Il mondo sulla lente




保護者を見上げる悟空の瞳は、真剣そのもの。
言っている事は突拍子で意味不明なものが多く見られ勝ちだが、本人は至って真剣。


三蔵は暫くフリーズした状態になっていたが、少し経つと溜め息を吐く。




「バカ猿」
「む!!」




明らかな呆れの色を濃く滲ませた三蔵の言葉に、悟空が頬を膨らませた。




「オレ、真面目なのに!」
「なら尚更バカだ」




眼鏡のフレームを持って弄びながら、三蔵は続ける。




「こんなもんかけたって、お前の見てるモンは変わらねぇよ」
「でも……」
「それに、眼鏡かけたからって、俺が見てるものが変わってる訳でもない」
「でも、違うってさっき言った」
「ボケてた視界がまともになるだけで、見えてるものはそのままだ」




三蔵の言葉を、悟空は眉根を寄せて聞いていた。
その視線は三蔵の手の中の眼鏡に釘付けになっている。


余程の弱視であるなら、視界がクリアになった事を、世界の変化と思うかも知れない。
八戒のように成人してから片目を失った場合も、遠近感の狂いはあるし、それまで見ていた世界から変化しただろう。
だが見えているものが丸々変化する訳でなし、見えなかったものが見える訳でもなく。

それを、この子供はどう解釈したのやら────こればかりは三蔵にも予想がつかない。


一つ溜め息を吐いて、三蔵は腕を伸ばす。
膨れっ面の子供の頭を、くしゃりと撫でた。




「なんでもかんでも、俺と一緒にしたがるな」
「……だって一緒がいいんだもん」




いまいち納得しない様子の悟空に、どう言えば悟空の気が収まるのか、三蔵は頭を痛める。
妙なところで頑固で譲らない子供は、一体誰に似たのやら。
……自分じゃない、絶対に、こんなに意味の判らない子供ではなかった筈だから。

三蔵が一人そんな事を考えているとは露知らず、悟空は眼鏡に手を伸ばす。
思考回路に囚われていた三蔵がそれに気付く事はなく、あっさりと眼鏡は悟空の手の中へ。




「おい、猿……」




傷が付くから止めろと言うのに、悟空は聞かなかった。

カチャ、と小さな金属音がして、悟空の金瞳が凸レンズに覆われる。




「うあ」
「……学習能力ねぇのか、テメェは」




つい数分前に同じ目にあったのに、何を考えているのか。
呆れたという三蔵の口調に悟空はメゲず、今度は眼鏡を外さない。




「んー……同じのは、見れないのは判ったけど…」
「だったら外せ」
「もうちょっと」




目を何度も瞬かせながら、悟空は眼鏡のフレームに触れる。
言っても聞かない子供を見て、三蔵はもう好きにしろ、とそれ以上口出しする事を諦めた。


眼鏡をかけた悟空というのは、なんとも奇妙なものだと三蔵は思った。
コンタクトにしろ、サングラスにしろ、そういう小物と悟空は縁遠いもののように感じられるからだろう。

遊びまわるのに邪魔になるし、直ぐに落として失くすのが目に見えている。
悟空が自分の小物で唯一失くさないものと言ったら、髪結の紐位のものだ。
これは殊更大事にしている。



眼鏡をかけたままで悟空が立ち上り、ふらふらとした足取りで歩き出す。
転んで傷でも付けなければ良いがと三蔵は思ったが、もう止めなかった。
どうせ聞かないだろうし、満足するまで好きにさせるのが一番楽だ。

悟空は部屋の中をあちこち見回し、時折眼鏡を少しずらし、裸眼で確認している。
眼鏡の有る無しで何が変わるのか、変わるものはないか探しているようだ。


とてとてと軽い足音を立てながら、その足元はどうにも覚束無い。
遠近感が狂っている所為だろう。


窓辺に歩み寄ると、悟空は窓枠にぶら下がっている風鈴を見上げた。
半透明の水色の波の中を、赤い金魚が泳ぐ、硝子細工。
露天の雑踏の中で聞いた音色を気に入ったソレは、今は揺れる事もなく、ただ其処に佇んでいる。
おまけに眼鏡越しに見ると、色は認識出来るものの、赤い金魚は只の楕円に見えてしまった。

