョコレートだった。
同じ物を同じ店で用意するなんて芸がない、とは思ったが、スコールにとって、今日と言う日は、彼の日のリベンジの意味もある。
あの日は直接渡せなかった上、先にレオンの方からチョコレートを贈られたので、今度こそは自分から、と思っていた。
そして出来れば、あの日出来なかった“直接手渡しする”と言うミッションをクリアしたい。

しかし、忙しそうな彼の横顔を見遣る度、どんどん気後れして行く自分がいる。
邪魔をしないように、彼の部屋にこっそり置いておこうか、と思ったが、それでは一ヶ月前と何も変わらない。


(もう少し待って、レオンの仕事が終わったら、渡すか。でも、まだしばらく終わりそうにないよな…)


パソコンの横に置かれた、資料らしき紙の束を捲りながら、レオンは作業を続けている。
その紙束が、まだ半分も捲られていない事に、スコールは気付いていた。
あの紙束全てに書かれている事をまとめなければならないのだとしたら、日付を跨ぐのは目に見えている。

せめて日付が変わる前、ホワイトデーの内に渡したい。
でもタイミングが……と考えれば考える程、スコールはドツボに嵌り込み、冷蔵庫に納めているチョコレートを取りに行く事すら出来なくなっていた。

後々になって考えれば、「一ヶ月前のお礼」と言って、テーブルに物を置くだけで目的は果たせたのだが、思考の迷路に嵌り込んだスコールは、そうした考えすら思い浮かばなかった。

窓越しにちらちらと彼を見て、興味の無いバラエティ番組の音を聞くともなしに聞きながら、いつ動こう、と緊張しながらタイミングを探す。
そんなスコールの後ろで、キーボードを叩く音が途絶え、レオンは曲げていた背中をぐっと後ろに逸らした。


「……ふーっ…」


パソコンに向かう為にずっと丸めていた背を伸ばせば、ぴきぴきと筋肉と骨の引き攣る感覚に見舞われる。
いたた、と眉根を寄せるレオンに、スコールは振り返り、


「終わったのか?」
「ん……今日の所は、な」


書類の束をぱらぱらと捲りながら、レオンは言った。
一応、今日の作業として予定している所までは終わった、と言う事だ。
几帳面な彼の事、出来れば前倒しで出来る所まで終わらせてしまいたいのだろうが、今日はもうそんな気力も尽きているようだ。

レオンはパソコンの電源を切り、蓋を閉じると、ふう、と息を吐いてテーブルに突っ伏す。
滅多に見せない、判り易い“疲れた”と言う様子で、彼は呟いた。


「毎年の事だが、やる事が多くて困る」
「……大変だな」
「まあな。この時期だし、仕方のない事ではあるんだが」


決算と言うものが近付く度、レオンが大量の書類作りに追われている事を、スコールは知っている。
一年間の総決算となると尚更で、平時でも多い書類の数が倍以上にまで増えており、さしものレオンでもこれを捌くのは一苦労だった。

のろのろと体を起こすレオンを見ながら、渡すなら今だろうか、とスコールは考える。
レオンもスコールもあまり甘い物は得意ではないが、甘味は疲労時の回復に役に立つ。
しかし、レオンは明日も仕事があるし、早朝の内に出社しなければならない筈だから、甘味よりも早く眠りたいかも知れない。
────考え始めればキリがない可能性を、スコールは延々と頭の中で巡らせていた。

かたり、とレオンが席を立つ音を聞いて、スコールは我に返る。


「風呂に入るのか?」
「いや。その前に、コーヒーでも飲もうかと」
「俺が淹れる」


仕事終わりの一服が欲しいのなら、丁度良い、とスコールはソファを立った。
コーヒーを淹れて、その当てにチョコレートも渡せば良い。
これなら、無理なく自然に渡せるだろう。

キッチンへ向かうスコールを見送って、レオンは小さく笑みを零し、テーブルに置いていた書類を取った。
明日まとめる分を確認するのも面倒で、パソコンと一緒にさっさと仕事用の鞄の中に入れて、蓋をする。

スコールはコーヒーミルを取り出し、レオンに教えて貰ったやり方で、コーヒー豆を挽いていた。
ほんのりとしたコーヒーの香りがスコールの鼻腔を擽る。
レオンに教わった通りの挽き方をしているのに、不思議な事に、何度挽いても彼の作ったコーヒーと同じ香りにならない。
それでも、レオンが「スコールの挽いてくれた豆の香りは美味い」と言ってくれるから、これで良いのだと思っている。

挽き終った豆を布フィルターに入れて、サーバーにセットし、少し湯を注ぐ。
豆を蒸らし終わった所で、改めて湯を注ぎ、コーヒーが摘出されるのを待っている間に、冷蔵庫に入れているチョコレートを取り出そうとした所で、


「最近、妙に疲れが溜まっている気がするんだ」


本来なら対面式のキッチンとなる為か、キッチンとリビングの間の壁には、窓がある。
其処から聞こえた声にスコールが顔を上げると、レオンはスコールが点けっ放しにしていたテレビを眺めていた。
その為、キッチンにいるスコールからは、レオンの後ろ姿しか見えない。

じっとその後ろ姿を見詰めるスコールに、レオンは振り返らないまま、言った。


「だから、妙に甘いものが食べたくなるんだ」
「………」
「でも、此処の所、コンビニに買いに行く暇もなくてな」


レオンの言葉は、独り言染みていたが、スコールに向けられているようでもあった。

スコールは、冷蔵庫の蓋に手をかけたまま、じっとレオンを見詰めていた。
レオンが肩越しに振り返り、蒼灰色の瞳が微かに楽しそうに和らいで、


「何かあったら、嬉しいんだけどな」


澄んだ蒼の瞳には、期待と言うよりも、確信的な光が滲んでいる。
それを見付けただけで、スコールは、何もかもが見透かされているような気がして、頬に朱色が上った。



真っ赤な顔でコーヒーとチョコレートを差し出すスコールに、レオンがもう一つ、スコールが益々赤くなる事を言おうとしている事を、彼は知らない。




2014/03/15

「お前の手で食べさせてくれ」って言う。

バレンタインの時には、レオンがスコールに食べさせてあげたからね(不意打ちで)。
自分がした事を、全部そのままお返しして貰おうと思ってるレオンでした。