当たり前の幸福論



ぱたぱたと軽い足音が聞こえてくる。
どうやら、悟空が帰ってきたらしい。

それを聞きながら、三蔵は煙草を咥えて。
火を点けると、ほぼ同時に執務室の扉が開く。
さっきとは違って、比較的静かな音を立てて。



「三蔵、これでいい?」
「ああ」



悟空の方をまともに見ようともせずに。
三蔵はおざなりな返事をしてやった。

いつもの事だからだろう、悟空は気にしない。
元あった場所に、杜若を挿したコップを置いた。


それから悟空は、三蔵の椅子の後ろに回ると。
身軽に跳ねて、保護者の背に飛びついた。




「三蔵、どした?」
「何がだ」




前振りも主語もない悟空の台詞に。
三蔵は、順序を立てて話せと言外に告げる。




「なんか、怒ってるっぽいね」




なんで? と悟空は問う。
少し不安げな顔をしているのは、自分が何かいけない事をしたのだろうか、と思っているからだろう。


なんにもしてないよ、と告げる悟空。
今日は朝からずっと裏山にいたのだ。
それぐらいの事は、三蔵にも判る。

何かしら仕出かしたと言うのであれば。
悟空が帰って来るのを待たず、報告が来るだろうから。



最も、そうでなくても大体の予想はつくのだけど。




不安そうな顔を隠そうとしない悟空を見て。
八戒が微笑んで、悟空を見る。




「ちょっと僕らが怒らせちゃったみたいです」
「お前の所為じゃねぇから、安心しろよ」
「………なんで怒ってんの?」




二人の言葉に、悟空は安堵の息を漏らして。
その後で、背中にくっついたまま悟空は問い直す。

三蔵は沈黙を守ったまま、煙草を吸っている。
空気を燻らせた紫煙は、すぐに消えて。
三蔵は溜息混じりに、後ろを見ることもせずに。



「お前を引き取りたいんだとよ」



物好きだな、と付け加えながら言うと。
悟空はきょとん、として前方の二人を見る。

悟空が嫌ならいい、と言う二人だが。
先刻、三蔵にそれを告げた時は、面白そうな色の片隅で。
本気の感情があったと、三蔵は判っていた。



けれど。
悟空は、三蔵の背中にしがみついたままで。











「オレ、三蔵と一緒にいるよ?」











なんでそんな事を言うんだろう、とでも問うような。

真っ直ぐな瞳で、そう言い切る悟空は。
何があろうと、三蔵の傍を離れる事なんてしない、と。
全身で示しているから、誰が何を言っても無駄だと判る。


三蔵の背中越しに伝わる、子供特有の熱は。
少し低めの三蔵の体温には、熱いと思うほどだったけれど。
いつからか、それは三蔵に丁度良い位の熱になっていた。


答えた悟空の表情は、三蔵からは見えないが。
前方に立つ二人の、驚いた瞳の中に映りこんだ悟空は。
爛々と瞳を輝かせていた。

そして、さも当たり前の事の様な───否。
当たり前の事だと、告げているから。



「………テメェも、大概物好きだな」



己の師と違い、自分は優しくも聡明でもないのに。
一心に慕う悟空に、何故か口元が緩む。

三蔵の言葉が少々気に入らなかったのか。
悟空は抗議を示すように、三蔵の金糸を引っ張った。
それは、大した痛みを与えて来ない。





「だって一緒が良いんだもん」






肩口からひょいっと顔を出した悟空は。
前を向いたままの三蔵の顔を、斜めから覗き込む。

覗き込んできた金瞳と、紫闇がぶつかると。
拗ねた空気は何処へやら、金色は細められて。
子犬が飼い主に甘えるように、擦り寄った。



「……おい、人を無視してイチャつくなよ」



悟浄の言葉に、二人がほぼ同時に前を見ると。

笑顔で固まっている八戒と。
寒いもの見た、と言わんばかりの表情の悟浄。


悟空が三蔵に甘えたがるのはいつもの事だが。
それを感受してやる三蔵を、二人は滅多に見た事が無い。
大抵、甘えたがる悟空がハリセンで怒突かれて終わるのだ。

それが今回は、ハリセンどころか鬱陶しがる台詞もない。
怒突く所か、好きにさせている。




「まぁ……悟空が此処にいたいなら、強制しませんけど」
「でも一般常識ぐらいはちゃんと教えてやれよな」
「テメェらには関係ない。いちいち煩ぇ」




さっさと帰れ、と三蔵が言葉尻に足すと。
悟空がえ、と不満そうな声を漏らした。





「二人とも、もう帰っちゃうの?」





遊んで貰いたかったのだろう。
保護者の仕事がまだ終わっていないから。

残念そうな顔を隠しもしない悟空。
八戒と悟浄は、そんな悟空に笑いかけるだけで。
また今度来るからと言って、踵を返した。



執務室の扉が閉まっていく様を。
悟空は三蔵の背中に張り付いたまま、じっと見る。



───────と。




その途中で。






「そうそう、言い忘れてました」
「おい、三蔵」






扉が閉まるだろう、ほぼ直前の所で。
その僅かな隙間から聞こえてきた、二人の声。

呼ばれた三蔵だけではなく。
声に反応して、悟空も顔を上げてそちらを見ると。
隙間から見えたのは、二人の笑った口元。



其処から紡がれた言葉は。







「また悟空があんな眼にあったら、貴方がなんと言おうと、悟空は僕らのもとに引き取りますからね」


「肝に銘じとけよな、保護者さん」











挑発とも取れるような、台詞。













直後、扉が閉められてから。
執務室内に、あからさまな舌打ちが響いた。

しかし、肩口から見えた悟空の表情は。
相変わらずの間抜け面のままになっていて。
どうやら、二人の言葉の意味が判らなかったらしい。



(………猿頭だな)



今までにも何度か思った事を改めて認識し。
三蔵は溜息を吐きながら、短くなった煙草を灰皿に押し付け。
残りの書類を片付けるべく、筆に手を伸ばす。

しかし、背中にはまだ悟空が張り付いたままで。
これでは流石に、作業効率が悪い。


下ろさなければと。
口を開いた、ほぼ同時に。





「変なの」





小さな声は、それでもはっきりと聞こえて。
何の事かと悟空の方を見てみると。
こちらを見ていた金瞳と、視線が交錯する。

太陽よりも眩しい位に輝く金色には。
同じだけれど、違う色が反射している。



「悟浄も八戒も、変な事言うんだな」
「……言われた内容が理解できてたんだな」



いつもなら、此処で何かしら文句を言う悟空だが。
今はそれよりも、自分の方が喋りたいのか。

だってさ、と悟空は小さく呟いてから。




「オレ、三蔵と一緒にいるの好きだし」




悟浄と遊んだり、カードを教えて貰うのも好きだけど。
八戒の手作り菓子を食べたりするのも好きだけど。

山に入って動物達と遊ぶのも。
森に入って木々と過ごすのも。
全部全部、嫌いではない。


悟空は、一人でいることを酷く嫌う。
500年間培った孤独感の所為なのか。
それとも、単純に甘え癖が抜けないのかは、知らない。

ただ、飛びついて来る熱の塊を。
三蔵はいつの間にか、当たり前に受け止めるようになって。

受け止める側が、当たり前になっているから。
悟空にとっても、それがごく自然な事で。
……一緒にいるのも、自然な事で。














──────オレが三蔵から離れる訳、ないのにね






















見詰め合うこと

傍にいること

触れ合うこと




ごくごく当たり前のように

毎日の風景の中に入り込んだ光景









当たり前、だから




離れるなんて、ありえないのも、当たり前










FIN.




後書き