三蔵が新聞を読む時も、眼鏡がないとこんな感じなのだろうか。

近くのものがボヤけて見えるというのは、悟空にとって、なんとも不思議な現象だ。
“きんがん”の人は眼鏡がないとこう見えているのか、と悟空は胸中で呟く。



しばらく無言で風鈴を見上げていた悟空だったが、くるりと踵を返す。
振り返った先には丁度三蔵がいて、此方を見ていた。

が。




「………さんぞの顔、ヘン」




レンズ越しに見た保護者の顔は、いまいち判別がつかない。
金糸も紫闇もいつも通り、持つ雰囲気だって変わらない。
けれど、その輪郭は酷くボヤけて曖昧になっていて、悟空は顔を顰めた。

それと同時に、三蔵も顔を顰めていた────レンズ越しに見ていた悟空は、それに気付いていなかったが。
露骨に潜められた眉根を、今この時、自身以外は誰も気付いていなかった。
無論、そんな表情を浮かべた理由も。


またふらふらとした足取りで、悟空は三蔵に近寄る。




「目、痛くなってきた」
「外せ」
「んー……ちょっと待って…」




眼球の水晶体が無理にピント合わせを続けるのに音を上げたのか。
悟空は一旦眼鏡を外し、目を擦る。

それから、後一回だけ、ともう一度。




「三蔵、其処動いちゃダメだかんね」
「ああ?」




今度は何を下らない事を思い付いたのか。
そんな心境になりつつ、悟空が引き下がる様子もないので、癪だが言う通りにする。


一旦眼鏡を外した悟空は、三蔵に真っ直ぐ向き合ってからまた眼鏡をかける。
一歩二歩と歩み寄ると、最後に地面を蹴った。

タックル宜しく、抱き疲れる。




「……おい、バカ猿─────」




何がしたいんだ、と言おうとして、それは音にならなかった。
子供の唇によって。



身体を重ねるようになって一年程が経つ。
けれど口付ける子供の所作に艶などなく、ぶつけるような色気のないキス。


意外に恥ずかしがる子供は、顔を近付けると、真っ赤になって目を逸らす。
逸らせまいと顔を固定させれば、今度は瞼を閉じてしまうのが常だった。
どんなに蕩けさせてやっても、キスをしている間、悟空はその金瞳を晒す事はなかった。

しかし今、悟空は金色を覗かせたまま。
三蔵の紫闇とゼロに近い距離で、ゆらゆらとその光を反射させていた。


以前「三蔵の顔がキレイだから、近くで見れない」と言っていた事を思い出す。
それが恥ずかしがらずに目を開けていられるのは、多分、遠近が狂って焦点が合っていないからだ。



レンズ越しとは言え、三蔵がこの距離で金瞳を見たのはこれが初めてだった。




「……はっ…」




唇が離れて、艶の篭った呼吸が悟空の口端から漏れる。

その離れようとした唇を、三蔵は後頭部を押さえつけて強引に元の位置に戻す。
己のそれと、再び重ね合わせた。




「ん、う……むぅっ……」




酸素補給が出来なかった悟空が苦しげに呻いた。
無視して唇を重ね続け、三蔵は角度を変えながら深く貪る。

潤んだ金瞳がレンズ越しに見えた。



キスをしたまま、眼鏡を奪い取る。



瞬間、クリアになった視界に驚いたように目を見開く悟空。

視界の劇的な変化と、間近に鮮やかな金糸と紫闇。
悟空が好きだといって止まない、何者にも焦ることのない色。


三蔵の目の前で、金瞳が羞恥の色に染まっていく。
同じく頬も朱色を帯びて。







「閉じるな」







紫闇の眼光の束縛から逃れようとするように、目を閉じかけた悟空に囁く。
後頭部に添えた手はそのまま、眼鏡を机に置いて空いた手で頬を撫でた。




「さ、んぞ……」
「閉じるんじゃねえよ、そのまま見てろ」




そう言うと、悟空はふるふると緩く首を横に振る。
恥ずかしいからヤだ、と小さな声が三蔵の鼓膜にも届いた。

口角を上げれば、それもしっかり悟空は捉えていて。




「わ、笑う、なっ!」
「ああ、悪かったな」
「わぅっ!?」




瞼のすぐ上にキスを落とすと、素っ頓狂な声が上がった。




「わっ、わ…! さんぞ……!」




遠視の三蔵には此処まで近付くと少々像がボヤけて見えるが、悟空はそうではない。
若い正視の人間は、かなり近い距離でもピントを合わせ、像を正確に見る事が出来る。
文字通り“目の前”で何が起きているのか、しっかりと見えている筈。

遠視用の眼鏡をかけている状態では、殆ど三蔵の輪郭など見えていなかった悟空だったが、
矯正器具を外して本来の眼力を取り戻している今、募る羞恥心は先に比べて半端ではない。


目を閉じれば羞恥心から逃れられるが、何をされるか判らない。
眼球から一気に食われそうな、子供の豊かな想像力はそんな事まで考えていた。



瞼の形をなぞるように舌を這わすと、悟空の肩が大袈裟に跳ねる。
それに三蔵が笑った。




「眼鏡なんざ、手前にゃ必要ねぇよ」
「う………」
「もうかけるなよ」
「そ、そんな、ダメ、なの?」




食われそうな錯覚に身を震わせながら、悟空が恐る恐る尋ねる。










「ああ、駄目だ」



─────この金瞳を、ガラス越しに閉じ込めるなんて、勿体無い。









言い切った三蔵の心中など、悟空は知らない。


なんで、と悟空が問い掛けることはなかった。
続けられる行為に、其処までの余裕がなかったのだとも言える。

問われたところで、三蔵の返事は、視力に関わる事のみだっただろう。
本音を教えるつもりは毛頭ない。


頬に当てた手を顎に滑らせて、上向かせる。
悟空の瞳が何処を見ていいか判らない、と言うように泳いでいた。

唇を塞ぐと、やがて金は紫闇と交差する。
一瞬閉じかけたそれは、途中で留まり、潤んだ金瞳が隠れることはなかった。
律儀にも言いつけを守る従順さに三蔵の機嫌が良くなる。



後頭部に添えていた手を外して、悟空の肩を掴んで引き寄せる。


と、その時に。





「痛っ!!」





短い悲鳴地味た声があがって、三蔵は意志とは関係なく、反射的に手を離す。
それほど強く掴んだつもりはなかったのだが、と思いつつ悟空の細い肩に目をやる。

──────露出した赤い肌に、合点が行った。




「……さっさと治せ、その日焼け」




台無しになった雰囲気に、悟空があはは…と愛想笑いを浮かべる。
良くなった機嫌が若干下がった事に悟空も気付いているのだろう。

また恥ずかしいことをされては堪らないとでも思ったのか。
悟空は執務机からそそくさと離れ、寝室の方へと逃げて行ってしまった。
またアイスを食べて過ごすのだろう。


養い子が逃げるのを視界の端で見送ってから、三蔵は机に放り投げていた眼鏡を手に取る。
細い楕円形の眼鏡レンズを眺めつつ、それをかけていた時の子供を思い出す。








「……似合ってねぇよ、バカ猿が」














───────あの金色は、そのまま其処に在るのが、いい。











































綺麗な綺麗な宝石だから

ガラス越しなんて勿体無いこと言わないで















もっと近くで、ありのままで見たいんだ

























FIN.




後書き